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愛はときに自己犠牲も惜しまないものだと思う。

自己犠牲こそ愛だ!という人もいれば
そんなの愛じゃない!という人もいる。

犠牲の上になりたつ愛なんて!
愛する人が自分を愛するために自己犠牲していたら申し訳ない.
という気持ちも、わかる。

でも私は自己犠牲は愛だと思う。
正しく言えば、犠牲を犠牲と思わない、
相手に喜んでもらいたいが故に自ら己を犠牲にする、
苦労をいとわないのが愛なんじゃなかろうか。

もちろん、相手に「私のことが好きなら自己犠牲して」と求めるのは違う。
逆に「本当は嫌だけど、愛されたいから…」という気持ちで自己犠牲をすることも違うと思う。

でも、「相手の望むこと(喜ぶこと)」をしたいと思ったとき、どうしても
「自分は本当は苦手だけど…」と思うことも出てきてしまう。
そこで「好きな人を幸せにしたい。喜んでもらいたい」という気持ちで、
自ら望んで己を犠牲にすることは、愛がなきゃできないことなんじゃないだろうか。

たとえばアナ雪のオラフのこのセリフ。
「アナのためなら溶けてもいいよ」
なら.という言葉があるから、本当は溶けたくないはずだ。
当然だ、それは死を意味するから。完全なる自己犠牲だ。
それなのにこの言葉を発するのは、愛しているから。相手に幸せになってほしいから。
もちろん命を削るくらい愛するべきというわけではないけれども。


キリストは「愛とは見返りを求めないこと」というが、正直、仏でも神でもない私たちには難しことだと思う。
隣に並んで一緒に歩んでいきたいと思えば、対等を望んでしまうし、自己犠牲…つまり本来であればしたくないことをするのに、見返りを求めないということは難しい…
喧嘩してしまったりすると「あのときああしてあげたのに!」と思ってしまうこともある。

でも、お互いがお互いを喜ばせたいが故に、幸せになりたいが故に、歩み寄ることができれば、「でも向こうもあのときああしてくれたしな」と納得することができるのではないだろうか。

私は、愛とは相手を幸せにしたいと思うことだと思う。
愛とは自分本位ではなく相手本位のことだと思う。

自分の行動で大事な人をたくさん幸せにしたい。愛を持って接していきたい。
そして自分も同じように思ってくれる人と一緒にいたいと思う。

…高望みなのだろうか?間違っているのだろうか?笑

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