戦いの後の後
1
時刻は夜。天眼の光が弱まったことで空には薄暗い闇が訪れている。
静かな野原を窓から眺めるアヤは、つい数時間前までここが戦場だったのが嘘のようだと回想していた。設置された松明の明かりがポツポツ揺らめく様は幻想的にすら見えたが、ここでは今日、沢山の人々が戦い、死んだ。
国同士の戦争の一端で行われた争いは、人々や土地へ幾多の傷跡を残しながらも一応の終息を迎えている。アヤ達が加勢した勢力が勝利したもの、無傷とはいかず多数の死傷者を出した。既に怪我人の運搬は終わっていたが、未だ無数の死体が放置されたままだ。明日には死体の処理も行われるが、気の滅入る作業になることだろう。
現在、アヤがいるのは味方陣地の拠点となっている村。病院として機能している教会にて、怪我人の治療を終えた彼女は束の間の休息をとっていた。先ほどまではシノも一緒にいたのだが、戦闘から兵士達の手当てまで休まず行っていた彼はさすがに疲れたらしく、今は別室で仮眠をとっている。
他の仲間達も後片付けに追われ、個々が別行動で対処に当たっていた。明日には再度集合する予定だが、それまで全員が揃うことはないだろう。
寂しい気分になってしまったアヤは溜息をつく。こうして外を眺めていても仲間が帰って来ないのは分かっているが、今は頼りになる誰かに側にいて欲しかった。
生と死が隣り合う戦場に身を置いていたせいか、なんだか彼女は気弱な心持ちになっている。何度も戦闘をこなしてきたとはいえ、どうにもアヤは人の死を割り切れない。
「……オイ」
感傷的になっている彼女へ声をかける者がいた。アヤが隣を見ると、そこには一人の男が立っている。無音で現れた彼に驚くこともなく、アヤは男の名前を呼ぶ。
「あ、ハヤテ……」
呼ばれたハヤテは挨拶もせず、ぶっきらぼうに要件のみを伝えた。
「ギンガが戻ったぞ」
彼の台詞により休息時間が終わったのを知ったアヤは、ちょっと疲れた表情を浮かべたものの気合を入れ直す。
「……行かなきゃね」
仕事は未だ終わっていない。彼女には、本日最後の大仕事が控えていた。
アヤとハヤテは村の外へ出た。事前のアヤの指示により野原は無人になっており、風に揺れる草木のみが二人を出迎える。
戦場だった場所まで行くと、野原には不似合いな人工物が鎮座しているのが見えた。夜闇を切り裂く強烈な光を放つそれは、二人の姿を認めるとプァンという大きな音を立てる。
「ギンガ! しーっ」
慌ててハヤテは歓迎を制した。声が通じたらしくギンガは汽笛を放つのを止めたが、まるで彼をからかうように前灯を点滅させる。
ギンガと呼ばれたものは暗い青色の車体をした電車だった。先頭車両しかないものの、野原に突如出現した乗り物は十分なインパクトを放っている。
長らく故障していたギンガだったが、ハヤテのおかげで粗方の修理が完了し、先頭車両限定ながらも走れる状態になっていた。今はこうして任務にも同行できるようになったのだから、ハヤテの熱意には驚かされる。
周囲を気にしつつハヤテはアヤに確認した。
「……聞こえてねェんだよな?」
「まぁ大丈夫だと思うけど……誰もいないし」
アヤも周囲を見渡したが汽笛を聞いた者はいなかったらしく、人が集まってくる様子はなかった。
近くに誰もいないとはいえ相当大きな音がしたし、そもそも野原に電車が現れているという現状は何もせずとも注目されてもおかしくない。しかし、なぜかギンガは誰にも気にされることなくポツンとしていた。
理由は、ギンガが世界から零れ落ちた存在だからだ。なんらかの事情で境界に放置されていたギンガは今やすっかり人から意識されなくなり、さながら幽霊のような状態になっていた。世界から外れ境界へ移動し、境界で長期間過ごしてしまったものは、世界に戻れても人々から認識されにくくなってしまう。
