水埜正彦

元高校教員(国語科)。1963年生まれ。定年退職後、兵庫県加古川市に住んでいます。

水埜正彦

元高校教員(国語科)。1963年生まれ。定年退職後、兵庫県加古川市に住んでいます。

マガジン

  • オリエント・中東史

    中東史の連載記事です

  • 自作の歌について解説したものです。音源はyoutubeでお楽しみ下さい。

  • トピック

    近況報告や雑多な記事をまとめたものです。

  • 石垣りんと戦後民主主義

    2023年に詩人会議新人賞佳作を受賞した評論です。

  • トマトと楽土と小日本 ~賢治・莞爾・湛山の遺したもの~

    2021年に石橋湛山平和賞を受賞した論文の再掲です。長いので何回かに分けて連載します。おつきあい頂ければ幸いです。

記事一覧

オリエント・中東史㊳ ~イランのクーデター~

エジプトが革命とスエズ戦争で激動の時代を迎えていた1950年代、イランでも大きな動きがあった。イランの油田の権利を独占していたイギリスの国際石油資本アングロ・イラニ…

水埜正彦
20時間前
3

オリエント・中東史㊲ ~エジプト革命とスエズ戦争~

第一次中東戦争の敗北とイスラエルの領土拡張は、アラブ諸国に大きな衝撃をもたらした。エジプトでは王政打倒の声が高まり、1952年にナギブとナセルが率いる自由将校団が国…

水埜正彦
2日前
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オリエント・中東史㊱ ~第一次中東戦争~

1948年5月、イスラエルの建国宣言に対して、それを承認しないアラブ連盟諸国(エジプト・シリア・レバノン・ヨルダン・イラク)が一斉に侵攻し、第一次中東戦争(パレスチ…

水埜正彦
3日前
5

オリエント・中東史㉟ ~第二次世界大戦~

第一次大戦の戦勝国の御都合主義による利害調整の帰結であった戦間期間のベルサイユ体制は、1929年のニューヨーク株式市場の大暴落に端を発した世界恐慌によって、その矛盾…

水埜正彦
5日前
6

オリエント・中東史㉞ ~戦間期の中東~

第一次大戦後の戦勝国による旧オスマン帝国領の分割は、英仏間の密約であったサイクス・ピコ協定を基調として行われた。それは現地の事情よりも大国間の利害調整を優先した…

水埜正彦
7日前
9

オリエント・中東史㉝ ~トルコ革命~

第一次世界大戦での敗北は、オスマン帝国に致命的な打撃を与えた。終戦の翌年にはギリシア・トルコ戦争が勃発。連合軍の支持を受けたギリシア軍がアナトリア(小アジア)の…

水埜正彦
8日前
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オリエント・中東史㉜ ~第一次世界大戦~

1914年6月、一発の銃声がボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボに響いた。パン・スラブ主義に基づく大セルビア主義を掲げるセルビア人青年が、閲兵中のオーストリア皇太子夫…

水埜正彦
10日前
6

オリエント・中東史㉛ ~青年トルコ革命とバルカン危機~

1878年の露土戦争終結に伴うベルリン条約によって、オスマン帝国領であったバルカン半島のルーマニア・セルビア・モンテネグロの三国が独立した。もともとこの地域にはゲル…

水埜正彦
12日前
7

オリエント・中東史㉚ ~ウラービーの乱~

1869年、フランス人レセップスが主導して開削を進めたスエズ運河が、10年にわたる難工事を経て開通した。地中海と紅海を結び、東西航路に革命的な効率化をもたらした運河の…

水埜正彦
13日前
6

オリエント・中東史㉙ ~アフガン戦争~

ロシアの南下政策と欧米列強の帝国主義植民地政策に振り回された19世紀の中東。文明の十字路と呼ばれたアフガニスタン地域は、その地政学的条件から英国とロシアの露骨な利…

