見出し画像

自分を育てる

先日の『スナック偏愛』はとっても面白かったです。コテンラジオリスナーのいたみんさんとmaitoさんがコテンラジオパーソナリティの樋口聖典さんをお迎えしての対談回でした。タイトルは「手放しのススメ」。

いろいろ刺さって、納得するやら考えさせられるやら。特に印象に残ったコメントについて、自分語りを交えながらw振り返ってみます。

スナック偏愛、YouTubeはこちら↓

Podcastはこちら↓

過去の自分を後悔なく全て肯定できれば、納得力を持って捨てることや決断することができる。

これには9割方の納得感があります。残った1割はまだできていないし、納得感がないところ。

高校卒業から約10年間は後悔することや自分の選択を信じることができないといったことが多くあり、道に迷っている感覚がずっとありました。特に20代前半は顕著で、悩んでいるけど何に悩んでいるのか分かっていない、という感じです。

高校生までの間は自分の道を疑いすらせず、ただ頑張って進むだけでした。なのにそれでインターハイや国体で成果を残し、世間一般で言われるいい大学にも行くことができてしまったものですから、その後は高を括っていたり、その結果にしがみついたりしていたから迷走したんだと思います。たまたま恵まれていただけだったし、道だって用意されていただけだったのに、自分の手柄だと思い込んでしまってました。答えの見えないところに身を置こうとしていませんでしたし、高校での出来事をいち通過点ではなく大きな到達点として捉えてしまっていたことも大きかったと思います。

そこから大学進学や就職、働いていく中で、選択の自由があることを妬んだりもしていました。選択の余地無く進むべき道が1本しかない人生をがむしゃらに進むだけならどんなに楽だろうか、と。工学の道を納得した上で選んだけど、本当はスポーツの道や医療の道を歩みたかったんじゃない?いやいやムリだって。それに工学の道だって留年スレスレで全然まともに身につけてないし。結局何を選んだところでこんな自分なら何やっても一緒。そんなことなら高校の時にもっと違うことに取り組んだらよかったわ。でも当時の自分にはそんな選択できなかったもんな。仕事だって自分がメインプレーヤーで活躍するよりも、サポートするような仕事の方が向いてるよな。いや、でも分かってないヤツのための尻拭いみたいなことばっかやるのもなぁ。でも、でも、だって、、、

「プライド高く上から目線で無茶苦茶なこと言いながら何モジモジしてんだよ」って思います(今も抜けていませんが。。)。ただ、今振り返ってみると、その間もなんだかんだ言いつつちゃんと複数の選択肢の中から1つの道を決断をし、モヤの中でも進む方向をきちんと選択していたんですよね。その行き着く先が"今"なので。なのに当時は進学する大学や専攻、就職先、仕事での色々な判断、そして自分を守るために人を深く深く傷つけたこと、それら選択の一つ一つをずーっと認めることができていませんでした。

結婚もそういう選択、決断の1つでしたが、その時はまだ自分の選択をきちんと受け入れることまではできていなかったんだな、と思います。もちろん当時は自分なりにちゃんと決断してるんですよ。でも今思うと、自傷の傷が癒えてきたと共に自傷耐性がかなりついたからできたのかもしれないな、と感じています。

その後、自分の過去の選択を本当の意味で後悔なく受け入れることができたのは、子どもが生まれてからでした。お風呂で子どもを入れ終わった後1人になり、頭を洗っている最中に突然ふと思ったんです。「今までの人生の出来事のうち、どんな小さな1つでも欠けていたら、あのかわいい子達はここにいなかったんだな」と。唐突に頭に降ってきたこの考えに、シャワーを浴びながらしばらくぼーっとその感慨に耽っていました。

それ以降ですね、それまでの自分の人生や選択を全て受け入れることができるようになったのは。「あの子たちがいるのは、今までの全ての自分があったから」と。過去の自分を否定しなくて済むように、そして肯定できるようになったんです。そして自分に色々言ってくる人に対しては最終的に「やかましいわ!」と100%思えるようになりました。

ただ、「自分を否定しない」と「自分を肯定できる」は必ずしも一致しないんですよね。ここがまだ足りていないために、コミュニケーションに影響が出てしまいます。過去の自分は否定せず受け入れられるが、今の自分をうまく肯定できない。意思疎通がうまく行かない結果を受け入れることはできても、その場で踏み込みきれない感じです。スキル不足や未熟さのために人を傷つけるかもしれないと気後れしてしまうからなのですが、気持ちが安定していない時は普段あまり気にならない傍目が気になってしまうため、自分が傷つかないよう防衛に入りもします。

多分、無くなったと思っていた殻にまだくるまっていて、皮を剥ぎ取り足りていないからなんだろうなと感じています。そして「子ども達が巣立つまでは今身の回りにあるものを手放したくない」という執着があるからなんだろうな、と思います。

