檻の中の桃色
1
【任務内容】
桃色ワニの調査
【終了条件】
事態の収拾
子供の笑い声が聞こえる。仄かな香ばしい匂いはポップコーンだろうか。どこからか流れる明るいメロディを聞いていると、自分達が場違いな存在に思えてきた。
見事な晴天に恵まれた休日の動物園の賑やかさ。本日の仕事の舞台へ鬱陶しそうな視線を向けヒロがぼやく。
「落ち着かねぇな」
現在地は動物園の駐車場。これから非日常空間が始まる地点であり、一般的にはワクワクしてくるはずなのだが、薄暗い部屋で一人グダグダしているのが好きな彼は目に見えてテンションが下がっていた。華やかな雰囲気に気圧されたヒロの暗い表情は、笑顔を浮かべて行き交う人々とは実に対照的である。
一方、そんな彼の隣を歩いているシノは更にムスッとした表情になっていた。
「同感です」
シノの恐ろしげなトカゲ顔は強張っており、いつも以上の威圧を放っている。だがヒロとは違い、彼の不機嫌の原因は別の点にあった。
「……なぁシノ。大丈夫か?」
心配そうにヒロが話しかけると、シノはハッとした様子になって表情を切り替える。
「えっ……だ、大丈夫ですよ。このくらい、息を止めていれば」
「死ぬぞ」
ストレートなツッコミを受けたシノは苦笑いになって強がった。
「……まぁ、ここは敷地が広いですし、それほど人との距離も近くありませんし……なんとか、呼吸します」
シノは他人が嫌いなのだ。それを言うならヒロも初対面の人物との交流は苦手だが、シノの場合は人嫌いの域にある。人見知りレベルではなく、接触を持とうとした瞬間に敵認定するような根深いものだ。仲間には心を開いているが、他者への壁の築きっぷりは仲間達すら引かせることがあった。
さすがに任務の際には我慢してくれるが、それでも嫌々さは滲み出てしまっている。シノの性格を把握しているヒロは、なんとか彼の気持ちをほぐせないかと試みた。
「呼吸ついでに悪いんだけどよ、もうちょーっと、柔らかい表情になれねぇかな。いくらなんでも、その顔はヤベェ」
仲間からの指摘に、シノは眉間にシワを作りつつ自身の頬に手を当てる。
「そんなにヤバいですか?」
「自決を覚悟した革命家みたいになってる」
「あぁ……それはヤバいですね……」
事態を把握したシノは指先で顔をこねた。しばらく手で顔を覆ったり、深呼吸したりしていたが、やがて落ち着いたのか改めてヒロへ声をかける。
「……どうです? ちょっとは柔らかくなってます?」
問われた側はシノの顔を見上げた。小柄なヒロはシノと並ぶと身長差が際立つ。
「うーん……さっきよりはマシかな。夜逃げを覚悟した革命家って感じだ」
「とりあえず、目前の死は回避できたということでしょうか」
ヒロから認可を得られたシノはホッとした表情になった。
他人嫌いなシノだが、幸い仲間の言葉には耳を傾けてくれる。リラックス作戦が上手くいったのに確信を持てたヒロは内心安堵していた。駐車場にいる段階からカリカリされては先が思いやられる。
「よし、じゃあ準備もできたし、行くか! まずは受付だな」
ヒロは気分を切り替えると、空元気を振り絞って動物園の受付へ歩いていく。
対して、彼の背中を追う格好になったシノは、足を動かしながらもヒロへ声をかけた。
「あ、一応言っておきますけど、ヒロも二日酔いの革命家みたいな顔になってますよ」
「……そうか」
今回の依頼は動物園の園長直々のもののため、三足鳥の書状を受付に見せただけで二人は動物園へ入場できた。愛想笑いの受付嬢は、きっと後で景気の悪い二人組の話題で盛り上がるだろう。
園内を見渡したヒロは気のない歓声を上げてみせた。
「うわぁーい。動物園だぁ」
周囲の人口密度は増している。軽やかな音楽が人々の間を満たしていき、楽し気な雰囲気を更に盛り上げていた。なんとも居心地が悪い。
