マガジンのカバー画像

オリエント・中東史

38
中東史の連載記事です
運営しているクリエイター

記事一覧

オリエント・中東史㊲ ~エジプト革命とスエズ戦争~

第一次中東戦争の敗北とイスラエルの領土拡張は、アラブ諸国に大きな衝撃をもたらした。エジプ…

水埜正彦
2日前
4

オリエント・中東史㊳ ~イランのクーデター~

エジプトが革命とスエズ戦争で激動の時代を迎えていた1950年代、イランでも大きな動きがあった…

水埜正彦
16時間前
3

オリエント・中東史㊱ ~第一次中東戦争~

1948年5月、イスラエルの建国宣言に対して、それを承認しないアラブ連盟諸国(エジプト・シリ…

水埜正彦
3日前
5

オリエント・中東史㉟ ~第二次世界大戦~

第一次大戦の戦勝国の御都合主義による利害調整の帰結であった戦間期間のベルサイユ体制は、19…

水埜正彦
5日前
6

オリエント・中東史㉞ ~戦間期の中東~

第一次大戦後の戦勝国による旧オスマン帝国領の分割は、英仏間の密約であったサイクス・ピコ協…

水埜正彦
7日前
9

オリエント・中東史㉝ ~トルコ革命~

第一次世界大戦での敗北は、オスマン帝国に致命的な打撃を与えた。終戦の翌年にはギリシア・ト…

水埜正彦
8日前
5

オリエント・中東史㉛ ~青年トルコ革命とバルカン危機~

1878年の露土戦争終結に伴うベルリン条約によって、オスマン帝国領であったバルカン半島のルーマニア・セルビア・モンテネグロの三国が独立した。もともとこの地域にはゲルマン系の民族とスラブ系の民族が混在しており、半島への勢力拡大を狙うオーストリア・ハンガリー帝国はパン・ゲルマン主義を唱えて前者を、ロシアはパン・スラブ主義を唱えて後者を支援した。いずれも現地住民のためというよりは、自国の領土拡大をもくろんでのことである。オスマン帝国が衰退し、その支配が緩んだことで、民族対立とそれを

オリエント・中東史㉜ ~第一次世界大戦~

1914年6月、一発の銃声がボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボに響いた。パン・スラブ主義に基…

水埜正彦
10日前
6

オリエント・中東史㉚ ~ウラービーの乱~

1869年、フランス人レセップスが主導して開削を進めたスエズ運河が、10年にわたる難工事を経て…

水埜正彦
13日前
6

オリエント・中東史㉙ ~アフガン戦争~

ロシアの南下政策と欧米列強の帝国主義植民地政策に振り回された19世紀の中東。文明の十字路と…

水埜正彦
2週間前
10

オリエント・中東史㉘ ~カージャール朝~

オスマン帝国が衰退に向かっていた18世紀から19世紀にかけてイランでも王朝の交代による混乱が…

水埜正彦
2週間前
6

オリエント・中東史㉗ ~オスマン帝国の改革~

19世紀初頭、オスマン帝国の改革に取り組んでいたセリム3世が守旧派勢力によって殺害された。…

水埜正彦
2週間前
5

オリエント・中東史㉖ ~オスマン帝国の衰退~

16世紀前半、スレイマン1世の下で全盛期を迎えたオスマン帝国は、彼の死後、1571年のレパント…

水埜正彦
2週間前
4

オリエント・中東史㉕ ~オスマン帝国の興隆~

13世紀のアナトリア(小アジア)はセルジュク朝の地方政権であるルーム・セルジュク朝の支配下にあったが、十字軍の侵攻を受けてその支配が揺らぎ複数の有力者がベイ(君侯)を称して抗争するようになった。そのひとりがオスマン・ベイである。オスマンは1299年にトルコ人のイスラム戦士集団であるガーズィーを率いて独立。西方のビザンツ帝国領を侵食しながら、バルカン半島へと勢力を拡大していった。14世紀半ば、3代目ベイのムラト1世はアドリアノープルを攻略してエディルネと改称し、帝国の首都とした