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僕たち人類の起源(by分身主義)


農民芸術概論



30歳代後半くらいから、ジジイは突然、科学を勉強し始めた。若いころからずっと「自分探し」をしてきたんだけど、それまでの文系的な取り組み方では限界を感じたからだった。

普通の「自分探し」というのは、自分の性格や適性などを知って進路決定や職業選択や自己実現などの拠り所にするためにするものだけど、それらは「自分探し」というよりも「自分らしさ探し」と言うべきだと思う。

それらは多分に「個人主義的」な自分探しだと思う。

海面からほんの少し姿を見せている「氷山の一角としての自分」だけを対象に探求しているに過ぎない。

氷山の一角1_2

本当の「自分探し」というのは、海面下に広大に広がる氷の全体像を探ったり、その氷と海水との関係を研究したり、その氷がどこで生まれ、どのように運ばれてきたかを調査したり、海水と大気との関係、宇宙との関係‥‥と、どこまでも探っていくことでしか見つけることはできないはずだと思う。

そのためには、もはや科学に頼るしかないと考えたからだ。

つまり、それまでのジジイの「自分探し」は下図の赤枠に偏ったものだったけれど、それに限界を感じて青枠を取り入れることにしたというわけなんだ。

科学とは3


現況の受験制度のせいで、ジジイは高校から科学を勉強することを捨ててしまったために、今まで遠ざけてしまっていた「科学」だった。
それを、40歳近くなってむさぼるように勉強を始めたということだ。

それはまるで、鮮やかな手品を見せつけられて屈辱的な気持ちでいた後に、種明かしをしてもらったような感じだった。それからはもう愕然とする日々の連続だった。

科学は、いつの間に、この自然界や人間のことをこれほどまでに解明していたんだ!? ジジイも含めて、世間の大半の人が、ほとんど自分のことにかまけている間に、これほどまでに‥‥という怒りのこもった畏敬の念が湧いた。


ある疑問を解決するために調べていて、また新たな疑問が湧くと、今度はそれについて知りたくなり、また疑問が湧くとそれを調べたくなり、と芋づる式に調べていたら、先ほどの図で言うところの赤枠と青枠と緑枠はほとんど網羅していた。(「社会科学」の経済学や経営学も挑戦してみたけど、どうしても面白いと感じることができず、結局は身にならず挫折で終わった)

それをして一番良かったことは、視野が広くなったことだ。

科学を勉強したから視野が広くなったというのではなくて、科学者でもなく科学者を目指している者でもないジジイが、必要に迫られて、ある目的の元に、「科学を総括的に」勉強したのが良かったんだと思う。


ある目的とは「自分探し」と言ったけど、究極のところは「世界平和」ということだ。ジジイにとって「自分探し」とは「自分が幸福に生きること探し」だったし、それはそのまま「世界平和探し」を意味していたからなんだ。

もっと簡単な一言で言うとすれば「つなげる」ためだった。自分の中でモヤモヤしている疑問の一つ一つに解決をつけて、それらをすべて統合したかったんだ。
そしてある日、「そうか世界はこうなっていたのか!」と、水晶玉のように手のひらの上に乗せて安心したかった。

水晶玉


それがジジイの「自分探し」の到達点であり、「自分が幸福に生きること探し」だったし、「世界平和」への最初の一歩につながると確信していた。

何のプライドもないジジイだからこそ、客観的な立場で科学の全体を俯瞰して見ることができたし、常に「世界平和」という視点を忘れずに眺めることができた。その結果、科学者が見落としてしまっている大事な点が、むしろボロボロ見えてきた。

もっとも、科学者という人たちは、別に「世界平和」を視野に入れて自分の研究をしているわけではないし、それに自分の専門分野を深く掘り下げていく作業のため、むしろ視野が狭い人たちと言えるのかもしれない。いや、そういう人たちがいてくれたから、科学はここまで自然界の諸々を深く深く解明できたのだけどね。

でも、最後にはそれらをすべて統合して、この自然界の本当の姿を見ようとすることこそ、科学が一番やりたいことだったはずじゃないかと思う。それをジジイは素直に実行したということだ。

例えば、あなたは生物の最小の単位は何だと思いますか?

生物学者なら、たぶん「細胞」だと答えると思う。

でもそれは全く最小単位なんかじゃないんだ!

