見出し画像

「教育目的論論争」から教育目的のあり方を考える −ポジティブ行動支援における「望ましさ」を通して−



1 はじめに

本稿は、教育思想史学会の前身である教育思想史研究会の頃に学会誌『近代教育フォーラム』上で繰り広げられた「教育目的論論争」を中心に教育目的のあり方を考え、そこから「ポジティブ行動支援」に目を向け、そこで語られる「望ましさ」について考察する。

 教育哲学者ガート・ビースタによれば、学校現場では「良い教育とは何か」について語られることが減っている[1]。 代わりに、教育を「学習の言語」で語る言説が増加していることを指摘する(これを筆者は「教育の学習化」と呼ぶ)。この問題点としては、教育は「関係性の営み」であるのに対して、学習は基本的に「個人の営み」であり、それは全く別とは言わないまでも、異なる次元の話である。このように、教育を直接的に語る言説が減る中で、どうして今更「教育目的」の議論を蒸し返そうと思ったのか。

 それは、教育目的が欠如した学校現場における教育実践の方向性について懸念しているからである。教育学者である広田照幸は、現状を「教育目的の迷走」として、そのことについて3点を論じている[2]。 

一つ目は「空隙」である。これは「財界人、エコノミスト、保守政治家や保守的評論家・・・」といった「教育学の外の人たち」が「現実社会の大きな変化によって、教育の目的の語り直し」を迫られている中で、「やすやすと入り込んで」きているというのである。

二つ目は「消費者」である。これは「サービスの消費者としての親・子ども」の登場である。彼らは教育の質を「サービスの質」と読み替えて、彼らの「ニーズや選好」に応じて「私的欲求」による「理不尽な要求」さえ突きつけて教師を悩ませることさえある。

三つ目は「空虚」である。これは、「よりよい社会的地位の獲得」という明治以来語られてきた「私的利益追求」による「受験の道具としての勉強にすら、意義を見出せない子どもたち」の存在である。彼らは「目的がはっきりわからない場に長期間しばりつけられ」、その活動の「意味の空虚さ」に耐えることしかできない。

このような問題意識から、教育の意味を再度捉え直す必要があると感じ、「教育目的」について考察することにした。実際、ビースタが論じている通り、筆者も14年間の小学校教員を通じて、「教育とは何か」という根源的な問いと向き合う機会が少なかったことを思い出した。もしかしたら、教育目的なんて無くても良いのかもしれない。「教育目的論」は「寝た子を起こすな論」のようなパンドラの箱なのかもしれない。しかし、同時に教育実践に対して、「なんでこれをしているのか」というモヤモヤを抱えていたことも思い出した。自身の教育実践の「正当化」がなされないまま、「足並みを揃える」ことばかりに意識が向くことへの違和感も確かにあった。この論文を書き終えた後、教育目的とどのように向き合うことができるのか。それは楽しみでもある。

2 「教育目的論」論争を整理

 教育思想史学会の前身である教育思想史研究会の頃に、その学会誌『近代教育フォーラム』上で、数年にわたりなされた「教育目的(論)」に関する議論を、ここでは「教育目的論論争(以下、「論争」)」と呼ぶことにする。この議論は、上記研究会の創設にも関与した原聡介によるフォーラム報告「近代における教育可能性概念の展開を問う −ロック、コンディヤックからヘルバルトへの系譜をたどりながら」をきっかけとして、その後、数多くの学会員が「教育目的」について論じることになった。その議論は多岐に渡るが、ここでは、その内容をいくつかの論点に分けて整理することで教育目的への理解を深めたいと思う。

2−1教育目的「内在論」

 まずは、教育目的内在論である。これは目的が教育という行為の中に内在していると考える立場である。しかし、どこの部分に「内在」しているのかについては、論争でもいくつかの論点が提出されている。以下、3点に分けている。

 ・子どもに内在している「自然」

  これは、ルソーが発見した「自然」の概念を根拠として論じられている。ルソーは、子どもには「感覚段階」と「理性段階」とがあるとし、それまでは「動物のように欲望のままに動く」と否定されてきた「感覚段階」を「感性的な存在」として肯定し、承認した(原 1992)[3]。このような子ども理解は、現在でも「主体性」とか「全面発達」などの文脈で好意的に語られていることが多い。しかし、原はここに「教育可能性」の萌芽を看取する。つまり、子どもの中に「自然」としての理想があるのならば、教育者は、あとはその「自然」の発達を支援していくということになるからだ(助成概念)。このような議論は植物類推で語られがちであり、以下のように原は指摘する。「植物の場合には、たしかにチューリップはチューリップになるわけであり、目標の先在が予定されているが、人の場合にそう言えるのか」、「生まれもった可能性の開花などという殆ど意味のないこと以外には何も目標らしいことを言わない」。これを進めていけば、原がまさに指摘するように「教育可能性の乱開発」が進むことになる。ただただ「発達を支援する」ことのみが行動原理であるので、これは論理の必然である。

  現在、このような子ども観が好んで使われがちであるのは、後に見るように「外在的目的」を提示できなくなっているので、やむなくしているという議論もある[4]

 ・教育そのものに目的が内在している

   一方、子どもの側ではなく、教育そのものに目的が内在しているとする立場もある。その代表的な論者はジョン・デューイであろう。デューイは「教育そのものにはどのような目的もない。目的を持つのはただ人であり、親であり、また教師などであって、教育のような抽象概念がそれをもつわけではない」と言っている。なるほど、その場合、どこかから崇高な目的を押し頂かなくても、教育を実践すること自体が目的なのだから、問題ない。しかし、これもまた容易に「教育可能性論」に飲み込まれてしまうだろう。教育自体が目的であるのならば、「その向かう先」については、誰も保証しない。そもそも、教育という行為自体は「価値選択的」である。宮寺はアリストテレスを引きながら、我々が思量できるのは「てだて」であり、「目的」そのものは願望さえすれば正当化されてしまうと述べる(宮寺 1992)。そうであるならば、教育自体に目的があるからと、目的に対して盲目的であることは、教育者自身の願望に対して歯止めが効かなくなってしまう。仮に、教師の「管理欲求」が強い場合、それは「先生の言うことを素直に聞き、誰も反抗しない秩序のあるクラス」を作ること自体が目的になってしまいかねないが、それを良しと感じる教育者は少ないのではないだろうか。