なので大きな音を立てようが走り回ろうが、よほど繊細な人物でない限り察知されることはない。が、そう説明されてはいてもハヤテは信じ切れていないらしかった。キョロキョロしている彼を見てアヤは苦笑いしてしまう。
「気にしなくても平気よ。あなただって他の人に気付かれなかったでしょ?」
彼女に問われたハヤテは渋い表情になって反論した。
「そうだけどよォ……デカさが違うだろ」
悪霊であるハヤテ自身も、ギンガと同じく人々から認識されにくい存在だ。戦時中の厳戒態勢という状況にも関わらず、先ほど教会へ行った時も、村を通った時も、余所者の彼へ視線を向ける人物は一人もいなかった。それは慣れれば気楽かもしれないが、未だ生者の感覚が残っているハヤテにとっては居心地が悪い。
しかし、そんな彼の気まずさを吹き飛ばすように威勢のいい大声がギンガの方から聞こえてきた。
「オーイ! ハヤテェ! オーイ! ウォーイ!!」
電車のドアから身体を乗り出して手を振っているのはハヤテによく似た男。それへハヤテは鬱陶しそうな返事を返した。
「うるせェ! 聞こえてンよ!」
彼の声が聞こえたのか電車の中から更にもう一人の男が顔を覗かせる。まぎらわしいことに、この男もハヤテにそっくりな外見をしていた。
後から出てきた男は騒いでいる男を睨んで注意する。
「……シマキ。大声出すんじゃねェ」
対して、睨まれた側はキョトンとした表情になった。
「でもアナゼ、オレ達の声って誰にも聞こえねェんだろ? 騒いでも良ンじゃね?」
「オレ達には聞こえてんだ。うっせェ」
「ヘーイヘイヘーイ」
アナゼに叱られたシマキはヘラヘラした態度で答えたが、騒ぐのは素直に止める。
ハヤテ、シマキ、アナゼ。この三人は兄弟であり、三つ子の悪霊だった。ギンガに乗って境界で暴走していた三人はアヤに成敗され、現在は彼女の部下をやっている。シマキとアナゼは戦闘の際に傷を負ったため入院生活を送っていたが、現在は大分回復していた。
「皆、お疲れ様」
アヤが車中の二人へ労いの声をかけると、さっそくシマキが彼女へ文句を言う。
「お疲れさせるような命令したのはどこの誰だババァ!?」
部下になったとはいうものの、未だ敗北に納得していないシマキはアヤに反抗的だ。
一方のアヤは慣れた仕草で彼からの不平を受け流す。
「はいはい、これで最後だから」
今回、シマキとアナゼは死者の霊の運搬作業を担当していた。ギンガに兵士達の幽霊を乗せ、冥界付近まで運んでいくのだ。魂を扱った経験がある二人と、魂を乗せることで行動力が上がるギンガにはうってつけの役割だった。
通常、幽霊を冥界まで案内するのは死徒の役目なのだが、三足鳥の啓示に関連して死者が出た場合はアヤが自主的に補助を行っている。霊感に優れ冥界とも交流の深い彼女は、今回の任務でも幽霊の誘導を行うことにしていた。
アナゼが神経質そうな表情を歪めてアヤへ確認する。
「……本当に、コレで終わりなんだろうなァ?」
彼も正直、アヤに対してのわだかまりがないわけではなかった。まだまだギクシャクしている関係性に気を使いつつアヤは返事をする。
「これが今日最後の仕事よ。今回は、ちょっと三人にも手伝ってもらうわ」
その台詞を聞いた三兄弟は怪訝そうな目つきで顔を見合わせた。真っ先に内容に思い当たったのは、三人の中で最もアヤと同行する機会の多いハヤテ。
「手伝うって……アレか?」
「そ、アレ」
アヤが軽く頷くと、彼は面倒そうな顔になって舌打ちをした。まったく話が見えないシマキが不思議そうに二人を見る。
「アレってなんだァ?」
「…………」