本当は生物の最小単位は「素粒子です」と答えるべきなんだ。

そのように答えられるようになって、初めて「私は科学を勉強しました」と言えるんだ。そうでなければ「私は生物学を勉強しました」としか言えないんだよ。だけどそれだと、科学の本質を見落としてしまいがちなんだ。




1.科学者が見落としてしまっている科学の本質

自然界の真実を究明しなければいけない科学者なのに、その多くの人が重要なことを見落としてしまっているということが、ボロボロと見えてきた。

まずは、この自然界には理由も目的もないと知っているのが科学のはずだけど、科学者の中にはやたらと理由や目的を見つけたがる人たちが多い。

科学は、ある結果が起こった原因、「どのような原因でそれは起こったか?」を探求できるだけで、「どのような理由や目的で起こったのか?」には永遠に答えることはできない。

例えば「擬態(ぎたい)」という現象がある。
「擬態とは、動物や植物が他のものに形や色などを似せて、他からの捕食を逃れるためとか、あるいは獲物に気づかれずに近づいて捕食するなどのために行う、生物たちの”戦略”である」などと説明されているものをよく見る。

まるで彼らが、「生き残れ!」という至上命令につき従い、あたかも人間のように、ある戦略を打ち立て《自分の意志》の力で、そのような形態を獲得したとでも言わんばかりじゃない!?(*1)

この手の科学者は、だいたい、「戦略」とか「作戦」などという言葉を好んで使いたがるはずだからすぐわかる。

「戦略」とか「作戦」などという言葉を使った時点で、せっかく科学者が自分の生活の大半を犠牲にして寝食を惜しんで研究して得た発見が、そこでもう全て台無しになって「非科学」になってしまうんだ。

下図はカレハカマキリだけど、見事に枯葉に擬態している。

カレハカマキリ

だけどこれは別に彼(カレハカマキリ君)の戦略でも作戦でもない。彼は、「他からの捕食から逃れるために、あるいは獲物に気づかれずに近づいて捕食するため」にこのような形態になったわけじゃないんだよ。

いいかい!?
この自然界には理由も目的もないと知っているのが科学だと言ったよね。
と言うことはこんな目的や理由をくっつける人は、科学者とは言えないんだよ。彼らは、良く言えば、僕たち素人にわかりやすく説明するための物語を作ってくれる、有能な「物語作家」とでも言った方がいい。

真相は、何のことはない。
遺伝子というのは、少ない確率でわずかなコピーミスをして、突然変異を繰り返すものなのだけど、長い年月の間、たまたま現在のカレハカマキリのような形態を作る遺伝子が、他からの捕食を免れ、獲物の捕食に有利だったため、その遺伝子を引き継ぐものが現在繁栄しているというだけの話なんだ!

ここで注意しなければいけないことは、「生き残る」ことは生物に課せられた至上命令でもなんでもなくて、「絶滅」する種も「生き残る」種も、どちらもその環境にたまたま適応した結果だという考え方をすることだ。

「恐竜は、環境に適応できずに絶滅した」と言う学者がいるけど、それも違う。恐竜だってその時の環境に適応したから絶滅したんだ。

そのような考え方をするのが科学なんだ!

自然界にはありもしない「戦略」とか「作戦」など、人間の行動を説明する時に使う「目的」や「理由」を付けてはいけないんだよ。科学という道具を使って自然界様から教えを乞う、という謙虚な気持ちを忘れなければ、その間違いがくっきりと見えてくる。


また、この自然界には敵などどこにもいないと知っているのが科学だ

例えば、免疫という現象がある。
これも「免疫系は、自己と非自己を区別して《わたし》の体を、危険な外界の攻撃から守る”ため”に存在している」などと説明している学者がいるけど、これも科学的な発言とは言えないんだよ。

まるで彼ら(免疫系君たち)が、あたかも人間のように、《自分の意志》で敵を選別して戦っているとでも言わんばかりじゃない!?(*2)

免疫とは、生物が自然界で適応していく過程で生まれた単なる生体内化学反応に過ぎない。彼ら(免疫系君たち)には、外界に対して危険を感ずる意識などないし、ましてそのような目的や理由で存在しているわけではないんだ。それに、自己と非自己を分けているのは人間の感情であって、彼らには自己や非自己の意識すらない。

免疫のことを簡単に説明するね。

僕たちの身体は、それぞれ専門の(約200種類の)役割を持った細胞でできていて、その総数は数十兆個とも言われている。

その細胞の表面には、赤血球など一部の例外を除いて、一つ一つに「自分の一部である印」がついている。専門用語で言えば、(MHC:Major Histcompatibility Complex)というものだ。

これは、父親由来の3種と母親由来の3種の、合計6種の分子からできている。
いわば、生まれながらにして6桁のID番号が刻み込まれていると理解すればわかりやすいと思う。

父親3種+母親3種=6桁のID番号

そして僕たちの生体内では、このID番号が一致しないものは、排除(拒絶)されるという仕組みがあり、それが免疫反応の情報となっている。

例えば、ひどいヤケドをして皮膚を移植した場合、他人の皮膚は異なる印がついているので、もし皮膚移植がうまくいったかのように見えても、やがては体内の免疫活動によって、拒絶反応が起こり、移植された皮膚はかさぶたのようになってはがれ落ちてしまうんだ。