 ・目的なき行為はない

   上記、二つはそれぞれ目的の所在の話をしながら、その目的は何かと問われれば曖昧な回答しか用意できない点に「弱さ」があると言える。その弱さは様々なものに利用されてしまうきらいがある。一方、宮寺は、そもそも論として「目的なき方法など無い」と喝破する(宮寺 1992)。宮寺は、原が述べる、「「方法論」の精緻化に伴う「目的論」の切り離しからの「教育可能性」の自己目的化」という指摘を、メソッド(方法 method)の語源であるギリシャ語の「meta(あとに)・hodos(道)」から考える。つまり、方法というのは、常にどこかを目指している「道(hodos)」であるならば、そこに目的がないという指摘自体が意味をなさない。目的がないように感じるのならば、それは方法自体が「ルーティーン化」してしまって、目的を意識せずとも方法が機能しているだけである。一方、それが未踏の道であるならば、「目的を目指して道を切り拓いて」いけば良いだけで、「目的が導きの星」となるはずである。つまり、いずれにしても、原が指摘する「目的なき方法論の跋扈」はあり得ない、となる。

確かに、上記の「(教師の)管理欲求」だって、それ自体が目的かと言われれば、そうではなくて、むしろ「授業の円滑化」というより上位の目的を達成するための方法であり、「授業の円滑化」だって、さらに上位の目的の方法なのである。

2−2教育目的「外在論」

 ここまでは、「内在論」について見てきた。目的が子どもの「自然」にあろうが、「教育そのもの」にあろうが、「方法自体が目的を体現」していようが、いずれにしろ「教育目的」は教育という営為に「内在」していることになる。つまり、教育学の範疇である。

 しかし、果たして、教育目的論は「教育学の範疇」なのだろうか。原はそうではないと述べる。「たしかに目的や必要に関する議論を教育学的にのみ処理することは不可能であるか、少なくとも至難であると言うべきであろう。(原1992)」。森田伸子も、「いまだかって教育学が教育目的を指し示して教育をリードした歴史などは存在しない。いつでも、教育学は、社会的実践として行われてしまった、あるいは行われつつある教育のあとからついてきたのである(森田1992)」と述べる。両氏とも、教育目的は「教育学の範疇ではない」という意見で一致している。では、教育目的を設定する「主体」はどこにあるのだろうか。

 ・企業や国家などから天下る目的

   そこに名乗りをあげるのは、「国家や企業」である。これは「1 はじめに」で広田が言及していることを紹介した。そして、現在の教育行政を見てみれば、それは一目瞭然であろう。

例えば、コロナ禍で計画を前倒しにして進められた「GIGAスクール構想」であるが、これについては文部科学省独自の「純粋なる教育施策」ではないとする意見がある。佐藤学はそこに経済産業省が主体で進める「未来の教室」事業と「EdTech研究会」の関与があることを指摘[5]し、新井紀子はそこに総務省が進める「(全国に)超高速ブロードバンドの整備率を100%」にするという「光の道」という政策を見てとる[6]。ここからわかるのは、「令和の教育大改革」とも言われる「一人一台端末」を配る「GIGAスクール構想」でさえ、その根元には、経済的な思惑や政策が見え隠れしているということである。

さらに、2018年(平成30年)からは「特別の教科 道徳」として「道徳の教科化」が始まった。浅見哲也によれば、大きな変更点としては「検定教科書の使用」と「評価の導入」の2点であるという。教科化の背景として「いじめ問題」などがあったとする(浅見 2020)が、これを素直に聞ける人は少ないであろう。むしろ、広田が指摘している通り、そこには「保守政治家や保守的評論家」の存在が見えてくる。つまり「彼らは、共同体的な価値観を、学校教育の中で教えさせることに心を注ぐ。教師の「教育の自由」とか、生徒の「思想・信条の自由」とかには無関心で、愛国心とか道徳を学校でガンガン教えさせれば、秩序正しい人間が作れるはずだと素朴に考えている」(広田 2009)ということである。

これらの企業や国家による天下る教育目的というのは、現代だけに見られる現象ではない。明治時代の学制発布の頃には「富国強兵」や「開明化」や「国体主義」などが国家より天下り、昭和時代には教育拡大に伴い「学歴社会」が到来し、学業で身を立てるというような「立身出世」的な価値観が支配的であった。原、森田両氏の言う通りなのである。

 ・手続きによる正当化

これらの「国家や企業」などの教育の外部から、教育目的を守るための防波堤を築こうと提案したのが、宮寺である。宮寺は「教育目的の正当化論」を展開し、目的自体の内容よりも「手続きにおいて正当性を確保する」ということを強調した(宮寺 1993)。その意図について、宮寺は以下のように述べる。「確かに、教育目的論の名のもとで、私は教育目的の正当化論を取り上げた。なぜ正当化論なのか。その理由は、突き詰めれば、その中で私たちが共に生きていかなければならない近代社会の構成原理にある。(中略)個人的な<善さ>の選択が、そのまま公共の全体的な<善さ>の決定モデルにはならない、ということである。<正しさ>の決定基準が必要なのである。そこに、正当化論が主題として取り上げられなければならない理由がある。」。宮寺はリベラリストという立場から、あくまでも「正当性のある手続き論」にこだわる[7]

 ・ルールとしての目的(歯止め規定)

