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『ガリレオの中指』感想

今回感想を書くのはこの本である。
ガリレオの中指 科学的研究とポリティクスが衝突するとき
著者 アリス・ドレガー 訳者 鈴木光太郎

『大衆の狂気』感想という前回の記事で「アイデンティティ・ポリティクス」「キャンセルカルチャー」「Wokeイデオロギー」「社会的公正」などのキーワードに触れたが、この『ガリレオの中指』は「アイデンティティ・ポリティクス」「キャンセルカルチャー」「学問の自由」「アカデミック・スキャンダルや医療スキャンダルの告発と検証」に関する本だった。

余談だが、みすず書房の本は(値段的にも、難しそうな内容的にも、都会の大きい書店じゃないとなかなか取り扱っていないという売り場の少なさ的にも)なんとなく敷居が高くて、あまり手に取ることがなかったのだが、後述する通り『ガリレオの中指』は、サスペンスホラーのような手に汗握るスリリングさもありつつ、まるで探偵のように証拠を揃えて矛盾点をあぶり出していく著者の綿密な調査の過程もあったので、ドラマティックな自伝かつ告発系ドキュメンタリーをみているかのような読み応えだった。

『ガリレオの中指』では、以下の3つの問題が取り上げられていた。

ベイリー論争

2003年、ベイリーの『クイーンになる男――ジェンダー変更とトランスセクシュアルの科学』が出版されたときに、「どのようにしてオートガイネフィリアについてベイリーの口を塞ごうとしたのか」(p.85)、ベイリーが猛攻撃を受けたときのやり方がいろいろと昨今のSNSでも既視感がありすぎる……この現象は2003年から始まってたのか……

ベイリーに猛烈に抗議をする「三銃士の顔ぶれが揃った」(p.94)として
リン・コンウェイ
アンドレア・ジェイムス
ディアドラ・マクロスキー
の名が挙げられていた。
(ちなみにこの中のディアドラ・マクロスキーは『美とミソジニー』の第3章 トランスフェミニティにも名前が登場する)
自分をオートガイネフィリアだと認めながら、それを定義しようとしたベイリーを封殺しようとするという、明らかに矛盾しているように思える理由はP.83に書いてあったので不思議に思った人はぜひ自分で確認してほしい。

「ベイリーに怒りの矛先が向いた理由は、彼が引いているブランチャードの理論にあった」(p.73)とあった。
ブランチャードは「オートガイネフィリア」という分類を作った人である。
【参考】ブランチャードの性転換症類型学(Blanchard's transsexualism typology)のwikipedia(English)。

あと、この章でリン・コンウェイのホームページに言及されることが数回あったので検索してみたら、ご丁寧にも日本語版も用意してくれていた。

そしてこのHPをみると

古風な精神科医(すなわち、ポール・マックヒュウ)、セックスに余念のない自称「性科学者」*(すなわち、J・マイケル・ベーリー、レイ・ブランチャード)、トークショーのコメディアン、タブロイド紙、そして反動思想を持ついろいろな宗教組織の言語道断な虚報を黙認するより、われわれTS・TG女性ははっきりと物を言うようになってきました。

と書いてあり、今でもリン・コンウェイがベイリーとブランチャードを批判している文面を載せていることを実際に確認できる。

ベイリーの『クイーンになる男――ジェンダー変更とトランスセクシュアルの科学』は激しい反発をよび、彼女たちの「強力な偽情報と威嚇の嵐」(p.111)によって大いに話題になったが、

それゆえほとんどの人は、ある重要なことに気づくこともなかった。それは、騒動になって数カ月経った時でも『クイーンになる男』を読んだゲイやトランスジェンダーの多くが、その本を多様な「女性的な男性」――フェムボーイから、ゲイ、トランスキッド、ドラァグクイーン、クロスドレッサー、そして性転換したオートガイネフィリアの女性まで――を正確に記述しており、LBGTの人びとを強力に支援しているとも思っていたということである。こ の 本 を 読 め ば 、その理由は明白だった。
(中略)
しかし、ほとんどの人はこの本を読んでいなかった。読んだのは、ベイリーのスキャンダルの記事だけだった。それゆえ衆目には、この本はとりわけトランスジェンダーのコミュニティにとって、LGBTバッシングを煽る本――いわばアフリカ系アメリカ人にとっての『国民の創生』のようなもの――のように見えた。