だから、細菌やウイルスなどの感染病原体の排除に貢献してくれてはいるものの、臓器移植などを難しくしてしまってもいるわけだ。

このメカニズムを科学が発見したこと自体はすごいことだ。とてもジジイのような飽きっぽい人間が何億人いても到達できなかった境地だ。だけど、科学ができることはそこまでなんだよ。つまりある結果が起こる「原因」を解明することだね。

自然界に存在すらしない「目的」や「理由」を、つまり先ほどの例で言えば「自己と非自己を区別して《わたし》の体を、危険な外界の攻撃から守る”ため”に存在している」などと説明してしまっては、もはや科学ではなくなってしまうということなんだ。

つまり免疫系とは、生体内の単なる化学反応に過ぎない。実は、その自然界に密着した科学的な視点こそ「世界平和」に役立ってくれる視点なんだ。

それなのに、その視点を持てない「人間の傲慢さ」があったから、自然界の本質を見れなかったし、今まで世界は平和にならなかったとも言える。

ちょっと、結論を急ぎ過ぎてしまったね。


2.ハンマー・オーキッドが手の込んだテクニックを身につけた”理由”

じゃあ、もう一つ例を挙げておこう。オーストラリアのハンマー・オーキッド(ランの一種)の話。

彼(ハンマーオーキッド君)は、「雌バチ」そっくりに擬態した唇弁(しんべん)を持ち、それに飛びつく雄バチによって受粉を成功させるというのだ。

ハンマーオーキッド2


上図のように、唇弁(しんべん)の匂いと感触に誘われた雄バチが唇弁に抱きつくと、唇弁の根元のばね仕掛けが働いてハチを唇弁の反対側にある花粉塊にぶつける、そしてハチは背中に花粉を背負ったまま他の花に飛び立って行き、勝手に受粉作業をしてくれる。

学者たちも、どうしてハンマー・オーキッドがこんなに手の込んだテクニック(?)を身につけたのかと考え抜いたすえ、いくつかの仮説を考え出しているようだ。

❶低密度仮説
❷花粉塊仮説
❸花粉塊喪失仮説
❹遠縁交配仮説
❺資源制約仮説

ここではそのうちの一つ、「❶低密度仮説」を紹介しておくよ。

この仮説は、「ランは、通常、受粉係りのハチのために報酬として蜜を用意しておくが、ランの分布がまばらで、蜜を用意するくらいではハチが確実に訪れてくれないような状況のもとで、こうした”戦略”を取ったのではないか」と考えるものなんだ。

ほら、また出てきたね。「戦略」だ。

まるで彼らが、繁殖という至上命令を成功させるために、あたかも人間のように思考を巡らし、《自分たちの意志》の力で、そのような「手の込んだテクニック」を獲得したとでも言わんばかりじゃない!?(*3)

他の仮説も素晴らしい想像力を働かせて考案してはいるものの、それぞれにいくつかの疑問点も残り、現在のところ、これといった特定はできていないらしい。

当たり前だよね!

自然界の現象に、何らかの意味づけや理由づけをしようとする、元々の発想自体が間違っていたんだよ!

いいかい!?
もし子どもに、「ハンマー・オーキッドは、何故、あんなに手の込んだテクニックを身につけたのですか? その理由を教えてください」と聞かれたら、それに対する科学者の答えは、「そんなものに目的も理由もありませんよ!」と言わなければいけないということなんだ。

そんなことを言ったら、5歳のチコちゃんに叱られちゃうかもしれないけど、それが本当なんだ。

科学は、ハンマー・オーキッドがどのようなメカニズムで受粉しているのか、ということは限りなく突き止めることができるだろう。また、どのような環境で、どのように適応してきたかという疑問は、限りなく解明できるかもしれない。

でも、それはあくまでも偶然の出来事で、ハンマー・オーキッドがハチを魅きつける「目的や理由や意味」ではないんだ!

何度も言うけど、自然界には、「目的も理由も意味」もないからだよ!

自然界における生物の多彩な形態やふるまいは、単なる遺伝子の突然変異と環境との織りなす偶然性の結果に過ぎない。

僕たちのこの目だって、別に、「物を見る」という目的のために進化してきたわけではないんだ。

重要なことなので何度も言うけど、そこに「目的や理由や意味」はないんだよ!

そこに「目的や理由や意味」をこじつけるのは、人間の側の都合だよね!

君だって何らかの「目的や理由や意味」があって、そのために自分の意志でこの世に生まれてきたわけじゃないだろう!? それが自然界の真実だ。その「目的も理由も意味」もないものに対して、科学者が「目的や理由や意味」を捻出しようとすることの滑稽さはわかるだろう!?

