趙翼『簷曝雑記』

「緬甸之役」
【原文】
征緬之役、其詳具余所撰『緬事述略』中。余以鎮安守、於乾隆三十三年奉命至軍。時果毅公阿里袞方為将軍、命余参軍事。未幾今大学士誠謀英勇公雲巖阿公亦以総督兼将軍至。両将軍合営、翼仍在幕府。明年四月、傅文忠公恒来滇経略、余以故吏又槖筆以従。時方議冒暑興師不必避瘴、大兵従騰越州西渡戛鳩江、経猛拱・猛養直抵緬酋所居之阿瓦。余在滇一年余、知暑瘴不可不避。必俟霜降後瘴始退、軍行無疾病、始可展力。且大兵既渡戛鳩、全在江外、万一不能如志、則帰路可虞。嘗力言之、而公意已定、不見納。惟偏師応援一節、公初議大兵渡戛鳩、別令提督五福統偏五千、従普洱進、以分賊勢。時方閲地図、余指謂公曰「図中戛鳩、普洱相距不過三寸許、其実有四千余里。両軍既進、東西遠隔、声息不相聞、進退皆難遙断。前歳明将軍之不返、由不得猛密路消息也。」公始瞿然、問計安出。余謂「大兵既渡戛鳩之西、則偏師宜由江東之蛮暮・老官屯進取猛密。則夾江而下、造船以通往来。庶両軍可互応。」公是之。乃罷普洱兵、改偏師循東岸以進。其後大兵西渡、遭瘴気多疾病、而雲巖将軍所統江東一軍独完、遂具舟迎公於猛養、渡而帰。又以此兵敗賊於蛮暮、攻賊於老官屯、得以蕆事。余自愧在軍無所賛画、惟此一節、稍可附于芻蕘之一得。憶昔直軍機時、公於漢員中最厚余、満員中最厚雲巖。公今征緬之役、因余説而改偏師、因雲巖公統偏師而得善帰、此中似有機縁也。
【語釈】
・経略 天下を経営し、四方を攻め取って平定する。計画する。(漢辞海)
・直抵 直接到達する。(漢語)
・展力 効力(漢語)
・力言 力をこめて申し上げる。(漢語)
・見納 不明。
・虞 おもんぱかる。
・偏師 戦闘で主力軍を補佐する側面軍。(漢語)
・統偏 偏師を統率する。
・遙断 不明。
・瞿然(クゼン)驚いて、きょろきょろする様。驚き、恐れるさま。(漢辞海)
・罷 やめる。帰る。(漢辞海)
・完 仕遂げる。まっとうす。と訓読する。(漢辞海)
・蕆 成し遂げる。
・芻蕘 草刈りと木こり。自分の文章や詩を謙遜して言う言葉。(漢辞海)
・厚 ねんごろであるさま。親切であるさま。(漢辞海)
・機縁 きっかけ。機会。(漢辞海)
【書き下し】
征緬之役、其れ詳しくは余の撰する所の『緬事述略』中に具う。余鎮安守を以て、乾隆三十三年に命を奉じ軍に至る。時果毅公阿里袞方に将軍に為らんとし、余に命じて参軍し事わしむ。未だ幾ばくならずして今大学士誠謀英勇公と雲巖阿公も亦た以て総督と将軍を兼ねて至る。両将軍合営し、翼仍ち幕府に在り。明年四月、傅文忠公恒滇に来たりて経略し、余故吏を以て又た槖筆を以て従う。時方に暑を冒し師を興さんとするに必ずしも瘴を避けず、大兵騰越州より西のかた戛鳩江を渡り、猛拱・猛養を経て緬酋の居る所を直抵し阿瓦に之くを議する。余滇に在りて一年余、暑瘴の避けざるべからざるを知る。必ず霜降りて後を俟ち瘴始めて退き、軍行くに疾病無く、始めて展力すべし。且つ大兵既に戛鳩を渡り、全て江外に在り、万一に志の如くす能わず。則ち帰路虞すべし。嘗て之に力言するも、しかして公の意已に定まり、見納せず。惟だ偏師し一節を応援するのみ。公初め大兵の戛鳩を渡るを議するも、別に提督五福に令して五千を統偏させしめ、普洱より進ましめ、以て賊の勢を分かつ。時方に地図を閲せんとし、余指して公に謂いて曰わく「図中の戛鳩、普洱相い距てること三寸に過ぎざるばかりなれど、其の実四千余里有り。両軍既に進み、東西遠く隔て、声息相い聞こえず、進退皆遙断すること難し。前の歳明将軍之きて返らず、由りて猛密の路の消息を得ざるなり。」と。公始め瞿然とし、問いて安を計り出づ。余謂いていわく「大兵既に戛鳩の西を渡り、則ち偏師し宜しく江東の蛮暮・老官屯より猛密を進取すべし。則ち夾江より下り、造船し以て往来を通す。庶いねがわくは両軍互いに応ずべしを。」