自由という制限

自分が思ってもみない自由があるのと同じように、自分が思ってもみない制限がある。
僕の足には足かせはついてないが、僕の足に足かせがついているように見える人は一定数いるようだ。
僕は基本的に他人に興味がないので、他人の足かせは見えない。けれども、僕はどうやら足かせがついた足でここまで歩いてきたらしい。
それはそれで自分を褒めたいのだが、僕には自由という制限があるように思える。

自由という制限というのはただの言葉遊びではない。
自由の刑というサルトルの言葉を引用しているわけでもない。
僕たちは自由という制限を加えられる。

「君はもっと自由にやっていいのに。」
そう言われることがある。
僕としてはこの人は僕の自由を勝手に制限してくるのだな。
と思うだけだけれど、僕のような捻くれ者でなければ、自分が自由を行使できていないかのような錯覚に陥ってしまうことだろう。

フランクルは『夜と霧』で多く人間の選択のおける自由のことを書いているが、そう書いているのは自由を得るためであるのだ。彼は選択の自由という概念を用いながら、その自由を制限しているのだ。選ばなければ自由はないと。保留という自由はないと。
そんなことを言いたいのではないのかもしれないが、自由というのは選ばれるものではない。もっと言うなれば、選ばれなかったものが自由である。

僕は自由にやっているのに、自由でないと言われるのはどうしてだろうか。
それはおそらく自由の齟齬であろう。彼の自由も、彼女の自由も、僕の自由も違う。
自由に選んだつもりが自由ではなくただの流行だったということは多くある。
だから、選ばれなかった方が自由である。
と言ってしまうと、それも間違った自由を提示してしまう。

自由という制限はたしかにある。
けれど、それは他人が僕の持つ自由を誤解することではなく、自由という言葉を使った瞬間に選ばれたとしても選ばれなかったとしても、その言葉自体が選択の範疇に収まってしまうことである。
選択されないものが自由だと述べたが、それも少し間違いでもっと正確にいうのなら、選択肢に入らなかった選択が自由なのである、という前のその状態こそが自由なのだ。

自由というのは、いつまでも言葉で制限される。自由を考えた瞬間。そこに自由がなくなる。他人がいる限り仕方のないことだ。僕が例えばコーラを飲んでいるとき、それが一番の自由なのだと考えられたら、人は皆自由であり得るのだ。

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