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果樹農園を営む農家の嫁です。子育てがひと段落して空いた時間もできたので、日常感じたこと…

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果樹農園を営む農家の嫁です。子育てがひと段落して空いた時間もできたので、日常感じたことなどを自分のペースで発信していこうと思っています。

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  • トロフィーやボードをいただいた記事

    トロフィーやボードをいただいたときに、スクリーンショットを撮ってためていましたが、こちらのほうへ載せていこうと思います。 「スキ」をくださり、ありがとうございます。

最近の記事

ふたりの母に対して秘めている思い

先週、母の日に、義姉と、義兄嫁がやってきた。 それぞれ、母の日の手土産を持ってきて。 おまけに、ふたりして、義母が行ったことのないファミレスでお茶をしたり、義父との思い出の焼き肉屋で食事をしに、義母をつれ出してくれた。 満足げな表情で帰ってきた義母を見ていると、さぞかし楽しい時間を過ごせたのだろうと見て取れ、素敵な母の日を過ごしたようだ。 私は「義理」のような感じが苦手で、いつの日からか、「父の日」も「母の日」もやめた。 日常会話は、ほとんどなかったし、仲が決してよい

    • 私のカレンダーには、「母の日」はないけれど。

      私のカレンダーには、「母の日」はない。 こちらに嫁いできて、何度か同居の義母に対して「母の日」をやったけど、義理のような感じが苦手でいつからか辞めた。 実家の親にもしていないんだし、いいじゃんと、訳の分からない言い訳をして、割り切った。 因果応報のごとく、子供たちからも何もなくても当たり前。 同居の息子の頭のなかは問題外。 きっと、「母の日」なんて知らないんじゃないかって位に。 外で住んでいる娘からは、昨年はラインで「ありがとう」とメッセージをくれたかな。 先月末

      • やっぱり夫婦は合わせ鏡なのかもしれない

        認知症になると不安を埋めるかのように、お金に対する執着心が強くなるという。 もうすぐ88歳の義母が、お金に対する執着心がすごいと分かったのは、認知症になってからだから、そうなのかもしれない。 だけど、数十万というお金を渡しても、隠してしまって再度せびりに来たり、義父が入院先で床に臥しているときにも「故郷へ帰りたいからお金をちょうだいと言われたらやってくれ」と言っていたことを思えば、そのような習慣があったのだろうし、挙句の果てには「わしに援助してくれやなあかん」とまで言い出

        • 「note」で得た縁を逃さないために

          「note」を始めて3年。 記事を書くだけではなく、「スキ」を押したりお返しを頂いたり。 「コメント」を頂いたり、返事をしたり。の、他の方とのやり取りも含まれて交流できるのが、「note」の良いところだ。 だけども、他のクリエーターさん(noterさん)との程よい距離感は、難しい。 実社会でも、人間関係は正解がなくて悩ましい事はたくさん出てくるので、当たり前のことかもしれない。 そんな私は、最近、他のクリエーターさんとの「つきあい」を考え直した。 3年前、「note

        ふたりの母に対して秘めている思い

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        • トロフィーやボードをいただいた記事
          116本

        記事

          「五十にして天命を知る」

          私は、昨日まで、どうしても不思議な感じに囚われていた。 今やっている作業は、柿の蕾落とし。摘蕾(てきらい)という作業。 1つの枝にできた4つか5つの蕾を、2つの枝にひとつだけ厳選して残す作業である。 プチプチプチと、人差し指と親指をつかって、ただひたすらに落としていく単調作業である。 同時に、枝に生えている余計な枝も落としてね。と、アルバイトさんに伝えている。 にもかかわらず、どうしても手が回らない不器用なグループもあるわけで・・・。 毎年だと私が二度手間だけど、

          「五十にして天命を知る」

          断捨離で捨てることができるもの、できないもの

          相互フォローさせて頂いている、ららみぃたんさんの「だんだん断捨離」も、「第二十八弾」をむかえた。 と思ったら、昨日「第二十九弾」の記事をあげていらっしゃった。 (私が、もたもたと、この記事を書きあげている間に・・・) 昨年11月ごろから暇を見つけては、断捨離を少しずつ進めていらっしゃる。 時を同じくして、私も少なからず影響を受けて、断捨離を本格的に始めることにした。 何気なく時間に暇ができて、空いた時間を何に充てようかと考えている最中に、飛び込んできたららみぃたんさんの記

          断捨離で捨てることができるもの、できないもの

          とりあえずやってみることで、新たな気付きに出会えることがある。

          私の行動範囲は狭い。 畑か、行きつけのスーパーか、家の三択だと言ってよい位だ。 一生、畑と家往復、そして時々近くのスーパーへ行くくらいの人生で終えるのかもしれない。 だけど、特別どこに行かなくとも、経験値を自分なりに上げてきた。 いまある限られた生活の中で、いろんなことに取り組み、できることを増やしてきた。 もし、本来の面倒くさがり屋100%のわたしのままでは、経験値もあがらなかったし、視野も広がらなかっただろう。 また、いろんなことに取り組むことによって、一生通

          とりあえずやってみることで、新たな気付きに出会えることがある。

          義母さん、長生きしてたらいいこともあるね。

          義父が亡くなって、1カ月がたとうとしているが、義父が亡くなってからというもの、義姉や義兄が顔をみせることが多くなった。 義母がデイサービスが休みの日曜にあわせ、今のところ、義姉と義兄が代わるがわる来てくれている。 年に数回程度しか、実家に顔をみせていなかった義姉は、義父の状態が悪くなってからというもの、月に数回顔をみせるようになった。 7,8年実家に顔をみせなかった義兄は、義父の状態が悪くなったことを受けて、義父が亡くなる1カ月ほど前に、久々に顔を出した。 ふたりとも

