見出し画像

「迷宮の将軍」 ガブリエル・ガルシア=マルケス

木村榮一 訳  ガルシア=マルケス全小説  新潮社

三鷹りんてん舎で購入。1400円。
(2023 07/23)


浴槽の中の将軍

冒頭は浴槽の中でじっと動かない将軍…ラテンアメリカを解放したと言われるシモン・ボリーバルの姿から始まる。今のところ、将軍を巡る様々な人物のうちで気になるのは、最初に浴槽の将軍(といっても日課らしい)を見た召使ホセ・パラシオスと、将軍が一番胸のうちを明かすマヌエラ・サエンス。この人物は女性だが、男とともに戦い一番信用されていたらしい。
作者のあとがきによると、この作品はアルバロ・ムティスという人が、ボリーバルの最後の旅について書きたいと言っていて、その断章「最後の顔」を読んだことから始まる。そして、ムティスに最後の旅について自分に書かせてくれと頼んで、快諾されて書かれた、という。だから、最初の扉にその名前が出ている。
(2024 02/27)

昨夜は最初の章(章に番号が降ってあるわけではない)の最後まで。

 将軍が本当に国を出て、どこに行くつもりなのかをあやまたず見抜いていたのは、イギリス外交官だけだった。その外交官は本国政府に宛てた公式の報告書にこう書きつけている。「将軍には、どうにかこうにか墓場にたどり着くだけの時間しか残されていないでしょう」
(p48)


現地社会の社交を描きつつ、一番見通していたのは外国人の目であった…という流れは現実にもよくある。現地の人も勘付いてはいたけれど、慣習的、社交的など様々な理由で見えなかった、というような。
これでボゴタ編は終わりで、次からいよいよ「最後の旅」に入るのか。ボゴタが寒くて自分には合わない、という将軍の思いは、同じカリブ海沿い出身のマルケス自身も共有していた(自伝にも何回も出てきた)。
(2024 02/29)

ベネズエラは本当にあるのか

第2章(p81まで)。
ボゴタを出てオンダまで、最後の旅の最初の部分。老いと夢、そして記憶の物語かな、今のところ…それらがさまざまに差し込まれて一つの世界を作り上げていく。

 字がうまくて英語がよく出来ただけでなく、ちょっとした文章を書かせても、読む者を決して退屈させない見事な文章を書いた。書き上げたものを大声で読みながら、そこにおやっと思うようなエピソードを思いつくままにはさんで行くのだが、そうするととたんに眠気をさそうような内容が生彩に富んだものになった。
(p70)


これは、将軍の甥で父親(つまり将軍の兄)が船の難破事故で亡くなった副官兼書記のフェルナンドについての言葉だけれど、まさにこの作品の作り上げ方がそういう感じ。

続いては、将軍が先祖から引き継いだもののこれまで気にかけずにいて、死期が近づいた頃急に思いついて売却しようとしているアロア銅鉱山の話から。この鉱山は未だ書類不備で売却できず、訴訟となっていて、将軍はこの訴訟が片付かなければ国外には出ないだろう、と周りの将校たちは話している…

 「ということは、国外に出ないということだな」とウィルソン大佐が言った。「ぼくの父は銅が本当にあるかどうか、疑わしく思うようになったと言っているんだ」
 「誰も鉱山を見たことがないからといって、存在しないとは言い切れないんじゃないのかな」とアンドレス・イバーラ大尉が反論した。
 「いや、鉱山はある」とカレーニョ将軍がきっぱり言った。「ベネズエラのあの地方にちゃんとあるよ」
 ウィルソンは不快そうに言い返した。
 「近ごろはベネズエラという国が本当にあるのかどうかも疑わしく思えてきたんです」
(p73)


まさに「おやっと思う」会話例だが、ボリーバル将軍こそがベネズエラ始め南米を解放しようと戦ってきたわけで、それをここに添えると…
もう一回、会話の引用。

 「祖国に帰りたいということだな、それとも帰るのはいやなのか?」
 「分かりません、将軍」とウィルソンが答えた。「私は自分のものでない運命に身をゆだねております」
 将軍はまっすぐ彼の目をみつめ、びっくりしたように言った。
 「それは私の科白だ」
(p79)


これはウィルソンとボリーバル将軍との会話。ウィルソンはアイルランド生まれ、ロンドン育ちらしい。ここからは一読者としての勝手な妄想なのだが、ウィルソンの言葉を聞いて(書いて)びっくりしたのは実はマルケス自身だったりしないかな(笑)。
この後「人からいろいろなことを言われても気にすることはない。君は少なくとも、煮ても焼いても食えん男ではない」(p80)とウィルソンに将軍は言うのだが、その「煮ても焼いても食えん男」とか言ったのはカードゲームで負け続けたボリーバル将軍自身ではないか…
(この言葉、原文ではどうなっているのかな?)
この章最後にはオンダの街が見える…地震があって倒壊している建物もある…
(2024 03/02)