ヒロは横目でシノの様子を探った。同行者は眉間に深くシワを作っており、不機嫌さを際立たせている。その視線の先には檻に入ったライオンがいた。
ここは動物園なのだから当然檻の中に動物がいる。動物が好きなシノには、それが不愉快らしい。こうなるのが分かっていたヒロは溜息をつく。
ヒロはシノを刺激しないようそっと距離をとると、園内の地図が書かれた大きな看板の前へ立つ。現在地を示す赤い三角マークが左下の方に表示されていた。
シノの声が後ろから聞こえる。
「早く行って済ませましょう」
自分達の目的地であるワニの檻は、今いる位置の真逆に当たる地図の右上の方に位置していた。
数年前、とある密林でピンクのワニが発見された。ワニは珍獣として評判になり、やがて動物園での展示を望まれるようになった。
この動物園では、一年前から国内で唯一桃色ワニを飼育している。今回ヒロとシノが動物園へやってきたのは、このワニを調査するためだった。
調査の具体的な内容は、ワニの健康状態と生態について。
三足鳥に依頼を出した園長曰く、ワニはつれて来られた当初は元気に大暴れしていたが、現在はだいぶ弱ってしまっているのだという。弱っている原因を特定し、可能であれば元の元気を取り戻して欲しいというのが園長の希望だ。
これだけ聞くと、単に有能な獣医を探せば良いだけの話に思える。なのに園長がわざわざ三足鳥を頼ったのは、もう一つの要因を不安視していたからだろう。
桃色ワニには妙な噂があった。檻を抜け、動物園から離れ、人を襲うというのだ。
この動物園を訪れる者の多くが、展示されているピンクのワニを見ている。ワニは、自身の姿を目撃した入園者の前に、時と場所を選ばず現れるのだという。
動物園には、園外に桃色ワニがいるとの目撃情報が頻繁に寄せられていた。しかしワニはきちんと檻の中にいるし、現場へ行ってもワニがいた痕跡はない。襲ってきたワニの行方を目撃者に聞いても「いつの間にか消えてしまった」という不可思議な証言が出てくるばかりだ。
最初、園長は悪戯だと考え相手にしていなかった。しかし、以降もピンクのワニの姿は定期的に目撃され、噂は尾ひれを付けて膨れ上がり続けたという。
ワニが自分を見世物扱いした人々へ復讐しようとしている、という話がネットで囁かれた頃になって、慌てて園長は調査に乗り出した。だが不審な噂が広がりきってしまった今、外部の獣医からも協力を断られてしまい、困った末に三足鳥に助けを求めた、というのが今回の依頼までの流れだ。
そんなわけで、ワニの奇怪な能力について調べるのもヒロとシノに課せられた仕事になっていた。
ワニに襲われるのは老若男女問わずだが子供が多く、テレビなど映像媒体で見た場合は現れないらしい。幸い怪我人は出ていないが体調を崩す者は出ており、早急に調査を行う必要があった。
その姿は遠くからでもはっきり見えた。
「へぇ、本当にピンクなんだな」
ヒロが感心したように言う。
二人の目の前の檻には巨大な桃色のワニが寝そべっていた。このくらいのサイズであれば大抵の動物は一飲みだろう。大きな口に並んだ大きな牙は離れた位置からでも良く見えた。
目に刺激を与えるショッキングピンクの体色は、じっと見ていると視力を落とす気さえしてくる。目を逸らしてしまいそうになるのを堪えるには、なかなかの意思の力を必要とした。
一方、ヒロの隣に立つシノは無言のまま傍らの看板へ目を向けていた。そこには桃色ワニの紹介が写真付きで表記されている。モモちゃんです。よろしくね!という気の抜けたメッセージが看板の下部にプリティなフォントで書かれていた。横にはデフォルメされたピンクのワニが二本足で立ってポーズを決めたイラストが添えられている。
どこからツッコもうか考えていたヒロだったが、自分達の方へ近づいてくる足音に気付いて看板から顔を上げた。そこに立っていたのは動物園の従業員らしき作業着姿の男。ワニの担当なのが名札から知れる。
