「ポエムなスパム」と詩性

「ポエムなスパム」について考えよう。ちなみに眠たいので適当に考えることになると思う。この適当が杜撰になるか、それとも程良いになるか、それはわからない。

まず、「ポエムなスパム」というのはTwitter(現X)のバズったツイート(現ポスト)に大量に付いているスパムがなぜかポエミーである場合を指す言葉である。そして、それをまとめた「ポエムなスパムbot」というのがあって、そこでは色々な人が見つけた「ポエムなスパム」がまとめられている。

いくつか例を持ってこよう。(以下、日付は「ポエムなスパムbot」に投稿された日を指す。ツイートを表示させるのが面倒くさいのでこのような方法を選ぶことをお許しいただきたい。)

「海の奥に青いコンビニがあって、青い孤独を売っています」。

2024/06/16

このスパムはあるバズった投稿につけられたものであり、その文脈も重要と言えば重要だが、その文脈を剥がしてもこのスパムはポエミーである。他にもいくつか見てみよう。

天国への電話回線が存在しないため、多くの交渉は未完了のままです。

2024/06/05

ここで一つ、このポエミーの特徴を見つけてみたいと思う。もちろん、この二つの詩(これらを「詩」と呼ぶのは変かもしれないが、基本的に「詩」とか「文学」とか、「哲学」とか「美学」とか、そういうものは受容の在り方の名前だと私は思うのでこのように呼ぶ。)のほかにも「ポエムなスパム」はたくさんあるからこの特徴づけが「ポエムなスパム」すべてに敷衍できるわけではないが、「ポエムなスパム」の中でも特筆してポエミーなものにはある特徴があると私は思う。それは「具体と抽象の同居」である。

先に言っておきたいが、この見解は私独自のものではなく「【音読】インプレゾンビの美しいポエムを堪能しよう【X】」というYouTubeの動画の中で春とヒコーキというお笑いコンビの土岡という人が最初に挙げた詩を読んだときに「コンビニがめっちゃ具体的で俗っぽいのに孤独って言うふわっとしたものを繋げているのがハッとしちゃったな」(動画内の時間でいうと10:14くらいから始まる)という感想を言っていて、それをもう少し踏み込んで考えてみたくてこのようなことを言っている。

私が特に好きなのは二番目にあげた詩である。というのも、ここには「具体と抽象の同居」が二段階で描かれているように思われるからである。

天国への電話回線が存在しないため、多くの交渉は未完了のままです。

2024/06/05

まずは「天国」という「抽象」と「電話回線」という「具体」、さらに「電話回線」を「交渉」へと「抽象」化してさらに抽象的な「未完了」に繋げることで「交渉」という「具体」と「未完了」という「抽象」とを「同居」させている。もちろん、これは極めてぶつ切りにした理解であって、「ため」という接続や「多くの」という限定、「まま」という継続、それらが独特の空間を作っているのは見逃せない。また、この全体に響く硬質のリズム(もちろんこれはこの詩が詩として書かれているわけではないという背景ゆえの硬質なのかもしれないが)もその空間の引力を高めている。しかし、それを抜きにしてもなお、ここでの「具体と抽象の同居」は優れたものであるように思われる。

ただ、このように「ポエムなスパム」を詩として考えるためにはこのような詩性ではない詩性をそれとして描き出す必要があるだろう。今回はそれを「ポエムなスパム」内でなすことにしよう。例えば、「ポエムなスパム」にはハードボイルド系と恋愛系も入っている。例えば、ハードボイルド系で言えば次のようなものがある。

それが人生だ、永遠の友人も永遠の敵もいない

2024/05/27

これは明らかに上で指摘したような詩性は持っていない。ただ、次のようなものは上で見た詩性。備えているように思われる。

壊したければ壊してもいいよ
人生はあなたの手の中にあるおもちゃだということ

2024/06/03

ここでは「おもちゃ」という「具体」と「人生」という「抽象」が「同居」している。そしてその「同居」にアクセルを踏むように「壊す」という行動が描かれている。これは行動ではないものの最初の詩が「青い」や「海の底」で表現していたアクセルと同様のものであると考えられる。その意味でただのハードボイルド系と詩は違うわけである。