マルケス版「見えない都市」

 フンボルトは、アメリカ大陸にあるスペインの植民地では独立の機運が熟していますね、と確信をこめて言った。そのときはべつになんとも思わなかった。まさか自分が南米大陸を手中におさめることになるとは夢にも思っていない若き日の将軍に、男爵は冷静な口ぶりでそう言ったのだ。
 「あとはそれを実行に移す人間がいるかどうかです」とフンボルトは言った。
(p111)


ボリーバル将軍の回想。フンボルトとはアレグザンダー・フォン・フンボルト。パリで若き日の将軍と会ってこんな会話をしたのだという(マルケス創作かもしれないが)。
こんな回想がある一方で、死を間近に見据えた将軍の言葉や、もう半分くらいは浮世離れしている会話なども相変わらず。そんな箇所を二つ。

 「モンポックスという町はこの世に存在しない。われわれは時々あの町の夢を見るが、じっさいは存在しないんだ」
 「サンタ・バルバラの塔だけは存在しているようでございます。ここからはっきり見えておりますので」とホセ・パラシオスが言った。
(p117)

 「昔と同じだな」と将軍はつぶやいた。
 その言葉を聞いて主任司祭はびっくりした。
 「失礼ですが、閣下」と主任司祭が口をはさんだ。「わたしの記憶にあるかぎりでは、以前ここへお越しになったことはないと思いますが」
 …(中略)…
 「前世に訪れたんだろう。いずれにしても、この町では教会から破門された人間が白昼堂々と天蓋をかざしてもらって歩けるんだから、なにが起こってもおかしくはない」
(p123)


なんか、シモン・ボリーバル将軍とホセ・パラシオスの対話が、カルヴィーノ「見えない都市」のフビライとマルコ・ポーロの対話に重なってきているのだが…
(2024 03/04)

星の数は…

 船旅最後の日、ホセ・パラシオスがハンモックに横になっている将軍を見守っていたとき、平底船のへさきにいるカレーニョの声が聞こえてきた。
「七千八百八十二個」
「なんのことです」とホセ・パラシオスが尋ねた。
「星の数だよ」とカレーニョが答えた。
 またカレーニョが寝言を言っているなと考えて、将軍は目を開け、ハンモックのうえで起き上がって窓越しに夜空を眺めた。明るい夜空が果てしなく広がっており、空いっぱいに無数の星がきらめいていた。
「その十倍はあるだろう」と将軍が口をはさんだ。
「言った数にまちがいありません」とカレーニョが言い返した。「数をかぞえている間に流れ星が二つ落ちました」
(p145-146)


カレーニョは将軍とともに戦い、右の手首から先を失った。無くなった手の感覚は痛みを含めて依然としてあり、そしてなぜか寝ている時に正確な受け答えをする(起きている時にはなんらかの抑圧があるという)。海に出る前日の、印象深い対話。
(2024 03/05)

マヌエラの旅

今日でだいたい半分くらい。タイトル見た時、ジャングルの中を迷走する川で遭難して狂っていく物語なのかとなんとなく思っていたけど…違ったみたい(それは「アギーレ」か?)
今日、引用するのはこんなところ。

 今回マヌエラは、将軍からついてきてもいいという許可を得るのに以前よりも手間取った。ようやく許可が下りると、彼女はたくさんのトランクを十二頭のロバに振り分けて載せ、不死身の女奴隷たちや十一匹の猫、六頭の犬、宮廷の卑猥な芸を仕込んだ三匹の猿、針に糸を通す芸を仕込まれた一頭の熊、三カ国語でサンタンデールの悪口を言うオウムと金剛インコの入った九つの鳥籠とともにあとを追った。その様子はジプシーの集団移動を思わせた。
(p173)


(ここでいう「今回」は、回想中の語りなので、進行中の川下りの旅ではない)
こういうのを「ものづくし」の芸というのだろうな。最初は無難な語りだったのが「不死身の女奴隷」辺りからおかしくなり始め…
ここから後半へ、どうなっていくのだろう。
(2024 03/07)

