換言と暴力

言い換えるということは暴力ではないのだろうか。

長らく書いてきた論文、そろそろ完成しそうなのであるが、そこで湧いてきた疑問が上の疑問である。
論文ではよく「言い換えると、」とか、「すなわち、」とか、そういう言葉が並ぶ。私は平然とそれを読んでそれを引用する。
しかし、だ。
この「言い換えると、」とか、「すなわち、」とかが全然的を外しているように思える時がある。し、そうなると、さっきまで読めていたものが「?」となる時が多々ある。
それの最たるものが自分の論文で、自分の論文と向き合えば向き合うほど「?」となって、ここの「言い換えれば、」は暴力的ではないだろうか。と、悩むことがある。
言い換えると、というのは言い換えると、AをA'にすることである。そしてこの「'」というのはおそらく自らが主張したい事柄によって変形させられましたよ、という証なのである。
まあ、理系の論文を知らないから、もしかすると理系の論文はAはAですよ、なんてことを言っているのだろうか。まあ、そんなはずはない。
とりあえず文系の論文だと思ってくれればいい。
そして私の単純な容量不足で、割と頻繁に、「あれ、もしかして、論拠とか不可能なんでは?」とか思って、因果関係というものはそもそも、みたいな感じで脱線して、仕方なしに戻る。
これを「アナーキー」と呼んでいたのであるが、そんなかっこいいものではなく実情はただの休憩である。
けれども、だ。私のこの違和感は伝言ゲーム的なデリダの違和感に似ていると思っている。これこそ根拠のない考えなのであるが、デリダは伝言ゲームでAからBによくわかんないことが伝わってもまあ伝言者それぞれが頑張ればいいんじゃね、的なことを言っていたのだろうか。
だとすれば、まあ、論拠なんて適当に引っ張ってきて、「こんな感じでーす」ってすればいいんだけども、AをBとして扱ってしまうのは流石に自分が許してくれない。Aを真反対のものBとして扱うことはやってはいけないことなのである。
しかしながら、Aと真反対のものBはAとBで一つの領域を補完していることがほとんどだから、考えてしまうとどうしても「まあ、でもー、」みたいになってしまう。
だから、AはAしか言ってないとしながらもそれを発展させたA'を求める必要があるのである。
まあ、できないんだけど。
しかも、論拠なんてことを言い出したら、この世のものに根拠なんてねえよ、ってなる。理系に行けばよかったのかな、とか、それは隣の芝生が青いだけだし、文系の思考は好きである。
リゾームとか、そういう感じの思考。
で、AからA'へ、というのは何かに似ていると思ったら、アナロジーの考え方に似ているのであった。しかし、アナロジーはBという領域において使われたAという思考をCという領域でも使ってやるぜ、ってことだから少しだけ違う。
私は単純にAをAとして捉えていたが、AをBという文脈で捉えることもできるし、Cという文脈で捉えることもできる。しかも、Cで捉えると私の論文に価値あるものとなる。ということをAからA'として考えればよかったのか。
じゃあ、Aは一つの思考の形式ということになって、実物はどこに行った?となる。ニーチェの言う「事実」のようなもの、それはどこへ行ったのだろうか。
空白かな。それがあるから、Bという文脈における解釈AをCという文脈における解釈A'に適用できるってことになるのだろうか。
果たして、不思議なこの引用にまつわる話。好きなんだけど、論文はすんとしているから好みじゃない。
まあ、ラストスパート、あと半分くらいかな、知らんけど。がんばりやす。
また同じような話、「換言と暴力」'を書きます。たぶん。

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