男はオドオドした様子で二人へ話しかけてきた。
「……あのぅ、三足教の方ですか?」
三足教とは三足鳥を信仰する人々の集まりだ。ヒロと仲間達は三足教に属しており、教団の中でも幹部の立ち位置に当たる。
三足鳥は平和をもたらす神を名乗り、多くの国で認知されていた。そんな大いなる存在の補佐を務めるのがヒロ達五人というわけだ。
「はい、そうですけど……ワニの飼育員の方ですか?」
ヒロが答えると、男は安堵したように大きな溜息を吐き出した。
「ああ、良かったぁ。宗教団体の幹部さんだというから、どんな強烈な人が来るかとヒヤヒヤしてたんです」
どうやら二人の肩書を聞いて怯えていたらしい。
宗教組織の幹部という地位のせいで、ヒロ達五人は過剰に部外者から警戒されることがあった。そんな反応をされる度、ヒロとしてはくすぐったいような気持ちになってしまう。神の使徒という字面だけ見ると大層立派に感じるが、彼としては自分はそれほど大したことはしていないのではないかと考えていた。現に今回は、動物園のワニの状態を確認するという、世界平和とはまったく関係なさそうな仕事をしている。
それにしても強烈な人とは、いったいどんな人物を想像していたのやら。
「普通過ぎて拍子抜けしました?」
苦笑いでヒロが問うと、飼育員の男はブンブンと頷いた。
「ほんと安心しましたっ。皆して僕を脅すんですよぉ! 生き血を抜かれるだの、使い魔に貪り食われるだの……!」
「そっすか……」
あんまりなイメージにヒロは脱力してしまう。三足教は歴史の浅い新興宗教のため、こういった勘違い、というか偏見も珍しくない。
誤った印象を少しでも良くするため、きちんと仕事をこなす必要がある。ヒロは改めて気合を入れ直すと、本題へと話を切り替えた。
「えぇと……問題のワニってコイツですよね?」
彼が確認すると、飼育員は頷いてワニを見つめる。
「そうなんです。すっかり元気がなくなってしまって」
両者の視線の先にいるのは桃色のワニ。ただじっとしているだけに見えるが、あれで具合が悪いらしい。
残念ながら、素人であるヒロには何がおかしいのかさっぱり分からなかった。むしろ、人を襲うという噂を聞いていたせいもあって、大人しい現在の様子には安心感すら持っている。
「このワニが檻から出て、人を襲うっていう話は本当なんですか?」
ヒロが質問すると飼育員は再度頷いた。
「は、はい。僕も襲われたことがあるので……本当です……」
その台詞を聞いたヒロは驚いた表情になったが、すぐに真面目な顔に切り替えると質問を重ねる。
「……その時の様子を詳しく聞かせて下さい」
「えーと……僕が仕事が終わって、家に帰ったら……玄関に……ワニが、いたんです」
飼育員の男は怯えた様子で事件を回想していく。
「で、僕は慌てて玄関を閉めて、逃げて……でも、どうしたら良いか分かんなくて、同僚に来てもらったんです。それで一緒に玄関を開けてみたら、もういなくて……」
「へ、へぇ……」
奇怪な状況を頭に思い浮かべヒロは生唾を飲み込んだ。
飼育員の男は更に話を続ける。
「でも、園に連絡して確認してもらったら、ワニはちゃんと檻の中にいたんです……」
青ざめた表情になりつつも男は自身の回想を終えた。ヒロも顔色を悪くしていたが、この程度で参っているわけにはいかない。
「ワニが現れたことについて、何か心当たりはありませんか?」
気を取り直してヒロは質問した。しかし、飼育員は首を横に振る。
「……分かりません」
そう答えたものの、男は自嘲するような笑みを浮かべてポツリともらした。
「でも、もしかしたら、何か僕に伝えたかったのかもしれません。こんなにワニが苦しそうにしてるのに、僕は何もしてあげられてませんから……」
「可哀想に」
吐き捨てるような言葉が挟まれる。短い台詞を放ったのは、今まで黙り込んでいたシノだった。
