身近な人の死で思うこと
こんにちは。
自立に向けてログハウスづくりをはじめたとっとです。
一昨日、身近な人が亡くなりました。
身内ではありませんが叔父叔母の古い知り合いで、わたし自身は昨年ログハウス事業を引き継いでから知り合った方です。
80歳を過ぎたおじいちゃんで、たまに野菜をいただいたりしながら、新しい道を進み始めたわたしを励ましてくださる優しい方でした。
お通夜は今夜とのことですがそちらにはお邪魔しないことにして、さきほどご自宅に伺って本人とご家族にご挨拶をしてきたところです。
昔、高校時代にも友人や先生が病で亡くなったことがありました。
そのときは面識のある人の死ってとても受け入れがたく、亡くなったことを知ったときには胸がドキドキしました。
自分の死を身近に感じる恐怖というのでしょうか、なんとも言えない緊張感に包まれたことをよく覚えています。
しかし40歳を過ぎた今、自分でも不思議なぐらい落ち着いた心境であることに昔の感覚との対比を覚えたのです。
あくまで主観的な自己分析です。
身近な人の死は、自分の人生を真面目に見つめ直す良い機会だと思います。
その見つめ直す内容が、10代、20代、30代、40代、・・・と変わっていくのではないでしょうか。
若いころは、そのときに置かれている自身の状況がすべてで、身近な人の死に接すると、それが崩れることがあるという恐怖が真っ先にきます。
無意識のうちに自分の死を考えないようにしているからなのでしょう。
しかし年をとっていくにつれて、この世に生まれた時点から確実に人生の終わりに近づいていき、死というものを少しずつ意識するようになります。
今このときの置かれた状況というひとつの点だけをみていたのが、年をとるにつれて、いずれは死ぬというあたりまえの終着点までつながる一本の糸のように見えはじめます。
そうして今と終着点を分けて考えなくなることで、身近な人の死に接したときに、その人の人生の糸と自身の人生の糸とを自然に見比べるようになります。
糸の長さや太さはどうか、切れかかったところはどんなところか、その糸に他の糸たちはどんなふうに絡まっていったか。
そしてこれから先、自分の終着点までどんなふうに糸を紡いでいくのか、なんとなく考えさせられます。
わたしが昨年サラリーマンを自主卒業した理由のひとつは、このまま定年を迎えたときに自分の人生がもったいないって絶対後悔すると思ったことです。
これって、定年のさらにその先にある人生の終わりをうっすら眺めはじめたのではないでしょうか。
だからそのときに後悔しないよう、今を変えようとおもったはずです。
これから自分の人生をどう紡いでいこうか、久しぶりに真面目に自分の死生観を見つめた今日の午前中でした。
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