『清史稿』明瑞伝③

【原文】
是時緬甸為乱犯辺、総督劉藻戦屢敗、自殺。大学士楊応琚代為総督、師久無功、賜死。三十二年二月、命明瑞以雲貴総督兼兵部尚書、経略軍務。明瑞議大軍出永昌・騰越攻宛頂・木邦為正兵、遣参賛額爾登額出北路、自猛密攻老官屯、会於阿瓦。十一月、至宛頂、進攻木邦、賊遁。留参賛珠魯訥・按察使楊重英守之、率兵万余渡錫箔江攻蛮結。寇二万、立十六寨、寨外浚溝、溝外又環以木柵、列象陣為伏兵。明瑞統兵居中、領隊大臣紮拉豊阿・李全拠東山梁、観音保・長青拠西山梁。賊突陣西出、観音保・長青力戦。明瑞督中軍進、殺賊二百余、賊退保柵。明瑞令分兵為十二隊、身先陥陣。目傷、猶指揮不少挫。賊陣中群象反奔、我兵毀柵進、無不一当百。有貴州兵王連者、舞藤牌躍入陣、衆従之、縦横撃殺。馘二十余、俘三十有四、賊遁走。捷聞、上大悦、封一等誠嘉毅勇公、賜黄帯・宝石頂・四団竜補服。原襲承恩公畀其弟奎林。紮拉豊阿・観音保勧明瑞乗勝罷兵、明瑞不可。
【語釈】
・劉藻 山東省の人。(1701~1766)(人名権威)
・楊応琚 人名。
・按察使 明清代、省の司法を司った。(漢辞海)
・楊重英 漢軍正白旗。(?~1788)(人名権威)
・寇 賊、敵。(漢辞海)
・浚溝 深い溝。(漢語)
・紮拉豊阿 烏梁罕氏。蒙古喀喇沁部。(?~1783)(人名権威)
・李全 山西省の人。(?~1768)(人名権威)
・長青 人名。
・反奔 見つからなかったので「かえってはしる」と訓読した。
・藤牌 藤でできた盾。(漢語)
・躍 飛び跳ねる。(漢辞海)
・馘(カク)敵の耳を切り取り軍功とする。(漢辞海)
・捷聞 戦勝の報告書。(漢辞海)
・黄帯 黄色の帯。(大漢和)
・頂 上に頂くものを数える言葉。(漢辞海)
・団竜補服 清代の衣服。
・原 もとより
・畀 あたえる。たまう。(漢辞海)
・奎林 富察氏。満洲鑲黃旗。(?~1792)(人名権威)
【書き下し】
是の時緬甸乱を為し辺を犯し、総督劉藻戦うも屢ば敗れ、自殺す。大学士楊応琚代わりて総督と為るも、師久しく功無く、死を賜わる。三十二年二月、明瑞に命じて雲貴総督兼兵部尚書を以て、軍務を経略させしむ。明瑞議して大軍永昌・騰越を出で宛頂・木邦を攻めるを正兵と為し、参賛額爾登額を遣わして北路を出でさしめ、猛密より老官屯を攻め、阿瓦において会う。十一月、宛頂に至り、木邦に進攻し、賊遁す。参賛珠魯訥・按察使楊重英を留め之を守らしめ、兵万余りを率いて錫箔江を渡り蛮結を攻む。寇二万たりて、十六寨を立て、寨外浚溝たり、溝外又た木柵を以て環し、象陣を列ねて伏兵と為す。明瑞兵を統べ中に居り、領隊大臣紮拉豊阿・李全東の山梁に拠り、観音保・長青西の山梁に拠る。賊陣を突し西より出で、観音保・長青力戦す。明瑞中軍を督し進ましめ、賊二百余りを殺し、賊退きて柵を保つ。明瑞令して兵を分け十二隊と為し、身先んじて陣をが陥す。目傷つくも、猶を指揮するに少しも挫けざるごとし。賊陣中より群象を反り奔らせ、我兵柵を毀して進み、一が百に当たらざる無し。貴州の兵の王に連なる者有りて、藤牌を舞わし躍して陣に入り、衆之に従い、縦横撃殺す。二十余りを馘し、三十有四を俘し、賊遁走す。捷聞し、上大いに悦び、一等誠嘉毅勇公に封じ、黄帯・宝石頂・四団竜補服を賜う。原より承恩公を襲い其の弟奎林に畀う。紮拉豊阿・観音保明瑞に勝に乗じて兵を罷むことを勧むも、明瑞不可とす。
【現代語訳】
この時(乾隆三十年=1765年)ビルマは戦乱をおこし辺境を侵犯していたので、総督の劉藻戦ったがしばしば敗れ、自殺した。大学士の楊応琚が劉藻に代わって総督となったが、彼の率いる軍は長い間戦功が無く、乾隆帝によって死を賜わった。三十二年二月、明瑞に命令して雲貴総督兼兵部尚書とし、軍務を行わせた。明瑞は部下と議論して大軍を二つに分け、永昌・騰越を出発し宛頂・木邦を攻める軍を正面軍とし、参賛大臣の額爾登額を派遣して北路を出発し、猛密から老官屯を攻める軍を副軍とし、阿瓦で合流することを計画した。十一月、宛頂に到着し、木邦に進攻したところ、敵は遁走した。参賛大臣の珠魯訥・按察使楊重英を木邦に駐留させて守らせ、一万余りの兵を率いて錫箔江を渡り蛮結を攻めた。敵軍は二万で、十六の要塞を建築していた。要塞の外側には深い溝があり、溝の外は木の柵で囲い、象の陣を並べて伏兵としていた。明瑞は兵を統率し中央軍を指揮し、領隊大臣紮拉豊阿・李全は東の山梁を拠点とし、観音保・長青は西の山梁を拠点とした。敵は西から突撃してきて、観音保・長青は力のかぎり戦った。明瑞は中央軍を指揮し進軍させ、敵兵二百人余りを殺したところ、敵は退却し柵の中に引いた。明瑞は命令して兵を十二の隊に分け、先陣を切り敵陣を陥落させた。明瑞は目を負傷したが、指揮するのに少しも挫けなかった。敵は陣の中から象の群れを我が軍とは反対方向に走らせ逃げた、我が軍は木の柵を壊して進軍し、一人が百人力でないものはなかった。貴州の土兵で王に連なる者があって、藤でできた盾を振り回し陣に突入したところ、皆この土兵に従って、敵軍で縦横無尽に暴れまわった。二十人余りの敵兵の耳を切り落とし、三十四人の兵を俘虜とし、敵兵は遁走した。明瑞は乾隆帝に戦勝報告をしたところ、乾隆帝は非常に喜び、明瑞を一等級の誠嘉毅勇公に封じ、黄帯・宝石頂・四団竜補服を与えた。もともとの承恩公の位は弟の奎林に与えた。紮拉豊阿・観音保は明瑞に勝利に乗じて戦争をやめることを勧めたが、明瑞は受け容れなかった。

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