p.107 第三章 複雑に絡み合う糸

読 ん で な い ん か い っ!!批判するならまず読もう!!!
上で引用したように、本を読んでないのにもかかわらず、活動家によるスキャンダルの記事を真に受けて批判してる人もいたので、やはり自分で実際に確認するのは大事なんだな。
というか、論文や本が批判されているからといって、自分でも読んで確認もしないで安易に便乗して叩く人の多さにびっくりした。短くて単純なストーリーが好まれるSNSが近年とりわけ流行っているだけに、なおさらバッシングが苛烈になりそうだというのは容易に想像できる。

著者であるアリス・ドレガーが、自分が槍玉に挙げられる講演に凸して活動家と直に対峙して「あんたのキャリアもめちゃくちゃにしてやるからね」といわれ、アリスの友人が間に立ちはだかって「いますぐ警察に電話して」という場面(p.164)は、緊迫感がありすぎて(これがみすず書房の本なのか……?ハヤカワノンフィクションじゃなくて……?)(※ハヤカワノンフィクションは緊迫感があるというのはわたしの勝手なイメージです)と疑うほどだった。

センシティブな領域を扱う論文の「必ずしも~というわけではない」「~を擁護するものではない」などの著者がいちばん気をつけて解釈してほしいであろう部分否定の記述や注意書きがまるっと無視されて、極端な発言かのように捻じ曲げられたり活動家に都合がいいように利用されるところがサスペンスホラーのようだった。なにかと二項対立に持っていこうとしたり、詳細をそぎ落とした「分かりやすさの功罪」もあるのではないか。

研究者が自分の書いた論文を自分の意図とは違う方向に解釈されてしまい、まるで極端な意見かのように発信力の大きな活動家に吹聴され、自分の書いた論文によって自分自身が攻撃されるという状況が何年も続いたら、その様子をみている他の研究者たちも事実を発表するのを萎縮するだろうし、特定の思想に合致した論文しか掲載されなくなるだろう。
そして、それは確実に学問の自由を脅かす状況だと思う。

『エルドラドの闇』論争

「第五章 学会内部の腐敗」と「第六章 闇の奥へ」では先住民であるヤマノミ研究者である人類学者ナポレオン・シャグノンに対峙してパトリック・ティアニー(とお仲間の人類学者テレンス・ターナーとレズリー・スポンセル)のあいだに何があったのかが書かれていた。

シャグノンはティアニーの著書『エルドラドの闇』がきっかけとなって中傷との戦いが始まることになったのだが、わたしがいちばん驚いたのは、『エルドラドの闇』は注だけでも60ページあって、著者が実際に論文を取り寄せてティアニーが引用した通りに該当ページを調べてみたところ、そのような記述は論文のどこにも見当たらず、ティアニーの引用は実体のないものだったと判明したところ(p.197)だ。相手の評判を貶めるために明らかな虚偽を載せるなんて何でもありじゃないか。手段を選ばないとはこのことか。

一方で、シャグノンと対立する意見を持っていたとしても「つねに科学のために、研究と言論の自由のために戦う人」(p.188)である人類学者マーガレット・ミードは、シャグノンのためにシンポジウムが中止にならないように働きかけたり、政治工作が厳しくなったせいで調査地に入れなくなった時に状況を打開するために大使館に同行してくれたりと、いろいろと協力してくれたのだ。
たとえ専門分野で意見が違ったとしても、科学のため、真実を追求するため、学問の自由のために連帯して行動できる人もいたことがわたしには希望のように思える。あやうく人間不信におちいるところだった……
(ちなみにミードもシャグノンと同様に、死後、根拠のない出版物によって中傷されて名誉や評判が貶められることになり、何人もの文化人類学者が間違いを正すために論争に参入した)

『エルドラドの闇』論争において、著者が当時の関係者に連絡をとって、証言や手紙のコピーなどの記録を集め、それをもとに学会で発表する過程がすごかった。なぜ自己愛が強い嘘つきに周りの研究者たちがこんなに振り回されないとならないのか実に理不尽だと思う。