アナゼも分かっていないようだが、必要なこと以外話たがらない彼は質問役をシマキに任せるつもりらしかった。
二人からの当然の疑問に、アヤは野原を見渡して説明を始める。
「ここには未だたくさんの兵士の幽霊が取り残されてるわ。主に敵方の、ね」
彼女は今まで味方の陣地を中心に、主に味方の兵士達の幽霊を優先して移動させていた。結果、現在野原に残っている幽霊の多くは敵側の死者となっている。
「これから夜が深まって幽霊が活動しやすくなる時間帯になるんだけど、ただでさえ死者の人数が多いのにバラバラに移動されて、戦場の外まで出て行っちゃったら回収が大変になるでしょ?」
そこまで言うと、アヤは改めて三兄弟へ視線を向けた。
「だから三人には、幽霊達の足止めをしてほしいの」
彼女が野原から早めに兵士達を退避させたのは、この作業を行うためだ。呪術の心得のない人物に近くをウロつかれては別の問題が発生しかねない。
アヤの話が終わった途端、質問を飛ばしてきたのはアナゼ。
「具体的には何すりゃいいんだよ」
「ここから遠ざかりそうな幽霊と戦って、行動を阻止して」
「いつまで」
「幽霊達が大人しくなるまで。最終的には、全員を野原の中心へ集める感じにしたいの」
必要最低限の短い問いにアヤも簡潔に答えていく。
彼女の返事を聞いたアナゼはギンガを軽く叩いた。
「大人しくさせなくてもよォ、今までみたいに連れてきゃ良いだろ」
短気な兄弟の中でも更に短気な彼は回りくどいことが嫌いなのだ。アヤは困った顔になって作業の必要性を説いていく。
「幽霊達は死んだばかりだから生前の意識で行動してるわ。今までは味方の兵士が相手だったから話を聞いてくれたし、説得もすんなりいってた」
ここで一旦台詞を区切ると、彼女はアナゼを真正面から見据えた。
「でも今残ってるのは敵側の兵士だから、話なんて聞いてくれない。それに人数が多いから、今回は落ち着いたところを一気にいきたいの」
アヤの真剣な瞳を眺めていたアナゼは不可解そうに尋ねる。
「んな方法あンのか」
「それをやるために、とにかく一旦大人しくさせてほしいってわけ」
彼女の回答を聞いたアナゼはとりあえず納得したようで、それ以上質問を続けることはなかった。
次にアヤへ話しかけてきたのはシマキだ。
「死んでるヤツを更に叩くとか外道だなババァ?」
ニタニタ笑って挑発する彼へ、アヤは溜息をついて返事をする。
「生きてるつもりで動いてる相手だから、ちょっと手荒な手段じゃないと制止できないのよ。それに、攻撃するのは死者のためでもあるしね。行動する気力や生きようとする執着が薄れれば、それだけ冥界へも行きやすくなるの。あんまり気分の良いことじゃないけど」
「ほほぉん」
彼女の台詞を聞いたシマキは金色の瞳を丸くして何度も頷いた。
「っていうか、この話は前もしたわよ?」
「聞いてなかった。ごめんババァ」
アヤからの指摘を受け、彼は素直に謝る。シマキは思ったことを率直にぶつけているだけで、過剰な敵意があるわけではないのだろうなとアヤは考えていた。それでも、ババァと呼ぶのはやめて欲しかったが。
次にアヤへ意見したのはハヤテ。
「ココ全部を四人で見張るのは難しくねェか?」
彼は眉間にシワを作って野原を眺めていた。戦場になっただけあって野原は広く、普通に考えれば四人でカバーするのは不可能だ。
「三足教の呪術師達にも協力してもらうから、それなりに余裕はあるわ」
アヤは指摘に答えると地図を取り出した。周辺一帯が記された地図には幾多のメモ書きが加えられている。
「幽霊の回収が終わってる場所には、もう呪術師達が配置についてる。私達が見張るのは戦闘が激しかった場所とか、敵陣だった場所ね」
