なめらかな社会とその敵

書評_023
松川研究室B4 河村侑

書籍情報
書籍:なめらかな社会とその敵
著者:鈴木健
出版社 ‏ : ‎ 勁草書房(2013/01/30)

核と膜

本書の本題である「なめらかな社会」について触れる前に、著者が本書の第1章で語っている「社会」を構成する、我々人間を含んだ全ての生物がその進化の過程の中で取得してきた【私的所有】の概念について話そうと思う。

細胞はこの地球上では約40億年前に登場し、外部と関係を持ちながら反応し変化し続ける代謝ネットワークの中に組み込まれた。
ただここで重要なのは細胞が単に誕生したことではなく、その細胞が細胞膜という必要な化学物質のリソースを囲い込み、それらを外部から排他的に利用できるようにし、さらに内側を1つの自律的なシステムとして確立させたことである。つまり誇張して言えば、その細胞膜が無くては全ての物質がフラットに反応し合い、我々が持つ「これは私の物、それはあなたの物」という【私的所有】の感覚を持つことはなかったということになる。

そして細胞膜を持って生まれた細胞は先述した通り、その内側を自律的なシステムとして確立させ、その中で細胞膜によって確保された化学物質のやりくりを行う。その役割を担ったのが細胞核であり、この存在によって所有している物を自分の中で処理、【制御】するという概念を持つようになった。

以上のように【私的所有】と【制御】の生物学的起源は細胞の【膜】と【核】にあるのだが、その2つの感覚を私たち人間が持ち合わせていることからも分かるように長い生物史の中でこの【膜】と【核】の関係性は反復し続け人間レベルから社会レベルへと拡散していった。
今回はその反復の過程について詳しくは言及しないが、本書にて提示されている表を引用しつつ本題である「なめらかな社会」と密接に関わってくる社会レベルでの【膜】と【核】について少し紹介しようと思う。

膜と核

生物史に反復する核と膜(本書p.19より引用) [1]

移動を繰り返しながら狩猟採取をしてきた人類はやがて1つの場所に定住するようになり、そこでコミュニティを形成し、その土地の限られたスペースとリソースを活用しながら農耕牧畜をするようになった。
こうして有限の土地に留まることを選んだ人類の歴史の中で絶えず行われてきたのが土地やそこにあるリソースを巡った争いである。その争いの中でどの土地が誰のものであるかを明らかにするために国境が生まれた。
国内で必要なリソースを外部から排他的に利用できるように引かれた国境はさながら細胞膜と同じ役割を担う【社会的な膜】といえるだろう。

こうして外部から分け隔てるための国境が引かれると、当然その中でのリソースをやりくりするための機能が必要になってくる。これも前段で述べた生物学的起源を踏まえると分かることであり、その役割を担うために作り出されたのが王だった。細胞膜と同じく土地を囲い込む国境が【社会的な膜】であるならばその内部を制御する王は対応させて【社会的な核】(本書では【社会的な制御】)といえる。

さらに人類はその【社会的な核】によって制御される構成員を明確にするために約300年前、ホッブス、ルソーやロックといった近代思想家が新たな【社会的な膜】として国境よりも細かいスケールとして「社会契約」という概念を見出し、その後も人類は社会に新たな【膜】と【核】の枠組みを実装し、アップデートを続けてきた。

このような歴史の流れから細胞の【膜】と【核】に生物学的起源を持つ、【私的所有】と【制御】の感覚こそが現代の社会を構成している本質的な要素であることが分かる。


「単純な社会」

本書を簡潔に説明すると、著者は近代国家 / 社会は様々なものが関わり合うものでありながら、国家という【社会的な膜】と個人という【社会的な核】の二極が圧倒的な絶対性を持ってしまい、その双方がどちらかに責任を押し付けてしまうような、「単純」なものとして認知してしまっている問題点が現状があると主張し、それを打破するための「なめらかな社会」とそれを成立させるための社会制度設計を著者が提案するといった内容になっている。

前置きに前置きを重ねてしまうことになるが、まずは現状として存在する社会、著者が個人と国家が絶対性を帯び、単純なものとして認知されていると主張する社会をここでは「単純な社会」と呼称し、それについて整理してから、「なめらかな社会」について言及しようと思う。

