これからも、宝塚大橋の向こうから眺めている。
人間の感情は一面だけでは語れないし、白か黒かでは判断出来ないものだ。愛しているも憎らしいも両立する。
若い時に言われた言葉だった。その時は納得いかなかったが、歳を重ねるにつれてこの言葉の意味を噛み締める事が増えた。
特に、この一年で、何度も何度も思い出す。
一年前、目を疑うような知らせが飛び込んで来た時の事、一瞬で手先が冷たくなった感触。信じられない、嘘だ、間違いであって欲しい。全てを切り離したくて目を閉じたが、遮断出来る訳が無かった。
昨日、確かに私は彼女を観ていた。
いつもと変わらない溌剌とした姿を、コミカルなお芝居をソロで歌う姿を。とても思い悩んでいる風には見えなかった。もちろん心の中は舞台上では見えないだろうけど、まさか、あの後そんな事になるなんて。としか思えなかった。
目が覚めたら夢だったらと願ったが、残念ながら現実だった。
宙組の存在は、私の人生を変えたと言っても過言ではない存在。知り合った人達、愛する宝塚の街。そこから得たものの全てが宝物だった。
だからこそ、その夢を与えてくれていた劇団の組織が、余りにも人の心が無く杜撰なだった事に落胆も強かった。初動の会見で出た信じられない言葉の数々は今思い返しても腑が煮えくりかえる思いだ。
特に、私が未だに憤りを感じるのは、四十九日も済まされない、まだ生徒さん達の充分な心身のケアが出来ていないだろう中で、パガドの東京公演のチケットを売り出した事だ。もちろん簡単に中止!と言う訳にはいかないのも理解する。舞台に立ちたいと言う生徒もいたのも事実だろう。それでも、まずは生徒たちの心身を守りケアする事を優先して欲しかった。(身近に死を感じる経験が比較的少ないであろう)10代の生徒も多くいる。今だけの事じゃない。彼女達の人生を考えて長い目で見てあげて欲しかった。
劇団幹部から出てくる保身、人ごとめいた言葉の節々に機械的な公式の文面。生徒さん達は大切にされていないのだ、と悔しくて悲しかった。
そんな組織なんて辞めてしまえばいい、若いのだから取り返せる。世界は広いんだから、と言う気持ちと、今まで沢山の感動を貰ってきた。色々なものを犠牲にし努力して夢を掴んだ人達に対し、軽々しく辞めてもいいよと言える立場ではない事。この狭間でも随分と葛藤があった。
あれから、旧知の人以外に「宙組ファンです」と言う時には少し緊張するようにもなった。
相手の少し気遣うようなニュアンスが感じられたり、あんな事があっても応援してるの?と責められているような気がして辛くもある。SNS上での心ない言葉も飛んで来た。宙組のファンだからと言って何も考えていない訳ではないのに、と悲しかった。でも、私達がファンである事を否定してしまえば、それでも舞台に立とうとしている人達を否定する事にもなる。そんな葛藤も未だにある。
今でも、これが正解だと言う結論には至っていない。
9ヶ月ぶりに観たカンパニーは、全く変わらないと言えば嘘になるが、やっぱり大好きだった。変わらない仲間達と、変わらない宝塚の街が愛しかった。ずっと見て来た人達が舞台に戻って来てくれた事が嬉しかった。
その反面で、亡き素敵な娘役さんを思い胸がちくりと痛む瞬間もある。歌って踊る大きな瞳の彼女の在りし日を思い返し切なくなる。舞台に立つ人達を観ながら、今辛い思いをしていないだろうかと案ずる瞬間もあった。
どちらの思いも、紛れもない私の素直な気持ちなのだ。
観劇を続ける事と、宙組のファンであり続ける事と。舞台に立つ人のパフォーマンスを素直に感じる事。
亡き人を偲び二度と過ちを繰り返すなと言う気持ちと、劇団に対して、引き続きの改革を誠実にせよと言う厳しい目を向ける事。
全て、一つの心の中にある。