三兄弟がアヤの元へ集まり地図を覗き込む格好になった。彼女が指で示したのは野原の半分ほどで、確かにこれくらいなら四人でも現実的な範囲といえた。
アヤがそれぞれの担当地点を指示すると、それぞれが軽く頷くことで了解を示す。粗方の作戦会議が終わるとシマキが楽し気に腕を振り上げた。
「っしゃ! 久々の戦いだ! 血が騒ぐぜェ!」
すっかりテンションが高ぶっている彼は牙を見せて獰猛そうに笑う。シマキは三人の中で最も好戦的だ。
そんな兄弟へ、三人の中で最も理知的なハヤテが冷静なツッコミを入れた。
「オレ達、血ィ通ってないけどな」
「オイオイオーイ! ワケ分かんねェこと言うなよ!」
会話を聞いていたアヤは思わず苦笑いしてしまう。
「シマキとアナゼは未だ本調子じゃないから、無理しないでね」
彼女は入院生活が長引いていた二人へ声をかけたが、その台詞へ返事をしたのはハヤテだった。
「もうアナゼは行ったぞ」
「え!?」
アヤは驚いた声を上げる。慌てて探すと、件の男が一人で遠くを歩いているのが目に入った。どうやらアナゼは作戦を聞いた後、さっさと持ち場へ向かったらしい。
アヤは呆れた様子で呟いた。
「相変わらずせっかちねぇ」
短気すぎるアナゼは話をろくに聞かず行動することが多々ある。
遠ざかっていく兄弟を見てシマキも勢いよく駆け出して行った。
「オレもオレもー!」
自由気ままに振る舞う二人を見てアヤは溜息をついてしまう。
「……あれだけ元気なら大丈夫かしら」
元気なのは喜ばしいが、もう少し落ち着いて欲しいとも思う。
最後まで残っていたハヤテはギンガへ声をかけていた。
「ギンガは留守番な」
長くギンガのメンテナンスを担ってきたハヤテは、ギンガに対する愛着が兄弟の中で一番強い。
そんなハヤテへギンガが方向幕を光らせて返事をした。
『行ってらっしゃい』
自分の意思を持っているなんて、おかしな電車もいたものだなとアヤは内心考えてしまう。境界では不思議な現象が頻発するため、ギンガが自我を持っているのもその影響ではないかと推測されていた。
不思議と言えばハヤテ達三兄弟だってそうだ。生前の記憶は妖で、なのに魂があって、今は悪霊をやっている。
十官の元で再審の判決が出て以来、アヤは何度かハヤテ達を冥界へ連れて行っているが、未だに彼らの正体は分かっていない。とりあえず普通の悪霊と同じ扱いをするよう指示されたが、この調子では結論が出るより先に三兄弟が黄泉へ向かいそうだ。
もしかしたらギンガの自我と同じく、ハヤテ達の妖としての記憶とやらも境界が生み出した不可解な現象の一つに過ぎないのではないか。三人はただの悪霊なのに、十官が慎重になっているだけなのでは。
「オーイ、サボりかァ?」
思わず考え込んでしまったアヤだが、意外と遠くからハヤテの声が聞こえ我に返る。彼女が声の主を探すとハヤテは既に歩き出しているところだった。
「あっ、今行くわ」
慌ててアヤも駆け出す。今は答えの出ない現象を探るより、目の前の仕事を片付けるのが先だった。
2
四人は野原の半分を囲う形で配置につく。その頃には時刻は深夜を迎えており、天眼の光もだいぶ陰っていた。
点在する松明の明かりが揺らめく以外、特に目立った動きは見えない。しかし霊感に優れるアヤは、野原の至る所で人影が蠢いているのを察知していた。悪霊である三兄弟にも同じような光景が見えているだろう。
静かな空気にアヤの声が響く。
「そろそろよー。皆お願いねー?」
「おーゥ」
「うるせぇババァー!」
指示通りの方角からハヤテとシマキの応答があった。アナゼの声は聞こえなかったが、彼のことだから返事を面倒がっているだけだろう。