本来社会というのは大きいスケールからグローバル、国家、共同体、個人、分人の5つの要素から成り立っていると整理できる。

知らない方もいると思うので、この中で最も小さいスケールである「分人」について少し説明しておきたい。この「分人」という概念は「友人といる時の自分」や「家族といる時の自分」の立ち振る舞いがそれぞれ異なるように、「個人」をより細分化した存在としてフランスの哲学者、ジル・ドゥルーズが見出したものである。
1つ身近で分かりやすい例として平野啓一郎氏が彼の著書の中で紹介していた話を引用しようと思う。フランスの語学学校に通っていた平野氏はクラスに馴染めず、他の生徒と関わることもなく「陰気な」生活をしていた自分のことを日本人の友人と昼食をとりながら「快活に」面白おかしく話している2人の矛盾した自分の存在に気づき、以下のことを考えたというが、これを読んでいる皆様にも似たような経験があるのではないだろうか。

さて、そこで考えるのだが、このときの私は語学学校では「陰気なキャラ」を演じ、日本人の友人の前では「快活なキャラ」を演じていたのだろうか?
当然、違う。
(中略)
やはり、無意識のうちに、勝手にそうなっていた。語学学校で、わざとイヤな気分になろうとしたわけでもなければ、ラーメン屋で明るさを捏造したわけでもない。感情は、私の意識とは別に勝手に変化していた。それぞれの人格も、決して意図的に操作していたわけではなかった。
(『私とは何かー個人から文人へ』p.25より引用)

この「同じ自分でありながら、関わる人によって別の自分が同時に存在している」ような存在こそが分けることのできない"in-dividual"と考えられていた「個人」を細分化した「分人(dividual)」という概念である。

話が逸れてしまったが、分人の持つ多様性に富んだ思考等がその集合体としての個人に飲み込まれているように、現状の社会ではより細かなスケールとして存在しているはずの分人、共同体、グローバルといった要素が無視され個人と国家の存在が絶対的なものとなっており、以下のようなダイアグラムで図示することができる。

個人と国家

個人と国家を絶対する近代社会システム(本書p.173より引用) [1]

このような個人と国家が絶対的な存在である社会こそが現状としてある「単純な社会」である。
そしてこの社会の構造の欠点は個人と国家の絶対性が高まることで、その中での責任等をそのどちらかに押し付けてしまう構造の単純化が起こってしまうことであり、その間に存在するはずの個人より細かい存在の分人、その個人の集合としての共同体と国家によって作り出されるグローバル(社会)が蔑ろにされてしまっていることにある。

だからこそ著者はその5つの要素の関係性を「なめらか」にすることによって責任や義務、権利等を分散させるべきだと主張している。次段ではその「なめらかな社会」についてこの「単純な社会」等と比較しつつ説明する。


「なめらかな社会」

著者の提案する「なめらかな社会」を分かりやすく説明するために、それを本書同様に現状と理想として語られがちな社会と比較しながら、ステップ関数、フラット関数、シグモイド関数の3つの関数に当てはめようと思う。

ステップ関数
まずは現状の「単純な社会」は前段で説明したように個人と国家の二極が絶対的な存在である二項対立的な構図であることから、-1から1への変移が明確である下図のステップ関数に当てはめることができる。

ステップ関数

ステップ関数(本書p.40より引用) [1]

フラット関数
そんな二項対立的な社会に対して人と国家の境界線が完全に無くなり、全ての社会を構成する要素が平等であるという理想郷のような社会があると語られることがある。それこそがインターネット上、特にSNS上にこそ実現すると言われている「フラットな社会」であり、その社会は全ての数値が同じである下図のフラット関数に当てはめることができる。

フラット関数

フラット関数(本書p.41より引用) [1]