          義母さん、長生きしてたらいいこともあるね。

          だんだんと家族に、夫婦になれたらそれでいい。

          人間だもの 感情的にもなるし、腹も立つ。 だけども、負の感情は引っ張らずに切り替えて、また普通に会話ができればヨシとしよう。 これが結構難しかった。 若い頃は・・・。 認知症の義母と生活をしていると、感情的にもなるし、腹も立つ。 いや、認知症が発症する前から、それはあったけど、家の中でも距離を置くことができたから、少なかった。 (おもいっきり距離置いてたし。) 義母の付いて出る言葉や態度に揺さぶられ、つい感情的になる。 そんな自分が嫌になり、自己嫌悪に陥る。

          だんだんと家族に、夫婦になれたらそれでいい。

          身体が動かなくなるその日まで、できることの引き出しを増やす。

          義母は、今でも時々、「薪を焚こうか」と気を遣ったふうに私に歩み寄ってきてくれる。  だけども、私の本心は「今更言われても仕方ない」。 薪は、ある程度熟練していないとまともに焚けない。 私には今更、義母に薪の焚き方を教える時間はないし、私の好みの焚き加減がある。 どうして、「薪を焚く」ことに向き合わなければならない時に、向き合わなかったの?である。 私が嫁いできたときには、夫の仕事だったし、その前には同居の夫の曾祖母さんが焚いていたという。 夫にとってもキャパオーバ

          身体が動かなくなるその日まで、できることの引き出しを増やす。

          死にざまは人間の生きざまを映し出す。

          先月亡くなった91歳だった義父と、残されたもうすぐ米寿をむかえる義母を見ていると、死にざまは生き様がそのまま反映される気がする。 いつの日か、義両親との完全同居がほとほと嫌になったとき、「クソっ!どうせなら、義父さん、義母さんの死にざままで、見届けさせてもらおうじゃないのっ!」と、涙ながらに気持ちを切り替えた覚えがある。 私は、ヒトの亡くなっていくさまを、身近で見届けたことがない。 きっと、さいごまで人が亡くなっていくさまを見届けることで、何か得るものがあるのではないかと

          死にざまは人間の生きざまを映し出す。

          そして我が家から軽トラ6台分の荷物がなくなった

          はじまりは、義父が亡くなったこと。 その前から、折を見て、時々自分のモノを断捨離していたが、義父が亡くなったことをきっかけに、家のモノの断捨離が随分とすすんだ。 義父が亡くなり、一週間しないうちに義姉がやってきて、「さぁ!断捨離やっていくよ!」とばかりに、義母に「いる・いらない」を聞きながら、義父のもののみならず、義母のものも断捨離がすすんだ。 時々「いらん。いらん。もう着いひん(着ない)やろ?」と容赦なく横やりを入れていく。 私はそばで、あっけにとられながらも断捨離

          そして我が家から軽トラ6台分の荷物がなくなった

          ふたりの父が亡くなって分かったこと

          とうとう義理の父も亡くなってしまった。 私にとっての父は、実父と義父。 実父と義父は全くもって、共通するところも似たところもない。 ちょうど3年前の4月に、79歳で亡くなった実父は、戦争で夫を亡くした母親(私の祖母)によって女手一つで育てられ、地元の工業高校を卒業するも、就職が決まっていた地元の企業には就職せず、大阪の大手電機メーカーの工場に就職した。 当時、戦後の高度成長時代で、「きんのたまご」と呼ばれた学校を卒業した若者たちが、集団就職で都市部へ移動したというから

          ふたりの父が亡くなって分かったこと

          あの時感じることが出来なかった、ワクワクを感じたできごと。

          一昨日、「やったぁ。今年の剪定、終わりっ!」と、柿の剪定を終え、ホッとする間もなく、昨日、言い渡されたのは、夫が焦っていた、山椒の苗木植え。 私が剪定を終えたのをちょうどいいことに、息子とふたり、「苗木植えをやってくれ」という。 焦るのも無理もない。 購入した苗木を、仮植え(10本ずつの束になった苗木を、土に植えて保存しておくこと)して、もう2週間ほどたつ。 10日ほど前に義父が亡くなって、てんやわんやで、手つかずだったのだ。 およそ、20年ぶりの山椒の苗木植え。

          あの時感じることが出来なかった、ワクワクを感じたできごと。

          「あの世」へたどり着くまでは、ずっと修行の日々。

          葬儀で泣き崩れた義母の立ち直りは、そこそこ早かったように思う。 次の日にはケロッとしていて、今では結婚生活の愚痴まででてくる。 だけど、その一方で、祭壇がある仏の間の隣にある元からの寝室で寝ようとしない時がある。 時に、テレビのあるリビングに別の布団を引っ張り出してきて寝ているときもあるし、ひとりで寝るのは寂しいようだ。 そんな義母の認知症は、一段とすすんだ気がする。 そんな義母にここまで振り回されるとは、思いもしなかった。 ときどき、想像もしないことをしてみたり

          「あの世」へたどり着くまでは、ずっと修行の日々。

          義父との尊い日々

          私がこちらへ嫁いできて28年。 「都会から嫁さん、来てくれるんやから、キツイこと言うたらアカンよ」と、義母の義父への言葉がけではじまった、義両親との同居。 親でもないのに、「義父さん」「義母さん」と呼ぶのはどこかこそばくて、それでも「よいヨメにならなくっちゃ」と必死だった。 義父は、義母、夫がいうように「外へは良い顔をする」一面があって、本来は会話術やコミュニケーション能力は抜群だが、家のモノに対しては、いわば「働くコマ」のそれ以上でもそれ以下でもないので、私にも、雑談

          義父との尊い日々