アヤは三人の様子をうかがい、問題ないのを確認すると小さく息をついた。三人共、何だかんだで命令には従ってくれている。最初の頃は反発が激しかったためどうなるかと思ったが、努力の甲斐あり一定の信頼関係は築けたようだった。
今まで多数の悪霊を部下にしてきた彼女だが、それでも三人同時は初めての経験だ。しかも兄弟ということで結束が固く、打ち解けるのには時間がかかってしまった。
一緒に仕事ができるまでの関係になれて良かった。こんなことを考えてしまうのは、目の前に多数の敵が現れようとしているからだろうか。
感慨深い気持ちになっていたアヤは意識を切り替える。野原で息絶えた死者達は、徐々に動きを活発にさせていた。
一つの半透明な人影が歩き出すと、周囲にいた者達もぎこちない動作で後に続く。兵装の幽霊達は死してなお剣を持ち、既に終わった戦いの名残に身を任せようとしていた。自分達が攻め入るはずだった村へ足を向け、音にならない叫びを上げる。
「行って!」
アヤが合図を出すと三兄弟が同時に動く気配があった。三人は風のような速度で走り回り、野原から外れようとする幽霊を追い返していく。彼らの手には鋭い刃が伸びており、それは天眼の光を浴びて鈍く輝いていた。
先陣を切って行動しているのはアナゼ。彼は真っ先に標的を見つけると素早く一太刀浴びせ、幽霊の動きを封じる。一人を深追いせず、複数へまんべんなく攻撃を加えるのがアナゼの戦い方だった。
続くのはシマキ。彼はしつこく抵抗する幽霊へ積極的に切りかかっていた。戦い好きなシマキは戦闘能力に優れるが、集中しすぎて周囲の状況が見えなくなることがある。今回も、幽霊を一か所に留めるのが目的だというのに、戦いに意識を向けすぎて役目が疎かになっていた。
二人を補佐するのはハヤテ。彼はアナゼが弱らせた幽霊を追い返し、やりすぎるシマキを上手く誘導している。率先して攻撃はしないが、積極的すぎる二人を的確にサポートしていた。
それぞれに個性があり、長所と短所を補い合っている。三兄弟の戦い方を眺めていたアヤは感心していた。やはり戦いは人数が大いに越したことはないし、チームワークが良ければ更に最高だ。
せわしなく戦う三人とは対照的に、アヤの戦い方は緩やかなものだった。彼女は舞うように剣を振るい、一体一体霊を切り伏せていく。死者から繰り出される幾多の剣はアヤに届かず、彼女を傷つけることは叶わなかった。
それもそのはずで、そもそも幽霊が持っている剣は本物ではないのだから生物を切れるはずがない。幽霊とは、死者の魂が生前の姿を映し出し、形を成しているように見える現象。生者が世界へ最後に残す余韻だ。つまり幻にすぎない。
死して世界の理から外れた者が、世界の者へ影響を与える力を持つはずがない。だから剣を持っていても、その刃が生者へ突き刺さるのは有り得なかった。
それでも剣を交えることができるのは、生者の方が死者へ恐れを抱いているからだ。この世界では生き物が、とりわけ人の影響力が最も強い。強い方が「自分は切られる」と認識すれば、存在しないはずの刃は脅威となり、生者の肉体を容易に貫く。幽霊から与えられる被害というのは十中八九生物側の恐怖が原因だった。
つまり幽霊を恐れなければ攻撃を受けることはない。だからアヤは切られないし、自分より大柄な兵士の霊も簡単に倒せる。死者との戦いの基本は、自分は死者より強いと信じること。幽霊と戦うのに力はいらないのだ。
しかし言うのは容易いが、実際はなかなか実践できるものではない。現に幽霊の仕組みを理解しているハヤテ達でも普通の生物相手と同じように戦ってしまっていた。三人共幽霊を恐れてはいないが、敵対者に切りかかられれば「切られる」と感じてしまう。感じた時点で既に遅いのだ。
