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高級住宅街で起きたこと

 高級住宅街と言っても、古くからの高級住宅街には、昔からの安アパートが混ざっていたりするものだ。

 私の家は、高級住宅街の端にあったが、向かい側には、ボロボロの平屋のアパートがあった。二戸しかなく、老夫婦と、一人暮らしの女性がそれぞれ住んでいた。

 老夫婦は見るからに人相が悪かったので、私は会釈する程度で関わらないようにしていた。あるとき、税務署がクリーニング店の名前が書かれたバンに乗って私の家に来て、老夫婦の税務調査のため、私の家の敷地を使わせてほしい、つまり、張り込みに使わせてほしいと言ってきたことがあった。夫に相談しますと言って連絡先を聞いておき、翌日、夫に相談することなく断った。だって邪魔だと思ったから。

 一人暮らしの女性は、どこかの社長の愛人という噂だった。確かに、不定期に黒いセダンがやってきて、それに女性が乗り込む様子を数回見た。

 三十年が経った。

 老夫婦は死んで、その後は、空き部屋になっている。
 女性の方は、社長が死んで、その後は一人で暮らしている。
 私は、夫と暮らし続けている。私は女性と少しだけ仲良くなっていた。女性はかね子さんと言った。

「施設に入ることにしたの」とかね子さんが言った。
「そうなんですか」
「海が見える施設にやっと空きができたの」
「いつ引っ越すんですか」
「今度の週末よ」

 金曜日の夜十時過ぎ、玄関のチャイムが鳴った。インターホンを見るとかね子さんが立っていた。かね子さんが私の家のチャイムを鳴らしたのはこれが初めてだった。私はドアを開けた。
「どうしたんですか」
「荷物をまとめていたら釘を踏んでしまって」とかね子さんが言った。
 かね子さんの足元を見たが、サンダルを履いていて、特に変わった様子もない。
「釘は抜いたんですか」
「抜いた。消毒してくれないかしら。家に消毒がないの」
 私はかね子さんを玄関の中に入れて、入り口に腰掛けさせ、消毒液とティッシュと絆創膏をとってきた。足の裏を見ると確かに刺さった跡があった。錆びた釘だったようで傷口が汚れている。破傷風という言葉が頭に浮かんだ。きれいに消毒する必要がある。私は、傷口を指で両側からぎゅっとつまんで錆を体外に出そうとした。
「痛い痛い」とかね子さんが言った。それでも私は続けた。血が流れてきて、綺麗に洗い流してくれた感触があった。それから、傷口に消毒液をかけて、ティッシュで拭いて、絆創膏を貼った。かね子さんは入り口に腰掛けて片足を伸ばした変な姿勢だったのだが、それでも、背筋を伸ばし、凛としていた。
「ありがとう」と言って女性は帰っていった。

 リビングにいた夫に今起きたことを話すと、
「僕が中学一年生だった時、一度だけ話しかけられたことがあった。あなたが立派なお屋敷に住めるのは先祖が徳を積んだおかげだから、あなたも徳を積まないと先祖の徳を食い潰すことになるよって言われたんだ。徳を積めたかどうかは分からないけど、この言葉はずっと覚えているよ」と夫が言った。かね子さん自身の徳の収支計算はどうなっているのだろう、かね子さんは幸せだったのだろうか、と私は思った。
「かね子さんがいなくなると寂しくなるな」と夫が言った。

 
 



 




 

 

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