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だが、普遍的である

※筆者はドラマと何の利害関係もありません。
 劇中のセリフで出てきた家庭教師ですが、ドラマについては毎週楽しんでいる一視聴者です。

『だが、情熱はある』(日テレ2023年度春ドラマ 毎週日曜22時半〜 出演:髙橋海人/森本慎太郎ほか)が完結した。

企画が発表された時には、日本のテレビ好き、お笑いファン、アイドルファンに向けたコアな番組に見えていた。現役の中堅芸人の半生を、現役トップアイドルが再現する。山里さん、若林さん、森本さん、髙橋さんの熱いファンにはウケるだろうが、あくまで内輪のノリではないか?こんなに大きな公共性の高いドラマ枠でやることか?ぼんやりテレビをつけた人に、観る価値がある作品として届くのか?『たりないふたり』をはじめとする日テレのIPの宣伝に見えるが、大丈夫なのか。

全12話を観て振り返ると、杞憂だった。
これほど巧妙に普遍的な現代人の心理を描くのは難しい、という域に達していたと言える。

これが「明石家さんま物語」「志村けん物語」など「国民的」「偉人」級の人物だったら、昭和世代のありがたいお説教や武勇伝をちょっとした自虐でオチをつけ「それでも愚かな人間らしさを芸人が代表する」というオーソドックスな人間賛歌に落ち着くだろう。(それはそれで需要があるが、新しい作り方ではない。その話法自体が伝統的とさえ言える。)Netflixの『浅草キッド』では芸と師弟関係、という芸能や職人界の外からは共感しにくい特殊な人間関係が描かれていた。

翻って、このドラマはどうだろうか。
放送開始前から予想できた通り、このドラマは4つのブロックに区分できる仕掛けになっている。

①10代〜山里さんも若林さんも下積みの時代
 ここはまだ「なにもの」でもない夢追い人の2人を描く「青春ドラマ」。
②南海キャンディーズブレイク/オードリー下積み時代
 ここで山里さんパートは「お仕事ドラマ」、
 若林さんパートは「青春ドラマ」という分化が起こる。
 1回で2ジャンルが楽しめるが、2人は出会ってもいない奇妙なパートだ。
 ここでも今井太郎さんによる脚本は、2人のエピソードが個別にバラバラにならないように常に1つのキーワードで串刺されて、まとまっている。南キャンとオードリーが世に出た時期に数年間のラグがあることで、フィクションのドラマだと生まれないリアルな温度差も出ている。
③南海キャンディーズもオードリーも売れっ子時代
 2人とも社会的には立場を得た上で、夢追い人時代には思いもよらなかった鬱屈に悩む。
 が、これは芸人という職業の特殊さによる悩みとは言い切れない。
 社会的・経済的に安定を得た上で生き甲斐や人間関係に空虚さを感じる「中年の危機」と捉えると、至って普遍的な心の変化だ。それが衆目に晒されている立場により悩みとしても発露としても過剰化しているだけで、悩みの本質としては多くの職業に共通する、中年の入り口の悩みだ。
④「たりないふたり」結成と解散
 ピンの仕事、コンビの仕事、プライベートとは別に同じ目線で自己開示、
 自己表出に成功した2人はある意味「青春」に戻っている。
 いわゆる「サードプレイス」としての漫才を通して生き甲斐を回復し、
 2人は世界に帰っていく。

つまり山里さん/若林さんの各パートが
①青春ドラマ/青春ドラマ
②お仕事ドラマ/青春ドラマ
③お仕事ドラマ/お仕事ドラマ
④青春(+お仕事)ドラマ/青春(+お仕事)ドラマ

と、システマティックに推移していくのだ。

どんな年齢の人でも、どんな人生経験の人でもある程度共感できるエリアが幅広く用意されていることになる。

全9〜12話を完走しなければならない「連続ドラマ」という形式は、どうしても避けられない「中弛み」という宿命を抱える。ところが、この4ブロック構造だと頻繁に味が変わるので、飽きるか飽きないか、という問いにそもそも陥りにくい。ドラマ自体はひと続きなのにジャンルが変わる「味変体験」をオムニバスでなく実現できる構造だ。また、お笑いに詳しくなくても「終盤に近づくと記憶に新しいテレビっぽいシーンが見られる」という期待は持てるので、後半を見るモチベーションが下がりにくい。SNSでの視聴熱が話数を追うごとに加熱していったのには、この構造実験の貢献も大きいように感じる。