    一方、宮寺は原へのコメント論文(宮寺 1992)の中で「ルールとしての目的」という概念を提出している。宮寺によれば、先述のmeta・hodosのメタファーから「道にとって目的はそこに達するもの、つまり末端(telos)であるから、もともと「内在的」のはずがない」とし、「それをあえて「内在的目的」と呼ぶのは、目的を先取りして、目的からはずれた強引な手引きを排除するため」という「規制原理」としての「目的」を強調する。宮寺によれば、「ゴールは、子どもや社会に対する願いや企みにより、よくもあしくも、一般的にも個人的にも、さまざまに設定される」とし、「一方でルールは、スポーツやゲームのルールがそうであるように、個人の恣意を排除するために公共的に合意されたものである。」と述べる。そして、近代教育学はゴールとしての目的から、ゴール設定を規制するための「ルールとしての目的」に置き換えたのであり、原が指摘する「目的論の欠落」は妥当しないとする。

これらの外在的な目的だけでなく、「はじめに」で取り上げた「消費者としての保護者や子ども」の持つ「私的な目的」もあるだろう。むしろ学校現場では、文科省や委員会から天下る目的よりも、日々接する保護者からの要求などに対応することの方が多く、そういう意味では、近年、ますます影響力を強めているとも言えることを述べておきたい。

2−3教育目的「不要論」

 さて、ここまで、教育目的の「内在論」と「外在論」を整理してきた。最後は「不要論」である。そもそも教育実践においては、そこまで「教育目的」が意識されることがないのではないかという立場である。実際、学校現場の教職員のどれだけが、教育基本法にある「教育の目的」を意識して教育実践を行なっているのだろうか。筆者について言えば、勤務校の学校目標でさえ、意識することは稀である。さらに、多くの教室には「学級目標」に始まり「生活目標」や「給食目標」など多数の目標に囲まれており、その上位概念であるはずの「目的」までは意識が及ばないというのが本音である。

 ・目的を意識するときは行為を反省するとき

それを端的に述べているのは、松浦良充である。松浦は「教育活動の目的が常に意識化されているとは限らない」と述べる(松浦 1993)。意識化されなくても習慣的に教育活動は進行しているのである。では、どんな場合に教育目的は必要になるのだろうか。それは「反省意識をもつ時」である。それまで習慣的に行われていた教育活動に「何らかの支障や問題」が生じたときに、われわれは教育目的を必要とする。さらに、松浦は「新たに教育活動を開始しようとする場合」も、これに含める。これはまさに、先述の「一人一台端末」の導入や、「道徳の教科化」による「評価の開始」などの、「天下る目的」に伴う新しい動きのことであろう。そういう時に、学校現場は、改めて「教育とは何か」という根源的な問いを意識に前景化させるのである。これを丸山は「目的による行為の正当化」と表現している(丸山 1994)。

 ・「目的は常に行為に先立っている」という近代的偏向

   そんな中で、丸山恭司は少し違った角度から教育目的を捉えている(丸山 1994)。我々は当然のように「目的は常に行為に先立っている」と考えるが、実はこれは普遍的な思考様式ではなくて、多分に西洋的で直線的な時間意識だと喝破する。これについては、歴史学者であるユヴァル・ノア・ハラリも同様の指摘をしている(ハラリ 2016)。ハラリによれば、それまでの狩猟採集民に比べて、農耕民は「時間が拡大した」そうである。狩猟採集民は、まさに「その日暮らし」なので、翌週や翌月のことを考えることに時間をかけなかった。一方で、農耕民は、想像の中で何年も何十年も先まで、楽々と思いを馳せることができた。それは、農耕の生産周期が「年単位」でかつ「不確実」なものであったからだ。そして、現代の私たちは、農耕民よりももっと具体的に未来を思い浮かべて、現在の行動を規制することができる。つまり、丸山によれば、そうした「行為計画の図式」をわれわれは深く内面化してしまっているが、一方で実際には、明確な目的を掲げなくても行為しているのではないかと続ける。

丸山によれば、「目的の存在を前提とすることによって、教育概念が矮小化されてしまう」という点を指摘する。どういうことか。目的を設定するということは「望ましい状態と現在の状況を明確な言語で記述すること」であり、それは「近代的な行為概念によって理解される範囲でしか教育の活動を扱えられなくなる」ということを意味する。つまり「近代的な行為概念は、行為にかかわる要素をすべて取り込み計算処理しようとするが、所詮行為計画者のパースペクティブから出ることはできないであろう」ということである。

似た話が教育評価の文脈でもなされている。田中耕治は、スクリヴァンの提唱する「ゴール・フリー評価」を「目標のない評価」という意味でなく「目標にとらわれない評価」という意味で解釈する(田中 2008)。つまり、教育活動において、あまりに目標が意識されてしまうと、「「目標」からはみ出すような活動」を見過ごすことになると警戒する[8]

以上を踏まえて、丸山は、「目的設定は教育行為とは独立した一つの行為とみなされるべき」であると提案する。「行為にとって、言明化された形では目的も意図も必ずしも必要ではない」のである。われわれが、ついついそのように考えてしまうことは「近代的な行為理解が生んだ強迫観念」であり、あえて目的を言明化されることには別の機能[9]があるという、教育目的論の別のあり方を示唆する。

 ここまで、論争を振り返りつつ、そこでの論点を整理してきた。そこから見えてきたことは、教育目的とは単に崇高な目的を設定すれば良いだけではなくて、その手続きやその機能にも視野を広げるなど、多面的な視点が求められることである。そういう意味で、これが論争として盛り上がったのも頷ける。そして、これが「思想史」の領域で行われた議論であり、ヘルバルトの「Bildsamkeit」や、ルソーの「自然」、ジョンロックの「タブラ・ラサ」、natureーnurture論争、ハーバーマスやルーマンの所論なども踏まえられていたが、筆者の力不足でそこまで踏み込んで整理することができなかった。これは以後の課題である。

