『皇朝武功紀盛』③

【原文】
会明瑞一目中傷、幾殞。越数日、始稍癒、乃復進兵。至象孔、迷失道。而軍中糧已匱、集諸将議進止。諸将莫有敢言退者。明瑞念糧既断、勢不能復進、而又慮猛密路之師或已先人、而将軍転退兵、則法当死。聞猛籠有糧、且其地近猛密、冀可得猛密路声息。于是、定計就糧猛籠。賊探我兵不復向阿瓦、又我病兵有被掠者、詢知軍糧尽、乃糾衆来追、及我于章子壩。自
是無日不戦、明瑞及観音保・哈国興更番殿後。至猛籠、果多糧、軍士頼以済。会歳暮、即其地度歳。而猛密之信杳如。三十三年春、乃取道大山土司以帰。猛籠糧尚多、而牛馬俱尽、無可駄運、人各携数升、余皆火之。
【語釈】
・中傷 傷つける。(漢辞海)
・殞 死ぬ。(漢辞海)
・象孔 地名。
・匱 とぼしい。(漢辞海)
・声息 状況や消息。(漢語)
・糾 集める。(漢辞海)
・章子壩 地名。
・番 交代する。かわるがわる。(漢辞海)
・済 用いる。(漢辞海)
・杳(ヨウ)姿が見えなくなる。跡形もなく消える。(漢辞海)
・取道 道を移動する。(漢語) 
【書き下し】
明瑞に会いて一目中傷し、幾ど殞なり。数日を越え、始めて稍癒える、乃ち復た兵を進む。象孔に至り、道を迷失す。しかも軍中の糧已に匱しく、諸将を集め進止を議す。諸将に敢えて退を言う者有る莫し。明瑞糧の既に断つを念う、勢復た進む能わず、しかして又た猛密への路の師或いは已に先に入るを慮りて、将軍兵を転退し、法に則り死に当たる。猛籠糧有りて、且つ其の地猛密に近きを聞き、猛密への路の声息を得んことを冀う。是において、計を定め就ち猛籠に糧す。賊我が兵を探し復た阿瓦に向かわず、又た我が病兵掠さる者ありて、軍の糧尽くを詢知し、乃ち衆を糾め来たりて追い、我れを章子壩に及ぶ。是より日に戦わざる無く、明瑞及び観音保・哈国興更に番わるがわる後に殿す。猛籠に至り、果たして多く糧し、軍士頼りて以て済す。歳暮に会い、即ち其の地で歳を度す。しかして猛密の信杳如たり。三十三年春、乃ち大山の土司に取道し以て帰す。猛籠の糧尚お多く、而して牛馬俱に尽き、駄運すべく無く、人各の数升を携え、余皆と之を火す。
【現代語訳】
明瑞将軍にお会いしたが片方の目を負傷し、ほとんど死の淵にあった。数日後、ようやく少しずつ傷が癒えた。そこで再び軍を進めた。象孔に到着したあたりで、道に迷った。しかも軍中の兵糧が既に乏しく、諸将を集め進退を議論した。諸将のうちであえて退却について述べる者はいなかった。明瑞将軍は兵糧が既に断たれているのを懸念し、軍勢は再び進軍できなかった。しかし猛密への路へ向かう軍団が先に猛密に到着する可能性を考慮して、明瑞将軍は軍を退却させたが、このことは法律によると死に相当する。猛籠には兵糧があり、なおかつその地が猛密に近いことを聞き、猛密への路についての情報を得ることを願った。そこで、猛籠で兵糧を得る計画を定めた。敵は我々の兵を探し、再びアヴァには向かわなかった。、また、我が軍の傷病兵のうち強奪される者があったので、敵軍は我が軍の兵糧が尽きているのを取り調べて知って、兵を集めて我が軍を章子壩まで追いかけてきた。この時から戦わない日は無く、明瑞将軍及び観音保・哈国興将軍はかわるがわるしんがりに立った。猛籠に到着したが、はたして兵糧が多くあり、軍の兵士はこれを利用した。歳暮になり、その地で年越しした。しかし、猛密からの信書は届かなかった。三十三年春、大山の土司への道を移動し帰った。猛籠の兵糧はまだ多く残っていたが、牛馬はともに欠乏し、兵糧を運べなかったので、兵士は各々兵糧を数升携帯し、私は皆とこれに火を通した。

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