『従征緬甸日記』⑧

【原文】
二月初十日夜半、前隊先発、将軍令文員相継以出、人馬喧闐、賊已知覚。然黒夜不敢出、惟合営大噪、槍砲雨集、被傷頗衆。方過賊営前、渉深渓、官兵争渡、践踏溺斃者甚多。裕下馬渉水、幾至滅頂、僕役尽失、独乗駑馬緩行而前。十一日午後至一山、山径甚険、攀援而上、賊已至山下。鼓噪放槍、時有副将本進忠整兵以待、賊不敢上。裕馬極疲乏、適有僕騎騾而来、
取乗之。薄暮遇部郎馮光熊同行、聞将軍独自殿後、衆賊囲繞、且行且戦、中途陣亡。領隊大臣観音保、扎拉豊阿亦死之。嗚呼、裕随将軍逾半載、見其処事明決、自奉極倹、俸廉外、絲毫無所染、其清操已大過人、且驍勇絶倫、兵衛尚衆、寧不能生入永昌。特因保護全軍、以一当百。見危授命、効死疆場、可勝痛哉。先是、参賛大臣額爾景額率兵攻老官屯、相持日久、
不克而病歿、上以額爾登額代之。嗣額爾登額移兵至宛頂、距猛域止数程、巡撫鄂寧屢促赴援、不聴。設斯時額爾登額整一旅之師、星馳赴援、不特兵囲立解、兼可併力剿賊、迅奏膚功。乃観望不前、以致僨事、此固罪有攸帰矣。十二日、午後天雨、行至山中。遠聞槍声、有随征広南沙練走而告曰「賊至矣。」衆咸奔避、裕与部郎馮光熊按轡自如、卒亦無賊。十三日早、
至一山。俯視土境、猛卯江不遠。上無路径、草茂極滑、既難駐足、又無可攀援。因匍匐而過、両足蹣跚、竟不能挙。忽遇一通事乗馬至、欲買而無金、貸於同僚之僕、得乗之而至額爾登額駐兵之宛頂。就糧員仮宿、数月間衣不解帯、至是始得安寝。裕体質素弱、不耐艱苦。自猛域至宛頂、計行三昼夜、不特無帳房、且乍雨乍晴、衣履屢湿、所携飯団一枚已食尽、飢渇殊不
可忍、見軍人炊飯、索湯飲之、不啻玉液。因嘆平日、食梁肉習為固然、際此困厄、始知幸生升平之世、叨聖主福庇者已久矣。自入宛頂即患痢、臥病数日、力疾赴永昌、弟山甫見之、幾不相識。窃念裕識浅才短、蒙将軍不棄、相随行陣、屢蹈危亡、非仰邀祖父之黙佑、豈能複還金歯耶。
【語釈】
・喧闐 騒々しいさま。(漢辞海)
・滅頂 災禍がひどく人が死ぬ様。(漢語)
・攀援 助けて支える。(漢辞海)
・鼓噪 太鼓を打ち鳴らし鬨の声をあげる。(漢辞海)
・放槍 火縄銃を発射する。
・本進忠 人名。(人名権威)
・騎騾 ラバにのる。
・部郎 中央六部中の郎官。(漢語)
・馮光熊 人名。(人名権威)
・領隊 隊伍を率いる。(漢語)
・観音保 人名。(人名権威)
・扎拉豊阿 人名 (人名権威) 
・逾 こえる。河川などを渡る。時間などが過ぎる。(漢辞海)
・半載 半年。
・倹 へりくだったさま。(漢辞海)
・俸 官吏の給料。(漢辞海)
・絲毫 きわめてわずかであるさま。(漢辞海)
・清操 清廉潔白である行い。(漢語)
・効死 死力を尽くして恩に報いる。(漢辞海)
・驍勇 強くて勇ましい士卒。(漢辞海)
・疆場(キョウエキ)国境。(漢辞海)
・嗣 継ぐ。ついで。(漢辞海)
・巡撫 省政府の長官。(漢辞海)
・鄂寧 人名。(人名権威) 
・星馳 流星のように迅速な様。夜をついで急行する様。(漢辞海)
・膚功 大功。(漢語)
・僨事 物事が覆り失敗する。(漢辞海)
・広南沙練 地名。 
・按轡 手綱を握る。(漢辞海) 
・自如 普段と変わらず動じることのないさま。(漢辞海) 
・匍匐 腹ばいになって進む。(漢辞海)
・蹣跚 足元がよろめくさま。(漢辞海)
・糧員 不明。
・乍~乍~ たちまち~してたちまち~すと訓読し、~してはただちに~するを意味する。
・索湯 湯をもとめると読んだ。
・玉液 地名。玉液湖。 
・梁肉 美食佳肴。(漢語)
・固然 もとより~であるが。
・叨 むさぼる。かたじけなくも。(漢辞海)
・山甫 人名。
・屢蹈 しばしば行く。と開いて読んだ。
・黙佑 人名。 