水埜正彦
2週間前
10

オリエント・中東史㉘ ~カージャール朝~

オスマン帝国が衰退に向かっていた18世紀から19世紀にかけてイランでも王朝の交代による混乱があった。1736年にはサファヴィー朝のシャーを退位に追い込んだトルコ系軍人の…

水埜正彦
2週間前
6

オリエント・中東史㉗ ~オスマン帝国の改革~

19世紀初頭、オスマン帝国の改革に取り組んでいたセリム3世が守旧派勢力によって殺害された。代わってスルタンとなったマフムト2世は、その遺志を継いで帝国の近代化に着手…

水埜正彦
2週間前
5

オリエント・中東史㉖ ~オスマン帝国の衰退~

16世紀前半、スレイマン1世の下で全盛期を迎えたオスマン帝国は、彼の死後、1571年のレパントの海戦でスペインのフェリペ2世が誇る無敵艦隊をはじめとした欧州連合艦隊に敗…

水埜正彦
2週間前
4

オリエント・中東史㉕ ~オスマン帝国の興隆~

13世紀のアナトリア(小アジア)はセルジュク朝の地方政権であるルーム・セルジュク朝の支配下にあったが、十字軍の侵攻を受けてその支配が揺らぎ複数の有力者がベイ(君侯…

水埜正彦
2週間前
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オリエント・中東史㉔ ~サファヴィー朝~

ティムール朝の衰退によって混乱が続いていた15世紀末、イラン地域でイスラム教の神秘主義を奉じるサファヴィー教団が台頭。その指導者であるイスマーイールが1501年にアゼ…

水埜正彦
3週間前
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オリエント・中東史㉓ ~ティムール朝~

14世紀に入り、膨張しすぎていたモンゴル帝国の解体が進んだ。中央アジアのチャガタイ・ハン国は東西に分裂し、モンゴル系と融合したトルコ系民族のイスラム化が進んだ。そ…

水埜正彦
4週間前
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オリエント・中東史㊳ ~イランのクーデター~

オリエント・中東史㊳ ~イランのクーデター~

エジプトが革命とスエズ戦争で激動の時代を迎えていた1950年代、イランでも大きな動きがあった。イランの油田の権利を独占していたイギリスの国際石油資本アングロ・イラニアン石油会社(AIOC)に対し、1951年にモサデグ首相が石油国有化を断行。植民地会社の追放と自国資源の自国受益を実現したのである。イギリスは対抗措置として、イラン原油の国際市場からの締め出しを図った。この時、日本の出光興産の出光佐三社

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オリエント・中東史㊲ ~エジプト革命とスエズ戦争~

オリエント・中東史㊲ ~エジプト革命とスエズ戦争~

第一次中東戦争の敗北とイスラエルの領土拡張は、アラブ諸国に大きな衝撃をもたらした。エジプトでは王政打倒の声が高まり、1952年にナギブとナセルが率いる自由将校団が国王を追放して革命を成就し、エジプト共和国を樹立した。王政を廃止した革命政府は、農地改革法などの社会改革を進めた。初代大統領は穏健派のナギブだったが2年後には急進派のナセルがナギブを追放して大統領に就任し、1955年にはインドネシアのバン

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オリエント・中東史㊱ ~第一次中東戦争~

オリエント・中東史㊱ ~第一次中東戦争~

1948年5月、イスラエルの建国宣言に対して、それを承認しないアラブ連盟諸国(エジプト・シリア・レバノン・ヨルダン・イラク)が一斉に侵攻し、第一次中東戦争(パレスチナ戦争)が始まった。第二次大戦後の国際秩序を担うべく創設されたばかりの国際連合が調停を試みたものの、調停官がエルサレムでユダヤ人武装集団に暗殺されるなど和平への過程は困難を極めた。翌年までの間に二度の停戦を経ながらも戦闘は続き、アラブ諸