 原は教育目的論論争を振り返るときに、研究会設立の趣意書を引用しつつ、「ここにあるのは、要するに、現代の教育の問題性の確認とその原因あるいは責任を近代教育学に求めることの提案である」と述べている。この意思を受け継ぐなら、本論考の次なる課題は、現代の教育現場において「教育目的」がどのように扱われているかという「現代の教育の問題性の確認」であろう。次節では、「目的なき」行動支援として「ポジティブ行動支援(PBS)」という実践を取り上げて分析をする。そこに、教育目的を喪失してしまった教育実践という、現代の教育の問題点を感じざるを得ないからである。

3 「目的なき」行動支援

 この章で取り上げるのは、近年、注目を集めている「ポジティブ行動支援(以下、PBS)」である。これは、大久保賢一によれば、「問題行動の減少に限定せずに適応行動の拡大を目指す」、「行動変容のみならず最終的には対象者や関係者のQOLの向上を目指す」などの特徴を持つ実践であり、「米国では、既に25000校以上の学校」で導入されていることなどからも、「海外においてPBSの普及が急速に進んでいる」と言える[10](大久保 2020)。また、庭山和貴は、それを端的に「児童生徒の問題行動を予防し、社会的に望ましい行動を伸ばしていく」としている(庭山 2020)。以下では、複数のPBS実践研究を中心にPBSが潜在的に持つ問題点を分析していく。

3−1 実践研究(庭山 2020)の内容

 本実践研究は、中学校の2年生という「学年」を対象としている。対象となった学年では、「問題行動(授業妨害、生徒間トラブルなど)が多く報告されており、学校側は様々な対策を取っていたものの、授業が成り立たない様子も観察されていた。」という状況である。具体的には「授業中に複数の生徒が立ち歩いたり、離れた席の生徒間で私語をしたり、物を投げたりといった様子が観察」されていたそうである。それに対して、学校側の対応は「教師らは、授業中の教室抜け出しの予防のために、授業時の廊下の巡回を強化したり、別室指導を強化したりしていたが、依然として問題行動が多く見られる状態」であったという。

 そこで、PBSを用いた介入をすることになる。これは具体的には「生徒の授業参加行動を教師が積極的に言語賞賛すること」であり、さらに教師が「自身の言語賞賛回数を自己記録し、主幹教諭によるフィードバック」も行った。授業参加行動[11]とは、「発言・発表したり、指示された活動・課題に取り組んだり、前を向いて話を聞くなどの行動の総称」である。このような介入で、「生徒の問題行動の減少」や「授業参加行動が増加」するかを検証した。

 結果をまとめると、「本研究では、教師が生徒の授業参加行動を積極的に言語賞賛する行動支援を行うことで、生徒指導上の問題発生率が減少し、学級の平均授業参加率が増加することを示した」そうである。

3−2 実践研究(大対他 2022)の内容

 本実践研究は、小学校の「全学年」を対象としており、その規模のPBSの場合は、SW(School Wide)PBSと呼ぶ。SWPBSは「あらゆる学校場面において「学校で期待される姿」に沿った望ましい行動が見られるような学校環境にしていくことを最終的には目指」す。対象となった学校では、「先生の言うことに従わない人がいる」「授業中に授業に関係ないことをしている人がいる」「注意されてもおしゃべりをやめない人がいる」「授業がはじまってもざわざわしている」という項目が学校全体として高く、教師のバーンアウト[12]の程度も高かった。

 実践研究を行うまでに、まずは「学校で期待される姿」の設定が行われた。各教師が「こんな子どもに育ってほしい」という子どもの姿を書き出し、それを校内の担当教師が取りまとめ、共通して挙げられた内容をまとめて3つのテーマを決定した。それは「仲間・自分を大切にしよう」「やりきることを大切にしよう」「ことばを大切にしよう」である。

 実践研究では上記3つのテーマから、様々な取り組みを行った。例示すると、「給食」場面において「指定された食缶を学級全員ですべて食べる」「牛乳を残さずに飲む」「給食後に歯磨きをする」、「掃除」場面において「ゴミがなくなるまで掃除をする」、「休み時間」場面において「休み時間にたくさん縄跳びをする」、「合唱」場面において「立って、口をしっかり明けて(原文ママ)歌う」などである。これらが達成されれば、「フィードバック」として、「達成状況」を視覚的に呈示(原文ママ)することが行われた。

 結果としては、様々な取り組みや授業参加行動において、有意な上昇[13]が見られた。その理由としては、「教師がルールとして提示したことに従って行動するとそこに称賛という結果が伴うという随伴性を、複数の行動や場面にわたって児童が学習した結果、それが授業中の教師の出す指示に従い参加するという行動に般化した」と考えられる。

3−3 実践研究の批判的考察

 これらのPBSの実践研究については、それが(教育)心理学という実証的な学問であるため、その内容については、「測定できるもの」かつ「現場の過度な負担にならない」などの研究上の配慮があったことは前提として考えておかなければならない。しかし、このような実践研究が学校現場に与える影響は大きいことを考えると、やはり、いくつかの批判的な考察を加える必要があると感じる。そして、それはこのPBSという実践をより高めていくための過程であることもご理解願いたい。

 さて、上記実践研究に対して、筆者は「「目的なき」行動支援」という印象を持ったことをここで正直に述べようと思う。例えば、3−1の実践では、「授業参加行動」という「視点のみ」がクローズアップされている。つまり、ここでの「目的」は「授業参加行動の増加」であり、「生徒指導問題の減少」である。もちろん、実験校にとっては、それが死活的な問題であったことは推察される。まず、何よりもその問題に取り組まなければならない、という共通理解があったのだろう。しかし、これらは「教育目的」としては、あまりに不適切なのではないだろうか。