・金歯 地名。
【書き下し】
二月初十日夜半、前隊先発し、将軍文員をして相い継いで以て出でさしむ。人馬の喧闐、賊已に知覚す。然れど黒夜に敢えて出でず、惟だ合営大噪し、槍砲雨集し、傷つかるもの頗衆し。方に賊営の前を過ぎ、深渓を渉る。官兵争いて渡り、践踏し溺斃する者甚だ多し。裕下馬し水を渉り、幾んど滅頂に至らんとし、僕役尽く失い、独り駑馬に乗り緩行して前む。十一日午後一山に至り、山径甚だ険しく、攀援して上り、賊已に山下に至る。鼓噪し放槍し、時副将本進忠兵を整え以て待する有り、賊敢えて上がらず。裕の馬極めて疲乏し、適に僕の騎騾して来たる有り、取りて之に乗る。薄暮部郎馮光熊に遭い同行し、聞く将軍独り殿より後し、衆賊囲繞し、且つ行き且つ戦い、中途陣亡ぶ。領隊する大臣観音保、扎拉豊阿も亦た之に死すことを。嗚呼、裕将軍に随い半載を超え、其の明決に事える処を見、自ら奉し極めて倹し、廉外に俸し、絲毫も染まる所無く、其の清操已に大いに人に過ぎ、且つ驍勇絶倫なり、兵衛尚お衆く、寧くんぞ生きて永昌に入る能わざらんや。特に全軍を保護するに因りて、一を以て百に当たる。危を見て命を援け、疆場に効死し、痛みを勝えるべけんや。是に先んじて、参賛大臣額爾景額兵を率い老官屯を攻め、相い持して日久しく、克たずして病歿し、上額爾登額を以て之に代える。嗣いで額爾登額兵を移し宛頂に至り、猛域を距てること止だ数程なり。巡撫鄂寧屢ばしば援に赴くを促すも、聴かず。斯の時を設け額爾登額一旅の師を整え、星馳し援に赴き、特だ兵の囲立を解かしむのみならず、兼ねて力を併せて賊を剿するべし。迅かに膚功を奏す。乃ち観望し前まず、僨事を致すを以て、此れ固より罪有りて攸帰す。十二日、午後天雨、行きて山中に至る。遠く槍声を聞き、広南沙練を征するに従うもの有りて走りて告げて曰わく「賊至る。」と。衆咸な奔避し、裕と部郎馮光熊按轡し自如たり、卒に亦た賊無し。十三日早、一山に至る。土境を俯視するに、猛卯江遠からず。上路径無く、草茂り極めて滑り、既に駐足し難く、又た攀援すべく無し。因りて匍匐して過ぎ、両足蹣跚し、竟に挙げるあたわず。忽ち一通事の乗馬し至るに遭い、買を欲するも金無く、同僚の僕に貸り、之に乗りて額爾登額の駐兵する宛頂に之くを得る。就に糧員し仮宿し、数月間衣帯を解かず、是に至り始めて安寝を得る。裕体質素弱なり、艱苦に耐えず。猛域より宛頂に至り、行くこと三昼夜を計り、特だ帳房無きのみにあらず、且つ乍ち雨ふり乍ち晴れ、衣履屢湿し、携する所の飯団一枚已に食し尽き、飢渇殊に忍ぶべからず。軍人の炊飯するを見、湯を策し之を飲み、啻だに玉液のみならず。因りて平日を嘆し、梁肉を食べる習を固然と為し、此に際し困厄し、始めて幸生升平の世を知る。叨けなくも聖主の福庇する者已に久し。宛頂に入るより即ち痢に患り、臥病数日、力疾して永昌に赴き、弟山甫之を見、幾ど相い識らず。窃かに念えらく裕識浅才短なるも、将軍の棄てざるを蒙い、相い随いて行陣し、屢ばしば危亡を蹈くも、祖父の黙佑を仰邀するに非ず。豈に複た金歯に還る能わんや。
【現代語訳】
二月十日の夜半に、前の隊が先に出発し、将軍は文人官僚をその後に出発させた。人馬の喧騒を的は既に知っていた。しかし夜だったのであえて出撃してこなかった。ただ宿営で大きな声が響くと、そこに鉄砲や大砲の弾が雨のように降りそそぎ、傷を負うものは非常に多かっただけであった。その時敵が宿営の前を過ぎ、深い谷間を渡った。官兵は先を争って渡り、踏み散らされ溺死する者が非常に多かった。周裕は下馬し川を渡ったが、ほとんど死ぬところであった。下僕をことごとく失い、ひとり駄馬に乗りゆっくりと前進した。十一日午後一山に到着した。