『清史稿』明瑞伝④

【原文】
師復進、十二月、次革竜、地逼天生橋渡口。賊踞山巓立柵。明瑞令別軍出大道、若将奪渡口。而督軍従間道繞至天生橋上遊、乗霧径渡、進拠山梁。賊驚潰、俘馘二千余。復進至象孔、糧垂罄。欲退、慮額爾登額師已入。聞猛籠土司糧富、且地近猛密、冀通北路軍消息。乃移軍猛籠。賊尾我軍後、至章子壩、我軍且戦且行。明瑞及観音保等殿、日行不三十里、至猛籠已歳除。土司避匿、発窖粟二万余石。駐三日、復引軍趨猛密、人持数升粟、焚其余積。賊蹑我軍行、至夕駐営、初相距十余里。賊詗我軍飢疲。経蛮化、我軍屯山巓,賊即営山半。明瑞謂諸将曰「賊軽我甚、不一死戦、無噍類矣。賊識我軍号。明旦我軍伝号、若将起行、則尽出営伏箐待。」明旦賊聞声、蟻附上山。我軍突出発槍砲、賊反走、乗之、斬四千有奇。自此毎夜遙屯二十里外、明瑞令休兵六日。賊柵於要道、我軍攻之不能抜。得波竜人引自桂家銀廠旧址出。上聞明瑞深入、命全師速出。詔未達。三十三年正月、賊攻木邦、副都統珠魯訥師潰自戕、執重英以去。額爾登額出猛密、阻於老官屯、月余引還。繞従小隴川緩行、巡撫鄂寧檄援、不応。於是明瑞軍援絶。而賊自木邦・老官屯両道併集。二月、至小猛育、賊麕聚五万余。我軍食罄,殺馬騾以食。火薬亦竭、槍砲不能発。明瑞令諸将達興阿・本進忠分隊潰囲出。而自為殿、血戦万寇中。紮拉豊阿・観音保皆死。明瑞負創行二十余里、手截弁髪授其僕帰報、而縊於樹下、其僕以木葉掩屍去。
【語釈】
・次 駐屯する。(漢辞海)
・山巓 山の頂上。(漢辞海)
・繞 周囲を回る。(漢辞海)
・罄 尽き果てる。(漢辞海) 
・歳除 年の終わり。(漢辞海)
・窖 あなぐら。(漢辞海)
・蹑 そっと歩く。 
・噍類 生きている人。(漢辞海)
・若将 若し将に~せんとす。と訓読した。
・箐 小さいかご。(漢辞海)
・蟻附 蟻のように城壁に群がり登る。(漢辞海)
・奇 端数。余り。(漢辞海)
・麕 群れる。群がる。(漢辞海)
・馬騾 馬と騾馬。(漢辞海)
【書き下し】
師復た進み、十二月、革竜に次ぎ、地天生橋の渡口に逼る。賊山巓に踞し柵を立つ。明瑞令して軍を別ち大道を出でさしめ、若ら将に渡口を奪わんとす。しかして軍を督して間道より天生橋の上遊に繞至させしめ、霧に乗じて径渡し、進みて山梁に拠る。賊驚き潰え、俘馘二千余りなり。復た進みて象孔に至り、糧垂罄す。退くを欲すも、額爾登額の師已に入るを慮る。猛籠土司の糧富なりて、且つ地猛密に近きを聞き、北路を通る軍の消息を冀う。乃ち軍を猛籠に移す。賊我が軍の後を尾け、章子壩に至り、我が軍且つ戦い且つ行く。明瑞及び観音保殿を等ち、日に行くこと三十里たらず、猛籠至るも已に歳除なり。土司避匿するも、窖に粟二万余石を発す。駐すること三日、復た軍を引きて猛密に趨り、人数升の粟を持ちて、其の余積を焚く。賊蹑し我が軍行き、夕に至りて駐営し、初めて相い距てること十余里なり。賊我が軍に飢疲を詗う。蛮化を経て、我が軍山巓に屯し,賊即ち山半に営す。明瑞諸将に謂いて曰わく「賊我を軽んじること甚しく、一も死戦せずして、噍類無し。賊我が軍の号を識る。明旦我が軍号を伝え、若ら将に起行せんとすれば、則ち尽く営を出で箐を伏して待て。」と。明旦賊声を聞き、蟻附して山を上る。我が軍突出して槍砲を発し、賊反て走り、これに乗じて、四千有奇を斬る。此れより毎夜遙かに二十里外に屯し、明瑞令して兵を休ませること六日なり。賊要道に柵し、我が軍之を攻めるも抜く能わず。波竜の人を得て引かせ桂家の銀廠の旧址より出づ。上明瑞の深く入るを聞き、全師に命じて速く出でさしむ。詔未だ達せず。三十三年正月、賊木邦を攻め、副都統珠魯訥の師潰え自戕し、重英を執りて以て去らしむ。額爾登額猛密より出で、老官屯において阻み、月余引還す。小隴川より繞し緩行し、巡撫鄂寧援を檄すも、応ぜず。是において明瑞の軍援絶える。しかして賊木邦・老官屯の両道より併集す。二月、小猛育に至り、賊麕聚すること五万余。我が軍食罄え,馬騾を殺して以て食す。火薬も亦た竭し、槍砲発する能わず。明瑞諸将に令して達興阿・本進忠の分隊囲を潰さしめ出づ。しかして自ら殿と為り、万寇中に血戦す。紮拉豊阿・観音保皆な死す。明瑞負創し行くこと二十余里、弁髪を手截し其の僕に授け帰報させ、しかして樹下に縊し、其の僕木葉を以て屍を掩し去る。
