私の変容について(宣言とモットー)

「私の変容について」ということについてかなりボリュームのある文章を書いてみたい。

最近の私は変わろうとしている。もちろん、私はいつも変わっていて、だからこそ「私」なんてものが必要であるとも言えるのだけれど、その「私」がもはや虚構に見えるくらい、そういうエネルギーを持った変化、言うなれば変容が起ころうとしている。そんな気がするのである。

その変化、変容を捉え、それをさらにぐわんぐわんと進めていくため、ここに宣言のようなものをしたいと思うのである。私はあまりそういう意識はなかったのだが、私は結構そういうものを重視しているらしく、それを利用してみたいと思ったのである。

さて、宣言らしく大きな転換を演出するとすれば、それはおそらく「身体性へ!」みたいなことになると思う。別の言い方をするなら、「概念からイメージへ!」みたいなことになると思う。

この宣言の内実を今から充実させていきたい。で、そこで重要なのは旧態を作り出すことである。しかし、それを「旧態依然」であると言って批判するだけではないことも重要である。別に何かを捨てて何かになりたいわけではない。し、実際問題そんなことはできない。

さて、私が変わると思っているのは私の極端な形式性の立ち回り?である。振る舞い?である。私は極度に形式的な議論をする。よくする。最近したもので言えば、「疲れきった頭で考える」で書いたような「理解」に関する議論がある。読み直すと改善したいところはたくさんあったのだが、とりあえず私の形式癖とも言えそうな形式性は垣間見えるだろうと思う。

もちろん、「改善したいところはたくさんあった」と書いているように形式というのはある種の集合場所であり話題であると考えられる。しかし、それがあまりにも抽象的であるばかりに誰も集まれず誰も話題にできない。そんな状況があるのである。

しかし、ここまで話してきて申し訳ないが、私が私の変容として語りたいのはそういうことではない。私が語りたいのは身体性、イメージを多用して語ること、さらには受容すること、そのことが生み出す、なんと言えばいいのか、確かな手触り?、ボリュームである。手がかりではなく手触り。これが一つのモットーかもしれない。

さて、宣言とモットーの違いを考えたくもあるがそれは置いておこう。ここで重要なのは「概念からイメージへ!」が「手がかりではなく手触り。」という落ち着きを得たことである。

さて、なぜ落ち着いたのだろうか。それはおそらく私が私の底に「コミュニケート」というテーマを発見したからであると思う。この「コミュニケート」は私と誰かのそれでもいいし、私と過去の私のそれでもいいし、私と作品のそれでもいいし、誰かと誰かの、誰かと作品のそれでもいい。そこに起こっている複雑な経験?みたいなものを考えたいという、そういうそれこそ抽象的であるが私にとっては確かな手触りのあるテーマ、それを発見したからであると思う。

しかし、私は別に身体性をおろそかにしてきたわけではない。しかし、私は書き始めると、話し始めると、やたらに形式的に、いや、抽象的に?なってしまうのである。

書くことと話すことの違いに着目しよう。書くとき、私は形式から始めることがある。こういう形式があります。だけで終わることさえある。それの出所を示さずに。出典ではない。出典はむしろ示しているときが多い。なぜその形式が必要なのか、どういうどうしようもなさから生まれたのか、それがまるでわからずに形式だけが提示されるのである。これはおそらく私の自閉、一つの閉じこもりなのだと思う。それはそれで大事だと思うのだが、それじゃあ過去の私といまの私ですら「コミュニケート」できない。それではわざわざ書いている必要がない。そんなふうに思っているのであろう。私は。

話すことに関しては、私は独特のオノマトペを使う。別にそうしようとしてそうしているわけではない。と、私は思っている。もしかするとクリエイティブぶっているのかもしれないが、私はそうではないと思っている。私はやたらとオノマトペ?正確な定義がわからないがとりあえずオノマトペっぽいものを使って、それで語ってしまう。それゆえに同じように「コミュニケート」できない。いや、もしかするとできているのかもしれないが、そのオノマトペに夢中になってしまって「コミュニケート」を忘れてしまう。自閉してしまう。いや、自閉すらできなくなってしまう。

あれ、なんか書くことがなくなってきた。というか、もはやない。ここからは振る舞いで見せるだけである。そんな気がしている。頭でっかちだったのかもしれない。いや、むしろ体でっかちだったのかもしれない。そのことをなぜか恥ずかしがっていたのかもしれない。実はずっと遠慮していたのかもしれない。

しかし、これも一つの物語であり、実はそんなことなかったのかもしれない。ずっと宙吊りにされ続け、いや、どうなのだろう。宙吊りにされ続けたのか、それが実は普通であるのか、わからないがとりあえずそういう感じだったのだと思う。私はずっと懐疑の海に溺れていたのである。いや、沈んでいたといった方がいいかもしれない。力を入れすぎて浮くことを忘れてしまっていたのかもしれない。し、浮いていたことなどないのかもしれない。

私はずっと「コミュニケート」が怖かったのである。いや、もちろんいまも怖い。それがなぜなのか、私はやっとわかった。のかもしれない。私は私の演技性を怖がっていたのである。それはどこまでも疑いうる。ここで打ち切ります!ができない。どこまでも疑いは続く。そして私はそのことを知っていながらも、そのことがなぜ起こるのかもある程度は知っていながらも、やはり怖かったのである。いまも怖い。私の「考える」はもしかするとこの恐怖に抵抗しようとしたものなのかもしれない。しかし、私はそのことを自覚しつつあるのだ。自覚したところで何にもならないのかもしれないが。

目覚めすらない。そんな微睡の中に居た。いや、もしかするといまから微睡みにゆくのかもしれない。それでもなお、私は醒めるのだ。どうせ。だから、それを信頼しつつ私はゆきたい。どこにかはわからないがゆきたい。生きてゆきたい。

箇条書きにしてそれぞれについて書こうと思っていた。が、別にそんなことはしなくてもいいのかもしれない。まだしなくても。私はそうやって考えてきすぎたのかもしれない。ボリュームはここから生まれる。物量。それは今日から生まれる。しかし、その元となるものはたくさんある。私はたくさん書き、たくさん読み、たくさん生きてきた。感じ、憂い、笑い、微睡んできた。ぼーっとしてきた。ずっと。

考えすぎないこと。さりとて考えること。それがここからの目標である。私は世界を愛し、他者を愛し、そして私を愛するのである。それは無条件な明るさではない。そこにはきっと恐れや諦め、醜さがあるだろう。しかし、だからこそそこには手触りがあるのだ。君は透明な膜に包まれているのではない。世界もそうである。君はもう、世界とまったく接することができないことに恐れることはないのだ。そうなったらまた誰かに包んでもらえばいい。

ある種の禁欲によってある種の欲望を見つける。

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