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飛ばし読みがまずかったのかな


まずいことになりました。

この前の職場の上司との面談で、長年の適当で雑で怠惰な言語活動により、わたしの国語力のなさ、ひいては自分の考えや思いを人に伝える能力が足りていないことを指摘されてしまいました。なんてこった。
わたしの職業はデザイナーです。デザイナーにおいて、言語化能力が乏しいことはとても致命的。取引先と上手くコミュニケーションがとれていないってことです。デザインはビジュアルだから見てわかんだろ、とか通用しません。だめです。考課表って言って今期の自分の目標を書くやつも何回も書き直させられました。まずい。わたしはとても焦りました。そんなにもだめだったか…?
わたしは声が大体の人より高いことがコンプレックスで、人と話すときに気がかりになるのは真っ先に声でした。けど、これは声以前の問題です。このままだと仕事に支障が出まくります。もしかすると家族や友達と話すときも「こいつの言ってることよくわかんねえな」と思われてた可能性があります。というか、言われたような記憶がある。落ち込んできました。どうしよう……

上司による、わたしの話し方の問題点はこうです。
・主語がないときがある
・説明を端折っているところがある
・全体的に言葉が足りない

それは違うよ!と言い返せればよかったんですけれど、ものすごく思い当たる節があったので、もらった言葉を素直に噛み締めました。
それと同時に、この癖?みたいなものをなんとかしないとこの先やべえな、と思いました。
努力でどうにかできるものだといいのですが。脳の作り的な問題だったら困るぞ。
わたしはどうしてこんな24歳になってしまったのか、原因を探るため、これまでの言語人生を思い返すことにしました────



時は遡ること小学生時代。
物心ついた時からわたしは大の物語好きでした。母がよく絵本の読みきかせをしてくれたからでしょうか。それとも父が寝る前に即興で『あんころもちマン』の話をしてくれたからかな。いや、祖父母にもらうプレゼントが毎回図書カードだったからかもしれない。なので自分で本を読むことも好きでした。その読書に拍車がかかったのが、小学5年生のとき。
長年社宅、もといアパートに暮らしていた我が一家でしたが、親が急に一軒家を建てました。住み慣れた街ともさよならです。当然、小学校も転校。5年生というなんとも微妙な時期の転校だったので、4年間の交友関係がすでに出来上がっている空間には最初全然馴染めませんでした。もうむり学校行きたくない、となるところでしたが、転校先の図書室が最高だったので、わたしはそこに通い詰める毎日を送ることになります。

新しい小学校での始業式の前に校長先生が校内を案内してくれたときに、わたしはその最高の図書室に出会いました。いいえ、“室”って言い方はふさわしくないかもしれません。だってその図書室は渡り廊下にあるから。
「図書ラウンジ」と呼ばれてたその場所の何が最高かって? 以前通っていた小学校では貸し出しが昼休みと放課後のみ、そして図書委員の人に、借りる本の裏と自分の利用カードのバーコードをピッて読み取ってもらわなくてはいけませんでした。けど、「ラウンジ」では、置いてある貸出用パソコンが起動してさえすれば、10分休みに自分で、ピッてすることが可能だったのです。
かくしてわたしは、授業のチャイムが鳴ると、ラウンジに飛んで自由に本を借りて返して、休み時間はほぼ誰とも話さず本の世界に没頭するようになりました。家に帰っても借りた本の続きが気になるので、とにかく本を読みました。週末家族と出かけるときも、肩掛けカバンの中には500ページもある分厚い児童書。暇があれば本を開き、そこに綴られた言葉、文章を辿る日々。

そう。小さい頃のわたしは本をたくさん読んでいたのです。たくさん、本を……

みなさんご存知の通り、かわいい子には読書をさせろと言われているこの社会、本をよく読めば、語彙力、文章力、想像力などが育つはずです。
わたしが小中高と、たくさんの時間を読書に費やしにもかかわらず、国語の点数はいまいちで、話し方もたどたどしく、あげく上司に指摘されたわたしの何が悪かったのか。
思いつく原因が…

本を飛ばし読みしていた。

これが全ての元凶な気がする。
幼少期のわたしの本の楽しみ方といえば、物語に浸ることでした。なので、文章を文章として読んでいなかったのです。これがどういうことかというと、会話文はさすがにちゃんと読んではいるものの、地の文の状況だったり環境の説明はたぶん70%くらいしか拾えてなくて、頭の中で場面のイメージが浮べばOK、勢いで本を読んでいたんですね。
読み方がわからない漢字も雰囲気で読んでいました。いまだに「緩急」を「ゆうきゅう」って読んだりしてるし。
小説のお気に入りの一文とか聞かれても答えられません。だって言葉で覚えていないんだもの。あの頃読んでいた本の内容を思い出そうとすると、いつだって映像が頭に浮かびます。想像力はすごく育っているな。
あと、外国の翻訳された本(ハリーポッターとか)ばかり読んでいたのも国語力に影響してそうです。日本語として美しい文章じゃなかったかもしれないし。そんな当時のわたしの将来の夢があろうことか小説家だったもので、細々とお話を書いてはいたのですが、なにせわたしにインストールされているのが翻訳された文章なので、読みづらいものだっただろうな…と思います。

そして高校大学と、小説よりも漫画を読むようになり、Twitterの140字までしか文章が書けなくなり、今に至る。



結論。本を丁寧に読んでなかったから、言葉の使い方が下手になってるんじゃないかな。
多少文章を飛ばしても勝手にわたしの中ではイメージが出来上がるっていう読み方をしてたので、自分が発信側になったときも飛ばし飛ばしで話していたのかもしれないのです。
そう推測したわたしは、これからは読み飛ばさずに本を読もうと思いました。人がどのように文章でものごとを説明しているか、表現しているかちゃんとインプットしようと思います。(最近また小説を読むようになったのですが、案の定翻訳本です。『ハンニバル』面白いよ。日本の作者さんで好きな人を見つけたいです。)
そして、こうやってnoteを書いて、自分の考えとか思いを言葉にする力、文章を構成する力、人にわかりやすく伝える力を高めていきたい次第です。なので更新頻度が高くなるかもね。ならないかもしれないけど。
ちょっとずつ言葉と、文章と、話すことと仲良くできたら嬉しいです。言葉を話すようになって二十数年も経つのにこれかよ……と、時折へこむこともあるでしょうが、どうにか向き合います。優しく見守ってください、みなさん。よろしくお願いします。

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