なぜ、ずんだようつべはボルネオを使うのか

ノートにするまでもないことだが、そんなことでもとりあえずまとめたくなったら書きたい感情が湧いて出てくる人間なので書かざるを得ない。原罪かなんかかもしれない。

ボルネオをもったところで何だというのか?

ボルネオは確定数が三確、サブがビーコン、スペシャルはメガホンレーザー(ファンネルのほうがいいやすいのでファンネルとする。)である。

キルソクは速い。足も速い。足下塗りも楽。動きやすい。
一番良いのは「死」が安いことだ。

そして気づいたのはこの「死の安さ」がどうやら自分がガチマッチ(Xマッチのことだが、ガチマッチがいいやすいので以下ガチマと略して使う)でこの武器をもってしまう理由である。

ガチマをやると他人の心がわからないことがわかる

ガチマはとにかくストレスがたまる。
自分以外の三人の味方をキャリーしなければならないからだ。
このガチマで苛ついてしまうのは人がどれだけ他人と意思疎通を図ることが出来ないかを教えてくれる。

その三人がどう動くかはわからない。
《他人》だからなおのことである。

よって、私たちは分かる範囲で味方のことを推量するしかない。
ここで大事なのは味方への自分の経験や知識にもとづいた配慮であろう。



分かる情報はその三人の武器とギアだけである。


上位勢は味方や敵のギアを必ずみる。
そのギアを確認して「このひと、うまいなあ。このひとは、へただなあ」というのを見抜くのである。

で、私は上位勢ではないのでそこまで厳しくはみられないが、
youtubeのための動画撮影なのかな?といったようなネタギアに関してはさすがに分かる。

ネタギアはあくまでyoutube用なので、動画撮影者はたまたまうまくいった試合だけを切り貼りして動画をつくっている。

彼らがそのネタギアでガチマッチに潜り続けることはまずない。
勝てないからである。もちろん撮っている側はそんなことはわかりきっている。だが、観ている側が案外、本気にしているかもしれない。

ミラーマッチのいいところ


スプラ3からミラーマッチが導入された。
なるべく同じ編成で戦わせるという仕組みのことだ。

だが、これは完全なミラーにはなっておらず、不満もある。
私ズンダは完全にミラーになってほしいとおもっている。
マッチングするまでに時間がかかってしまうかもしれないが、このほうが対策がしやすくなることはいうまでもない。

同じ武器同士で戦いが発生すれば、試合展開や対面は似たようなものになりやすい。
つまり、先述した「味方への自分の経験や知識にもとづいた配慮」が可能になりやすいことを意味する。

これをやっているのがサーモンランである。
サーモンランはランダムの日をのぞけば、プレイヤーが何の武器を使うのかは指定されており、出てくる敵がCPUである以上、その展開はある程度は決まっているのだ。

ガチマもミラーになればこのサモランにやや近くなる。
先日かいたnoteでも述べたように、私ズンダは「多様性のある編成」などが面白いとは全く思ってないので、完全ミラーをのぞんでいる。
ここにあるのは「機会の平等」に関するもので、機会が不平等なのは現実において仕方がないが、ゲームという架空の世界であればその不平等を是正できると信じているからだ。

ガチマの糞さ

ここまで読まれたかたはもうおわかりだろうが、ガチマは理不尽極まりないゲームである。

ミラーマッチにおいて、

スクスロVSノヴァ
ローラーVSパブロ
エクスプロッシャーVSオバフロ

といったミラーマッチをたびたびみかける。
この場合、勝つのはスクスロ、ローラー、エクスプロッシャーの側である。

反対側をひいた人間は負ける確率が高い。武器性能に差があるからだ。

よって、プレイヤー当人の実力が反映されているとはいいがたい。
無論、上位のプレイヤーはこの分け方でも苦戦しながらも勝利しているからXPがどんどんあがっているわけであるが、私のような下々の人間は
この逆境を斥けることができない。沈没するだけである。

勝っても負けてもいい武器

そう考えたときに、なぜ自分がボルネオをもつのかに結論がでる。

勝っても負けてもどっちでもいい、と思えるからだ。

今の環境がどうなのかしらないが、勝ちにこだわろうと思えば96ガロンシャプマ、ジムワイパーなどをもって戦場にでればよい。

しかし、これらの武器は一つ一つの動きをしっかりしなければならない。
キャリー武器として味方をひっぱる能力があり、そして義務がでてくる。

私はこの「しっかりプレイする」をなるべくしたくない。

というのも、「しっかりプレイ」しても負けることが多いからである。

徒労で終わってしまうことにたえられないのだ。

特にリザルトで味方のキル数が「1キル(私はこれを1キルbotとよんでいる)がいたりすると、この試合における自分の甲斐甲斐しいまでの務めはなんだったのかと慨嘆したくなる。

その失望をふせぐには、次のようにかんがえるしかない

「まあ、テキトーにやっててもいいか」である。

ボルネオに価値などない

ボルネオは私にとっても味方にとっても、いてもいなくてもいいような武器である。

存在はしているが、価値がある武器だとは誰もおもっていまい。

デスしたところで復短やビーコンで復帰をはやくすれば大して問題がない。
もともと居ても居なくてもどっちでもいいからだ。

このどうでもいい無価値な武器をもつことで私はガチマにおける心の平静をとっているのである。

なんとくだらないゲームの仕方だろうと思わざるを得ない。

実に消極的な楽しみ方だ。

だがこれが、能力のない人間の卑屈な楽しみ方でもある。

自分で書いていて、実にくだらないのでこれでやめにする。

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