と言ったからといって、君が生きることに「目的や理由や意味」はないと言っているのではないよ。自分なりの生きる「目的」や「理由」や「意味」は、後でいくらでも考えればいい。でもそれはあくまでも人間が後で考えるアイデアに過ぎないと言っているんだ。科学のやることじゃない。


極めつけは、ある宇宙関連の学者が「宇宙は人間を必要とした」などと書いている本を読んだことがある。

その理由は驚くべきものだった。

「人間が宇宙に望遠鏡を向け、宇宙の法則を解明しようとしなければ、宇宙は誰にも認知されることなく一生を終えてしまう。それでは宇宙の存在意義がない。だから、宇宙は自分の存在意義を見出すためにも人間が必要だったのだ」


「宇宙が人間を必要とした」とは言っているものの、実際は、「人間の英知」の自賛であったり、「人間は必要とされて生まれてきた」という人間礼賛をしたいのは見え見えだ。

ここまで来ると、科学者はいつの間にか「科学とは何かという本質」をどこかに捨ててきてしまったとしか思えない。社会が人間中心・自分中心に突き進んでしまっていることで、科学者までどこか麻痺してしまっているのかもしれない。人間ってどこまで傲慢になれるのだろう。



3.人間の傲慢さが「自然界の真実」を見る目を曇らせる


なぜ科学は、この自然界で起こったことに対して、目的や理由を付けてはいけないのかと言うと、自然界には目的や理由は存在しないからなんだ。

自然界に存在しないものを説明するということは、宗教や文学などがやることで科学がそれをやってはいけない。科学はあくまでも自然界様に「謙虚」な気持ちで教えを乞うものなんだ。

何故こんな小さいことにこだわるのかと言うと、実はこれこそ、今まで人類が世界の平和をどんなに願っても叶えられなかったことと関係しているからなんだ。

科学の一番の優れた点である「謙虚さ」を失って、人間が勝手に自分の想像力で自然界に存在しない目的や理由を付けてしまうということは、それこそ人間の傲慢というもので、自然界の真実を見る目を曇らせてしまうからなんだ。自然界の真実は一つだけど、人間の想像力は人の数だけ存在するよね。

我々人間でさえも、何らかの「目的や理由や意味」があって、その自分の意志でこの世に生まれてきたわけじゃないというのに、先ほどのハンマーオーキッドのような植物にさえ、「目的」や「理由」を与えようとしてしまうのはなぜだろう!?

それもやっぱり「生」というものに対する、人間の思い上がりが無意識にあって、つまり「自分の生」に対して、何らかの「目的や理由や意味」があると信じたい思い上がりがどこかにあって、植物に反映されてしまっているんだ。これも人間の傲慢さのせいなんだよ。

自然界様から謙虚に学ぶ本当の科学だけが、世界を一つにして、みんなの心をつなげてくれる可能性を秘めている。「謙虚な科学」だけが、世界を平和にできる可能性を秘めた唯一の道具だ。


例えば世界にごまんとある宗教は、どれも人間の想像力から生まれたものだ。ジジイは長いこと、芸術という想像力を必要とすることに興味を持ってそれに携わってきたから、「想像力」を悪く言うつもりはもちろん、ない。でもこれには欠点もある。

人間の想像力から生まれた宗教は、想像力の数だけ存在するので、互いに自分たちの正しさを主張し合い、時には他を批判して争いを起こしたりする。

だけどどんな宗教を信じている人だって、今ではみんな科学が作った携帯やパソコンのお世話になり、科学が作った飛行機や車を利用しているよね!?

だから、科学は世界を一つにしてくれて、みんなの心をつなげてくれる可能性を秘めている唯一のものなんだ。

科学とは、こんなに素晴らしいものだったと言うのに、自然界にありもしないものを想像力に任せて考え出そうとするような傲慢なことをしていては、いつまでたっても一つになれないし、むしろ人間のその傲慢さこそが、この世界に争いを起こしてきた一番の原因だったんだよ!

では、人間から、この《傲慢さ》を取り去るにはどうしたらいいと思う!?

簡単なことだったんだ。科学が教えてくれたことを知ればいい!




