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お手本になるなんてまっぴらだ!

「皆のお手本になるように行動しなさい。」

小さい頃に親や先生から
そう言われたことはないだろうか?

また、子供が学校で

「下級生のお手本になるような上級生になります。」

そう宣言することもよくあったのではないだろうか?

子供の頃は、特に何も感じることなく
その言葉を受け入れていた。
だが、いつからか、
その言葉に違和感を感じるようになった。

人様のお手本になるために生きるやつがあるか

そもそも、
なぜ赤の他人からお手本にされることを
前提に行動しなくてはいけないのだろうか?

自分の人生も、行動も、
自分で考えて自分で決めるものだ。

公共の福祉に反しない範囲で、
自分の生きたいように生きるのだ。

僕は、自分の生きたいように生きて、
その結果として誰かに憧れを持たれたり、
お手本にされることについては大歓迎だ。
正直、満更でもない。

しかし、最初から
「誰かの手本になること」前提で、
誰かに憧れられたり倣われるかどうかを
価値基準として生きるのは
まっぴらごめんだ。

それは他人の目を気にして、
期待された人生を歩むのと同義だ。


そもそも、
「お前ら俺をお手本にしろよ」と
言わんばかりに振る舞う人間を
少なくとも僕はお手本にしたいとは思わない。
そんなのは自己顕示欲で
気持ちよくなりたいだけだ。

信じるものは自分で決めろ

僕が好きな漫画「ONE PIECE」のセリフに
こんな言葉がある。

「海賊なら!!! 信じるものはてめェで決めろォ!!!」

誰をお手本にするのかは、
自分で考えて決めなくてはならない。

自分がどんな行動を、振る舞いを、考え方を
美しいと思うかだ。

自分の美学は何だ?
自分の憧れる生き方はどういう生き方だ?
自分がロールモデルにしたい人は誰だ?

そんなの人それぞれ違って当然ではないか。

お手本にしたい人がいたら
勝手にお手本にすればいいし、
お手本にしたくなかったら
反面教師にすればよいのだ。

あなたの身の回りの目上の人に、
お手本を求めるのは筋違いだ。

あなたの上級生も、先生も、上司も、
あなたの支持するインフルエンサーや芸能人も、
必ずしもあなたのお手本になるような
立派な面ばかり持っている人とは限らない。

そもそも、お手本になるかならないかは
あなたの価値基準に基づくものだ。
他者の価値基準に迎合する義理などない。

みんな思いのままに生きているのだから、
公共の福祉に反しない限り、自由ではないか。

意識的に誰かの手本になろうとするなんて
まっぴらごめんだ。
僕は僕のやりたいように、自分の矜持に従って、
一番美しいと思う行動を目指して行っていく。

誰に憧れられようが、誰に後ろ指を指されようが
知ったこっちゃない。

そして、憧れる人も、お手本にする人も
自分で探して自分で決める。

人間なら、信じるものは自分で決めろ。

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