『従征緬甸日記』⑪

【原文】
緬俗、男子漆身彫骨、蓄髪跣足。不衣裩褲、身披方布一幅、以帯系之、名曰「抄子」。崇尚仏教、毎至大村寨或土司所居、必有緬寺。浮屠上懸白紙幡竿。過錫箔江至一塩場、前有緬寺、外建橋道、彫石為人・馬・獅・象等物、両旁森列、寺屋宏敞。頗似内地梵宇。緬人多於幼時出家、入寺習学緬文、長仍還俗。緬字、或用蒲葉刻画於上、或用黒紙写粉字。通事諳緬文者
少、軍中毎将緬文翻擺夷字、又以擺夷字翻漢文、重訳而得之。夷人所居、多草房、竹屋、不覆瓦。其地皆種糯米或粳・糯雑種、内地人食之、易於遘疾。惟大山往時内地商民聚集開鉱、但種粳米、食之無害。夷民素貯穀地窯、官兵往往掘得之。我師自永昌起行、止裏二月糧、兼以牛隻代一月糧。未幾、牛多倒斃、糧亦漸缺。師行五月、半食緬地穀。木邦広産棉花、往時
販入騰越・永昌貨売。大山産茶,味亦可飲。夷地山穀中産有青果、味如閩中橄欖、軍人多摘食以解渇。又有黄果樹、其干甚大、枝葉極茂、毎株可蔭数畝、夷人重之。其餘食物、有冬瓜・南瓜・芋艿・青菜・辣椒・酸筍・生姜・黄豆・醃魚・塩・煙之類。此緬地大略也。
【語釈】
・漆身 体に漆を塗ること。(大漢和)
・彫骨 骨に彫り物をする。 
・蓄髪 髪を生やす。(大漢和)
・跣足 はだし。(漢辞海)
・裩褲 したおびとズボン。(漢辞海)
・抄子 chaozi
・崇尚 重んずる。敬う。(漢辞海)
・幡竿 はたざお。(漢辞海)
・宏敞 ひろくたいらかなこと。見晴らしのいい地形。(大漢和)
・梵宇 寺・寺院。(漢辞海)
・蒲葉 不明。
・粉字 不明。
・擺夷字 泰族の文字。(漢語)
・粳 うるち米。(漢辞海) 
・遘疾 疾にまみゆと訓読した。(漢辞海)
・裏 不明。
・未幾 いまだ幾ばくかならず=すぐにと訓読した。
・橄欖 カンラン。(漢辞海)
・辣椒 唐辛子。
・酸筍 たけのこの発酵食品。
・醃魚 魚の塩漬け。(漢辞海)
【書き下し】
緬俗、男子漆身し彫骨し、蓄髪し跣足す。裩褲を衣ず、身を方布一幅で披い、帯を以て之を系し、名づけて曰わく「抄子」と。仏教を崇尚し、毎に大村寨或いは土司の居する所に至ると、必ず緬寺有り。浮屠には上に白紙を幡竿に懸ける。錫箔江過ぎて一塩場に至り、前に緬寺有りて、外に橋道を建て、石を彫りて人・馬・獅・象等の物と為し、両旁に森列なり、寺屋宏敞なり。頗る内地の梵宇に似る。緬人多くが幼時に出家し、寺に入りて緬文を習学し、長じて仍ち還俗す。緬字、或いは蒲葉を用い上に刻画し、或いは黒紙を用い粉の字で写す。通事緬文を諳る者少なく、軍中毎に将に緬文を擺夷字に翻せんとし、又た擺夷字を以て漢文に翻し、重ねて訳して之を得る。夷人の居する所、草房・竹屋多く、瓦で覆わず。其の地皆糯米或いは粳・糯雑種を種え、内地の人之を食するに、疾に遘い易し。惟だ大山の往時、内地の商民聚集し鉱を開き、但だ粳米を種えるのみ、之を食するに害無し。夷民素より地窯に貯穀し、官兵往往にして堀りて之を得る。我が師永昌より起行し、止だ裏二月の糧、兼ねて以て牛隻一月の糧に代す。未だ幾ばくならずして、牛多く倒斃し、糧も亦た漸く缺す。師行きて五月、半ば緬地の穀を食す。木邦広く棉花を産し、往時騰越・永昌に販入し貨売す。大山茶を産し,味も亦た飲すべし。夷地の山穀中に青果を産有し、味閩中の橄欖の如く、軍人多く摘みて食べ以て渇を解く。又た黄果樹有りて、其の干甚だ大きく、枝葉極めて茂り、毎に株数畝を蔭すべき、夷人之を重ねる。其の餘の食物、冬瓜・南瓜・芋艿・青菜・辣椒・酸筍・生姜・黄豆・醃魚・塩・煙の類有り。此れ緬地の大略なり。
【現代語訳】
緬甸の風俗について述べる。男子は体に入れ墨を入れ骨に彫り物をし、髪を伸ばしはだしである。したおびやズボンを身に着けず、体を四角い布一枚で覆い、帯で留める。名づけて「抄子」という。仏教を敬い、大きな村の寨や土司の居住する所に至るたびに、必ず緬甸の寺がある。寺院は上に白紙を旗竿に懸けている。錫箔江を過ぎてある塩場に到着したところ、前に緬甸の寺があって、外に橋を建て、石を彫って人・馬・獅・象等の像を作り、両脇に森が連なり、寺院は広大であった。非常に内地の寺院に似ている。緬甸の人の多くが幼い時に出家し、寺に入って緬甸文字を学び、成長すると還俗する。緬甸文字は、あるものはヤシの葉っぱを使用してその上に刻み、あるものは黒い紙を使用し粉を字とし書写している。通訳は緬甸文字を読める者が少なく、軍中で緬甸文字を擺夷の文字に翻訳し、擺夷の文字を漢文に翻訳し、重訳して緬甸文字を読んだ。緬甸人の居住する所は、草房・竹屋が多く、その家は瓦で覆われていなかった。緬甸の地では皆なもち米やうるち米ともち米の雑種を植えており、中国の人がこれを食べると、病気に遭いやすくなる。しかし、大山に行った時には、中国の商人や民が集まって鉱山を開いていたが、そこではうるち米だけを植えていた。それを食べても害がなかった。緬甸の民は平素より地中の窯に穀物を貯蔵しており、官兵はいつも堀ってこれを得ていた。我々の軍が永昌から行軍し、ただ二か月分の兵糧と、牛の一月分の食糧に代えた。すぐに牛の多くが倒れ死に、兵糧もまただんだんと欠乏してきた。軍隊が行軍して五か月経ち、半分ほどは緬甸の地の穀物を食べた。木邦は広く棉花を産出し、行く途中で騰越・永昌に持って行きそれを売った。大山は茶を産出し,味も飲みやすかった。緬甸の地の山の穀物の中に青い果実をつけるものがあり、味は四川のカンランに似ており、軍人の多くがこれを摘んで食べて喉の渇きをいやした。また、黄色い果樹があって、天気が日照りの時に大きく育ち、枝葉が非常に茂り、数畝を影で覆うので、緬甸の人はこの木をたくさん植えている。そのほかの食物には、冬瓜・南瓜・里芋・青菜・唐辛子・タケノコの漬物・生姜・黄豆・塩漬けの魚・塩・タバコなどが有った。これが緬甸の地の大略である。

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