ここまで「あたかも人間のように、彼らの意志でもって‥‥」というような意味の言葉を3回連発したけど、気づいてくれてたかな!?(*1~*3
それは人間以外の動植物には「人間のような意志などない」という意味だった。

それと比べて、人間には「自由意志」というものがあり、その「自分の意志」で思考し行動している。

‥‥と、考えられていた。

なぜ過去形なのかと言うと、謙虚な気持ちで自然界様に問いかけを続けた科学は、今では、それも「在りもしないもの」だったと解明しているんだ。

それなのに、自然界に在りもしない「目的、理由、意味」を見つけようとしてしまう傲慢な人間たちには、この、「人間には《自由意志》なんて在りもしなかった」という科学的真実は当然、受け入れ難いよね。

でもこれを受け入れると人間はどうなると思う!?
どんな人間も「謙虚」になるよね。
だって、今まで「これをやり遂げたのは自分の力だ! 自分の成果だ! 自分が努力したのでここまで来れたんだ」と威張っていた人が、そうではなかったと気づかされるんだもの。

《傲慢さ》がひねりつぶされるんだ。

《面目》や《プライド》や《尊厳》などが音を立てて崩れ去るんだ。

以前、オリンピックで金メダルをとった人が「自分の力でここまで来たというよりも、多くの人が背中を押してくれた力でメダルをとれたような不思議な気がします」と言っていたのを聞いて、ジジイは心の中で「その通り!」と叫んでいた。これが謙虚というものだと思う。

この選手が「多くの人が背中を押してくれたような力」と言っているものこそ、ジジイが言う《環境》のことなんだ。僕たちはみんな自分の意志で動いていたのではなくて、《環境》によって自分の脳に浮かび上がらせ・られた意志に動かされていたんだ。


科学が教えてくれていたこの真実を、謙虚な気持ちで受け入れてもらいたいからこそ、ジジイは今日はずいぶんと細かいことにこだわったんだ。細かいことからわかってもらえないと、その先に進めないからなんだ。

この話は今日はここまでにしておくけど、実は「人間には自由意志などなかった」というのは、推論でも思想でもないし、そのように考えた方が良い、というようなものでもない。科学が発見した事実だから、いずれは誰もが受け入れざるを得ないものなんだ。「人間は誰しも死ぬ」という動かしがたい事実と同じようにね。

最初は受け入れ難いかもしれない。プライドが強い人や個人主義的な感覚に慣れ切っている人なんかは、特にね。

だけど、世界中の人が受け入れた時、奇跡が起こる!

その時、世界中の人がつながるんだ。

僕たちは「自由意志」で思考し行動していたのではなく《環境》に思考させられ行動させられていたと知ることは、《環境》の名の下(もと)にみんなが手をつなぐことになるからなんだ。

なぜって、この《環境》を作っていたのは世界中の人だからだ。誰もがすべからく関与してね。インフルエンサーはもちろん、引きこもりの人も立てこもりの人もすねかじりの人もね。一人残らずみんなが関わり合って作っていたんだ。

その時、僕たちは、見えないところで世界中の人とつながれている意識を持って生きることになる。そこに、詐欺や犯罪や争いの起こる理由を見つけられるだろうか!?

それをイメージしたのが下の風船の図だ。

分身観2



科学的真実を人類が理解し、それを諦めを持って受け入れ、傲慢さがすっかり消えた人類が、そこから立ち上がった時、僕たちは初めて世界平和への一歩を踏み出すことができるんだ。

そのためにも、自然界に在りもしない「目的、理由、意味」とか「敵」とか「自由意志」などという、人間の傲慢さが作り出す幻想にいつまでも縛られていてはいけないんだ。その幻想から解放されなければいけないんだ。



4.医学という非科学

最後にもう一つ、「科学者が見落としてしまっている科学の本質」の例として、僕たちの生活に一番関係しているものを挙げておこうと思う。

先ほど科学の分類を図示したものには書かれてなかったけれど、自然科学の中の「応用」の分野に「医学」というものがある。

科学とは2


医学は間違いなく科学だと思われているよね。誰もそれを疑わないはずだ。

でも、医学が扱うのは病気だよね。

「病気」という言葉を聞いて、君は何をイメージしますか?
恐いもの、忌まわしきもの、遠ざけたいもの、辛く悲しいもの、闘って打ち勝たなければならないもの‥‥。

つまり、完璧に人間の感情に根差したものだ。

科学は絶対に人間の感情や欲望を介入させてはいけない。それをすると自然界の本質がちゃんと見えなくなっちゃうんだ。もちろん、人間の感情や欲望を入れた時点で、それは「非科学」になる。
でも、誤解しないでほしいのは、「科学は人間の感情や欲望を研究対象にしてはいけない」と言っているんじゃないよ。

たとえ、人間の感情や欲望を研究対象にした時でも、自分や自分たちの感情や欲望を介入させてはいけないと言っているだけなんだ。

それに、謙虚な気持ちと広い視野を持てば、今の医学は全く違ったものになるはずだ。むしろ、もっとずっと人間にやさしいものになるはずだ。



以前、ある人が「人間を含む生物には生きたいという本能がある」と言った人がいたのだけど、それは間違いだ。

人間にあるのは「生きようとする本能」であって、「生きたい」というのは本能ではなくてその人の感情なんだ。そしてもっと言えば、人間には「生きようとする本能」と同時に、「死んでいこうとする本能」も共存している。