また、終盤の「中年の危機」テーマは、世の中に当たり前に存在する悩みのはずなのに、フィクションのドラマでリアルに描くのはとても難しい。深刻になりすぎるか、コメディに寄りすぎるか、そもそも地味なトピックなので興味を持ってもらえないか、となってしまう。

そんな扱いづらいテーマをゴールに置き据え、入り口として芸人やアイドルというとっつき易い存在がリードする。逆に考えれば「中年の危機」の悩みにスムーズに耳目を集め、視聴者をしんみり考えさせる方法がこのドラマの立て付け以上に巧妙にあり得るだろうか?とても難しいと思う。実際に、特に11話で若林さんのお祖母様、お父様、恩人であるタニショーさんとの死別が描かれた際には、SNS上でも悲しみの声が相次いだ。孫、息子、後輩という甘えられる立場がどんどん失効していくことの焦りと虚無感はそのまま「中年の危機」というテーマに繋がる。


髙橋海人さん、森本慎太郎さん、戸塚純貴さん、冨田望生さんらの常軌を逸した憑依演技にも大きな物語的意味があった。正直、ドラマ開始当初には「そこを頑張ってどうするのか」「何のための努力なのか」は見えず、あくまで一つの芸として面白がっていた。アカデミー賞が取りたくて仕方ないハリウッド俳優のような動機とも思えない。しかし、やがてその憑依のレベルが突き抜け、南海キャンディーズ、オードリーともに人生の大舞台での漫才ネタを完コピするのを見て、何となく意義が納得できてきた。


実在の人物の感情や経験を追体験する、という真面目すぎる若手俳優たち本人にとっての意味はもちろん大きくある。そして視聴者にもそれと似た機能がある。我々はどんなに完璧な演技でも、本物の映像ではなく髙橋海人さん&戸塚純貴さんコンビによる演技、森本慎太郎さん&冨田望生さんコンビによる演技であることを知っている。だからこそ、別人なのにこんなに本人に入り込もうとしている彼らを見て、意識的にでも無意識的にでも、髙橋さんを追いかけるように若林さんの内側を考え、森本さんの背中越しに山里さんの内側を覗き見てしまう。


「はい、ここで南キャンは良い漫才をして売れました」というダイジェスト的な描写だったら、そうはならない。完コピする俳優陣越しに「なぜこんなに完コピするのか?」と考え、それまで「テレビでよく見るあの面白い人」としか思っていなかった(たとえファンだとしても)芸人について、内面に思いを巡らすスムーズな導線になっている。そしてそれはもちろん、山里さんや若林さんのエッセイの文章を読む体験とよく似ている。このドラマは単に資料として2人のエッセイを参照したのではなく、読者・視聴者の体験まで寄るように設計されていると思う。

企画の情報解禁時に視聴者として勝手に思い描いたドラマ像を各話を追うごとに広く裏切られていくのは、テレビドラマならではの快感体験だ。

ここまで読んでくれた方にはもう伝わっていると思うが、このドラマの前口上「ほとんどの人にとって全く参考にはならない」は嘘なのだ。照れ隠しだ。説教や自慢話にならないようにとにかく気を遣いながら自己開示だけを地道にやっていく、2人のラジオやエッセイの文体とドラマの姿勢は一致している。

入り口はあまりにサブカルで、一見マニアックなドラマだ。
だが、普遍的である。

これからもモデルとなった芸人さんたち、熱血俳優陣が出世するほどに評価が育っていく作品だろう。あまりに真っ直ぐで巧妙な実験としてドラマ史に残っていく。

文章を書くと肩が凝る。肩が凝ると血流が遅れる。血流が遅れると脳が遅れる。脳が遅れると文字も遅れる。そんな時に、整体かサウナに行ければ、全てが加速する。