つらい経験が勉強になった。その時はしたくない経験だったとしても、振り返ると「糧になった、しといてよかったな」と思える。

これはかなり同意です。小さい頃からそういうもんだと思っていたからかもしれません。いろんな辛い経験をしましたが、ほとんど糧にできている感覚があります。めちゃくちゃ恥ずかしい思いをしたこと。理不尽なことを言われまくったこと。友達に迷惑をかけ疎遠になったこと。就職した年にキャベツ大の腫瘍がお腹に見つかり、摘出したものの小腸を一部一緒に取らざるを得ず、1週間寝たきりで喉に管を通され飲まず食わずの点滴生活を送ったこと。再発したら予後はないと言われたこと。その時、今後一緒に歩いて行こうねと約束してした人を、自分自身を守るためだけに酷く傷つけ切り捨てたこと。あそこまで人を傷つけてしまったことは悔やんでも悔やみ切れないし、今でも本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。ですが、あの時の自分にはああすることしかできなかった。そしてそれを活かして生きていくしかない。そう割り切っている感じです。人を傷つけたことは「良かった」とは決して思えませんが、この割り切りによって芯が太くなっていく。そのような実感はあります。自分が被った辛さや苦労については「そんなこともあったな、まあ良かったな」と思っています。

不幸な出来事をアウトプットする先があるのは幸せ

ずーっとその先がありませんでした。自分の中に溜め込むか、昇華するしかなかったんです。でも昇華するにはきっかけとスキルとタイミング(運)が必要で、簡単にはできません。だから変な耐性ばかりが鍛えられもしました。

でも独り言と称してこのように書いてオープンにしたり、しゃべってpodcastとして配信することで、報われている感じを受けています。自分を少しずつ解き放つことができている実感があります。自分だけの閉じた日記にしていない理由の1つでもあります。今回この対談を聴いたことでやる意味や意義を改めて感じ取れましたし、自分で詳しく言語化することもできました。

アウトプットできない人は失敗を恐れてるだけ

ここが一番「それな…」と思いました。アウトプットは以前に比べると遥かにできてきているし、まだまだできていない。特にプライベートなコミュニケーションには恐怖に近い感覚を覚えることもしばしばあって、表に出せない時がよくあります。だからこその独り言なんですが。半歩でもいいからいろんなことに踏み出し、その勇気を持てるように。そのための鍛錬でもあります。ただ、これを繰り返していると、勇気を持って踏み出す必要すら無くなって、自分からどんどん踏み出したくなってくるんだろうな、指数関数的に。そういう実感もあります。

「どうせ自分は」をポジティブに使うこと。「どうせ正解はないんだから」「どうせ今できないから」と割り切って自分を受け入れる。

これも実感がありますね。老いを受け入れることと通じる面があると思います。自分のありたい姿と今の自分が一致しないことをどう捉えるか?そこに尽きるのでしょう。友達が迷っていたり悩んでいるのをみて「大丈夫だよ」「慌てなくていいよ」「全然気にしなくていいよ」と声をかけてあげるかのように、自分を客観視して、"自分という他人"に同じように接してあげればいいんじゃないかと思います。50点くらいしかできてませんけどね。

そのアウトプットする先として、芸術がいい。捨て垢使ってやると失敗もできるしおすすめ。

芸術が激情を表現したものという見方を知識では持っていましたが、今回それがすごく腑に落ちました。

絵画、音楽、映画、ダンス、舞台、文学、書、手芸、工芸、写真、トーク、などなど。湧き出てくる感情を表したり、伝えたいことを形にしたものですよね。どれも技術が必要ではあるけれど、技術だけでは創ることができないものばかりですもんね。そしてそういったものに人は動かされていく。「人」の中には自分も含まれていて、発すると同時に自分も動かされていく。インプットとアウトプットの両方になる。

私も含めてですが、普段創ってるわけではない人(敢えて"一般人"とは言わない!)にとっては、芸術と言われてもとんでもなく高尚でハードルの高いイメージがありますよね。でも技術がなくとも好きなことをしゃべったり、書いたり、写真に撮ったり、鼻歌歌ったりするだけならあまり気兼ねせずにできるはず。そしてそれを敢えて表に出すことで自分の内面がちょっとだけかもしれないけど昇華されていくことにつながっていく。そんなことを教えてくれたような気がしています。

聞けて良かった

あ、そうそう。アラフィフのおっさんがこんなこと書いてるくらいなので、もしみなさんがお若いなら、全然気にしなくていいと思いますよ。若い方は皆素晴らしい。私の若い頃よりずっと優れた方がいっぱいいる。嬉しく頼もしい限りです。いや本当に。

このnoteのタイトルが一番迷ったな、今回は。テキトーに行こう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?