「……シノ?」
突然の発言にヒロは戸惑った様子になる。飼育員の男も同じような顔になっていた。
「えぇと……あなたも、三足教の?」
尋ねられたシノは目も合わせず答える。
「はい。医師としてワニの調査に」
シノは基本的には人専門の医師だが、必要であれば動物を診ることもできた。
対して、事情を知らない飼育員は当然の勘違いをする。
「あ、なるほど。獣医さんでしたか」
「……そんなところです」
訂正するつもりはないらしい。相変わらず愛想の欠片もないシノにヒロは内心ヒヤヒヤしてしまう。こんなにも人嫌いな彼が、なぜ医師になろうという発想に至ったのか心底謎だ。
両者それぞれの戸惑いを向けられていたシノだったが、当の本人は気にする素振りもない。
「では、私はワニを調べてきます」
言うなりワニの檻の方へ歩いて行ってしまった。
慌ててヒロは彼を追う。
「えっ、あ、俺も行く!」
「待ってください、僕も……!」
飼育員も続こうとした。しかし、その声を聞いた途端にシノは立ち止まり、振り向きもせず言い放つ。
「貴方は来なくて良いです。気が散ります」
「……っ!?」
飼育員は驚いた顔つきになって立ち止まった。相手の動きが止まったのを知ったのか、再びシノは歩みを進めていく。
ヒロは困った表情になって謝った。
「す、すいませんっ。外で待っててもらっていいですか」
シノのことだ。また持病の人嫌いがうずいているのだろう。
頭を下げながらのヒロの言葉に、しばし飼育員はポカンとしていた。だが自分が力不足であるのを理解したのか、困惑しつつもヒロへ応じる。
「……あの、コレ、檻の鍵です」
飼育員は腰につけていた鍵の一つをヒロへ差し出した。
「ワニを、助けてあげてください」
「……分かりました」
ヒロは頷いてそれを受け取る。
受け取ってから、鍵がここにあるのにシノはどうやって檻へ入るつもりなのかと考え、彼が力づくで檻を壊そうとする姿を想像して慌てて駆け出した。
2
「……気をつけろよ」
ヒロがシノへ後ろから声をかける。対するシノは恐れる素振りもなくワニの隣に座り込んでいた。
今、二人はワニの檻の中へ入っている。見知らぬ二人組が現れたことでワニは警戒したのか、檻の隅まで移動してしまっていた。しかしシノが歩み寄り何か囁くとリラックスした様子になり、今は目を閉じて大人しくしている。
「やっぱり」
もう原因が分かったのか、シノがヒロへ手招きする。
ヒロが恐る恐る近寄るとワニは目を開いたが、シノが頭を撫でると再び目を閉じた。シノは動物の扱いに長けている。これ自体は彼の技能ではないらしいが、どんな動物の警戒心も解き、心を通わせる姿は魔法のようだった。
「どうだ?」
ヒロの問いかけに、やっとシノは顔を上げて彼の方を見る。その表情には諦めたような、苦々しい辛さが浮かんでいた。
「……このワニ、着色されてるんです」
「えぇ!?」
思わずヒロはワニを覗き込む。ワニの肌の質感はまさに爬虫類のもので、鱗と鱗の隙間まで立派に桃色に染まっている。これが着色だとはシノに指摘されても信じ難かった。
ワニを撫でたままシノが目を伏せる。
「相当強い薬品で染めてあるようです。弱っているのもその影響でしょう」
ワニは口で荒く呼吸していた。近寄ったことで、ワニが苦しそうな仕草をしているのがヒロにも確認できる。
着色されたのは動物園へやってくる以前だろう。新種の桃色ワニの発見が話題になったことで、悪徳業者が普通のワニを着色して動物園へ売りつけた、といったところか。
ヒロがワニにそっと触れる。軽く擦ってみるが、ペンキのようなツルツルした合成っぽさや手に吸い付くような違和感は無い。ワニは動物園にやってきた一年間、当然動き回ったり水中を泳いだりしただろうに、それでも色はまったく剥がれていなかった。
「取れないのか?」