しかし冷静に既にSNSの普及した現代社会を分析してみれば、ネット上での社会が完全に「フラット」ではないことは明確であり、そのことを著者も本文で指摘している。

ネット上で構成されるネットワークは確かに図式化してみれば一見フラットであり、全てが平等に繋ぎ合わさっているように見える。ただもし仮にその社会が真に平等であれば万人に対して情報や機械へとアクセスするための距離がゼロになるはずであるが実態はそうではないと著者は指摘する。
確かに政府やマスコミによって提供される情報は制限され、ネット上にアクセスすることのできる人間全てが平等にそのネットワーク内の情報を閲覧することは不可能であるのが実態である。
SNSで普段公にすることのできない日々の愚痴を、親しい友人のみで構成されたネットワークに所属する非公開アカウント(通称「鍵アカウント」)上に投稿するのもネット上の社会が「フラット」でないことを表す最も身近な例だろう。

シグモイド関数
現状を図示したステップ関数と実在はし得ないが全てが平等である社会を図示したフラット関数に対して、それぞれの要素をなめらかに繋がれた状態を図示したのが下図のシグモイド関数であり、それに当てはめることのできる社会こそが「なめらかな社会」である。

シグモイド関数

シグモイド(なめらかな)関数(本書p.40より引用) [1]

これらの関数によって表現できる「単純な社会」と「なめらかな社会」を前段で図示した社会を構成する5つの要素を組み込み、改めて1つのダイアグラムとして図示すると下図のようになるだろう。

現状となめらかな社会の比較

「単純な社会(黒)」と「なめらかな社会(赤)」

黒の現状は前段で説明した通り個人と国家において2つの大きな山ができ、その2つが社会の中で絶対的な存在として確立されてしまっている。
一方で赤く図示した「なめらかな社会」では5つの要素を1つずつの個別の要素として平等な重み付けを行うわけでも、いずれかの存在が強くなっているわけでもない、それぞれがなめらかに繋がっていることが分かる。
分人があり、個人があり、共同体があり、国家があり、グローバルがあるのではなく、その全てが繋がっていることで1つの大きなネットワークとして成立している状態を持つ社会が「なめらかな社会」である。

この「なめらかな社会」では5つの要素全てが連続し、繋がることで個人と国家の二項対立によって確立されていた【核】と【膜】による対応し合った構造もまた解されていく。つまりそれは同時にその【核】と【膜】によって確立されてきた社会における【私的所有】と【制御】も解されていく。
このように【私的所有】と【制御】することが曖昧なものなっていくことによって起きるのは権利や責任の分散に加えて、個人が私有するわけでも、国家が公有するわけでも、社会の構成員である何かが占有するわけでもない【共有】することであり、これにより所有する権利と責任もまた離散化されていく。

フラット関数で図示できる「フラットな社会」がインターネットの特性上、その構成員全てに平等な機会や情報が与えられる理想郷のような平等な社会が実現できると安直に語られていた一方で現実は全くの机上の空論であったように、この「なめらかな社会」も「社会を構成する要素をなめらかに繋げて権利や責任を分散することのできる新しい社会を作りましょう」と提案するだけに留めてしまうと同じ轍を踏むことになる。
しかし著者はこの提案をただの枠組みだけの提案では済ませなかった。長くなってしまうので今回は説明を省略するが、著者はこの「なめらかな社会」を成立させるために「伝播投資貨幣PICSY(貨幣システム)」、「伝播委任投票(投票システム)」、「伝播社会契約(法システム)」、「伝播軍事同盟(軍事システム)」といった4つの社会制度設計を提案することによってこの提案が単なる空想ではなく実現可能なものとして説得力を帯びさせている。


住宅建築の仕組みの「なめらか化」

本書を読み、社会という枠組みを関数という別の枠組みに当てはめながら比較分析を行い、その中の欠点を洗い出しながら、それらを改善するための新たな枠組みと、それを成立させるための社会制度設計までを提案していることが本書の優れている点であると感じられた。
そしてそう感じると同時に著者の提言した「なめらか」な状態というのは社会レベルでの実装が可能であるならば、その社会の中にある他の制度や枠組みにも適用することができるのではと考えた。

個人的なことではあるがこの書評の筆者は今年度取り組んでいる卒業設計の中で新たな住宅の所有の仕方、著者の言葉を借りれば「なめらかな住宅の所有」について考えている。

建築家の上田篤氏が1973年に朝日新聞にて発表した「現代住宅双六」日本人が繰り返していく住宅の所有の流れを双六として表現した。

現代住宅双六

『現代住宅双六』|上田篤(『ひとり空間の都市論』(p.84より引用)