貶められた名誉や評判を回復するために、被害者本人の研究が滞るだけじゃなくて、検証する労力もかかってるわけだし、足を引っ張りまくっている。
声がデカいサイコパス、もしくはソシオパスがやったもの勝ちみたいな状況なのではないか。

出生前DX(デキサメタゾン)治療

「第七章 危険なビジネス」「 第八章 保護なき被験者 」「第九章 歴史は繰り返される?」では、医療分野である出生前DX治療について取り上げられていた。
こういったアカデミックスキャンダルは理系分野でいえば何年か前にSTAP細胞問題があったけど、特に人体に直接かかわるような医療分野は色々と審査や規制が厳しそうだから大丈夫でしょ~!と、のんきに構えていた自分に驚くような事実を突きつけるような告発だった。

出生前DX治療について簡単に説明すると、

その疾患は、大量のアンドロゲンの分泌によって引き起こされるもので、女の子の場合にはインターセックスの状態も生じさせる。この状態を回避するため、その医師は次のような介入治療を行なっていた。
遺伝子スクリーニングによって、この疾患をもつ娘が生まれる可能性があるとわかっているなら、妊娠早期からステロイド薬のデキサメタゾン(DX)の投与を始める。計画通りにいけば、DXがアンドロゲンの作用を弱め、生まれてくる女の子がインターセックスになるのを避けることができるという。

p.232 第七章 危険なビジネス

「その疾患」とは内分泌疾患である先天性副腎過形成症(CAH)のことで、副腎が通常量をはるかに超えるアンドロゲン(男性化ホルモンともいわれる)を分泌するため、この疾患が女児の胎児で発症すると、その子は性染色体がXXで、卵巣と子宮を持っているにもかかわらず、通常よりも多量のアンドロゲンによって、性器の外観が男性化する(p.238)。

そして、デキサメタゾンが投与される「妊娠早期」とは妊娠四週や五週目で、その時期の胎児の大きさはごま粒ほどの大きさで、「胎児」というよりはまだ「胚」といった状態だ(p.247)。
妊娠四週や五週目というのは妊娠が判明してすぐの頃だろう。人間の場合、男性と女性への分化が始まるのは発生の七週目である。

先天性副腎過形成症(CAH)は潜性遺伝子疾患なので、両親がCAHの保因者なら、生まれる子どもは四分の一の確率でCAHになり、曖昧な性器の問題が生じるのは女児だけである。
つまり、妊娠初期にデキサメタゾン(DX)に曝された胚の八つのうち七つには、この介入治療で想定されるメリット(つまりインターセックスの発生を防ぐ必要)がない。
さらに調べたあと計算し直してみると(CAHをもった女の子全員が曖昧な性器になるわけではないし、DXの推奨者たちもその目標が達成できるのが八十%ほどと見ていた)、十人の胎児のうち九人ほどが恩恵なしにリスクだけにさらされているとわかった。(p.250)

子宮内でCAHの女児とわかった胎児は、DXの投与がずっと続くため、DXの投与を終了されるそれ以外の胎児よりもはるかに高い有害事象のリスクにさらされる。
そのうえ、CAHの疾患そのものについては、出生後に検査と投薬治療で対処しなければならない。つまり、出生前DX治療によってインターセックスの発生を防ぐことができるとしても、生まれてくる子ども(女児)は、依然としてCAHという健康上の問題に直面する(p.239)。

以上からわかることは、要するに、先天性副腎過形成症(CAH)の保因者である両親から生まれてくるCAHの女児におけるインターセックスの発生を防ぐ目的でおこなわれる出生前DX治療は、本来ならばその治療対象ではない他の子どもまで巻き込んで胚のうちから投薬のリスクに曝し、そこまでして目的通りインターセックスの発生を防げたとしても、内分泌疾患であるCAHは治癒することにはならないのだ。
インターセックスの発生を防ぐという目的に対して、さすがにいくらなんでもリスクが大きすぎるのではないか……???
治療のリスクとベネフィットはつりあっているのか?