山道は非常に険しく、助け合って登ったが、敵は既に山のふもと到着していた。太鼓を鳴らし鉄砲を放った。その時、副将の本進忠が軍団を整列させ待機しており、敵登ってこようとしなかった。周裕の馬は非常に疲弊していた。その時ちょうど下僕がラバに騎乗してやってきたので、ラバを受け取り騎乗した。夕暮れに部郎馮光熊に遭遇し同行した時に将軍が一人でしんがりの後に移動し、数多い敵がこれを包囲し、移動しては戦い、途中でわが軍が全滅し、隊を率いていた大臣観音保、扎拉豊阿もまたそこで死んだことを聞いた。嗚呼、周裕が将軍に従軍してから半年を超え、将軍の明快に判断を下すところを見て、私は将軍に奉仕し極めて従順であり、給料を受け取っていた。ほんのわずかも敵の悪習に染まることなく、其の清廉潔白は人並みではなく、強くて勇ましかった。兵隊はまだ多く、どうして生きて永昌に着くことができないだろうか。いあや可能である。特に全軍を保護することを理由に、一騎当千だった。危険に際しては命を助け、国境で死力を尽くして恩に報い、痛みを耐えることができるだろうか。いや、できない。将軍の死に先んじて、参賛大臣額爾景額が兵を率い老官屯を攻め、持久戦になりしばらく経って、敵に勝つ前に病没し、乾隆帝は額爾登額を将軍に交代させた。その後額爾登額は兵を移動させ宛頂に向かった。猛域からの距離はただ数里だけであった。巡撫鄂寧はしばしば救援に向かうことを促したが、許さなかった。将軍が死んだ時、額爾登額は一旅の軍団を整え、急行させ救援に向かわせたが、ただ敵兵の包囲を解いたのみならず、力をあわせて敵を殲滅した。速やかに大功を奏上した。しかし見ているだけで前進せず、明瑞将軍の死なせたことを理由に、有罪と判断され帰還させられた。十二日午後、天気は雨であった。移動し山中に到着した。遠くに銃声を聞き、広南沙練の征服に従軍した兵士が走ってきて「敵が現れた。」と告げた。軍の兵士はみな恐れおののき逃げようとしたが、周裕と部郎馮光熊は馬のくつわを持ったまま普段と変わらず動じなかった。結局敵は現れなかった。十三日早朝、一山に到着した。国境を眺めると、猛卯江は遠くなかった。上に道が無く、草が茂り非常に滑り、行軍するのは難しく、またそれを助けることもできなかった。そこで匍匐前進して移動し、両足がふらついた。ついに足をあげることのできなくなった。そこに通訳一人が乗馬して到着するのに遭遇し、馬を買おうとしたが金が無く、同僚の下僕に金を借り、馬に乗って額爾登額の軍が駐屯する宛頂に移動できた。ついに食事にありつけいったん泊まり、数か月間服の帯を解かなかったが、宛頂に到着しはじめて安心して寝れた。周裕の体質は虚弱であり、艱苦に耐えられなかった。猛域から宛頂に到着し、三日間移動し、ただ帳房が無いだけでなく、雨が降るかと思えば晴れ、服や履物がしばしば湿り、携帯する握り飯一食分も既に食べつくし、飢渇を耐え忍べなかった。軍人が炊飯するのを見て、湯を求めて飲んだところ、玉液以上のおいしさだった。そこで平和な日のことを思い嘆き、美食を食べる習慣を当然のものと思いっていたが、この時は困っていたので、はじめて平和な世を知った。。かたじけなくも皇帝陛下のの庇護下にあってすでに長かった。宛頂に到着してからすぐに赤痢に罹り、病気で数日寝て、残された力で永昌に赴いた。弟の山甫に病気を診てもらったが、ほとんど原因は分からなかった。自分で考えるに私は浅学非才なであるが、明瑞将軍に見捨てられないという恩恵を受け、将軍に随って行軍し、しばしば命の危険に遭うも、祖父の黙佑を仰ぎ見なかった。どうして再び金歯に還れるだろうか。いや、帰れない。

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