迷宮は国か心か

(昨夜分)
将軍はやっとパスポートを発給され、そして一行はカルタヘーナに到着する。そのカルタヘーナの描写から。

 九回にわたって海と陸の両方から包囲され、海賊や軍人たちの手で何度となく略奪された。しかし、町に壊滅的な打撃を与えたのは、独立戦争とそれに続く党派間の争いだった。黄金時代に栄えた裕福な家族は町を捨て、以前奴隷だった人々は、自由を手にしたもののそれをどうしていいか分からず、その日暮しの毎日を送っていた。侯爵の宮殿は貧民によって占拠され、そこから逃げ出した猫と見まちがえるほど大きなネズミが通りのごみ捨て場を走りまわっていた。
(p190)


独立戦争とそれに続く党派間の争い…というのは、要するに将軍たちが引き起こしたことでもある。将軍はこうした自分の行為の結果を見る旅に出ている、とも言える。また、痩せ衰えた将軍の身体は国土そのものにも重ねられる、とも。

 大勢の女性が将軍の人生を通り過ぎていった。大半の女性はわずかな時間をともに過ごしたにすぎなかった。誰に対してもこれから一緒に暮らそうなどと言ったことはなかったが、やむにやまれぬ気持に襲われると、たとえ世界を変革してでも女性に会いに行こうとするほどの気性の激しいところもあった。…(中略)…けれども、決して自分を見失うということがなかったから、あれは愛というよりもむしろ虚栄心と言うべきだろう。
(p204)


ガルシア=マルケスの中心主題である愛への言及。ここでマルケスは自分を見失う愛と虚栄心からの愛について、どちらか優劣つけているわけではなく、人間を駆り立てる原動力を並列して書いている。それとも、最後には将軍は自分を見失う愛にたどり着ける展開なのだろうか。

他所者の将軍

(今日分)
やっとこの本読み終えられた…

 「私はスペイン人以上に負債を憎んでいる。外国から金を借りれば、今後何世紀にもわたって利子を払いつづけなければならない、国民のことを考えるなら、それだけはしないようにとサンタンデールに注意した結果がこれだ。今にわれわれは負債に押し潰されてしまうだろう」
(p242)


サンタンデールは(ボリーバルの注意を無視して)イギリスから借款をして、その金で国債を買った…と将軍は言っている。そうして、今の債務超過国の常連であるラテンアメリカ諸国が産まれた。

 「それにひきかえ私は、ありもしない夢を追っているうちに自分を見失ってしまったのだ」
(p243)


これも将軍自身の言葉。「迷宮」とはそういう意味か(小説結末では死自体が迷宮と呼ばれているみたい)…

 若いうちならいいが、ぐずぐずしていると手遅れになって帰れなくなるぞ。そうなると自分がどこの人間か分からなくなってしまう。いずれ、どこにいてもしょせん自分は他所者でしかないと感じるようになるだろう。それは死ぬよりも辛いことだ
(p245)


これも将軍の、イトゥルビデに対する言葉。イトゥルビデはメキシコの王家?の出身で、亡命してボリーバルとともに戦っていた…そして、ボリーバル自身が他所者でもある。
続いては、まるでガルシア=マルケスの小説の書き出しのような(笑)、こんな印象的な文章。

 長寿を保ったドン・ホアキン・デ・ミエルは、日が暮れたばかりのむせ返るように暑い時刻に、輿にのって船から下ろされたあのぞっとするような生き物のことを死ぬ間際まで覚えていた。その生き物は毛布にくるまれ、ふたつ重ねてかぶった縁なし帽子を眉のところまでおろしていた。とても生きているようには見えなかった。しかし、それ以上につよく印象に残ったのは、手が燃えるように熱く、息遣いが苦しそうだったのにもかかわらず、信じられないほど身軽に輿から降りてみんなに挨拶したことだった。
(p268)

妻の夢、そして死

この町サンタ・マルタ、そしてその郊外のサン・ペドロ・アレハンドリーノのさとうきび農園と製糖工場は、ついにボリーバル将軍の最後の地となる。亡くなったこの農園・製糖工場は、ボリーバルの生家のサン・マテオ製糖所を思い出させた。19歳の時、スペインで結婚式を挙げ二人でその製糖所で世俗的に生活していた。が、翌年妻が亡くなる。それ以降、彼は妻の記憶を封じ、再婚もせずに、ラテンアメリカ解放に尽力した…そして最後の最後に、そこを思い出させる製糖所にたどり着く…

