『皇朝武功紀盛』②

【原文】
(乾隆三十二年)十一月二日始出宛頂、越八日、整隊入木邦。軍容甚盛、留参賛珠魯訥守之。給以兵五千、俾為声援。明瑞自率万二千人抵錫箔江、結浮橋以渡。至蒲卡、始遇賊之前哨。擒数人、詢知賊聚于蛮結、遂進蛮結。賊果立十六柵以待。領隊大臣観音保麾衆先拠山之左臂、賊来争、不得上。翼日、両軍相持未決。而顧賊柵甚堅。其法、立木為柵、聚兵于其中。我槍砲僅及其柵、而賊従柵隙処発鳥槍撃我兵輒中。此賊之長技也。哈国興請分三路登山、俯趨而薄之。軍士皆奮、時出辺已逾月、未見賊、至是与賊遇、無人不欲殺賊也。一呼而直逼其柵、有黔兵王連者先躍入、十余人継之、賊恇乱不知所為、多被殺、遂破一柵。乗勢復攻得其三、而十二柵之賊乗夜尽遁。蓋賊自新街交兵以来、従未見此大創、已首窜喙伏、不敢復抗矣。
【語釈】
・珠魯訥 那尔氏、满洲镶白旗人、清朝将领。(baidu)
・俾 しむ。(漢辞海)
・結 連結する。(漢辞海)
・蒲卡 地名。 
・詢知 調べて知る。(漢辞海)
・麾(キ)指揮する。(漢辞海)
・臂 腕のように長く伸びた部分。(漢辞海)
・翼 翌の通字
・哈国興 人名
・俯趨 からだを屈めて、走る。
・逾月 翌月になる。(漢辞海)
・黔兵王 貴州省の土兵の王。
・恇乱 恐れ混乱する。
・首竄 首を隠す
・喙伏 口をふさぐ
【書き下し】
(乾隆三十二年)十一月二日始めて宛頂より出で、八日を越え、隊を整え木邦に入る。軍容甚だ盛んなりて、参賛珠魯訥を留め之を守らしむ。兵五千を以て給し、声援と為さしむ。明瑞自ら万二千人を率い錫箔江に抵たり、浮橋を結し以て渡る。蒲卡に至り、始めて賊の前哨と遇う。数人を擒にし、賊の蛮結に聚るを詢知し、遂に蛮結に進む。賊果たして十六柵を立て以て待つ。領隊大臣観音保衆を麾して先に山の左臂に拠り、賊来りて争い、上るを得ず。翼日、両軍相い持して未だ決せず。しかも顧賊の柵甚だ堅し。其の法、木を立て柵と為し、兵を其の中に聚める。我が槍砲僅かに其の柵に及び、しかして賊柵の隙の処より鳥槍を発し撃ち我兵輒ち中にはいる。此れ賊の長技なり。哈国興三路に分かれ山を登ることを請い、俯趨して之に薄す。軍士皆な奮い、時出辺已に逾月なり、未だ賊を見ず、是に至り賊と遇い、賊を殺すを欲さざる人無きなり。一呼して其の柵に直逼し、黔兵有りて王に連なる者先に躍入し、十余人之に継ぎ、賊恇乱し為す所を知らず、多く殺され、遂に一柵を破る。勢に乗じて復た攻め其の三を得て、十二柵の賊夜に乗じて尽く遁す。蓋し賊新街より交兵して以来、未だ此の大創を見ざることに従い、已に首窜し喙伏し、敢えて復た抗せず。
【現代語訳】
乾隆三十二年(1767年)十一月二日に宛頂から出発し、八日を越えたころ、軍隊を整列させ木邦に入城した。士気は非常に高かったので、参賛大臣の珠魯訥を留め木邦を守らせた。兵五千を与え、援軍とさせた。明瑞将軍は自ら一万二千人を率い錫箔江で、浮橋を連結させて渡河した。蒲卡に到着し、初めて敵の前哨と遭遇した。数人を捕虜にし、敵軍が蛮結に集まるということを尋問して知り、蛮結に進軍した。敵は果たして十六の柵を設置し待ち構えていた。領隊大臣の観音保は兵を集めて先に山の左側に拠点をつくった。敵がやって来て戦ったが、敵は上がれなかった。翌日、両軍はお互い持久戦の構えを見せ勝敗はまだ決まらなかった。しかも雇われた敵兵の柵は非常に守りが堅かった。その方法は、木を立て柵とし、兵をその中に集める。我が軍の鉄砲や大砲はわずかにその柵に及ぶが、敵は柵の隙間から鉄砲を発射して攻撃し、我々の兵はたちまち隠れてしまう。これが敵の得意戦法である。哈国興は三つの道に分かれ山を登ることを要請した。兵は身をかがめながら走って敵に肉薄した。兵士は皆奮いたち、時は出辺してから已に翌月になっており、いまだ敵兵を見ていなかった。ようやく敵と遭遇し、敵を殺したくない人はいなかった。喊声をあげてその柵を直接攻撃し、黔の兵で王に率いられた者たちが先に柵内に入り、十余人がこれに続いた。敵は驚きおびえ何を行えばよいか分からず、多くが殺された。ついに一つの柵を破壊した。勢いに乗じてまた攻撃し三つの柵を得て、残りの十二柵の敵軍は夜に乗じてことごとく遁走した。思うに敵と新街から交戦して以来、このような大勝利を見なかったので、既に首を隠し口を覆い、二度と抵抗しようとは思わなかったようだ。

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