見出し画像

年齢と夢を叶える勇気

パリ在住のファッションデザイナー・大森美希さんのお話をスペースでうかがった。

以前からツイッターで交流があり、いつかお話ししたいと思ってお声がけしたら、快くOKしてくださった。

(本編はこちら


大森さんは宇都宮市の出身で、現在52歳。

東京にあるファッションの専門学校・文化服装学院で学び、卒業後は仙台の専門学校で教員として勤務した。

5年間の教員生活を経てパリへ飛び、現地のデザイン学校に通いながらチャンスを求め続けた。時は2000年、29歳の頃だった。

そして学生インターンから抜擢されて、バレンシアガのデザイナーに。その後もランバン、ニナリッチといった名だたるブランドでデザイナーとしてのキャリアを積み重ねて、現在は世界三大美術学校のパーソンズのパリ校にてアソシエイトディレクターも務めている

大森さんは、日本のサラリーマンのような終身雇用を前提として雇われてきたわけではない。あくまでも個のデザイナーとして、様々なブランドで研鑽を積み重ねてきた。ジョブ型雇用である。

しかも、渡仏するまで海外で暮らした経験はない。宇都宮生まれの宇都宮育ち。ファッションの専門学校で学び、仕事をしていたとはいえ、パリのファッション業界に強大なコネクションがあったわけでもない。

そんな状態で、様々な壁を突破してきた。


大森さんが乗り越えた壁のひとつであり、そして今も葛藤しているのが、年齢の壁である。

小さい頃から外国への憧れはあったものの、文化服装学院に入った時に、もう海外に住んだり外国語で仕事をすることはないだろう、と思った。

最初の就職活動では入りたかったブランドに全て落ち、デザイナーの夢は叶わなかった。

学校を卒業後は、就職浪人のような形で仙台の服飾専門学校で教員になった。教員をしながら、いつかデザイナーになるべく準備を着々と進めた。ファッションのコンテストに挑戦し続けて、お金も貯めた。

そして29歳の時、憧れの外国へ行くことを決意した。「この機会を逃したらもう行けない」と、自分なりのギリギリのタイミングだった。

教員を辞めて渡仏してから、まずは学生ビザで現地のデザイン学校へ入った。この時、どこか就職先が決まっていたわけでもなければ、年数で言えば7年ほどキャリアパスの遅れがあった。

学校の同級生は、一回り下の20歳前後の若者たち。ファッションブランドでインターンをした時は、指導的な立場のアートディレクターと同年代という状況だった。

歳が離れた人たちから拙いフランス語を笑われたり、いじめのような仕打ちを受けたり、やっとの思いで憧れのブランドから声がかかった時はやっかみ混じりの嫌味を言われたり、「毎日泣いていた」日々だったという。


それでも、大森さんは「29歳で外国へ行ってよかった」と語る。

フランスでの駆け出し時代、日本の学校で学んだ技術や教員で培ったコミュニケーションと心配りが、十二分に発揮されたのである。

「教員の時に教える経験を通じて、他のデザイナーさんより服の構造を分かっていた」

「デザインを上手に描く人はいたけど、縫ったり型をつくったり、それを実際に形にできるスキルを持ったデザイナーは少ない。それがユニークだから言葉が話せなくてもうまくいった」

そして、今に至るまで、パリでファッションデザイナーとして20年もラグジュアリーブランドで活躍を続けている。入れ替わりが激しい世界で、ここまで長く一線で活躍しているデザイナーは西洋人でも少ない。

今の大森さんの活躍に欠かせなかったものこそが、「遠回り」だった。フランスに渡るまで日本で体得した技が、思わぬ形で夢を叶えるための一助となったのである。

今でも、年齢とキャリアの遅れで悔しい思いをすることはあるらしい。生きていくのに必死で、気が付けば子どもを産み育てる選択肢は人生から外れてしまった。

それでも、その遅れやどんな人生の選択をも、プラスに転じさせることが出来る前向きさは、世代を問わず挑戦をためらっている人の背中を押すだろう。


今回のテーマは「夢を叶える勇気」だった。

「夢」というと、なんだか大きな話のようにも感じるし、自分でこのテーマにしておきながら、若干のこそばゆさもあった。

それでも、あえてこのテーマにしたのは「夢は恐いものでもある」と思ったからである。

自分が叶えたい夢が、現状からかけ離れているほど、そこにたどり着くまでの道のりを前にして立ち尽くすこともあるだろう。

誰かに夢を語ったとき、周りにいる全員がそれを応援してくれるとも限らない。

夢を叶えるための代償として、何かを手放したり、諦めたりしないといけない時だってあるだろう。

そんな迷いや孤独、揺らぎを超克した先にあるのが、自分が見たい風景であり、ありたい自分なのかもしれない。それは生きている限り完結しない旅路でもあるのだろう。


「みんなとちがう道を歩いてきたから私だけのユニークなキャリアを形成できた」

「普通に高校を卒業してそのままこっち(フランス)に来て、同じようになれたかといったら、そうではないはず」

分野は全くちがえど、異国で活躍する大先輩の遠回りな人生に、勇気をもらった2時間の対話だった。

ぜひ聞いてみてください。




【初めて私のことを知ってくださったみなさま】

田中渉悟と申します。
フリーで対話のファシリテーション、企業向けのワークショップ、哲学対話の進行役などをしています。

X:https://twitter.com/tana_tana_sho

▼ジャーナリストの田原総一朗さんと仕事をしています

▼国分寺のクルミドコーヒー/胡桃堂喫茶店で哲学対話の進行役もしています

ぜひみなさまからのサポートもお待ちしております。

いただいたお金は、よりよい対話の場づくりをするために使わせていただきます。

どうぞよろしくお願いいたします。

▼下記の「記事をサポート」よりご支援いただけます。



いただいたご支援は、よりおもしろい企画をつくるために使わせていただきます。どうぞよろしくお願い申し上げます。