と。公之を是とす。乃ち普洱兵を罷えし、改めて循東岸に偏師し以て進む。其の後大兵西へ渡り、瘴気多く疾病に遭うも、しかして雲巖将軍の江東を統べる所の一軍のみ独り完し、遂に舟を具して公を猛養に迎え、渡りて帰る。又た此の兵の蛮暮に賊に敗れるを以て、賊を老官屯に攻め、得て以てを事を蕆す。余自ら軍に在りて賛画する所無きを愧じるも、惟だ此の一節のみ、稍芻蕘の一得を附するべし。昔軍機に直する時を憶ふに、公漢員中に最も余を厚くし、満員中に最も雲巖を厚くす。公今征緬の役にありて、余説くに因りて偏師を改め、雲巖公偏師を統べるに因りて善く帰るを得、此の中に機縁有るに似たるなり。
【現代語訳】
清緬戦争については、私の著した『緬事述略』中に詳細が載っている。私が鎮安守であったとき、乾隆三十三年に命令を受け従軍した。その時は果毅公阿里袞がちょうど将軍に任命された時で、私に命令して参軍させ部下にした。それからすぐに、今の大学士誠謀英勇公と雲巖阿公もまた総督と将軍を兼ねて従軍した。二人の将軍は宿営を併せ、私は幕僚で働いた。次の年の四月、傅文忠公恒が滇に来て戦争の計画を練った。私はもともと官僚だったので再び筆記用具を持って従軍した。その時はちょうど、暑さの中戦争を仕掛けようと必ずしも瘴気を避けようとするわけではなく、大軍が騰越州から西へ戛鳩江を渡り、猛拱・猛養を経て緬甸の酋長がいる所を直接攻撃し阿瓦に移動することを議論していた。私は滇に住んで一年あまり経ち、瘴気が避けられることを知っていた。霜がおりるのを待った後瘴気は必ず後退するので、行軍する際に病気にかかることがなく。効力があった。しかし大軍が既に戛鳩江を渡っていて、すべて川の外側におり、万が一にも私の意見のようにすることができなかった。つまり帰路が心配なのである。かつて将軍に力をこめて申し上げたが、将軍の意志は既に定まっていたので、私の意見は採用されなかった。ただ側面の軍が一部隊を援護するだけであった。将軍は最初、大軍が戛鳩江を渡ることを議論した。提督五福が五千の兵を率いて、普洱から進軍させ、敵の軍勢を分けさせるよう命令した。その時はちょうど地図を見ている時で、私は地図を指して将軍に「地図中の戛鳩と普洱の距離は三寸を超えないほどですが、実際の距離は四千里あまりあります。両軍は既に進軍し、東西遠く隔てており、お互いの消息は分かりません、進退を決断するのは難しいです。前年、明瑞将軍が進軍し退却しておりません。それでは猛密への道の情報を得られないでしょう。」と申し上げた。将軍は初めのうちは恐れおののいていたが、安全策を取った。私は再び、「大軍は既に戛鳩の西側を渡っているので、側面軍として河の東の蛮暮・老官屯から猛密を進取するべきです。つまり夾江から下り、船を造ってそれで往来するのです。両軍が互いに連携を取られることを願います。」と申し上げた。将軍はこの意見に賛成した。そこで普洱に向かった兵を退却させ、改めて河の東の岸に沿って進軍させた。その後大軍は西へ渡河し、瘴気が多く疾病になったが、雲巖将軍の率いる江東を支配する一軍だけが任務を完遂し、ついに舟を用意して将軍を猛養で迎え、渡河して退却した。また、この軍が蛮暮で敵に敗れたので、敵を老官屯で攻撃し、敵に勝利することを成し遂げた。私は従軍しているのに自賛できることがないことを恥じていたが、ただこのことだけ自賛できる。昔軍機処にいた時を思い返せば、将軍は漢族の成員の中で私を最も厚遇し、満族の成員の中で雲巖将軍を最も厚遇していた。将軍は今清緬戦争に従軍しているが、私の意見で側面軍の行軍を改め、雲巖将軍が側面軍をよく統率したので安全に退却することができ、このことの中に機縁があるようだと思った。

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