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【NOVEL】体躯の日 第12話(最終話)
玄関の扉をノックする音が聞こえて来た。当初、俺はこの朝のドタバタが終わるものだと、てっきり思っていた。が、それは事の発端にすぎず、発端というよりもはや、扉が開こうとしていることに終末的な気分にさせられるのだった。固く心を定めていたはずの意思が、ここにきて緩みつつあったからであり、正直怖くなっていたのだ。俺の身体は、短く「はい」と玄関に向かって声を放った。その明瞭さは自信に満ち満ちていた。どうして
もっとみる【NOVEL】体躯の日 第11話
うん、少し遊び過ぎたな。面接の時間もいよいよ迫ってきているはずだ。なに、これから起こることは簡単なことさ、すぐに終わる。これが済んだら、早急に面接会場へ向かえば良い。
「すぐ来るってさ」奴は受話器を置くと、こちらの方を見て言った。
「そうか、手間をかけて悪かったな」
「あぁ」
「でも、これはお互いに生じている常識の食い違いを解消するためだよ。分かってくれるだろう?」
「…」
「それとも、今すぐ元
【NOVEL】体躯の日 第10話
心外な疑いを掛けられて気に入らないのか、身体は低い声で俺に聞き返した。これこそが、考え得ることだと思っていた。俺は、一方的な私感によって疑いを掛けてしまうのだが、そもそも口論というものはそういうものだ。
「たしかに、お前は飯を食いに行くと言って、部屋を出たところまでは認めよう。だが、一階のバイキングで食事を取り、試験会場の下見まで行って来たという作り話くらい、日頃こすい俺なら考えられる。ましてや
【NOVEL】体躯の日 第9話
あれこれを踏まえて欲しいと、俺は奴に言い開くのである。奴は、うんうんと聞いているのだったが、肘掛に腕をだらしなく乗せると、右手の人差し指を意味も無くとんとんとさせ調子を取り始めた。腕時計のガラスと裏蓋をさすり始める。手元の落ち着きが無くなるのは、飽き飽きしている証拠である。日頃、物事が思うようにならないでいると、このように目に映ってしまう不快な仕草は、俺が客観とも呼べる目を徐々に持ち始めているか
もっとみる【NOVEL】体躯の日 第8話
背広姿の俺が、何事も無く部屋に戻って来たのは間も無い。
右手で腹をさすっては軽く叩いている様子を見ると、朝食が望み通り満ち足りたようであった。左手には朝刊を持っている。察するに、俺の取り越し苦労だったのは否めない。
「いやぁ、ビジネスホテルの朝食があそこまで立派なものであると、もはや仕事目的でなくてもこりゃ満足出来るな」
「そいつは良かったな」
「あぁ」
「一階まで無事に行けたのか?」
「あぁ、
【NOVEL】体躯の日 第7話
まったく、俺の身体のくせに舐めた真似をしてくれたな。あいつは、自分が世間で如何に異端な存在であるかを分かっていないのだ。この時間帯であれば、バイキングの会場は宿泊客でそれなりに混んでいる。配膳台で首の無い背広の男が、平然と自分の茶碗にご飯を装っていたら、会場の寝ぼけ眼は、一斉に珍獣を見るような目になってしまうであろう。
そもそも、一階の会場へ無事に辿り着けるだろうか?会場へ向かう途中、騒ぎにな
【NOVEL】体躯の日 第6話
思い描いていた人物像とは全く異なる。当初予想していたのは、水色のつなぎを着て、三角頭巾をかぶっている若い男。または、マスクをして、黒を基調とした服装で特徴と呼べる特徴を隠し、目立たぬ身長で痩せ気味な奴。男の身形を見るや否や、それは清掃員でも泥棒でもないことはすぐ分かった。
