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017_驟雨

 鈍色の薄雲に、彼誰時かたわれどきの茜が滲む。夕焼けを吸い込んだ雲は、空にグラデーションを描いている。

 あの日から、ルシアとサミュエルは、どこかぎくしゃくとしていた。

 もう、一週間ほどになるだろうか。いつも軽口を叩き合っている二人にしては、珍しく長い期間だ。

 出来ることなら何とかしたいところだが、思いのほか、問題の根は深そうである。

 二人の間で器用に立ち回ることなど、自分が最も不得手とするところなのが悩ましい。

 エドワードは、溜息を零しながら、ティーセット片手に樫の扉をノックした。

「ルシア様、お茶をどうぞ。」

「あら。ありがとう、エドワード。もうこんな時間だったのね。」

 エドワードが、扉の向こうから顔を出すと、ルシアは、書類から目を上げた。

 休暇中とはいえども、女王の政務はなくならない。昼下がりに王都から届いた書状に、ルシアは、午後からずっと目を通していた。

 ルシアは、ぐっと伸びをすると、ふと、窓の外に視線を移す。

 鈍色の茜空には、日の終わりを示すかのように、鴉の群れが飛んでいた。

「これを飲んだら、出掛ける支度をしなくっちゃ。」

 ルシアは、ティーカップを手に取ると、浮かれたように頬を上気させた。

 今夜、侯爵の別荘に招かれたのが、余程嬉しいらしい。

「ルシア様、本当に行かれるんですか?」

 エドワードは、緊張で舌がもつれそうになりながら、遠慮がちに問い掛けた。

「当然でしょう? せっかくお招きいただいたんだもの。それとも、エドワードまで、わたくしにはまだ早いって言いたいのかしら?」

 浮き立つ気持ちに水を差されて、ルシアは、すこしだけむっとしたような顔をした。

「いえ。俺は、嬉しいなと思っています。ルシア様も大人になったんだなって。ただ、その。心配する兄様の気持ちも分かるから……。」

 ルシアの勢いに、つい気圧されてしまう。

 エドワードは、慎重に言葉を選んだ。

 まるで、言いたいことが喉から零れてしまったように、上手く表現出来ない。

「わたくしも、女王である前にひとりの人間よ? サミュエルったら、忘れているんじゃないかしら。」

 訥々としたエドワードの言葉に、ルシアは、どこか悲しげに眉を下げた。

「兄様も、俺も、ルシア様のこと、とても大切に思っているから。……確かに兄様は、ちょっと心配しすぎかも知れないですけれど。」

 ルシアは、自分たちにとってかけがえのない存在だ。それは、ただ彼女が主君だからというだけではない。

 もしも自分に妹がいたなら、きっと、彼女に抱くような感情を覚えるのだろう。

 今まで口にしたことはなかったが、いざ声に出すと、どうにもむず痒い。

「分かっています。分かっているのよ、わたくし。でも……。」

 ルシアは、何度も頷くと、ぎゅっと手を握り締めた。

 彼女の中で、何か引っかかることがあるのだろうか。

 ルシアは、言葉尻を飲み込むと、悄然しょうぜんと俯いてしまった。亜麻色の瞳が、切なげに揺れる。

 こんなとき、何と声を掛けたらいいのだろうか。

 エドワードは、もどかしさに唇を噛んだ。

 ここにいるのが自分ではなく、兄だったなら、きっと上手く慰めることが出来ただろう。

「……さ、エドワード。そろそろ支度をするから、侍女を呼んでくださらない?」

 重苦しい沈黙を打ち払うように、ルシアは、静かに顔を上げた。

 彼女は、すこし困ったように笑うと、裾を払って立ち上がる。

「かしこまりました。では、俺は行きますね。」

「頼むわね。」

 エドワードは、短く答えると、一礼を残して部屋を辞した。

 わだかまもやを飲み込んで、エドワードは廊下を抜けていく。

 この違和感は、何だろうか。

 

 

 