この双六の見るべきポイントは双六というゲームの中で庭付きの一戸建て住宅が「上がり」とされており、それが当時のいわば「ジャパニーズドリーム」を表現している、という歴史的資料としての価値にあると言える。
しかし今回はそこではなく「日本人が繰り返していく住宅の所有」を表現しているという点について触れたいと思う。

もちろん日本人に限った話ではないが、人間はライフステージに応じて住む場所を変えていく。大半は生まれ育った実家から進学や就職に際して寮やアパートなどで一人暮らしをし、パートナーを作り別の住まいへと移り、現代住宅双六でも「上がり」とされていたように一戸建ての住宅を建てることが理想として語られることが多い。
この家を所有して(あるいは借りる)、手放してはまた別の家を所有するという【所有】と【未所有】の繰り返しは本書で紹介された3つの関数の中でも現状の社会に当てはまるとして挙げられたステップ関数で図示できるのではないか。

ステップ関数的住宅の所有

「単純な住宅の所有」

この【所有】と【未所有】という二極の状態を繰り返すことを、個人と国家の二極が絶対化した「単純な社会」と対応させて「単純な住宅の所有」と呼称しようと思う。

この「単純な住宅の所有」の特徴的な点は賃料に対して時間・空間が1:1で対応していることである。1ヶ月分として設定された家賃を払うことによってその分だけの時間と空間を所有することができる。
これはごく当たり前のことのように聞こえるがこの仕組みでは現代において流動的に変化し続けるライフステージや、そのライフステージの中で生み出され続ける「分人」の存在に対応することはできるのだろうか。現状の賃料に対して時間・空間が1:1で対応している「単純な住宅の所有」の仕組みでは対応できない、というのがその問いへの回答であると考える。

このように「単純の住宅の所有」の仕組みの中で蔑ろにされている存在を再び繋げるために、本書に倣って単純化されてしまった仕組みを「なめらか」にすることを試みたいと思う。

先述した通り「なめらかな社会」ではそれを構成する要素の存在を緩やかに繋げることによってそれぞれが持つ要素を離散化することによって私有でも公有でもない【共有】するという概念を見出した。
同じく住宅の所有もそれを所有する個人を「分人」として、そして所有されるはずの時間・空間を離散化することによって【共有】することができるのではないだろうか。
この住宅を共有するという新しな所有の仕方を「なめらかな住宅の所有」と名付け、本書と同じくシグモイド関数によって以下のように図示できる。

なめらかな住宅の所有

「なめらかな住宅の所有」

人生の時間軸の中で住宅の【所有】と【未所有】を繰り返すのではなく、【共有】することによっていつでもどこかの住宅を所有している状態を作り出す。賃料と時間・空間が1:1で対応していた関係性を解し、時間・空間が離散化した、賃料に対して1:∞で対応する状態こそが「なめらかな住宅の所有」なのである。

前述の通りただ安直に「住宅をみんなで共有しましょう!」と提言してもそれは机上の空論で終わってしまい、それが成立するわけではない。著者が本書にて提言したのと同様にその仕組みを成り立たせるための社会制度設計が必要である。

私も卒業制作ではこのような新しい住宅の所有の仕方としての「なめらかな住宅の所有」を提言するために、それを成立させるための社会制度をいかにして設計するかを考えていければと思っている。

また私が卒業制作で取り組んでいるように、本書で提言された、「なめらかな社会」という新たな社会の枠組みを考えること、そしてそれを成立させるための社会制度設計を提案するという一連の手法は、建築の枠組み以外でも「なめらかな〇〇」として応用することができるのではないだろうか。

この書評は私の考える新たな枠組み、「なめらかな住宅の所有」に関する現時点での考えを提言するだけではなく、読者である皆様にも興味のある分野等々における新たな枠組みとしての「なめらかな〇〇」について考え、議論するきっかけになれればと思っている。


参考文献

[1] 鈴木健(2013)『なめらかな社会とその敵』勁草書房(p.19, p.40, p.41, p.173)

[2] 平野啓一郎(2012)『私とは何かー「個人」から「分人」へ』講談社現代新書(p.25)

[3] 南後由和(2018)『ひとり空間の都市論』ちくま新書(p.84)

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