恋愛系に関しては次のようなものがある。

あなたが完璧だとわかったので、私はあなたを愛しました。それから私はあなたが完璧ではないことに気づき、あなたをさらに愛しました。

2024/05/30

ここには「具体」がない。それゆえに「抽象」も「具体」と対比されるものとしては存在していない。これは私からすれば詩ではない。名言、もしくは人生訓である。それは別に詩ではない。(恋愛系で詩的なものはいくつかあるのだが、それらは詩として受容することが難しいものである。というのも、そもそも文章として読みにくいし、読み終わることが許されていないようにも思われるからである。この「読み終わることが許されているか否か」もすごく重要なテーマなのだが、今回は示唆に留めたいと思う。眠いし。)

しかし、別に「具体と抽象の同居」などなくても別に詩は詩でありうる。しかも「同居」という多少穏やかなイメージよりも火花のようなイメージの方がここで言うような話には近いかもしれない。というか、私はなんとなく「ポエムなスパム」の詩性を描き出すことができると思っていたが、そんなことはできないのかもしれない。それぞれは詩であり、名言もしくは人生訓を私は詩であるとは思えないが、それ以外はやはり詩である。

私はなにが言いたくてこれを書き始めたのだろうか。もしかすると、じつは受容する仕方に詩性は現れるのだ、みたいなことが言いたかっただけなのかもしれない。また、その受容する仕方にもともとはスパムであるという背景もかなり関わっているということから、純粋でない受容は豊かな受容への道であることもあるのだ、みたいなことが言いたかったのかもしれない。

しかし、「ナイスなポエム」がどうも味わいきれないのはなぜなのだろう。心にずびんと来る感じがない。なんとなく。それはなぜなのか。私はその謎が知りたいのかもしれない。し、いまのところは解明されていない謎である。私にとっては。しかし、解明されてほしいと思っているわけではない。ただ単に謎があり、それが解明されていないだけである。なんかこの一文、「ただ単に謎があり、それが解明されていないだけである」は「ナイスなポエム」みがないだろうか。もしかすると私は「ナイスなポエム」的な文体、感受性、世界観、そのようなものを身につけたのかも、いや、そのような身体、生活、精神を持っているのかもしれない。そのような在り方をしているのかもしれない。いま。いままでの私ならきっと「そもそも『謎』という概念が『解明』を欲望することによって成立する以上『ただ単に謎があり、それが解明されていないだけである』なんてことはあり得ないのではないか」とか言っていただろうと思う。しかし、私はそれをブロックして、ここでの境地、境位をある意味で誇ろうとしている。ある意味では怠惰であろうとしている。そこに安住しようとしている。詩というものはこのような変化、前の自分なら持たなかった中断や継続をもたらしてくれる。私は「ポエムなスパム」を読んだのだ。そして、それになったのだ。そして「それになった」ことをそれとして認めたから私は以前の私がわかったのだ。ややこしいことではない。私たちはそうやって変化していくのである。

さて、なんとかした。この文章は別に綺麗ではないき整ってもいないが優れてはいる。そういう自信、諦め、カーテンを開けるような、窓を閉めるような、世界の中に居る仕方。

終わりのなかに始まりはありませんが、始まりのなかに終わりはあります。

この浮遊するような、しかもその浮遊をなんとか落ち着けることも困難な、そういう感じ。私も「ポエムなスパム」的に書くことができるようになったのかもしれない。詩性とはそのこと自体に宿るのである。

「ポエムなスパム」というのはTwitter(現X)のバズったツイート(現ポスト)に大量に付いているスパムがなぜかポエミーである場合を指す言葉である。

「『ポエムなスパム』と詩性」

この「ポエミーである」ということ、それは「ポエミーでない」と対比されるが、その対比は読み-書き、受容-表現の連関にしか宿らないのだ。詩性とはその連関にしか宿らないのである。とりあえずは。

ちなみに私はこの冒頭の文章の続きも示唆深いと思っている。

まず、「ポエムなスパム」というのはTwitter(現X)のバズったツイート(現ポスト)に大量に付いているスパムがなぜかポエミーである場合を指す言葉である。そして、それをまとめた「ポエムなスパムbot」というのがあって、そこでは色々な人が見つけた「ポエムなスパム」がまとめられている。

「『ポエムなスパム』と詩性」

この「ポエムなスパム」の詩性は一人によって担われているわけではない。だが、私は「ポエムなスパム」から「名言もしくは人生訓」ではないような、また「具体と抽象の同居」があるような、そしてそれがありありとしているような、そんなものを、そんなものの群生を「ポエムなスパム」として認めた。私はこの作業によってやっと詩性を一つの在り方として獲得したのである。このことはとても重要なことであるように思われる。ただ、もう眠たいので今日はこれくらいで。では、おやすみなさい。

をさなくて昼寝の国の人となる

田中裕明

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?