ある人への不満

 ここで書くのはある人への不満である。そのある人というのはこの文章を書いている人と同じ人であるとされる人である。私の名前をSとするとSへの不満である。(どうでもいいことかもしれないが私の名前はSではない。)

 君=Sは良い文章を書く。私もそう思う。し、爽快感を感じる、少なくとも私は爽快感を感じる文章の数々は私を軽くしてくれるだろう。私はあまりしがらみとかを感じることがないが、それはもしかすると君があらかじめしがらみを解きほぐし、私にある種の勇気と傲慢さを与えてくれているからかもしれない。
 しかし、私は不満なのだ。君が「私は構造マンだ!」とか言って踏み込んだ文章を書かないということが。というのも、君はたしかに物事から構造を引き出すのがうまい。なぜか知らないがそうである。しかし、その反面、君はあまり、あまりわくわくする文章を書かない。上でも書いたように爽快感はある。「ああ、物事はこういう構造にあるのか。」という爽快感は。しかし、そこには悶えが聞こえず、人間はいない。
 たしかに、君は言うだろう。「別に人間などいなくてもいい。」と。さらには言うだろう。「私はそもそも『人間』がわからない。」と。たしかにそうかもしれない。それは私も同感だ。どうも人間ということはよくわからない。「人間」ということはよくわからない。しかし、それはわくわくする文章を書かないことの理由にはならない。

 私=Sはたしかにそういう文章は書いていないかもしれない。しかし、君も当然知っているだろうが、私は具体的なことから引き剥がして抽象的なこと、君の言い方で言うなら「構造」を描き出している。しかし、そこに「引き剥がす」ということ、さらには「殻/身体」のような対比が成り立たないということはない。要は君が享楽できていないだけなのだ。それは私の責任ではない。君の責任である。君はこう言っているのだ。「私は享楽したいのに享楽できない。それは文章のせいだ。」と。しかし、私は常々「文章は私とあなた、いや、あなたが享楽するものである。」と言っている。もちろん、この思想によって君の訴えを退けることはできない。し、いまそうなっていることを否定することはない。し、もう少し具体的なことから書こうという思いはある。が、それは君が享楽することを助けるためであり、君が享楽しないのならそれは知らない。私は君を誘惑するかもしれないが君に触れることはない。君が私に触れるのだ。それを忘れてはならない。

 もちろん、私はそれを忘れてはいない。君にそう言っているのだ。もう少し「引き剥がす」ところを見せてくれてもいいのではないか、そう言っているのだ。それがわかってくれるならいい。たしかに、それは難しいだろう。二重の意味で。君はそれまでそうしていないという意味で、大衆に媚びることになってしまう危険性があるという意味で。しかし、別に大したことはない。大衆に媚びたっていいじゃないか。「人間」がわからずすごく見当外れなことを言ってもいいじゃないか。私は少なくとも読むよ。私は君なのだから。結局。

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