二十を超える幽霊を倒した所でアヤは息を整える。目の前の女が強敵なのを知った兵士達は彼女から距離を離しつつあった。アヤは後退する者は見逃し、前進しようとする者のみに目標をしぼって攻撃を加えていく。
幽霊との戦いは不毛だ。何せ肉体がないのだから、いくら痛めつけても行動不能にならない。動きを止めるには生者側が精神面で圧倒する他ないが、それを行うにはある程度は幽霊を動揺させる必要がある。
今回は動揺を誘うため、アヤは戦闘を選んだ。何度も身体が傷ついているのになぜか動けるのに気付けば、幽霊達も困惑すると考えたのだ。そして事態は彼女の想定通りに進み、アヤや三兄弟に刺された兵士の多くは唖然とした表情になっていた。徐々に困惑が広がっていけば、やがて全体の動きは緩慢になるだろう。
アヤは無心で死者を切る。斬撃を与えられた側は幻の血を流し、時として部位を切断され、苦悶の表情を浮かべ、地面へ倒れ込む。
「……っ」
既に相手は死んでいる。幻が受けた傷は幻だ。それは理解しているが、やはりアヤの心には痛みがあった。死んだのに気づいていない幽霊達は、生きているつもりで彼女へ挑み、何度も何度も傷を負う。気持ちの良いものではなかった。
割り切れないアヤは何も考えないよう戦い続けたが、それでも一瞬、冷静になってしまう瞬間がある。その度に彼女は心の中で謝罪し、再び戦いへ没頭するよう必死で努めた。
やがて幽霊の活動は弱まりだす。戦闘の意思を失った兵士達は四人に誘導されるがまま野原の中心付近へ集合しつつあった。
「ちゃっちゃと歩きやがれ! コラッ、そっちじゃねェし!」
シマキの騒々しい声を聞きながら、アヤは野原全体へ意識を向ける。作戦は無事に成功し、集団からはぐれた兵士はいないようだった。
「……で? こっからどーすんだ?」
いつの間にか彼女の隣にいたハヤテが説明を求める。面倒そうな顔から察するに、わざわざ聞きに来たのはアナゼからの指示に違いない。
ハヤテは不可解そうな様子になって更に尋ねた。
「ギンガに追い込むのか? コイツらがすんなり入るとは思えねェが」
彼の言う通り、いくら兵士達が大人しくなったからといって素直に電車へ乗りはしないだろう。
指摘を受けたアヤは剣を仕舞って答える。
「ギンガに乗せるのは正解だけど、ちょっと工夫するわ」
「工夫?」
「これよ」
彼女は腰の小物入れから白い紙に包まれた何かを取り出す。アヤが紙を広げると、そこには手のひらに乗る大きさの鉄製のエンブレムがあった。雑な扱いをされたのか、形が少々歪んでしまっていたが。
それを見たハヤテは怪訝そうな形相になる。
「こりゃあ……確か、幽霊達の中にもこんなのを付けてたヤツがいたな」
エンブレムに描かれているのは、今日戦った敵国の国旗だ。アヤが持っている物は兵士達のものより大きめで凝った作りをしているため、きっと将軍クラスの鎧から剥ぎ取ったのだろう。しかし。
「んなモンどうすんだよ」
幽霊を誘導する工夫とやらに結び付かずハヤテは首を傾げた。彼からのストレートな質問に、アヤはちょっと笑みを浮かべて回答する。
「まぁ、待ってて。そろそろ来てくれると思うから」
「来る……?」
ハヤテは眉間にシワを作って彼女の台詞を繰り返す。周囲には助っ人になりそうな存在など見当たらないのだから、彼の反応は当然だろう。
しばし、野原にはざわざわとした風の音だけが響いていた。といっても、野原に特別風が吹き込んでいるわけではない。霊が立てる音は風の音に似ているのだ。兵士の集団が身動ぎする度に不自然なざわめきは生み出され、風の流れへ混じっていく。
アヤが無言でいるため、ハヤテも何も言えないまま立ち尽くしていた。
