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0003_首里城の焼失に関して

初めに
首里城が焼失した。この事象が起こってから感じたこと、考えたことを文章で記述したいと思う。けれども、思考があらゆる方向に分散してしまい、僕の中では同じ事について考えているのだけれど、まとめられる気があまりしないので、考えたことを断片的な文章として並列に並べてみようと思う。まとめられたらまとめます。


00 火の鳥
「火の鳥」という有名な漫画がある。手塚治虫が描いているので、多くの人は知っているかもしれないし、知らない人も一定数いると思う。読んだのがとても前なので、記憶が曖昧だ。その物語に出てくる火の鳥は永遠の生命を持っていて、定期的に燃えて死ぬけど、その灰からまた生まれる。不死鳥みたいなものかな。生きていると前世や来世という考え方に出会うことがあるけれど、仮に前世、現世、来世と、同一の固有性を持てるとしたら、それが永遠の生命なのかもしれない。そして人間の場合、死という機会の前後を繋ぐものがあるとすれば、それは曖昧な記憶である。

01 喪失
首里城が燃えた。この事実を知ったのはベルリンからデッサウにバスで移動している最中のことだった。まだドイツでのSIMカードを持っておらず、どこかの施設でたまたまWi-Fiが繋がり、ニュースが携帯に表示されたのだと思う。小さいサムネイル画像サイズの四角の中に、燃える首里城が写っていた。画像ではほとんど建築物の原型を認識することはできず、ただ燃える炎の赤が、ニュース記事のタイトルと共に映し出されていたのだった。
沖縄で生まれ、沖縄で建築を学んだ僕だけれど、僕にとって首里城は単なる観光施設の1つにすぎなかった。最後に中に入ったのは記憶にも無いくらい幼い頃だと思う。建築を学び始めて、その周辺に行くことはあったけれども、中まで足を踏み入れることはなかった。首里城のある「首里」という地域に住んでいる人たちは首里城に関してまた違った感覚を持っているかもしれない。よく、首里に住む人たちが首里に対する愛着を語ることを聞いていたからだ。しかし、誤解を恐れずに言えば、僕がそうであるのと同様に大多数の沖縄の人にとって、首里城は観光施設の1つとしてしか認識されていなかったのではないだろうか。
そうであるにも関わらず、バスの中で、その燃えている画像を見た時の感情は今思い返しても不思議なものである。ある種の喪失感と言うと陳腐であるが、まさに心に穴が空いたような感覚を覚えたことは記憶している。しばらく、ぼーっとしてしまい、思考を働かせることができなかった。
そして、この感覚を持つ自分に驚いた。

02 自我
建築家の宮脇檀さんが、御施主さんから「(宮脇さんが設計すると)どんな建築が建ちますか?」という質問に対して「私のような建築が建ちます」と回答したという文章を読んだことがある。設計を行なっていると、この宮脇さんの言葉が頭の中に浮かび上がってくることがある。この言葉は僕の中で定着して、建築の本質を言い表している言葉の1つとして、僕の中にある。
首里城の場合を考えるとどうだろうか。首里城という建築物と重なり、それを建築したのは誰(あるいは何)であろうか。
実は首里城は今回の焼失を含めて5回も焼失している。とういことはその度に再建されているのである。そして、もう一つの事実として、首里城は創建された年代が明らかになっていない。
何度も失われたその首里城を、その度に建築したのは「沖縄」あるいは「琉球」ではないか。

03 継続の形式
伊勢神宮に式年遷宮というシステムがある。敷地が2つあって、それぞれの敷地に交互に同じ形態を建築する。このシステムは言い換えれば固有性の保存として機能しているけれど、毎回建築されるそれは物質としては全く別のものである。保存されるのは物体そのものではなく、形式である。また、このシステムは宮大工の技術の継承という役割もある。定期的に新しくもう一つの敷地に建築することによって、それを作る宮大工さんが、それを作る技術を習得するのである。そして、これからずっと続くであろうこの継続の中の節目はある種の祝祭でもある。

04 自己言及的な死
自殺という行為を行う動物は人間以外にいるのだろうか?それは自らの自律性や持続性を自ら断つ行為であり自己言及的な行為である。これは勝手な想像であり、一人の人間が作り出した単なる物語にすぎないけれども、首里城は自ら燃えたように見えた。

05 記号あるいは象徴
ベルリンの道を歩いていると所々、金色の金属の塊が地面に埋め込まれているのを見かける。これはStolperstein(シュトーパーシュタイン)と呼ばれていて、直訳すると「つまずき石」というものである。1992年にドイツの芸術家が始めたもので、ナチスの被害者のための記念碑である。亡くなった人の家の前に埋め込まれるこの記念碑にはその人の情報が書き込まれている。
記念碑は通常あらゆる出来事を入れる箱として、1つの場所に置かれることが多い。この箱というのは意味やストーリーを入れるものという意味での箱で、実際には石の塊や彫刻であることが多い。そして僕たちはそれを「記号」あるいは「象徴」と呼んだりする。
例えば、目を閉じて、沖縄をイメージしてくださいと言われたとすれば、少なからず頭の中に首里城の像が立ち現れる。その姿はどんなに鮮明な記憶を頼りにしていても、ぼやけていて、そして赤い。そしてこれが記号であり象徴である。


最後に
カメラが捕らえた首里城の赤い炎は、ある種の祝祭で、その祝祭は死を意味していながら、沖縄あるいは琉球のこれからも続く「生」を意味しているのかもしれない。

※サムネイル画像は写真をベースに描いてみました

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