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講談師神田伯山新春連続読み「寛永宮本武蔵伝」完全通し公演 5日目

十四話 甕割試合

八話の吉岡治太夫とともに武蔵が登場しない話です。しかし武蔵が登場しない話ほど聴きごたえのある話なのをよく感じさせられました。

前話で出てきた伊藤弥五郎は、徳川家康に剣術指南役を頼まれますが固辞。代わりに弟子を紹介しろと言われたのには承知し、弟子の小野善鬼ぜんき神子上みこがみ典膳てんぜんの2人を試します。
結果、神子上典膳が伊藤弥五郎の跡を継ぎ徳川指南役となることに決まりますが、納得のいかない小野善鬼は狂気の人となり、神子上典膳に斬られます。

甕割かめわり試合の名の通り、最終的には瓶の中に入った小野善鬼を瓶ごと斬るのですが、ここの描写がグッときました。
同格の相手がいなかった小野善鬼と神子上典膳はすぐに打ち解けさながら兄弟の仲になったのに、伊藤弥五郎の命令でこの顛末に至る時の神子上典膳の思いといったら……。そして大切に育てた弟子の一人を“盗人”として弟子に斬らせた伊藤弥五郎の思いといったら……。沁み入ります。

この話、すごく好きになりました。

十五話 山田真龍軒

伯山先生が二ツ目で松之丞さんだった頃からテレビ等で読みまくって有名になったあの話。
武蔵が「毒虫」と呼ばれる山田真龍軒と、二刀流vs鎖鎌で戦います。最後は武蔵が「天狗昇てんぐしょう飛切とびきりの術」で山田真龍軒を倒し、見物人は武蔵のことを大天狗ではないかと言い盛り上がります。

「天狗昇飛切の術」が出てくる手前までは、私も何度もYouTubeでいつぞやのENGEIグランドスラムを見てほぼ一言一句覚えていたので(今は完全にそらで言うのは無理だけど)、内心で口ずさみながら聴いていました。
だからこそわかります。伯山先生、二ツ目の頃よりも緩急がついた読み方をされている。

それにしてもこの話、連続ものの一部として聴くと感じ方が違います。
抜き読みだと突然SFの世界の話に飛ばされた気持ちになり「なんじゃこの話は?」となる「天狗昇飛切の術」のくだりも、初めから連続で聴けば「お、出た出たお決まりのやつ!」という感覚に。
また、大天狗のくだりも抜き読みなら特段なんとも思いませんが、連続で聴けば「天狗といえば、前にも武蔵が天狗退治をする話で出てきたよな」と脳内でリンクして少し笑えるという。

この話は松之丞さんが出てくるまで、抜き読みできる話として成立してこなかったと聞いたことがあります。
なるほど。この話だけ聴くと連続で聞いた時より遥かにちんぷんかんぷんなコメディーになってしまい、連続で聴いた時の風味が損なわれすぎてしまうからか、と理由が推察できました。
でもそれを逆手に取りSFコメディーとして演出し、とことん面白い方に振ってしまえというやり方をとったのが松之丞さんだったのでしょう。すごいなあ。

十六話 下関の船宿

いよいよ武蔵と佐々木小次郎岸柳とが出会います。
「小倉で武蔵と小次郎岸柳が決闘しそうだ」という町人の噂話を聞いた武蔵が船に乗って移動している時、交錯した向こうの船に小次郎岸柳を発見。後に巌流島と呼ばれる灘島で決闘することになるところまでがこのお話。

決闘の前に武蔵と町人とのやり取りや船の中で暇を持て余した人達の様子など、面白い場面が多くて和みます。
そして、もう「寛永宮本武蔵伝」が終わってしまうという寂しさが少しと、ついに待ちに待った決闘だというワクワクが少し。そんな気持ちで最終話を聴く流れになりました。

十七話 灘島の決闘

決闘の場に武蔵と小次郎岸柳が定刻で現れます。決闘が始まると弱いふりをする七十代の老人、小次郎岸柳だが、実は驚くほど強い。押されそうになる武蔵は今までの旅で出会った数々の名人を思い出し、さながらの動きを繰り広げ、見事に小次郎岸柳を破ります。

最終話であっても、冒頭も締めも、決闘を見たくて仕方がない殿様を描くことで笑える内容になっていました。そういう部分で重くなりすぎない展開にはなりつつも、決闘の場面は息を飲んで見守るような緊迫感がありました。
一話目からの記憶を瞬間で順に辿る武蔵の描写でこちらも連続で聴いてきた話の数々を想起させられ、この話まで聴き終えた時にはいよいよ全ての話を聴ききったという充実感が。なるほど連続読みの良さとはこれか、と少しはわかった気がします。


前夜祭も含め5日通しの公演、本当に贅沢な時間でした。

そして、こうしてnoteに感想を書いてみると、日を追う毎に話に対しての感想が増えていて驚きます。読みがどんどん深くなっていったがゆえのことでしょう。話が長編であるからか、一気にどっぷりと浸かったからか。

……ということもあってか、全体を通して気になったことがありました。
武蔵が二刀流で構える時、大半は「左剣を前、右剣を大上段に振りかぶり」と読まれるところ、山田真龍軒の時だけは「左剣を前、右剣を頭上高々」と読まれます。この違いには何か意味があるのでしょうか?
うーん、意味は無いのかもしれないけれど。地味に気になる。

なにがともあれ、誰に褒められるでもなく自分で自分を褒めるだけの達成感を得て、翌朝から日常へと帰っていった私でした。

大団円を迎えて、まさかの撮影タイムに突入

次はもっとダークな重い話の連続ものを聴いてみたいけれど、体力持たなくなるのかな?どうなんだろう?
実を言うと講談については、極悪人が出てきてどんどん人が死ぬような話の方が好きなんですよ。伯山先生が読まれるならなおのこと。
しかし逆に今回の連続読みを聴けたおかげで、笑いだらけで軽い印象の物語の連続読みのおもしろさを知ることができました。

20年後くらいにまた伯山先生の「寛永宮本武蔵伝」を聴いてみたいです。



現状、自分の生き様や思考を晒しているだけなので全記事無料です。生き様や思考に自ら価値はつけないという意志の表れ。 でも、もし記事に価値を感じていただけたなら、スキかサポートをいただけるとモチベーションがめちゃくちゃアップします。体か心か頭の栄養にしますヾ(*´∀`*)ノ