 夜の帳は、刻一刻と迫ってくる。夕闇に、燭光が差した。影は更に深さを増し、夏の夕べを塗りつぶす。

 エドワードが侍女を呼んで戻ると、ルシアの部屋の前では、サミュエルが何やら難しい顔をしていた。

「ルシア様、そろそろ出掛けるって。」

「ああ。」

 エドワードの報告に、サミュエルは、こちらを顧みることもなく、生返事を返した。

「兄様、何かあった?」

 サミュエルがこういう応答をするのは、何かを思案しているときだ。

 エドワードは、声を潜めて、短く問いかけた。

「ん? ああ、ちょっとね。団長にお願いして、念のため、サウザンクロス侯について調べて貰ったんだが。」

 サミュエルは、ようやく思索の海から顔を上げると、ポケットから一通の手紙を取り出した。

「人当たりが良く社交的。概ね善良な方なのだけど、女性関係が派手らしくてね。まあ、そこまではよくあることだ。ただね……。」

 サミュエルは、そう前置きをすると、手紙の最後の方を指で弾いた。

「兄様、これって……。」

 エドワードは、そこに連なった文字列に、驚いて眉を跳ね上げた。

 そこには、サウザンクロス侯と、最近特に親交の深い人物の名が挙げられている。誰も彼も、各界の名士ばかりだ。

 錚々たる面子の名は、一見煌びやかだが、確実に、不吉な影を投げかけている。

「ああ。警戒を怠るなよ。」

「分かりました、兄様。」

 たまたま、ということもあるだろう。それでも、注意をしなくていい理由にはならない。

 ルシアに降りかかるかも知れない火の粉は、未然に消しておきたい。何故ならば、自分は、女王の剣なのだから。

 

 

 

 ゆらゆらと揺らめくシャンデリアは、華やかな晩餐に彩りを添えていた

 くるめくような宴席は、流星のように、あっという間に過ぎていく。

 エドワードは、終始ご機嫌なルシアの横顔を、傍らで見守っていた。

 今のところ、特に問題は起きていない。

 何も知らないルシアは、今宵のひと時を、存分に楽しんだようだ。

 食事が終わっても尚、侯爵との他愛のない会話に花を咲かせている。

「ルシア様、そろそろお時間ですよ。」

 エドワードは、歓談の邪魔にならないように、ルシアにそっと耳打ちをした。

「バーナード、今宵は、お招きいただきありがとう。」

「いえ。こちらこそ、ルシア様に来て頂けて光栄ですよ。」

 バーナードは、ルシアの杓子定規な挨拶に、にこやかに応じると、ふと窓の外に目をやった。

「おや、雨が降っているようですね。」

「あらやだ。……帰れるかしら。」

 雨音が、やけにうるさい。エドワードは、窓際に近付くと、窓の外を見やった。

 月の見えないどんよりとした空は、大粒の雨を降らせている。篠突く雨は、煙るように道を隠していた。

「馬車でいらしているとはいえ、いささか視界が悪いですね。貴方様に、何かあっては事です。今夜は、お泊りになられては? 幸い、部屋ならたくさんありますので。」

 爽やかな笑顔を崩さない侯爵の申し出に、ルシアは、ちらりとサミュエルの顔色を窺った。

「そうですね。この雨では、万一ということもあるでしょう。ここは、閣下のお気遣いに、甘えさせて頂いては?」

 サミュエルは、ルシアの意を汲んでか、難しい顔のまま、淡々と答えた。

 確かに、この雨では、賊に迫られても、気付くのが遅れてしまいかねない。雨で滑り、馬車が横転する危険もある。

 エドワードも、こくりと頷いた。

「バーナード、ご厚意に甘えてしまってもいいかしら?」

 ルシアは、二人の顔を見て、遠慮がちにそう返した。

「勿論です。警備もあるでしょうし、隣同士のお部屋がよろしいですよね。ただいま支度させますので、ごゆるりとお待ちください。」

 バーナードは、ドアの側に佇んでいた老執事に声を掛けた。

 執事は、主人の命令に一礼で答えると、静々と部屋を後にする。

「お飲み物は、ワインなどいかがですか? 甘めの貴腐ワインなら、貴方様のお口にも合うかと。騎士様方もいかがです?」

 バーナードは、爽やかな笑顔を浮かべると、問うように三人を見回した。

「ごめんなさい、バーナード。わたくし、お酒は得意ではないの。紅茶を頂けるかしら。」

 ルシアは、申し訳なさそうに首を横に振ると、やんわりと断りを入れた。

「我々は任務中ですので、どうぞお気遣いなく。」

 続いて、サミュエルの固い声が響く。

「では、ルシア様と騎士様方に紅茶を。私は、いつものワインを頼めるかな?」

「かしこまりました。」

 部屋の隅に控えていた使用人は、短く答えると、深々と頭を垂れた。

 見慣れない使用人だが、執事見習いなのだろうか。年若い赤毛の青年は、務めを果たすべく、きびきびと去っていった。

 にわかに静まり返った晩餐室に、雨の音がこだまする。

 このまま、ここにいてもいいのだろうか。

 漠然とした不安が、胸に募る。

 エドワードは、再び、窓の外に目をやった。

 全てを洗い流すような雨が、虚しく窓を叩いている。

 

