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居場所をつくることについて

就職した頃を振り返ると、自己同一性の危機のようなものに陥っていて結構つらかった。

約25年を過ごした土地を離れ、いきなり縁もゆかりもない都市に放り込まれた。これが大学進学を機にした移転であれば、まだサークルやクラスなどの居場所を見つけられるように思うが、利害関係以外に一緒にいる理由がない人間だけに囲まれていると、だんだん社会用の人格以外の部分が消滅していくような感覚に襲われた。

そこで私はサードプレイスを作ろうと、元々やっていたオーケストラや、経験はないが興味のあった演劇やら軽音やら短歌の集まりに顔を出してみた。

しかしそこで、私は就活のときもぶち当たった、自分はどのような人間であるのかということを初対面の人間相手に表現することが苦手という問題に再度向き合うこととなった。社会的にまともに振る舞おうとするとなんかただのフックのない根暗になってしまい、相手が悪いとまあまあ露骨に見下されたりする(自意識過剰といえばそれまでだが実際先述の演劇WSでは主催者から「社会人になって演劇やる側に興味持つ人間ってだいたいコミュニケーションに問題があるんだよねwww」と面と向かって言われた)。

この経験をして初めて思い至ったのだが、私はこれまで本当に初対面の人間ばかりの状況の中で居場所を形成していった経験があまりなく、それを最後にやったのは中学入学のときで、私は入学して半年程度教室で一言も発さず存在感の無い人間となっていた。

特殊な環境で10代〜20代前半を過ごしたので、大学では同じ中高出身の人間が多かった。元々自分のことを知っている人間がいる場合、自分はどんな人間か、目の前のあなたと分かり合えそうか?ということをアピールする手間がかなり省ける。

それでも初対面の人間の集まりに飛び込んでいけばよかったのだが、思い返すと大学入学当初のサークル選びの時点で似たような自己同一性の危機に陥っており、最終的に精神の安寧を求めて中高の同期が6人もいる団体に入っていった。

些細なことではあるが、あるコミュニティに居場所があるということは、君はこういう人間だよね、という周囲からの定義が自己意識と一致することで自分の形を保つことと言えると思う。大学の時に既知のコミュニティで閉鎖的な人間関係をやりがちだったのは自己同一性の確保のため仕方なかったとも言えるし、そこで周囲からの定義をいったん外してもがいてみても良かったんじゃないか?とも思う。

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