正確に言えば、生物の遺伝子には生きるためのプログラミングがされているけど、死ぬためのプログラミングもされているんだよ。
つまり、生も死も自然界の摂理なんだ。

だから「本当の科学」は、死は恐いものでも、忌まわしきものでも、遠ざけたいものでも、辛く悲しいものでも、闘って打ち勝たなければならないものでもない、と教えてくれているんだ。

それなのに「現在の医学」は人間中心で傲慢で、人間の感情や欲望で目が曇ってしまっているから、その科学的真実(=自然界の真実)が見えていない。だから現在の医学は、儲けることや死を遠ざけることばかり考えてしまうんだ。

こんなもの科学なんて呼べないんだ!
科学を人間の感情や欲望に利用しているだけなんだ。


「どうしてそのことが、そんなに問題なんだい!?」って、君は聞くかもしれない。

どうしてかと言うと、そのような勘違いをする「人間の特性」こそが世界に争いをもたらす元凶で、それが僕たちに本当の幸福をもたらしてくれなかった本当の原因だったからなんだ!

つまり、自然界の摂理である生と死なのに、自分たちの感情で一方を遠ざけている。自然界の摂理を人間の願望や欲望で捻じ曲げてしまうなんて、それは明らかに謙虚ではなくて、人間の傲慢だよね。

だけど、そのような傲慢な僕たちの「性分」が、「人間には自由意志などなかった」という、人類にとってこの上なく「有益な教え」を受け入れられなくしてしまうとしたら、人類にとって大変な損失だ。


ここまでの話でジジイが何を言いたかったのか、ある程度はわかってもらえたと思う。
ジジイは、自分が幸福になるために世界を平和にするしかなかった。世界から争いがなくなれば、もちろん世界中の人がみんな幸福になる。

そのためには、この世界を、そしてみんなの心を一つにつなげてくれる「科学」という学問が必要だったということだ。
そして、その「科学」をするためには、人間の傲慢さを徹底的に排除しなければいけないという話だったんだ。そうしなければ、せっかくの科学からの「有益な教え」を受け取れないから‥‥ということだ。

では、この世界のどんな謙虚よりも謙虚であるはずの「科学」は、「僕たち人類の起源」をどのように見ているのだろうか!?

やっと今日のタイトルに辿り着いたよ。



5.僕たち人類の起源

あなたがここに存在しているということは、間違いなくお父さんとお母さんがいたわけだよね。そして、そのお父さんとお母さんにもお父さんとお母さんがいた。
家系図が残っていないにしても、どこまでも先祖を辿ることができるのは想像できる。

もしそれがどこかで途切れていたら、今のあなたは間違いなく存在していないからね。

じゃあ、それをどこまでもどこまでも、人類が出現する以前にも遡(さかのぼ)り、地球ができた頃よりももっと遡り、どこまで行くとどうなると思う?

そう、僕たちはビックバンに辿り着く。
それ以前のことはまだ科学では解明されていないので、ここでは言及するのは避けておくね。

いま、このビッグバンから約140億年経った今この瞬間にあなたが存在しているということは、宇宙がビッグバンという産声を上げてからあなたに至るまでの道で、どこかで途切れていなかったからということになるよね。

例えば、太陽ができていなかったり、地球ができていなかったりする道をこの宇宙がたどっていたとすると、もちろんあなたも、このジジイもここに存在していない。

ミトコンドリア・イブって聞いたことありますか?
ヒトについての分子生物学において、現生人類の最も近い共通女系祖先に対して名付けられた愛称だ。

ミトコンドリアは女性からしか伝わらないため、男性は自分のミトコンドリアDNAを後世に残すことができない。また、女性は自分が産んだすべての子にミトコンドリアDNAを伝えるが、その子らがすべて男性だった場合、彼女のミトコンドリアDNAは孫に受け継がれずに途切れる。もし子に女性がいても、娘が産んだ孫に女性がいなければ、やはりその家系のミトコンドリアDNAは廃れる。つまりある個人のミトコンドリアDNAが子孫に伝わるためには、その間のすべての世代に少なくとも1人は女性が産まれなければならない。(Wikipediaより)


そのようにしてつながってきた現在の女性たちの最も近い共通女系祖先は、約20万年前のアフリカの女性に辿り着くということだ。
その女性が「ミトコンドリア・イブ」と呼ばれている。

だけどこれは「分子生物学」的に見た場合の話なんだ。

科学はたくさんの分野に分かれているけれど、本当はそれらを最後には統合して見ないことには、この宇宙(=自然界)の真実が見えてこないんだよ。

では統合したらどうなるか?