「……残念ですが、薄めるくらいしかできないでしょう。薄めたところで苦しみを長引かせるだけです」
シノは溜息をつく。
「それに、本人は死ぬことを望んでいます」
彼は生物の神経の変化を感知する技能を持つ。この能力の応用により、触れただけでワニの訴えたいことが分かったらしい。
「望み通り、楽にしてあげた方が良いでしょう」
その言葉を聞いたヒロは不憫そうにワニを見つめた。
「……檻を抜け出て人を襲ってたのは、やっぱそいつの力か?」
苦しみを訴えるためだったのだろうか。
しかし、シノは首を振った。
「その原因は着色料にあります」
シノが爪でワニの桃色の鱗を軽く叩く。
「染み込ませるための材料に幻覚作用のある薬品が使われています。ワニが腐り始めたことで成分が外に漏れ、他へも影響が出たんでしょう」
彼の答えを聞きヒロが苦々しい顔になる。
「……皆、幻を見てたってことか」
園外に現れたワニは幻覚だったのだ。
動物園で見た桃色のワニへ人々が強いインパクトを持った結果、幻覚にワニが現れたのだろう。子供が多く襲われたのは、大人より身体が小さいため薬の影響が出やすかったからか。体調を崩したというのも着色料のせいに違いない。
シノはワニを撫でながら言葉をもらす。
「暴れていたのはワニ自身が幻覚を見ていたのも大きかったようです」
突然捕らえられて毒液に浸けられ、見知らぬ狭い場所へ閉じ込められた挙句に幻覚に飲まれジワジワ死んでいく。ワニには自分がなぜこんな目にあっているか分からなかっただろう。
桃色ワニの安楽死が決まった。それと同時に偽の桃色ワニを作り出した悪徳業者への調査も決まったが、ここから先は三足教の仕事ではない。この国の人々が自力で解決すべきことだ。
安楽死の当日、ヒロとシノは再び動物園を訪れていた。時刻は夜。閉園時間の動物園に客の姿はなく、昼間とは別の場所のように寂しげだ。
現在、二人は桃色ワニの宿舎にいた。多くの職員や関係者が見守る中、シノによってワニへ安楽死の処置が施されている。三足鳥の啓示にはここまでの指示は含まれていないが、シノが自ら行うと動物園側へ申し出たのだ。医師である彼は生命の力を強める術を知っているが、同じく弱める術も知っていた。
「せめて最後に、故郷の夢を見られれば良いのですが」
目を閉じ動かなくなった桃色ワニを見下ろし、シノはポツリと呟く。彼の隣に立つヒロもやりきれない表情になっていた。
ワニの死を見届けた観衆達は、皆一様に暗い顔になって宿舎から出ていく。最後に残ったのはワニを担当していた飼育員だった。
男は二人の元へ歩み寄ると静かに頭を下げる。
「……ワニを助けてくれて、ありがとうございました」
告げられた台詞を聞いたシノは目に見えて苛立った表情を見せた。
「助けた? これが助けたように見えるんですか?」
「…………」
飼育員は何も言えずにいる。シノはわざとらしく呆れた様子になって見せると、目の前の男を鋭く睨みつけた。
「……貴方は、ワニを恐れていましたね」
「……!」
指摘された側は強張った顔つきになる。返事を待たずにシノは続けた。
「恐怖のあまりワニと距離を置き、そのせいで異常に気付くのが遅れた。違いますか?」
「…………」
男は返事をしなかったが、それは肯定したも同然だった。しばし彼は瞳を伏せて沈黙していたが、やがて声を絞り出す。
「そうです……僕は、ワニが恐くて……ろくに近寄れもしなかったんです」
その言葉を聞いたヒロは彼の話を思い出していた。飼育員である男は、以前ワニの幻覚が家に現れたと言っていたのだ。
幻覚としてワニが現れたのは、彼が常日頃からワニへ強い感情を持っていたからに他ならない。そして、男の気弱そうな性格を考慮すれば、その感情が恐怖であるのは容易に想像がつく。
飼育員の返事を聞いたシノは怒りのこもった形相で批難した。