 まず、「授業参加行動の増加」にしろ「生徒指導問題の減少」にしろ、その根底にあるのは学校側の生徒たちへの「管理欲求」だろう。もちろん、それが「より良い教育」への前提条件であり、そこを土台にしてさらに高次の目的達成を控えているという意見もあるだろう。しかし、この実践は「1年間」という期間をかけて行われている点に注意が必要である。中学の3年間の三分の一を使って、これは実験されたのである。さらに、対象学年は「2年生」である。彼らの問題行動が減った「その残りの1年間」で「何が行われたのか」についての続報はここにはない。それは本研究の埒外であるという指摘はその通りであるが、それを描けないのは現場の教師の目的意識が希薄だから悪いと見放す気にもなれない。これは誰が考えるべき領域なのだろうか。

 それは3−2の実践で行われた「様々な取り組み」にも同様のことが言える。そこで例示された内容は、どれも「(子どもは)教師の言うことを素直に聞くものだ」という学校側の価値観が如実に反映されているように感じる。例えば、「牛乳が苦手な子」には「拒否権」があったのだろうか。彼女のひとりのせいで、学級の「完食」が達成されなかったときの、学級の雰囲気はどのようなものだったのだろうか。「休み時間に本を読みたい」子どもの思いは無視されてしまうのだろうか。「休み時間に縄跳びをしましょう」という教師の呼びかけは、もう呼びかけではなく「命令」なのではないだろうか。

もちろん、「教師の言うことを素直に聞く」というのは「社会化」という観点からみれば、大切なことは言うまでもない。社会性の獲得は、現代の核家族化が進んだ家庭環境だけでは困難であるし、学校でこそ身につけさせなければならないという指摘は、筆者も痛いほどわかる。というのも、ここ10年の学校現場を振り返ってみるだけでも、「社会性の低下した子ども(と保護者)」の増加を感じている。学級という集団の存続なしには「学習さえままならない」という状況は「学級崩壊」を身近で見聞きしてきた教師からすれば、切実な問題である。しかし、である。教育哲学者であるガート・ビースタの指摘を少しでも聞くならば、「(社会化だけに焦点化された)教育は非教育的になる[14]」ということである。それは、「新参者」を既存の社会の秩序にはめ込むことしか考えず、子どもたち一人一人の持つ「独自性」を等閑視することになる。

 結局、PBSのような、子どもたちの「行動変容」を「エビデンスベースド」で語る実践は、原が30年以上も前に「何のためにやるのかわからないけど、やればできるからやる」という「教育可能性の乱開発」を引き出す「技術至上主義」を呼び込んではしまわないだろうか。確かに、これらの介入により、子どもたちは「素直に教師の言うことを聞き」、出された課題が「できるようになる」のであろう。しかし、それは「何のために」なのか。教師の言うことを素直に聞いた先に子どもたちを待っている世界の姿を、教師自身が描けていないとすれば、そんな教師の言うことを聞く子どもたちが不憫で仕方がない。学校が教育目的を見失っている隙に、学校は子どもたちを「管理すること」ばかりに専心してしまった。そうであるならば、原の言う通り、「そうなるとやはり、外在的目的があるならあるでそれをはっきりさせておいて、そのものの是非を論じながらBildsamkeitが位置づけられるのがよい」ということなのだろうか。目的を失った教育の「なれの果て」が、「行動変容型教育実践の跋扈」だとすれば、それはもはや「教育」というより「訓練」なのではないだろうか。これについては議論が尽きないが、ここで、もう一点、述べておきたいことがある。

それは、両実践研究に共通する点が、古典的な「刺激―反応」理論に立脚しているという点である。「教師が褒めれば、子どもたちは望むように動く」というのは、「人間形成の学」としての教育学としては、あまりに寂しいのではないだろうか。しかし、これはまた、教師にとっては随分魅力的にも映るのであろう。課題が山積する教育現場においては、「子どもたちが素直に言うことを聞く」ということでさえ、達成が困難である。そんな教師たちが「全米において25000校以上で導入されている」という「エビデンス」に抗えるのかと言えば、それは難しいのであろう。これは、前節で指摘した教育目的論の「外在的目的」の新しい一分類なのかもしれない。つまり「エビデンスのある実践」である。実際、教育学全体を見たときに、近年、特に勢いがあるのが「実証主義的」な教育学である「教育社会学」と「教育心理学」である。これらの学問には親学問による長年の蓄積による「ちゃんとしたルールで確実な言明を導き出している[15]」のだ。では、「実践的教育学(広田 2009)」は「教育科学」に駆逐されてしまうのだろうか。本当は、これらは「二項対立」で語られるべきではなくて、むしろ「両輪として機能させる」ことが望まれるのだが、その時には、やはり「規範としての教育学」、つまり「教育目的論」の必要性を感じてしまう。

次章では、改めて教育目的論に立ちかえり、教育に目的は必要なのかということを考えてみたいと思う。

4 目的は必要なのか(「教育の不可能性」と「主体化の達成」と「歯止めとしての目的」)

 ここまで、教育目的論論争を概観し、PBSの実践研究を批判的に考察してみた。第4章では、そこで考察したことを踏まえて、「教育に目的は必要なのか」という視点を改めて考えてみたい。その導きの糸となるのが、「教育の不可能性」という側面である。森岡次郎は、エマニュエル・レヴィナスの議論を参照しながら、私たちは「自己」の思い通りにならない「他者(性)」の領野が存在するからこそ、教育関係を取り結ぶことを欲求するのだと喝破する。森岡は、以下のように述べている。

教育というのはブラック・ボックス的な変容を含むプロセスである。教育者は自らの教育的意図を十全に伝えることができず、また、学習者は自らが学ぶ内容や、それを学んだ後に自己がどのような変容を遂げるのかについて、予め知る事ができない。にもかかわらず、だからこそ、私たちは教育関係を取り結ぶことを欲望し、楽しむ事ができる[16]