風体に見覚えがある。というより、普段、自宅の洗面所や姿見で毎朝毎日見る体格だ。俺はあの身形を散々見て育ってきた。学生時代、
【NOVEL】体躯の日 第5話
足元にある空気清浄機がうなり出す。俺は密閉された一室で寝泊まりすると、鼻が詰まり、喉が渇いてしまう。
ここは駅に近く立地も良い。フロントマンは、やや説明不足ではあったが、とても感じが良い。ベッドも快適であり、大浴場も清潔感があり満足のいくものであった。昨夜、無料で提供された夜食のうどんは、小腹を満たすには丁度良く、学生の俺には大変有り難いものであった。今度来る時には、ぜひ禁煙室を予約してみたい
【NOVEL】体躯の日 第4話
俺は首だけを動かして、枕に擦りつけるように顔を反転させ、恐る恐る薄目を開けた。判断出来るものは、あまり多く無かった。普段、近眼であることに大した不便を感じなかったが、このような緊急事態になると、極めて情報弱者になってしまう。
ぼんやりと眼前に写る玄関には、人影すら無い。昨夜、肘掛椅子に置いていた鞄は、行儀良く座っていた。こんな簡単な動作に、つまらない心配をしていた。悪い癖だ。どうやら、事細かに
【NOVEL】体躯の日 第3話
だが、ホテルの一室で事件が起こった場合、住居侵入になるのだろうか。いや、そんなことよりも、俺が洗面所にいる奴を殴打したとして、それが正当防衛になるのかという疑念が生じてくる。正直、洗面所にロクな私物は置いていない。仮に、未だ何も盗られていない状況で、相手に怪我をさせてしまったら、俺の心はそれですっきりするのだろうか。
…殴った拍子で奴が死んだらどうしよう。俺の腕力を想定して考える必要は無い。だ
【NOVEL】体躯の日 第2話
顔を枕に沈めたまま三度寝をしていると、ありもしない声がどこからか聞こえて来る。そんな声で目を覚ますのも不快であった。俺は、十分な睡眠を確保した段階で寝床を起き出たいのだ。未明の目覚めは不本意であったし、このような不意も勘弁してほしい。
その聞き覚えのある声柄と口調に、俺は自然と聞く耳を立てた。…身近で聞いていた気がする。俺も未だ寝惚けているのだろうか。いや、これはおそらく、身の回りを気にしてい
【NOVEL】体躯の日 第1話
ベッドスタンドの間接照明は、夜の灯火となって俺の顔を照らしていたのだろう。黄色灯が煩わしかったのか、それとも、慣れない寝床で眠りが浅かったのか。どちらでも良いが、未明の目覚めはもったいない。今日の天気はどうであろうかと頭を起こすが、縦窓から見える外の様子はぼやけてしまう。俺はひどい近眼だ。
外へ耳を澄ますと、かすかに雨音が聞こえて来る。ついていない。朝上がりすれば良いが、このままでは気分が塞ぎ
【NOVEL】復体 第9話(最終話)
「そういえば、おばぁちゃん」
「ん」
「私、今日、お邪魔すると言いましたっけ」
祖母は皮を剥きながら答えます。
「言ったよ」
「…四時に来ると」
「んだよ」
「…」
剥いたみかんの白い筋を取りながら、祖母は言った。祖母は眼鏡を掛けていますが、難しい顔をしています。目の調節が出来ていないようでした。私は深刻なトーンで話すことは避けることにして、自分のみかんに向かって続けて尋ねました。
「すみません
【NOVEL】復体 第8話
夕食を終え、後片付けを終えた私と祖母は、居間の炬燵で暖を取っていました。祖母は茶箪笥の引き戸に手を伸ばし、茶缶を取り出すと、茶葉を急須に入れます。
「雪道でねぇ…」とだけ言った祖母。
「まぁ、四駆なので…」と私。
加えて、悪路には慣れていますからと強がってみせましたが、祖母は声を立てずに笑っています。
「何時こっちに着いだの」
「三時頃でしたかね」
「んだが、んじゃ順調だったわげだ」と言って、