キーコンピテンシー論 即興性とその場限り

即興性の高さというのは憧れになりがちである。それは自分の不手際をその性質が隠してくれたり、解決してくれたりするという期待からの憧れである。
そして、その即興性に似ている言葉にその場限りがある。その場限りというのはその言葉のまま、その場だけ有効な手を打つことである。
それは時間的な幅を広げると、八方美人だと捉えられたり、計画性がないと捉えられたりする。
けれど、この二つの言葉、即興性とその場限りというのは一つの意味を伸ばしたり縮めたりしているだけだとも考えられる。

二つの言葉の違うところといえば、時間的な幅である。
その場限りというのは、時間的な幅が狭い、せいぜい一年未満の時間的な幅だろう。
即興性というのは、時間的な幅が死ぬまで生きている。いや、文化が即興性を持つとなると、それは人類が滅びるまで生き延びる。もっといえば、生物が持つ性質を即興性と捉えれば、それは生物の歴史に比例する。

質的に違うところといえば、その場限りがうまくいったものを伸ばしてゆけば即興性という概念に行き着くところである。
即興性というのは、うまくいったその場限りの集合だとも言える。
生物的な即興性というのは環境適応であり、そう考えると生物は皆何かしらの即興性を持つと考えることもできる。

即興性というのは、その場限りというのを内包しており、その場限りは即興性という概念の外には出ることができないのである。
特例としてその場限りが失敗した時のみ、その場限りは即興性という概念を抜け出してゆく。

近頃、教育界でも使われる単語となったキーコンピテンシーというのは即興性の話と似ている。
(キーコンピテンシーとは 知識や技能だけでなく技能や態度を含む様々な心理的・社会的なリソースを活用して、多用で複雑な課題に対応することができる力のことを言います。)
だから、その場限りを積み重ねていくことでしかその能力はつかない。
けれど、ここで重要になってくるのは、成功したその場限りではなく失敗したその場限りなのである。失敗したその場限りをそのまま放置してしまうと、それがだんだんと即興性、つまりキーコンピテンシーを圧迫し、その能力が育つのを抑制するようになる。

キーコンピテンシーを育てるというのは、成功したその場限りを数えることによってではなく、失敗したその場限りを即興性という性質として還元できるような環境を整えるということなのである。
キーコンピテンシーを育てるには、即興性を育む姿勢が必要だと言われることがよくあるのだが、それは当たり前のことを言っていて、即興性を細分化させてもそれを育てることにはならない。なぜなら、それは成功したその場限りに過ぎないからである。
キーコンピテンシーを育てるには、即興性を細分化させることではなく、失敗を細分化させることが有効ではないだろうか。

失敗を許せる環境が学校である。失敗を細分化して成功までの過程を計画することができる能力を育てるのが学校である。
僕はそうやって育まれてきたし、それが最善であると思っている。

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