森岡次郎(2022)

 教育関係というのは、「権力の非対称性」を構造的に持っている。いくら子どもの「主体性」を強調したところで、それは「教師が設定した学習環境の秩序を乱さない程度」の「主体性」なのである[17]。そして、強者としての教師の「価値判断」は、教育実践に多大な影響を与えている。それは「管理欲求」に駆動されて、「授業参加行動の増加」と「生徒指導問題の減少」を望み、「エビデンスベースド」な実践をしてしまうことからも見て取れる[18]。しかし、それは容易にタガが外れてしまい、「手立て」であったはずの「秩序」が、いつの間にか「目的」にすり替わってしまうこともあり得る。

 そもそも、それは現代の学校教育特有の現象でもない。原聡介がヘルバルトにおけるBildsamkeit(陶冶可能性)概念を、教育における操作可能性の萌芽と捉えたように、それは近代教育学発展の黎明期からあったのだ(日本の学校教育の場合は、それが「子ども個人の変容」というよりは、「学級集団の変容」というより「集団主義的」であるように感じる)。

 そんな中で「教育の不可能性」という指摘は、まさに宮寺が原の論文を「教育学にとって回答不能なアポリアを突きつけ」て「<冷頭>効果」と揶揄したものに似ている。しかし、確かに、技術主義に陥りがちな教育学には、周期的に「冷や水」を浴びせる必要があるのかもしれない。学校教育に対する信頼が地に落ち、教員志望者は減少の一途を辿り、教育崩壊のカウントダウンが始まっている中で、学校教育は地域や家庭や委員会に対する説明責任に怯え、ついつい「エビデンス」のある実証主義的な実践に流れてしまう。しかし、「冷や水」だけでは意味がない。それは結局、教育実践者たちを「行動不能」の狭い穴に落とすだけにしかならない。そこには、向かうべき「道標(みちしるべ)」としての「目的」が必要なのである。そして、それが「目的」という名を冠する以上、それはある種の「規範性」を有しており、繰り返すが、実証主義的「教育科学」には、その任を担えないのである。

 さて、では「道標としての目的」として相応しい教育における「規範」は何か。それは、ガート・ビースタがかねてから主張している「主体化の達成」である。ビースタはその著書の中で、このわかりにくい概念について以下のような比喩を用いて説明を試みている。

 私の唯一のポイントは、この(※何が、そして誰が出現するのかという)判断は出現する出来事の後に行われるべきであって前にではない、ということだ。当然、これにはリスクが伴うが、ここでの問題は、このリスクをなくすべきかどうかではない。そうではなくて問題は、新たなヒトラーや新たなポルポトが存在するようになることを防ぐために、新たなマザー・テレサや新たなキング牧師や新たなネルソン・マンデラが出現する可能性を我々が同様に失うべきかどうかということだ。それはわかりきったことである – そしてまたもちろん凄まじく複雑でもある。

ガート・ビースタ(2016)

 この手の話は歴史上にたくさんある。例えば、かの天才エジソンは、学校教育に馴染めずたったの3ヶ月で学校を辞めてしまったエピソードのように。しかし、ついつい我々はこのことを忘れてしまう。それは家庭で保護者が、また学校で教師が発する「こんなこともできないようでは社会に出たら困るよ」という言葉に集約されているだろう。

 ビースタは、この「主体化」を「独自性(uniqueness)」と言い換える。しばしば、現代の学校教育は上記のエピソードからも分かるように、子どもの「社会化」に重きを置きすぎている。そして、それはまさに「主体化」が「社会化の反意語」である以上、「主体化の軽視」に他ならない。社会化という営みが、社会の「秩序」の一部であることを求めるならば、主体化(独自性)は、まさに「どれほどそれらの秩序とは違うのかを表現」しているからだ。

 ここで急いで補足をしておかなければならないのであるが、それは「独自性」という言葉が、他者を捨象した「独善的」な含意を含んで理解されてはならないということである。ビースタはこれをレヴィナスの助けを借りて説明している。それはレヴィナスが再三主張している「置き換え不可能性」である。レヴィナスとブーバーとの比較を行った小野文夫によれば「端的に言って、ブーバーにあっては、他者の実存の本来性を促すことを主眼としているため、他者と出会うことが強調される。しかしレヴィナスは、他者が自己に現前するとは考えない。それは指向的意識によって可能なのだ、という立場を堅持する」ということである。だから、レヴィナスはとことん「(他者に対する)主体の受動性」を強調する。「このようにレヴィナスは、相互性を強調するブーバー(あるいは他のあらゆる哲学者)に対して、「非対称性=超越性」を強調し、異議を申し立てる。」(小野 2002)。つまり、小野によればブーバーの他者解釈は「交換原理」であり、レヴィナスのそれは「贈与原理」なのである[19]。他者解釈が「贈与」であり、「主体性(独自性)」とは、それを「受け取る」存在なのであれば、主体性には「送る」存在である他者が必須なのであり、決して「独善的」にはなり得ない[20]

 さて、このような「主体化の達成」というのは、当然「方法化」「技術化」とは相容れないものであろう。それは、ビースタの言葉を再度借りれば「凄まじく複雑」なことなのである。しかし、我々には、このアポリアを解く鍵がすでに与えられている。それは、宮寺が述べた「ルールとしての目的」である。繰り返せば、これは、通常イメージしがちである「ゴールとしての目的」とは異なり、その機能を「方法としての規制原理」に求める。それは「個人の恣意を排除するために公共的に合意されたもの」である。つまり、「主体化を達成しよう」という「ゴールとしての目的」を掲げるだけでは、それは「凄まじく複雑」であるが故に、教育者たちを「行動不能」にしてしまう。しかし、「主体化の達成を阻まないようにしよう」であれば、そこには「可動域」がある。禁止領域以外については、教師の主体性が大いに認められている。