女系だけでなく、全ての人類の祖先が見えてくる。それはビッグバンの時に生まれた《素粒子》なんだ。あなたや僕が産声を上げてこの世に生を成すよりもずっと以前、産声を上げていたのが僕たちの共通の祖先だったということだ。

それにまつわる証拠もたくさん発見されているし、理論や実験によっても証明されていると言ってよい。

ビッグバンの時に存在していた素粒子が、宇宙が膨張すると同時に徐々に内部が冷えて行くことで原子が作られ分子が作られ。そして、それが集まって天体や銀河ができる。やがて、天体内部の重力と圧力のバランスが崩れ爆発が起きる。この超新星爆発により現在この宇宙に存在する全ての原子が作られた。

ビッグバン


そしてこの宇宙の万物は、そのように共通の祖先(=素粒子)から作られた原子や分子で成り立っているんだ。僕たちの骨の中のカルシウムも、血液中の鉄も、身体の組織の炭素も、微量なあらゆる元素も、元はみんな共通の祖先から生まれていたんだ。

このことをわかりやすい言葉で言い換えたものが以下の二点だ。
覚えやすいように、【分身主義の第1定理】と【分身主義の第2定理】と呼ぼうと思う。

【第1定理】この宇宙は、ビッグバンの時に存在していた「素粒子」たちが、自然界の法則という厳格なルールに従って演じさせられている劇場である。
我々は、その劇場の中で、人間という配役を任されて演じさせられている、電気仕掛けの期限付きの役者である。

【第2定理】その「素粒子」たちの振る舞いによって、長い年月をかけて作られた我々の脳は、個人の持ち物でもないし、個人の意識でどうにかなるものでもない。

この科学的真実(自然界の真実)を知って全ての人がそれを受け入れた時、人類は、その向こうで両手を拡げてずっと待ってくれていたユートピアに踏み入ることができるでしょう。


結論:僕たち人類の起源は、宇宙の起源と同じで、「ビッグバン」ということになる。

理由:人類というのは一時的な姿で、僕たちの本当の姿は宇宙そのものだったから。




6.分身主義の視点の先に

先ほどの説明で、分身主義の分身の由来はわかっていただけたと思う。
「この宇宙に存在する万物」は、素粒子という最小単位のブロックが組み立てられて新たな性質の物質を作ったり、リサイクルされてまた新たに性質の違う物質を作ったりしている一時的な姿だったんだ。

素粒子から始まって、その後、何度もリサイクルを繰り返されて作られる僕たちは、互いに分身同士と呼んでもいい。この身体がなくなっても、それを構成していた物質は消滅せずリサイクルされるんだ。それが未来に生まれる人の身体の一部を構成することは十分考えられることなんだよ。

君の身体を構成している原子のうち、あるものは過去にナポレオンの身体を構成していた原子かもしれないし、徳川家康の身体を構成していた原子かもしれないんだ。

僕たち人間の身体は、そのリサイクルの途中の一時的な姿である、という見方が科学的な見方なんだ。

分身主義の視点は、宇宙が生まれた約140億年前から現在までを一瞬で行き来できる視点だ。つまり、先ほど言ったように、今のあなたやジジイが存在するためには、140億年前に産声を上げた時点から一つとして途切れていなかった道の延長線上だということ。

言い方を換えれば、僕たちは現在の宇宙そのものだったんだ!

つまり、さっき見たこの図が僕たちの本当の姿だったんだ!

ビッグバン3


笑っちゃうかい!?
やっぱり僕たちのイメージは、下図以外にあり得ないかい!?


自分



それはね‥‥。
君が「世間の常識」や、神経系の錯覚が見ている「自分」や、「狭い視野」にとらわれているだけなんだ! そしてその意識に作られているのが今僕たちが生きている《環境》だよね。

その《環境》に僕たちは思考させられ行動させられている。今、僕たち人類を縛り付けている「家族」とか「社会」とかいう概念もみんなそんな中から生まれていたものだし、「お金」もその《環境》から生まれたものだ。

でも、今のジジイに言わせれば、君がこの身体の内側が「自分」だと信じていることこそ、笑っちゃうくらいなんだよ!
それくらい、人間の感覚というのはテキトーなものだと、柔軟に考えた方がいい。そんなもの一瞬に変えられるのが人間なんだ。

昔、日本がアメリカと戦争をしていた時、彼らを鬼畜などと称して激しく憎んでいたけど、戦争が終わればコロッと変わって、むしろ彼らを尊敬するようになった。音楽やら電化製品やら、彼らの文化や考え方を我先にと取り入れるようになった。それができる柔軟なのが人間の凄さだ。だから、今の固定観念を捨てることなんて簡単なことなんだ!

《環境》が変わればあっという間さ!

そして、あっという間に変わった未来は、「お金」なんかに頼らなくてもやっていける社会なんだ。

1.それでもお金は無くなった方がいい!(前編)
2.それでもお金は無くなった方がいい!(中編)
3.それでもお金は無くなった方がいい!(後編)
4.お金を無くすなんて現実的にあり得るの !?

