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ロシアのウクライナ侵攻があって、
虎視眈々と狙っていたのだなと、改めて思う。

世界は、グリーンエネルギーだ脱原発だSDGsだと言って(これも主導する側が各国を巻き込み 先にルールを作って経済覇権を握る戦略なのかもしれないけど)、新たな流れが生まれ始めていた。ここにきて、天然ガス供給が滞る可能性や原油高があり、世界情勢は先行き不透明。

日本に住み 平和な世界を歩んでいた気でいたのは、ただのムードだったと ハッと目の覚めるような思いでいる。


後戻りすることは、ない。あってはいけない。

私たちは、礎を築いてくれた先人たちや 過去に感謝して、未来への責任を持たなければならない。


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歴史の授業で習わなかったことがある。

ご存じだろうか。
日本が貧しい時代の国策、口減らし目的の移民政策を。

アメリカ(ハワイを含む)や南米に、横浜・神戸・長崎から出港し、ブラジルだけでも25万人もの日本人が、新天地での成功を夢見て 海を渡って行った。移住先の実状など知らされずに行った。


毎日飲む珈琲から、そんな先人たちの 命のかけらをいただいている。

今、珈琲がこんなに身近にあるのは何故か。その原点は、ブラジルに渡った日本人が「農業の神様」とまで称えられるほどに 頑張ってくださったからである。


第一回芥川賞を受賞した「蒼氓」は、ブラジルへの移住を希望する民が、神戸港を出発するまでのストーリーである。(受賞したのは 全三部のうち第一部のみです)



一九三〇年 三月 八日。
神戸港は雨である。

蒼氓


三ノ宮から山ノ手に向う赤土の坂道はどろどろのぬかるみである。
この道を朝早くからいく幾台となく自動車が駆け上がって行く。
それは殆ど絶え間もなく後から後からと続く行列である。

-鯉川筋(神戸)- この坂を登れば



この道が丘につき当って行き詰まったところに黄色い無装飾の大きなビルディングが立っている。
後に赤松の丘を負い、右手は贅沢な尖塔をもったトア・ホテルに続き、左は黒く汚い細民街に連なるこの丘のうえの是が「国立海外移民収容所」である。

「海外移住と文化の交流センター 移住ミュージアム」
(横浜も長崎も閉鎖、日本では神戸が唯一残る)
かつては、全国から 海外への移住希望者がここに集まった「移民収容所」


1928年 国立移民収容所が開設
戦時中は 短期高等海員養成所や錬成所に
1971年に閉鎖後は 看護学校として
阪神淡路大震災では神戸海洋気象台が使用
 2009年に現在のミュージアムに


50日間弱のブラジルへの船旅


旅券


必需品にあったアイロンは 殺菌殺虫のため


移民を募る当時のポスター


-らぷらた新聞- ブラジル行きの船 らぷらた丸の船内新聞
不安と希望を胸に






諦めと混った希望をもっていた。
彼等のみならず殆ど全部の移民が希望をもっていた。
それは貧乏と苦闘に疲れた後の少し棄鉢な色を帯びた、それだけに向こう見ずな希望であった。

蒼氓




これでもかと手の込んだカップで カフェラテをすすりながら
第二部(南海航路)、第三部(声なき民)へと続く




※時間を割いてミュージアム内を丁寧に説明くださった 日伯協会の天辰さん、ありがとうございます。

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