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オリエント・中東史㉟ ~第二次世界大戦~

オリエント・中東史㉟ ~第二次世界大戦~

第一次大戦の戦勝国の御都合主義による利害調整の帰結であった戦間期間のベルサイユ体制は、1929年のニューヨーク株式市場の大暴落に端を発した世界恐慌によって、その矛盾を露呈する。英米仏を中心とした連合国陣営は自国の経済保護のために植民地を含めたブロック経済に走り、巨額の戦後賠償金の負担もあって経済破綻に追い込まれたドイツではヒトラー率いるナチスが政権を掌握し、軍事力を増強して領土拡大を図り、周辺諸国

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オリエント・中東史㉞ ~戦間期の中東~

オリエント・中東史㉞ ~戦間期の中東~

第一次大戦後の戦勝国による旧オスマン帝国領の分割は、英仏間の密約であったサイクス・ピコ協定を基調として行われた。それは現地の事情よりも大国間の利害調整を優先したものであったため、不自然な国境線が引かれ、将来にわたって禍根を残すことになる。アラビア半島では、アラブ民族の独立を約束した英国とのフセイン・マクマホン協定に基づき、ハーザム家のフセインがヒジャーズ王国の独立を宣言したが、英国は約束を守らずに

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オリエント・中東史㉝ ~トルコ革命~

オリエント・中東史㉝ ~トルコ革命~

第一次世界大戦での敗北は、オスマン帝国に致命的な打撃を与えた。終戦の翌年にはギリシア・トルコ戦争が勃発。連合軍の支持を受けたギリシア軍がアナトリア(小アジア)のイズミルを占領する。1920年に連合国との間で締結されたセーブル条約は、大戦中に英国主導で秘密裏に結ばれたサイクス・ピコ協定に基づき、オスマン帝国の広大な領土を戦勝国間で分割するものであった。これにより、イラク・トランスヨルダン・パレスチナ

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オリエント・中東史㉜ ~第一次世界大戦~

オリエント・中東史㉜ ~第一次世界大戦~

1914年6月、一発の銃声がボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボに響いた。パン・スラブ主義に基づく大セルビア主義を掲げるセルビア人青年が、閲兵中のオーストリア皇太子夫妻を暗殺したのだ。翌月、オーストリアはセルビアに宣戦布告。これに対し、セルビアとバルカン同盟を組んでいたモンテネグロ・ルーマニア・ギリシア、セルビアを支援していたロシア、そのロシアと三国協商を結んでいた英仏、さらに日英同盟を口実にアジア

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オリエント・中東史㉛ ~青年トルコ革命とバルカン危機~

オリエント・中東史㉛ ~青年トルコ革命とバルカン危機~

1878年の露土戦争終結に伴うベルリン条約によって、オスマン帝国領であったバルカン半島のルーマニア・セルビア・モンテネグロの三国が独立した。もともとこの地域にはゲルマン系の民族とスラブ系の民族が混在しており、半島への勢力拡大を狙うオーストリア・ハンガリー帝国はパン・ゲルマン主義を唱えて前者を、ロシアはパン・スラブ主義を唱えて後者を支援した。いずれも現地住民のためというよりは、自国の領土拡大をもくろ

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オリエント・中東史㉚ ~ウラービーの乱~

オリエント・中東史㉚ ~ウラービーの乱~

1869年、フランス人レセップスが主導して開削を進めたスエズ運河が、10年にわたる難工事を経て開通した。地中海と紅海を結び、東西航路に革命的な効率化をもたらした運河の開通だったが、一方でその開削の過程には、多くのエジプト農民の無償労働と2万人にも及ぶ死者の累積があった。しかもエジプトは運河建設の資金調達のために発行した外債の支払いのために財政破綻し、運河経営の主導権は株式買収の形でエジプトからイギ

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オリエント・中東史㉙ ~アフガン戦争~

オリエント・中東史㉙ ~アフガン戦争~

ロシアの南下政策と欧米列強の帝国主義植民地政策に振り回された19世紀の中東。文明の十字路と呼ばれたアフガニスタン地域は、その地政学的条件から英国とロシアの露骨な利害対立の舞台となった。18世紀にはイランからの独立を果たしていたアフガン王国は、19世紀に入って王朝交代があり、政情不安定となった。南下を狙うロシアを牽制し、植民地インドでの権益を守るために、1868年、イギリスはアフガン王国へと出兵する