 筆者は「ゴールとしての目的」を「ポジティブリスト」、「ルールとしての目的」を「ネガティブリスト」と言い換えても良いと考える。学校教育では「ポジティブリスト」が好んで使われてきた。しかし、それは、「〜しよう」という話型で語れてしまい、「それ以外を許容できない」という「可動域の狭さ」をも内包してしまっている。一方、「ネガティブリスト」についてはその逆であり、「それ以外は自由である」という「可動域の広さ」がある。適用基準は「違反をしていないか」だけであり、「違反をしていない限りは、何をしてもいい」のである。

 VUCAという言葉がしきりに語られるようになってきた複雑で混沌としている現代においては、「〜をしよう」と「共通的な目的を掲げる」ことはもはや不可能である。一方で、何も掲げないことは容易に「教育可能性の跋扈」や「社会化の強調」を呼び込んでしまう。しかし、あまりにガチガチに固めれば、そこに教師の主体性はない。そんな「行動不能」を防ぐための「歯止めとしての倫理」という位置付けを「教育目的」は担うという議論は、教育目的を考えていく上で大切なのではないかと、筆者は「教育目的論論争」から受け取った。

5 おわりに

 ここまで書いてみて感じたことは、一つの文章を書くということは、これまでの知識を総動員することなのだということである。ゼミの先輩から「あなたの言いたいことを、別の誰かに言わせなさい」と言われたことがある。その教えを胸に、この論考では、数多くの先賢にご登場願った。その解釈には、至らない点が数多くあったことと思う。それはもう間違いなく筆者の理解不足なので、ご指導を願いたい所存である。

 「書く」という行為は、億劫である。できるなら、「読む」だけで終わりたいと思う。でも、そういうわけにもいかない。書かないと、自分でも「何をわかっているか」がわからないからだ。そう、書いてみて、初めて「分かる」のだ。これを繰り返していく先に、「自分の納得のできる文章」が待っているならば、また繰り返し書いてみようと、今は少しは思っている。

参考文献

苫野一徳(2011) 『どのような教育が「よい」教育か』 講談社選書メチエ

小野文生(2002) 「教育哲学における他者解釈の技法の機制について ―レヴィナスとブーバーの比較を通して-」 教育哲学研究2002巻85号 p59―

森岡次郎(2022) 『教育の<不可能性>と向き合う ―優生思想・障害者解放運動・他者への欲望』 大阪公立大学共同出版会 第4章、第5章

田中耕治(2008) 『教育評価』 岩波書店 p56−59

ユヴァル・ノア・ハラリ(2016) 『サピエンス全史(上)』 柴田裕之訳 河出書房新社 p130

浅見哲也(2020) 『こだわりの道徳授レシピ あなたはどんな授業がお好みですか?』 東洋館出版社 p11―p14

佐藤学(2021) 『第四次産業革命と教育の未来 ポストコロナ時代のICT教育』 岩波ブックレットNo.1045 p21

新井紀子(2012) 『ほんとうにいいの?デジタル教科書』 岩波ブックレットNo.859 p52

ジョン・デューイ(1975) 『民主主義と教育』 岩波書店 p125

大対香奈子他(2022) 「小学校における学校規模ポジティブ行動支援の第1層支援が児童および教師に及ぼす効果」 LD研究31巻4号

庭山和貴(2020) 「中学校における教師の言語賞賛の増加が生徒指導上の問題発生率に及ぼす効果 ―学年規模のポジティブ行動支援による問題行動予防」 教育心理学研究68巻(2020)1号

大久保賢一他(2020) 「ポジティブ行動支援(PBS)とは何か?」 行動分析学研究34巻(2019)2号 

ガート・ビースタ(2016) 『よい教育とはなにか 倫理・政治・民主主義 』 藤井啓之・玉木博章訳 白澤社発行 現代書館販売

広田照幸(2009) 『ヒューマにティーズ 教育学』 岩波書店

原聡介(1992) 「近代における教育可能性概念の展開を問う −ロック、コンディヤックからへるバルトへの系譜をたどりながら」 『近代教育フォーラム』創刊号 近代教育思想史研究会