 

 

 雨の勢いは、時を経るごとに増している。止む気配など、微塵みじんも感じられない。

 バーナードは、ワインのグラスを傾けながら、ルシアとの歓談に耽っている。

 エドワードの隣に立つサミュエルは、神妙な面持ちで、じっと二人を見つめていた。

「ルシア様は、ブリッツベルグへ行かれたことは?」

「いえ、まだですわ。ご挨拶も兼ねて、いずれ行くつもりではありますけれど。」

 ルシアは、不思議そうに小首を傾げると、目を瞬かせながら侯爵に応じた。

「私は、何度か訪問しているのですがね、あの国は素晴らしいところです。何と言っても、民草が生き生きとしている。帝国になってから、尚更豊かになっているのですよ。」

 侯爵の何気ない一言に、エドワードは、ぴくりと眉を動かした。

 長きに亘り、世界に平和と秩序を齎してきた、千年王国同盟が破綻し始めて早数年。列強の中には、東の地へと手を伸ばし、帝国化を推し進めた国もある。

 そのなかで、最も成功を収めているのが、ブリッツベルグだ。

 無論、ミーティア国内でも、帝国化を望む者は存在する。

 帝国となれば、ミーティアがより強い国になるのは、間違いないだろう。だが、植民地を得る過程で、必然的に戦争に乗り出すことになる。

 それは、ルシアが最も望まないことだ。

「……閣下、そろそろお茶になさっては?」

 その時、部屋の隅に待機していた赤毛の使用人が、ティーカップの乗った銀製の盆を掲げて、恭しく侯爵に歩み寄った。

「おっと。飲み過ぎてしまったかな。そうするよ。」

 バーナードは、ぽんと手を打つと、にこりと笑んでカップを受け取った。爽やかな香気を胸いっぱいに吸い込んで、静かに紅茶を啜る。

 ウォルターの手紙にも、バーナードが最近、帝国派議員と親交を深めていると書かれていた。

 彼の口からまろびでた言葉は、周囲に感化されている証だろう。

 ルシアは、戦争を助長するような政策を好まない。

 やはり、サミュエルの言う通り、彼をあまりルシアに近付けるべきではないのかも知れない。

 驟雨の音を聞きながら、エドワードの不安は、一層濃くなっていった。

 

 

 