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オリエント・中東史㉘ ~カージャール朝~

オリエント・中東史㉘ ~カージャール朝~

オスマン帝国が衰退に向かっていた18世紀から19世紀にかけてイランでも王朝の交代による混乱があった。1736年にはサファヴィー朝のシャーを退位に追い込んだトルコ系軍人のナーディル・シャーがアフシャール朝を開いた。アフシャール朝はシーア派のウラマー(神学者)を追放し、スンニ派イスラム教を国教としたが政治は安定せず、戦乱で国土は荒廃し、民衆は王朝を支持せず、シーア派の信仰を保った。1747年にナーディ

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オリエント・中東史㉗ ~オスマン帝国の改革~

オリエント・中東史㉗ ~オスマン帝国の改革~

19世紀初頭、オスマン帝国の改革に取り組んでいたセリム3世が守旧派勢力によって殺害された。代わってスルタンとなったマフムト2世は、その遺志を継いで帝国の近代化に着手する。市民革命・産業革命を経て近代化を進めつつあった欧米に倣い、中央省庁を整理再編して行政改革を行い、スルタンを凌ぐ実権を握っていた大宰相の権限を縮小した。外交面では西洋各国に常駐の大使館を置き、若手の官僚や軍人を派遣して西洋の制度を学

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オリエント・中東史㉖ ~オスマン帝国の衰退~

オリエント・中東史㉖ ~オスマン帝国の衰退~

16世紀前半、スレイマン1世の下で全盛期を迎えたオスマン帝国は、彼の死後、1571年のレパントの海戦でスペインのフェリペ2世が誇る無敵艦隊をはじめとした欧州連合艦隊に敗れはしたが、16世紀末までは概ね安定した治世を保った。帝国が衰退の兆しを見せ始めるのは17世紀に入ってからである。内政面ではスルタンに代わって宮廷出身の軍人が大宰相として実権を握るようになり、権力闘争が激化した。対外的には東隣のイラ

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オリエント・中東史㉕ ~オスマン帝国の興隆~

オリエント・中東史㉕ ~オスマン帝国の興隆~

13世紀のアナトリア(小アジア)はセルジュク朝の地方政権であるルーム・セルジュク朝の支配下にあったが、十字軍の侵攻を受けてその支配が揺らぎ複数の有力者がベイ(君侯)を称して抗争するようになった。そのひとりがオスマン・ベイである。オスマンは1299年にトルコ人のイスラム戦士集団であるガーズィーを率いて独立。西方のビザンツ帝国領を侵食しながら、バルカン半島へと勢力を拡大していった。14世紀半ば、3代目

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オリエント・中東史㉔ ~サファヴィー朝~

オリエント・中東史㉔ ~サファヴィー朝~

ティムール朝の衰退によって混乱が続いていた15世紀末、イラン地域でイスラム教の神秘主義を奉じるサファヴィー教団が台頭。その指導者であるイスマーイールが1501年にアゼルバイジャンを制圧し、その後10年の間に全イランを支配下に収め、イスマイール1世として初代シャー(国王)となり、イラン初のシーア派国家であるサファヴィー朝を建国した。

マホメットの正統な継承者としてのイマームの存在を信じるシーア派は

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オリエント・中東史㉓ ~ティムール朝~

オリエント・中東史㉓ ~ティムール朝~

14世紀に入り、膨張しすぎていたモンゴル帝国の解体が進んだ。中央アジアのチャガタイ・ハン国は東西に分裂し、モンゴル系と融合したトルコ系民族のイスラム化が進んだ。そんな中で、西チャガタイ・ハン国から出たモンゴル系部族出身のティムールが、トルコ系遊牧民の軍事力とオアシス定住民の経済力を統合して1370年に自立。西チャガタイ・ハン国、イル・ハン国、キプチャク・ハン国を次々と併合し、現ウズベキスタンのサマ

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