「貴方はいつもワニの側にいたんです。貴方がワニを助けるべきじゃなかったんですか」
掴みかかりそうな勢いを見て慌ててヒロが止めに入る。
「シノ、やめろ! あれじゃどうしようもなかっただろ」
動物園に来た時点でワニは着色されていたのだ。早期に気付けたところで命を救えたかは疑わしい。
「…………」
仲間に制されたシノは口をつぐんだ。彼も頭の中では、どうあがこうとワニを助けることができなかったのは理解しているのだろう。
シノはやれやれと言いたげに溜息をつくと、静かな口調で改めて飼育員へ声をかける。
「……檻の中の動物は、何かあれば人に頼るしかないんです。これからも飼育員を続けていくつもりなら、そのことを忘れないでください」
「……はい」
飼育員は小さく返事をした。その視線は床に横たわっている桃色のワニへ向けられている。ただ寝そべっているだけに見える巨体には、もはや生命の息吹は宿っていない。
男は力ない足取りでワニの元へ歩み寄ると、その大きな頭を抱きしめる。
「ごめんよぉ……っ」
嗚咽交じりの謝罪の言葉を、ヒロとシノだけが聞いていた。
桃色ワニの宿舎から出たヒロは大きく伸びをする。大きく息を吸うと動物臭いながらも新鮮な空気が肺を満たしていった。
「はぁ……終わったなぁ」
沈んだ気分を切り替えたいのか、彼の口調にはワザとらしい明るさがある。
「さて、帰るかぁ。飯って気分でもないもんな」
ヒロは後ろにいるシノへ声をかけた。対して、シノは未だ難し気な顔つきのままでいる。
まだ何か気にしているらしい。それを察したヒロは嫌な予感に囚われつつも足を止めた。その動きに気付いたシノは、今度は申し訳なさそうな表情になって彼へ話しかける。
「あの……少し、時間をもらっても良いでしょうか?」
「……なんだよ?」
いぶかし気にヒロが尋ねると、シノはワニの檻の正面へ視線を向けた。
そこはキリンの展示スペースで、離れた位置からでも二頭のキリンが眠そうな様子で立ち尽くしているのが見える。どうやら夜間でもキリンは宿舎に戻さないらしい。
シノは片方のキリンを指し示すと心配そうに告げる。
「あのキリン、具合が悪そうなので確認したいんです」
「えぇ?」
ヒロは不可解そうな声を上げた。確かにキリンは覇気のない顔をしている、ような気がするが、夜だから眠いだけのようにも思える。
「……具合、悪いのか?」
自然とヒロは首を傾げてしまった。共感できなそうな彼を見てシノは苦笑いしてしまう。
「あ、無理でしたら先に帰ってもらっても大丈夫ですよ」
その台詞を聞いたヒロは苦笑いを返した。
「いや、もうちょい付き合うよ。そういうことなら、キリンの担当者とも話さなきゃならないだろ?」
人嫌いなシノが見ず知らずの他人と二人きりになって耐えられるとは思えない。元より置いていく気のないヒロはさり気ない態度で助力を申し出た。
「さっき見かけたから探そうぜ」
「……助かります」
気を遣われたシノは安堵した表情になる。彼も内心、自分一人では上手くいかない予感はしていたのだろう。それなら素直に頼ればいいのにヒロは思うのだが、シノは深夜に仲間を連れ回すのに心苦しさを感じているらしかった。
他人には厳しいくせに仲間には優しい。不器用な彼の性格を知っているヒロだったが、改めて呆れたような気持ちになった。先ほどまで強気なシノを見ていたため、そのギャップはより一層強い。
「じゃあ、行くか。まだ園内にいると思うんだけどなぁ」
呆れを表に出さないまま、ヒロは再度歩き出す。その小柄な背をシノが追った。夜の動物園に二つの影が伸びる。
幸い、そう時間はかからずキリンの担当者を発見できた。しかし案の定シノは飼育員へ不愛想な態度で接し、ヒロはフォローに立ち回る羽目になるのだった。
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