原聡介(1993) 「教育目的論の構築への期待 −拙論に対する批判に答えながら−」 『近代教育フォーラム』2巻 近代教育思想史研究会

原聡介(1994) 「教育目的論・再論と再々論」 『近代教育フォーラム』4巻 近代教育思想史研究会

原聡介(2009) 「教育思想史の課題は何か」 『近代教育フォーラム』18巻 教育思想史学会

宮寺晃夫(1992) 「近代教育学における「目的論」の位置 −原氏提案に対する一つのコメント」 『近代教育フォーラム』創刊号 近代教育思想史研究会

宮寺晃夫(1993) 「教育目的論の可能性 −教育目的の正当化論を求めて−」 『近代教育フォーラム』2巻 近代教育思想史研究会

森田伸子(1992) 「教育学的言説の彼方へ」 『近代教育フォーラム』創刊号 近代教育思想史研究会

山内芳文(1992) 「ヘルバルトのペスタロッチ」 『近代教育フォーラム』創刊号 近代教育思想史研究会

毛利陽太郎(1993) 「「教育可能性概念の展開」をめぐって −戦後教育思想の再検討に向けて−」 『近代教育フォーラム』2巻 近代教育思想史研究会

松浦良充(1993) 「教育目的論の必要性と可能性そして限界」 『近代教育フォーラム』2巻 教育思想史研究会

金子茂(1993) 「近代教育思想史研究と「教育可能性」概念の史的解明」 『近代教育フォーラム』2巻 教育思想史研究会

金子茂(1994) 「教育学の基底への問 −相互理解の困難さとその克服への模索−」 『近代教育フォーラム』4巻 近代教育思想史研究会

新井保幸(1994) 「教育目的の概念と教育目的論の課題」 『近代教育フォーラム』4巻 教育思想史研究会

丸山恭司(1994) 「教育目的論と行為理解の近代的偏向をめぐって」 『近代教育フォーラム』4巻 教育思想史研究会

丸山恭司(2010) 「創刊号を読む −近代教育学批判という思想運動のアルケー」Suppl巻 教育思想史学会

桜井佳樹(1994) 「近代教育(学)批判と教育目的論」 『近代教育フォーラム』4巻 教育思想史研究会

関川悦雄(1997) 「教育目的論に貧困を何に求めるか」 『近代教育フォーラム』6巻 教育思想史研究会

小野文夫(2010) 「教育目的論の近代と批判の未来」 『近代教育フォーラム』Suppl巻 教育思想史学会

田中智司(2010) 「教育目的の倫理 −教育思想史の考え方−」 『近代教育フォーラム』Suppl巻 教育思想史学会

尾崎博美(2021) 「「教育目的」を「関係性」から問うことの意義 −「ケアリング」論と進歩主義教育が示唆する2つの系譜の検討」 『近代教育フォーラム』30巻 教育思想史学会

奥野佐矢子(2021) 「教育思想史学会にて、教育目的について語り合う −30年の軌跡をふりかえって−」 『近代教育フォーラム』30巻 教育思想史学会

注釈


[1] 『よい教育とはなにか 倫理・政治・民主主義』にて、ビースタは「何がよい教育を構成するのかという問いが教育に関する議論からほとんど消滅してしまったように見える」ことを執筆の動機として述べている。本書p12より

[2] 『ヒューマニティーズ 教育学』にて、広田は「教育目的論論争」における原聡介の議論についても取り上げている。

[3] それに対してコンディヤックは、感覚も理性も同時に使っていくと主張しているので、ルソーの主張はむしろ子どもの学習を「不当に遅らせる」と反論した。

[4]

[5] 佐藤によれば、教育市場はグローバル規模で拡大を続けており、その牽引役がIT産業で、その規模は2020年現在、600兆円であると言われている。これは世界の自動車市場の3倍で、毎年役14%の加速度的膨張は他業種を凌駕している、とされる。

[6] 新井によれば、「光の道」の達成を阻む最大要因が「3兆円以上の設備投資」という「コスト」である。高齢者が多い過疎地域に超高速回線の需要を喚起するために注目されたのが、全国津々浦々にある学校である。学校の教育活動において超高速回線を前提とする学習活動が営まれれば、予習や復習などに伴い、自宅などからの回線利用の需要も喚起されると考える。

[7] ただ、宮寺の「正当性のある手続き論」については、その論考(宮寺 1993)の最後に、手続きである「枠組み」の多様性の問題に直面し、「発想を百八十度転換して」すでに所与としてある「共同体」から「発見」しようという、マッキンタイヤーによる「共同体主義」を持ち出すことになる。しかし、これは桜井や新井に言わせれば「構想の頓挫」ということになる。

[8] スクリヴァンはこれを、「料理人が自分で作ったスープを、自分で味見する」という例えで表現している。料理人は自分の苦労を知っているが、スープを提供されるお客さんはそんな苦労などは知らず、「スープそのものの味」を味わう。つまり、適正な評価が行われないということである。

[9] 例えば、「〜を知っている」という言明は、自分の状態の記述、報告しているのではなく、主張という役割を担った言語行為である。

[10] 大久保はこの論考の中で、PBSと応用行動分析学(ABA)との違いについて論じることに苦労しているようである。そして、これは論点の先取りにはなるが、大久保は論末で、PBSが非嫌悪的で効果的であればあるほど、「社会的逸脱行動に対する対症療法に終始してしまい、当事者のQOLが顧みられないという問題に繋がりやすくなる」と述べている。これは、まさに筆者の問題意識と重ねる点である。

[11] 授業参加行動には学業達成との関連も指摘されているそうである。

[12] これは、問題行動への教師の対応が注意叱責中心と関連している。

[13] ただし、掃除の取り組みに関して言えば、教師が普段以上に実施場所を見て回ったことが影響した可能性も指摘している。

[14] ビースタは、学校の機能を「資格化」「社会化」「主体化」の3つに分けて考えることを提唱している。そして、何より大事なのが「主体化」であるとビースタは考える。しかし、主体化は「人間の自由」に関わる部分であるが故に「社会化の反意語」にもなる。

[15] しかし、この点を広田照幸は両面から捉えている。つまり、これらの実証主義的「教育科学」は、「現状をそのまま肯定」してしまうような保守主義に陥りやすいという意味で「御用学問」になってしまう。

[16] 森岡はこれを次のようにも述べる。「すなわち、教育という営みは、子どもに対する操作的働きかけが失敗に終わる可能性によって支えられているのである。」これは、いわゆる「行動変容」を目的としがちな現代の多くの教育実践に対する強烈なカウンターパンチになるのではないだろうか。

[17] このような「主体性」に対する欺瞞を込めて、筆者は学校教育における「主体性」を「教師への忖度」とみなしてもいいと考える。

[18] 本論考ではPBSを取り上げたが、アカデミックな領域だけでなく、現場レベルでも「主体的に学ばせる方法」や「子どもたちが勝手に動き出すテクニック」なる書籍は、現場の教員レベルから「教育書」として多数出版されている。それらの多くは教師の「管理欲求」を駆り立てる内容である。

[19] ただ、小野はブーバー、レヴィナスの他者解釈が、交換と贈与の原理にハッキリ分かれるわけでなく、単純な二元論でもないと補足している(小野 2002 注釈(23)より)

[20] この辺りの議論は、苫野一徳がヘーゲル哲学を援用しつつ提唱する「自由と自由の相互承認の感度を高める」という話と通じるだろう(苫野 2011)。