【現代語訳】
軍は再び進軍し、十二月に革竜に駐屯し、地天生橋の渡し口に迫った。敵は山頂に布陣し柵を立てた。明瑞は命令して軍を分け、大きな道を通らせ、いまにも渡し口を奪おうとした。そうして軍を率いて間道から天生橋の上流に回り込ませ、霧に乗じて渡河し、進軍して山梁に拠点を置いた。敵は驚き潰走し、俘虜になる者や耳を切り取られる者は二千人余りであった。再び進軍して象孔に到着したが、兵糧が尽きた。退却しようとしたが、額爾登額の軍が既に敵地に入っていることを考慮し、退却しなかった。猛籠の土司には食糧は豊富で、なおかつ猛密に近いことを聞き、北路を通った軍の消息を得ることを願った。そこで軍を猛籠に移動させた。敵は我が軍の後を尾行し、章子壩に到着した。我が軍は敵と戦いつつ移動した。明瑞と観音保は殿軍で戦い、一日に三十里も進めなかった。猛籠に到着したが既に都市の暮れであった。土司は食糧を避匿したが、穴倉に粟二万石余りを隠しているのを発見した。三日駐屯し、再び軍を引き返し猛密に移動した。兵士は数升の粟を持って、その余りを焼却した。敵はそっと尾行してきており、我が軍は移動した。夕方になって駐屯し、ようやく敵との距離が十里余りになった。敵は我が軍が飢えて疲れていることを知った。蛮化を経由し、我が軍は山頂に駐屯し,敵は山の中腹に布陣した。明瑞は諸将に「敵が我が軍を軽んじること甚だしい。一度も死戦を行わず、生きているものはいない。敵は我が軍が号令したのを知っている。明日の朝我が軍に号令を伝え、お前たちが奮起しようとするのなら、ことごとく宿営を出発して荷物を置いて待て。」と伝えた。次の日の朝、敵は喊声を聞き、蟻のように群がって山を上ってきた。我が軍は突撃して鉄砲や大砲を発射したので、敵は逃げ、これに乗じて、四千余りの敵を斬り殺した。この日から毎晩二十里外の遠くに駐屯し、明瑞は盟れして兵を六日間休ませた。敵は主要な道に柵を作り、我が軍はこれを攻めたが突破できなかった。波竜の人を呼んで退却させ桂家の銀廠があった場所から出発した。乾隆帝は明瑞が敵地に深く入ってしまっているのを聞き、全軍に早く敵地から脱出することを命令したが、詔は届かなかった。三十三年正月、敵は木邦を攻め、副都統珠魯訥の軍が壊滅し珠魯訥は自害し、楊重英に指揮させ退却させた。額爾登額は猛密を出て、老官屯で敵軍を阻み、二月初めに退却した。小隴川から回り道させゆっくりと移動させた。巡撫鄂寧は援軍を派遣しようと檄文を送ったが、明瑞は反応しなかった。ここでついに明瑞の軍は援軍が絶えてしまった。敵は木邦・老官屯の両方の道から集まってきた。二月、明瑞の軍は小猛育に到着したが、敵は五万余り集まっていた。我が軍は兵糧が尽き,馬や騾馬を殺して食べた。火薬もまた枯渇し、鉄砲や大砲は発射できなかった。明瑞は諸将に命令して達興阿・本進忠の分隊に包囲を潰させて脱出した。しかし自ら殿軍になり、万の敵兵の中で血みどろで戦った。紮拉豊阿・観音保はみな死亡した。明瑞は負傷し二十里余り逃げ延びたが、弁髪を手で切り取り下僕に与え皇帝に報告させ、樹下に首を吊って死んだ。下僕は木の葉で死骸を隠して去った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?