 夜は深くなり、オレンジ色の燭光も、どこか頼りない。

 エドワードは、ひとり、侯爵の屋敷の廊下を彷徨っていた。

 ルシアは、先程寝室へ向かったから、今頃、幸せな夢の中だろう。

 部屋の番は、サミュエルが務めているにしても、ここが、疑惑の人の屋敷であることに変わりはない。出来ることなら、一刻も早く戻りたかった。

 それなのに、まさかこの歳になって、手洗いの帰りに道に迷うとは、誰が想像するだろうか。

 侯爵の別荘が広いにしても、離宮や、王宮ほどではない。勝手を知らないとはいえ、情けないにも程がある。

 エドワードは、忸怩じくじたる思いで、廊下の角を曲がった。

 ルシアと、自分たちの部屋は、二階にある。確か、この先に階段があったはずだ。

 エドワードは、豪奢な階段を上ると、廊下に燈された燭光を頼りに、黙々と部屋を探しながら進んでいく。

 しばらくすると、一室だけ、ぼんやりと明かりの漏れている部屋があった。

 ここは、恥を忍んで、道を訊ねるしかないだろう。

 エドワードは、溜息をひとつこぼすと、光に向けて歩き始めた。

 宵闇に、エドワードの靴音だけが、こつりこつりと響き渡る。

 その部屋まで、あとすこしのところに来たときだった。

 わずかに開いた扉から、かすかな話声が聞こえてくる。

 エドワードは、自然と足音を忍ばせると、慎重に歩を進めた。

「いや、さっきは、ちょっと飲み過ぎたかな。つい口が滑ってしまったよ。」

 部屋の中から、失態を笑い飛ばす明るい青年の声が響く。

 エドワードの知る彼とは、幾分言葉遣いが違うが、恐らく侯爵のものだ。

「以後、お気を付けください。閣下の道は、まだ半ばなのですから。」

 この畏まった声は、先程いた赤毛の使用人だろう。

 いったい、何の話なのだろう。

 エドワードは、じわじわと距離を詰めると、そっと聞き耳を立てた。

「そうだね。俺とアンブローズの描く未来には、まだ遠いからな。」

 侯爵の出した名前に、エドワードは、ぴくりと足を止めた。

 音を立てて、疑惑が、確信に変わっていく。

 サミュエルの懸念の通り、彼は最初から、自らの野心のために、ルシアに近付いたのだ。

 エドワードの胸に、沸々と、怒りが湧いてくる。瞼の裏の闇が、赤く見えた。

 ルシアの眩い笑顔が、頭に浮かぶ。

 エドワードは、かっと目を見開くと、一歩足を踏み出した。

「誰だ?」

 物音に気付いて、赤毛の使用人が、扉の隙間からぬっと顔を出す。緑色の双眸そうぼうは、使用人に似合わず、研ぎ澄まされた刃のようだった。

「騎士様。お部屋は、右に曲がった先ですよ。」

 使用人は、エドワードの顔を見て、ほっと眉を下げた。

「……白面騎士団と、アンブローズ・ヒースコートと、繋がりがあるんですね?」

 まどろっこしいのは、どうにも性に合わない。

 エドワードは、空とぼけている使用人に、単刀直入に問うた。

「閣下、失礼!」

 使用人は、短く叫ぶと、エドワードの問いに答えもせずに身を翻した。彼は、有無を言わせずバーナードを抱え上げると、迷いなく、宵闇に沈む窓から飛び降りる。

 エドワードは、窓辺に駆け寄ると、身を乗り出して地上を覗いた。

 二階の窓から飛び降りたというのに、使用人は、侯爵を抱えたまま、悠々と走り去っていく。

 彼らの向かう先に見えるこぢんまりとした建物は、厩舎だろうか。

 エドワードは、さっと踵を返すと、一直線に兄の元へと走った。

 

 

 

「兄様! 大変だ!」

 エドワードは、転げ込む勢いのまま、大声を張り上げた。

「どうした、エディ。」

 サミュエルは、腰にいた剣に手を掛けながら、眉を跳ね上げる。

「侯爵、やっぱり何か企んでいた! しかもアンブローズ・ヒースコートが絡んでいる! 俺に気付かれて逃げたから間違いない。今、厩舎の方へ向かっている。」

 なりふりなど、構っていられない。

 エドワードは、精一杯、情報を述べ立てた。

「エディ、ルシア様を頼む。」

 サミュエルは、剣呑な眼差しで雨の降りしきる窓の外を睨むと、あっという間に、廊下の闇へと消えていった。

「……何の騒ぎです?」

 今の騒動で、起こしてしまったのだろう。

 ルシアは、眠たげに目をこすりながら、部屋から顔を出した。

「落ち着いて聞いてください、ルシア様。サウザンクロス侯は、白面騎士団と繋がって、ルシア様を利用しようとしていました。」

 きっと、この事実は、彼女を傷つける。深く、深く傷つけてしまうだろう。

 それでも、伝えない訳にはいかない。

 エドワードは、苦い気持ちを飲み込んで、ルシアの双眸を覗き込んだ。

「そんな、嘘よ。嘘よね、エドワード。バーナードが、そんな……。」

 ルシアは、亜麻色の瞳をこぼれんばかりに見開くと、震えながら、何度も何度も、首を横に振った。

 どうしても、信じたくないのだろう。

 その気持ちは、痛いほどによく分かる。自分も、嘘であって欲しかった。

「残念だけど、嘘ではないです。逃げたので、今、サミュエル兄様が追っていきました。万一のこともあるから、ルシア様は、絶対に俺から離れないで。」

 ルシアの大きな瞳から、ぽろぽろと涙が零れた。止めどなく溢れる大粒の雫は、堰を切ったように、止まる気配がない。

 エドワードは、ルシアの涙を優しく拭うと、彼女の手をそっと握った。

 今のルシアに掛ける言葉を、自分は、持ち合わせていない。これくらいしか、出来そうになかった。

 友に、憎からず想っていた人に裏切られた衝撃は、彼女の泣声を、闇に響かせる。

 その全てを、篠突く雨が、掻き消した。

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