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広島郷土史:江戸時代編(4)旧暦6月1日は「命の充電」をする日!!


旧暦の水無月朔日(6月1日)は霊力を復活させる日だった

旧暦の水無月朔日(6月1日)には、古くから大切な意味がありました。
それは、「霊力の復活」を願う日だったからです。
 
元旦にお餅を食べることには、「霊力をいただく」という意味があります。
例えて言うなら、神様の力をいただいて「命の充電する」ということです。
6月1日は、ちょうど一年の半分の「折り返し地点」ですから、このあたりで、もう一度「霊力の復活」を願い、「命の充電」をする必要があるという訳です。
 
古くから朝廷では、この旧暦の水無月朔日(6月1日)を「氷の朔日 (こおりのついたち)」と言って「氷室(ひむろ:氷の倉)」を開き、冬の時期から地下に保存していた氷を食べる、という行事がありました。民間では、「氷餅」、つまり「かき餅(乾燥させた餅)」を食べる習わしがありました。

氷の朔日 (こおりのついたち)
6月1日のこと。古く宮中では、「氷室の節会(ひむろのせちえ)」といって氷室に保存した氷をこの日に食べる行事があり,江戸時代にも宮中や将軍家が献上された氷を食していた記録がある。
民間でもこの日を「氷の朔日」といい,正月の餅を「氷餅」にして保存し、この日に食べる習俗がある。

出典:改訂新版 世界大百科事典「氷の朔日」より
現在の「氷室」の写真(この家屋の地下で氷を保存します):JRおでかけネット「北陸」より

領民に慕われた広島藩第8代藩主 浅野斉賢(なりかた)公の「国主祭」

江戸時代(1800年代ころ)の広島藩では、旧暦の「水無月朔日(6月1日)」には「国主祭」が行われていました。
これは、広島城下の各町内に小さな祠を設けお供え物をして、藩主の長寿を祈るというお祭りだったのです。
 
広島藩の重役だった小鷹狩元凱(こだかりもとよし)氏が、明治になって著した「自慢白島年中行事」には、次のように記されています。

六月の朔日を持って吉日とし、広島市街の六十町、市街に続く新開の約三十町は町ごとに、清潔の地を撰びて、一つの仮屋を建設し、正面高処に神棚掲げ、前に神鏡幣帛を置き、神酒や重ねの坐り餅、恭しくも供えたる(中略)そもそもこの祭祀の起因をたずぬれば 報恩の為、藩主の長寿をひとへに祈るなり。

出典:小鷹狩元凱「自慢白島年中行事」より

もともと、この「国主祭」は、広島藩第8代藩主浅野斉賢(なりかた)公のお誕生日である旧暦の9月21日を祝って、広島城下の竹屋町の住人、廣濱屋才次(ひろはまやさいじ)さんというひとが始めた祭祀でした。
 
それが次第に城下の各町内へと広まって行き、いつしか9月21日ではなく、6月1日になりました。
(ただし、竹屋町だけは、9月21日のまま国主祭を行ったそうです。このお祭りは明治4年の廃藩置県まで存続したとの事です)
 
古くからこの日が氷の朔日、つまり「命の再充電」を願う日であったことから、こうなるのはごく自然な成り行きだったのです。
 
広島藩第8代藩主 浅野斉賢(なりかた)公(1773~1830)は、多くの事績を残した名君として歴史に名を残されています。
藩主としての在位期間は、1799年~1830年までの31年間にわたり、この間、藩の財政再建や殖産振興策を進めたことにより、民生が安定しました。
また、「芸藩通史」の編纂を、頼杏坪(らいきょうへい:頼山陽の叔父)へ命ずるなど文化的な事業も行われました。
 
「国主祭」が広島城下で自然発生的に広まって行ったのは、多くの領民が斉賢公を慕っていたことの、なによりの証左と言えるでしょう。

天明年間(1785年ころ)の広島城下の町割り  出典:「広島の風景」HPより

浅野斉賢公の仁政を称える話として、以下のエピソードが残されています。

ある日、斉賢公が鷹狩にお出かけになったときのこと。
ある従者が、道端の「藍(あい)」を何気なく踏みつぶして通り過ぎました。斉賢公がそれを見て、「(いま踏んだものは)何か?」と聞くと従者は「藍でございます」と答えます。

