見出し画像

あそびがあること

体力に余剰が無くなることが、死んでゆくことだという話を聞いた。
免疫に余裕がないと、不意な毒に対応しきれずヤバくなるらしい。
意識はしてなくても、常に余剰や余裕があるから、
命のバランスを取れているということか。

余剰→余裕
そんなことを考え出して、”あそび”という言葉が思い浮かんだ。
ハンドルの遊びみたいなもの。

あそびの語源を辿ると、神事や仏事に関わっているようだ。
魂が自由である状態みたいな感じ。
あそびがある=自由な余白がある

余剰や余裕からは、さらにお金という言葉が出てきた。
何かあった時に、お金に余裕が少しでもないと大変になる。
お金があるだけで幸せにはなれないけど、
そこに余剰や余裕があれば安心や希望を見い出せる。

生活を無視して、音楽活動が出来る人ってどれだけいるのだろう。
仕事や家庭、プライベートの時間の中に余裕がないと、
自由に音楽も出来ないのではないかと正直思う。

逆に、時間的経済的な余剰や余裕がなければ、
文化的なものは広がらないのではないか。
(ただ、強烈なクリエイティブの誕生は、
怒りとか貧困とか、ネガティブな状況やストイックな探求心、
切羽詰まった状況がキッカケとなっているような気もする)

広がるためには、余白が必要なのだ。
無駄っぽいところも、大事なのだ。
でもギリギリまで追い込む瞬間も時には大切。

常に良きあそび心を保ち続けるのは、現実かなり難しい。

キツキツだと苦しいけど、
ユルユルでもダメなんだろう。

前に投稿した光と影の写真を眺めながら、
光の時には、影を思い出し、
影の時には、ちょっと俯瞰で、ちょっと影の後ろから、
ちょこっと見つめ直す。
そんな余裕を持ちたいと感じた。

治療の日は、その後ゆっくり休みの時間を取るために、
山寺から下山し、そのまま病院へ向かう。
雨上がりの朝の森は、素晴らしい日差しと、
キリリとした澄んだ空気に満ちていた。
自然も自分も、今生きているのだと思えた。
まだまだ林住期は終わりそうにないが、
そろそろ遊行期でもあると自覚しないといけないな。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?