思考における概念と文学における古典のアナロジー

思考の最たる資質を持つものは哲学者である。
そして、私の尊敬するドゥルーズがこんなことを言っている。

哲学は、オピニオンではなく、概念を創造するものである。

と。
このことの意味がわかるだろうか。
哲学というのは態度ではないのだ。
哲学は概念を創造するのである。
では、ドゥルーズのいう概念とはなんであるか。

概念は特異性を俯瞰し、特異性の共振の中心として成立する

これはドゥルーズの言葉であるが,これだけを引用してきても意味がわからないだろう。
つまり、ある概念というのは特異性であり特異性を俯瞰する中心なのであり特異性と共に特異性を掴むことなのである。
たとえば、『純粋理性批判』はその時代の特異点であり,哲学上の特異点であり,カントという特異な存在が自身と共に自分の特異性について語り明かしたものなのである。
そこで生まれる数多くの概念というのは,その思考の傑物なのである。
もちろん、全ての概念はそれを特異なものとして認識する人が現れなければ意味をその概念を生み出したもの以外が知ることはない。
つまり、カントは読まれなければカントとして特異な存在であることはできないのである。
このような意味での概念というのは,つまり思考における特異性としての概念、そして共振の中心たる概念というのは,あるメタファーによって語られ得ると私は考えている。
つまり、思考における特異性としての概念と文学における特異性としての古典のメタファーである。
古典をどのように定義するか,がそもそも概念の定義と似ているのである。
古典というのは多く読まれてきたし、文学のある中心点としての作品ということである。
つまり、概念も古典もともになんらかの中心点なのである。
これを地図的な比喩で語るとすれば,ある作品はパリであり,ロンドンであり,東京であり,ニューヨークなのである。
そしてそれは概念も同じなのである。
それらが異なるとすれば,概念が共有されるものとそれによっては覆うことのできないところを発見して概念が創造されるのが思考であり、その創造性が積極的な関わりに求められるのが文学の古典である。
だから、この二つのねじれに哲学書はあるのであり、哲学のルネサンスがたまに起こるのはそのようなことからなのである。
いい意味で哲学は不思議なおとぼけをしているのである。
もちろんヘーゲルが「哲学は時代の子である」という言葉で表現するような面もある。
哲学を学ぶこと,思考するということを経験することは、他のことを学ぶことと違うのは、その思考の概念の時間的な射程がとんでもなくおおらかなのである。
哲学の古典というのは私にとっては変なものである。
もちろん、文学の古典というのと哲学の古典というのがあまり違わないというのはわかりやすいところではあるが,その「あまり違わない」というのが大切なのである。
文学と哲学は時代に関わる仕方が異なるのである。
哲学がある種形而上学的になってしまうのは、時代に生まれた子どもでありながら時代を本気で越えようとしているからである。
だから、スピノザは最近読まれるのだし,『純粋理性批判』もずっと読まれる。『方法序説』はエッセイのようなものであるから少し文学の古典に近いような気がするけれど読まれているのである。
だから、こんな言い方をしたら文学に怒られるかもしれないのだけれど,哲学を読むというのは哲学者と対話し続けるということである。つまり、彼らは常に現在の友達なのである。しかし、文学を読むというのはある種過去に天才と対話した記憶なのである。だからたまに、ふと、引用したくなることがある。
文学を研究する人というのは,そのような憧憬が強いような気がするのである。
もちろん、引用したくなるそのときにはなんというか、過去の風景が,私が見たことのないだろう過去の風景が目の前にパァッと現れるのである。
それはとても強い快感である。文学を好きな人たちはそのようなことを愛しているのだと思う。
それに対して,哲学を好きな人間は対話を続けたいのである。やめたくないのである。なぜやめたくないか。それだけが私に対する彫刻なのである。
私は文学によって過去の私の感情を知ろうとする。しかし、哲学に向かうというのは現在の私が知られるということである。
では、誰に知られるのか,それはわからない。もしかすると、それが概念なのかもしれない。
しかし、その哲学者との対話はたいてい話が噛み合わなくなる。だから概念があるのだ。
概念は異物であるからこそもともと異物である私と哲学の間に存在してくれるのである。
これが文学と私の間の古典ということに似ているのである。
そして、またその文学やら哲学やらを知ろうとするとき,その存在が私たちの体とそれらの学問の信念とを共鳴させてくれるのである。
哲学はオピニオンではない、というドゥルーズの言葉は哲学が生涯かけるものであることを示している。
その場その場で反応するものではなく,それが副次的な概念として私たちに再考を促すものであるから,哲学はオピニオンではないのである。
けれど,文学はそれも同じである。
じゃあ、何が違うのか。
それは私なりには理解しているが,それが理解されるかはわからない。
私が言葉をなにも装飾せずいうとすれば,対話ということにおいて,哲学者はずっと異物であり文学者は過去の異物なのである。
異物ではなく異邦人と呼んでもいい。
そのなんというか、異邦人感の種類が哲学と文学では異なるのである。
その違いはきっと現在と過去の違いをより明確に構造化するであろうと思われる。
概念が思考を助けるのはそこに時間性があまりないからなのである。古典も昔のものであるということを除けば時間性がない。
そして、私と哲学者の対話,私と文学者の対話には時間が深く流れている。だから、概念も古典も異物,つまり時間を失った存在であるからこそ私たちの中に生きていてくれるのである。腐らないのである。
文学も哲学も主題があまり変わらないのは,そのような概念の力が残っているのである。
というのは、私のなんというか直観であるが、そのようなことが思考における概念と文学における古典のアナロジーを感じさせるのであろう。

哲学は、オピニオンではなく、概念を創造するものである。

とするならば、文学はどう考えられるのだろうか。

文学は、、、。

なんなのだろうか。

なんなのだろうか。

文学は,生活である。
そしてそれは現在における過去ではなく過去における現在である。

みたいなことになるのだろうか。
いや、文学もずっと異物なのかもしれない。
それらに違いを認めるのは,それらを研究するときだけであり,いまそのことを示すのは不可能なのかもしれない。
私の分割の知性の不足かもしれないが。

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