 将軍は最後まで、毎晩のようにサン・マテオの屋敷を夢に見た。そこにはよく父親、母親、それに兄や姉が出てきた。だが、妻の夢だけは一度も見なかった。将軍自身は、妻を亡くしたあとも生き続けて行かねばならず、そのため妻の思い出を心の奥底にある忘却の淵に沈めるという荒っぽい手段に訴えたのだ。サン・ペドロ・アレハンドリーノの黒砂糖の匂い、圧搾機を使って仕事をしている冷ややかで無表情な奴隷たち、将軍を迎えるために白いペンキを塗ったばかりの家、過ぎ去った昔を思い出させる製糖工場、避けることのできない運命の手で間もなく死の世界に連れ去られることになっていた将軍は、そうしたものを見たとたんに長年封印してあった記憶が甦ったのか、こうつぶやいた。
 「彼女はマリーア・テレサ・ロドリーゲス・デル・トーロ・イ・アライサという名前だったんだ」とだしぬけに言った。
(p275-276)


果たして、妻が生きていたならば、ボリーバルはラテンアメリカを解放しようなどと考えただろうか。ボリーバルの偉業が妻の死の代償行為だった…というのは一元化し過ぎで、マルケスの提案する解釈の一つなのだろうけれど、そうも言いたくなる。それにつけても、結末近くのここまで妻のことにほとんど触れてこなかったのは、マルケスの巧みさ。
(ただ、ここで奴隷が無表情なのはその身分からくる感情や他者交流の抑え込み等によるものだろうし、白いペンキの家はひょっとしたら将軍を誹謗する落書きがあったのかもしれない、とも考える。歴史上のボリーバルにとってはその時代の限界(もちろん今現在もなんらかの限界はある)だろうし、作者マルケスにとっては…どうだろうか(マルケスの政治信条考えると、こういったことを全く考えていないということはないだろうが、それを読み込むとここの文章また違った味が))
将軍の死はこう書かれている。

 窓を通して、やがて永遠に見ることのできなくなる空にダイヤのように輝いている宵の明星が、万年雪が、新しい蔓草が見えた。次の土曜日は喪に服して家が閉め切れられ、そのせいで窓の外に咲く黄色い花を見ることはできなかった。さらに、生命のきらめくような光がみられた。それは以後何世紀にもわたってふたたび現れることのない輝きだった。
(p290-291)


この結末の文章はまだ自分の中で意味が確定していない…部屋のどこかに存在するような視点からの一連の文章は、情景を客観的に描写しつつも、この部屋を去り難いような思いを感じさせる。そして、最後の一文は、マルケスのボリーバルに対する敬意であるだろうけれど。

「ガブリエル・ガルシア=マルケス-いいアイデアの詰まった戸棚」から


この本、通常の「解説」ないし「訳者あとがき」はなく(なぜ?)、「付録」として「「ガブリエル・ガルシア=マルケス-いいアイデアの詰まった戸棚」ラウル・クレマーデス、アンヘル・エステーバン」(訳者は本編と同じ木村榮一氏)がある。これは「迷宮の将軍」だけではなくマルケスの作家活動全般の紹介になっている。とっても面白いのだが、ここでは気になるとこ(メインは)一箇所だけ。祖母のガリシアから続く幻想的要素についてのマルケスの発言。

 昼間は、祖母の魔術的な世界が魅惑的なものに思えて、その中で生きていた、つまり自分の世界だったわけだよ。しかし、夜になるとそれが恐怖を生み出すんだ。この年になっても世界のどこかのホテルで一人で寝ていると、自分は闇の中に一人ぼっちでいるんだと思うことが時々あって、身の毛のよだつような恐怖にとりつかれてパッと目が覚めるけど、そうなると気持ちを整理して、もう一度眠りにつくためにはしばらく時間がかかるんだ
(p349)


一読者としては、マルケスという作家は祖母からの幻想的要素を自由自在に巧みに作品化する、というイメージだったけれど、作者自身がそこに取り込めない何かを抱えていたとは知らなかった…まあ、でなければ、緊迫した描写にはなり得ないのだろうけれど…

(あと、この付録からサブ小ネタ二つ。両方ともノーベル賞関連)
受賞決まって、マルケスの母親のところにコロンビアのラジオ局から連絡が来た。母親は、「スコットを読ませていましたから」とか言ったあと、ラジオ局の人間に一年以上前から電話機が故障しているから直してもらえないか、と依頼したという。
マルケスのノーベル賞授賞式、背広とかではなくグアヤベーラ(カリブ圏の上着)を着てきたのは知ってたけど、その時のBGMがバルトーク「管弦楽ための協奏曲」第4楽章「インテルメッツォ・インテロット」(中断された間奏曲)だったとは知らなかった…あの曲合うのかな?(バルトークはマルケスお気に入りの作曲家らしい。それ自体も自分的には意外だが…)
(2024 03/09)

作者・著者ページ

関連書籍


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?