何故かと言うと、僕たちの世界を見る視点が分身主義的な視点に変われば《環境》も分身主義的なものに変わる。そしたら、それまでの個人主義的な《環境》から生まれていた僕たちの思考や行動も変わり、それまで必要とされたお金は役に立たなくなるからだ。

今までの個人主義的な《環境》は、勝ち組などと呼ばれる「優越感」が僕たちに幸福感をもたらしてくれていたけど、その近未来は、優越感は最も不快な感覚に変化している。そしてみんなが助け合うことに幸福を感じる社会なんだ。


いいかい!?
科学が教えてくれていた「本当の自分」、この視点を持てた時初めて「私は科学を勉強しました」と言えるんだ!
科学者だってそうだ。この視点を持てない科学者は、まだ本当の科学を勉強したとは言えないんだ!

本当だよ!

別に科学者でなくてもいい。この視点を持てた時初めて「自分探しをしました」と言えるんだ!
そして、その時初めて、人類は、「世界平和に向けての最初の一歩」を踏み出せるんだ!



それなのに、今の僕たちの「自分」とは何だろう!?

やっぱりさっきの図のような、この身体の内側が「自分」で、それは個々に分断されていて、そして家族や会社という小さな組織に組み入れられて、世間という柵(しがらみ)や軋轢(あつれき)の中で個々の悩みや生きづらさを抱えて生きていたりしているよね。

また、その「自分探し」とは、個人の性格や適性などを知って、進路決定や職業選択や自己実現などの拠り所にするためのもの。だけどそれは多分に個人主義的な自分探しで、本当の「自分探し」なんかじゃなかったんだ。

その狭い視野が、自分の外に在りもしなかった敵を作ってしまっていたし、神経系の錯覚が作る「自分」にこだわっていたし、在りもしなかった「自分の意志」を誇示していたから、この世界から争いをなくせなかったんだよ。


科学に囲まれた現代を生きる僕たちは、本当の「自分探し」から始めるべきじゃないのだろうか!?
狭い視野から解放されて、科学が教えてくれた本当の自分を知れば、間違いなくこの世界から争いはなくせる。

常に心の片隅に「世界平和」という広い視点を持って科学をすれば、誰だって必ず分身主義的な視点に辿り着くはずなんだ。その人たちがたった数人いれば、今ならSNSを使って、必ずこの《環境》を変えることができる。そうすれば、世界は放っておいても平和になるはずだ。平和になるしかないんだ。

僕たちの行動は、僕たちの脳を取り巻く《環境》に取らされていただけのものだったのだから‥‥ね。
これも科学が教えてくれたことだよね。

そう、今のジジイは、この文章を《環境》に書かされているということを、知っている。君が書く文章も、君は《環境》に思考させられ、書かされていたんだ。だから考えようによっては、どんな文章も、実は、この《環境》を作っている世界中の人が共同で書いているようなものなんだ。

嘘のような話だけど、これも「僕たちを一つにつなげてくれる唯一の学問」である、「科学」が教えてくれていることなんだ。


僕たちの視点が変われば、自ずと、今、僕たちが生きるこの《環境》が変化する。

だから、世界を変えるのは僕たちの願いでも意志でもなかったんだ!

僕たちに必要なのは、自然界に土台を据えたしっかりした視点の上に築き上げられた、新しい《環境》なんだ。

自然界に即したしっかりした視点だけが、いつの間にか気づかないうちに、我々のこの《環境》を「個人主義的な環境」から「分身主義的な環境」に変化させ、世界は、今まで誰もがどんなに願っても叶えられなかった平和へと変化させられていくんだよ。(📌個人主義から分身主義へ(遺言書-8-))


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★★★   関連記事(保存版) ★★★
📌分身主義とは(ジジイの遺言書-10-)
📌真の科学とは何か?(ジジイの遺言書-7-)
📌個人主義から分身主義へ(ジジイの遺言書-8-)

★★★   未来モデル小説   ★★★
ブンシニズム・ドット・ネット
人類が「科学的覚醒」を果たして、「個人主義の《環境》」から「分身主義の《環境》」に移行した未来の世界を感じてもらうために小説にしました。
お金も武器もなくなった世界なので、誰もがボランティアのように自由に働きながら世界を行き来して、行く先々で出会う人たちと交遊して人生を楽しみ、生だけでなく死も大切にする人たちの物語です。
実現可能な平和な世界。実現の願いを込めて描いた未来の世界です。

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長い文章を読んでくださりありがとうございます。 noteの投稿は2021年9月27日の記事に書いたように終わりにしています。 でも、スキ、フォロー、コメントなどしていただいた方の記事は読ませていただいていますので、これからもよろしくお願いします。