妊婦はなるべく胎児に影響がいかないようにお酒はもちろんのこと、自分が服用する薬ですら躊躇するのに、胎児よりも小さい胚の発生を操作する目的においての妊婦への投薬がこんな杜撰なやりかたでされていたなんて信じられなかった……ちゃんと追跡調査してほしい。

なにより著者が告発していて、出生前DX治療がサリドマイドやDES(ジエチルスチルベストロール)に匹敵するような薬害事件になるかもしれないのに、この治療が現在でも行われているということが恐ろしかった。

もしかするとわたしが医師としての専門知識がないゆえにこういう反応をしているのかもしれないので、特に内分泌学を専門とする日本の医師がこの出生前DX治療に関する箇所を読んだ感想をぜひとも知りたい。(※利益相反関係を明確にしたうえで!)

おわりに

終章における

客観的な現実はない、正確な知識だということを確かめる術はない、と言える人たちは、なんて特権的な立場にいるのだろう!
私の経験からすると、彼らは、自分たちが社会的弱者や被抑圧者の側に立っているとよく口にする。

p.317

に続く、インターセックスの権利の確立を求める活動家でもあり、同時に真実を追求する研究者でもある立場の著者の怒りが最高潮に表れているところは必読だと思う。
(ところで「客観的な現実はない」ってポストモダンのことなのか…?)
なによりも、著者は「好戦的で、雄弁で、ポリティカル・コレクトではないが、真実が私を救い、みなを救うのだという強固な信念がある」ガリレオ的性格であり、「ガリレオは私だ。ガリレオは私たちみなでなくてはならない」といっている(p.230)。

私たちは、善意では人を窮地から救えないということがなかなかわからない。悪いことをするのは悪人だけだとか、善人はよいことしかしないと思っているかぎり、こういった種類の欺瞞を見つけることも、知ることも、防ぐこともできない。

p.337 エピローグ

身も蓋もない話だが、たとえ学者や研究者や医師といえども、みながガリレオ的性格だったり高潔だったり真理を追究することが目的であるわけでなく、ほかの目的――つまり自己愛や研究助成金を獲得することや他者に汚名を着せることや心からの善意(?)を実行することなど――を達成する手段として自分の専門分野を利用する場合があるのだなと思った。

わたし自身もこの本を読みながら、正直「こんなことを書いてしまって病院のイメージが下がらないか?載せても大丈夫なのか…?」と心配したエピソード(p.342)もあった。しかし、そのエピソード自体はある人に起こった実際の経験であり、それが倫理的に問題がありそうだからという理由で心配したり配慮しようとする気持ちがきっと検閲行為の萌芽なのだろう。

わたしは「アイデンティティ・ポリティクス」「キャンセルカルチャー」「Wokeイデオロギー」「社会的公正」「クィア理論」「脱構築」「ポストモダン」に関心を持っているので、次は、早川書房の『「社会正義」はいつも正しい──人種、ジェンダー、アイデンティティにまつわる捏造のすべて』を読む予定だ。
出版社のHPには「フェミニズム、クィア理論、批判的人種理論――〈社会正義〉の御旗の下、急激な変異と暴走が続くポストモダニズム」と書いてあるので、この本によって昨今の「ポストモダン」略して「ポモ」について少しでも知ることができるのかどうか楽しみにしている。

【2023年3月27日 追記】「『社会正義』はいつも正しい」note記事のキャンセルについて

上記でリンクを貼ったものの「この記事は閲覧できません」となっているnoteは、早川書房公式の記事で2022年11月15日に公開された。
しかし、noteの内容に対してクレームが相次いだ。

『美とミソジニー』を陳列したことに対する激しい糾弾を思い出すような大変な責めようである。

批判者たちは出版間もない(出版は11月16日)のに、もう読了したのだろうか?それにしては具体的な点が指摘されていない。

そして12月5日に早川書房からの「お知らせ」によってnote記事が公開停止となったことが周知された。

12月6日に担当編集者によってからも以下の反省文のようなツイートがされた。

よってここに公開停止された早川書房noteの魚拓を貼っておく。
https://archive.is/SsZbZ


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