すると、「(藍だとわかっているのなら)それは踏みつぶすものではない。これからよくよく注意せよ」と仰せられました。
斉賢公は、藍染めの原料として領民が大切に育てている「藍」に敬意を払うべきである、と教えられたのです。
この話しを漏れ聞いた領民たちは、皆、公を敬愛し心服しないものはいなかったとのことです。

(出典:広島市史 第三巻P4~5より意訳)

さらに、別のエピソードもご紹介しておきます。

斉賢公の病むや、庶民憂慮し、あるいは裸足・被髪(髪を整えないまま)にて神社に詣で、あるいは寒水に浴して、その平癒を祈願するもの相次ぎ、数十百群に至る。もって庶民より敬慕敬愛せらるるの深甚なるを見るべし。
故に(斉賢公の)逝去せし時、百姓哀悼感泣せざるものなかりしと言ふ。

(出典:広島市史 第三巻P4~5より)
原爆で倒壊する前の広島城天守閣 出典:広島市HPより

かつての広島城下では、旧暦水無月(6月)が重要な時期だった

江戸時代の藩政期、広島では旧暦の水無月(6月)には、大切な行事が数多くありました。(詳細は、リンク先の筆者の記事をご参照ください)
 
(1)旧暦6月1日の 「国主祭」(本稿)

(2)旧暦6月17日の 宮島厳島神社の「管弦祭」と「御供船」
(リンク先)
広島郷土史:江戸時代編(2)厳島管弦祭には、広島城下から大船が繰り出していた!|BUNTALK (note.com)

(3)同日の広島城下での「厳島大明神・誓願寺」の縁日
(リンク先)
広島郷土史:戦中戦後編(2)丹下健三氏の「平和の軸線」|BUNTALK (note.com)

 (4)同日の京橋川での「白島九軒町の火振り」
(リンク先)
エッセイ:比呂暇太郎(8)Calbeeの「かっぱえびせん」は、広島の川から生まれたんで!|BUNTALK (note.com)

江戸時代からある広島の祭りといえば、「住吉さん」「とうかさん」「えべっさん」が、現在でも「広島三大祭り」として有名です。
 
今は「広島の夏の行事」として、「広島平和記念式典」が新暦の8月6日に行われていますが、それ以外の主な夏のお祭りとしては「住吉祭」が挙げられます。
 
住吉神社(広島市中区住吉町)の「住吉祭」は、旧暦の6月(新暦では7月中旬ころ)に行われています。

この日、拝殿の前に設置された大きな「茅の輪」をくぐることで、厄払いができると言い伝えられています。また、罪や穢れを流すという「人形(ひとがた)流し」も行われます。
また、厳島神社の管弦祭にちなんで、漕伝馬船(こぎでんません)による神事が2011年より復活されました。

出典:広島3大祭りのひとつ“住吉さん” 初挑戦の漕(こぎ)伝馬 - ライブドアニュース より

「とうかさん」と呼ばれる圓隆寺の「稲荷祭」は新暦6月にありますが、これはもともと旧暦の5月の「端午の節句」のお祭りでした。

また、「えべっさん」とも呼ばれる「胡大祭」は新暦11月の年末の胡神社のお祭りで、商売繁盛の縁起物「熊手」が売り出されることも有名です。

「祭り」の伝統を守り次の世代に継承してゆく原動力は、あくまでもそれを担っている「街の人々の心」です。
 
現代を生きる私たちは、原爆投下以前の「広島の夏」がどのようなものであったかを記憶に留め、夏に行われる「祭り」の意義をもう一度考えてみる必要がありそうです。
 
(参考文献) 中道豪一 博士著「古地図と歩く広島」(南々社)

尚 表紙のイラストは おくちはる|イラスト・デザインする人|note さんのものをお借りしました。誠に有難うございました。


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