しばらく二人はそうしていたが、やがて一際大きな風の音が野原を駆け抜ける。同時に、まるで音に合わせるように兵士達が立てるざわめきも大きくなった。どうやら彼らが興奮しているらしいのが見て取れる。
アヤがポツリと呟いた。
「……来たわ」
何が、と口を開きかけたハヤテだったが、
「おゥ!?」
アヤの横に大柄な影が立っているのに気が付き変な声を出す。
そこにいたのは、重々しい雰囲気をまとった兵装の男の幽霊。鎧の様式が敵国のものであることから、目の前の兵士達の上官に当たる人物なのが想像できた。
動揺しているハヤテとは対照的に、アヤは冷静な様子のままエンブレムを握りしめ、男を見上げた。
「お願いします」
彼女は短く告げ、頭を下げる。
兵装の男は小さく頷くと、ゆっくりとした足取りで兵士達の方へ歩いていく。ざわめきは更に大きくなるが、男が腕を掲げた途端にピタリと静まった。
集団の前で男は立ち止まる。彼はじっくりと兵士達を見渡していたが、ほどなく落ち着いた様子で話し始めた。その声は不思議と聞き取れなかったが、どうどうとした風の響きと、幽霊達の神妙な表情から、とても重大な話をしているらしいのが察せられる。
何が起こっているか分からないハヤテはアヤを盗み見たが、彼女はエンブレムを握りしめたまま感傷的な顔で集団を見つめるばかりだ。
男の話は長かったが、それもいずれは終わりを迎える。必要なことを言い終えたらしい彼は、最後にもう一度腕を掲げる仕草をした。合わせる形で兵士達も同じポーズをとる。おそらく敬礼の動作なのだろう。
再度、男は部下達を見渡す。やがて彼は納得したように大きく頷くと、集団に背を向けアヤの元へ歩いてきた。しかし男は彼女の方を見ることなく、隣をすり抜け歩み去っていく。
兵士達の幽霊も男の後に続いて移動し始めた。先ほど暴れていたのが嘘のように彼らは大人しく、無言のまま規則正しく上官の背中を追っていく。一人の男に導かれた集団は、野原に停車した電車へ真っ直ぐに進んでいった。
彼らの後ろ姿を見送っていたアヤは溜息混じりに言葉をもらす。
「……成功ね」
彼女の台詞で、幽霊を誘導する工夫とやらが実行され、完遂されたのをハヤテは理解した。
「工夫って今のか」
「そ。上司に説得してもらったの」
アヤは手の中のエンブレムを眺める。形の歪んだそれは、元は先ほどの男の所有物だった。
幽霊の自我は不安定なため、生者と正確に意思を疎通させるには策を講じる必要がある。今回彼女は男が装備していた鎧からエンブレムを入手し、それを接触媒体にして協力を求めたのだ。
事前に説得を行っていたとはいえ、元は敵対していた相手。ちゃんと男が指示通りに動いてくれるか、そもそも兵士達が話を聞き入れるかも賭けだったが、幸い上手く事が運んだ。
移動していく幽霊の集団を横目に見ながらアナゼとシマキがアヤの元へ駆け寄って来た。
「……オイ女、どうなったんだよ」
「コレで良いのかババァー?」
二人の捻くれた問いかけにアヤは苦笑いを浮かべて答える。
「これでお終い。あとはさっきまでと同じで、あの人達を冥界へ連れてったら完了よ」
3
大量の死者を乗せたギンガはすし詰め状態になっていた。
幽霊は見た目は人と同じだが、実質幻なのだから形もないし重さもない。だから大量に乗車しても重量オーバーにはならないが、それでも見た目には満員電車以上の窮屈感があった。
なんとか乗客全員を詰め込んだアナゼが渋い顔になってギンガへ話しかける。
「こんなんで走れンのかよ」
『定員ギリギリです。たくさんのご利用ありがとうございます』
「ギリセーフ!」
ギンガの台詞へ嬉し気な返事をしたのはシマキ。
「早く客車も直さねェとなァ……」
溜息交じりに呟いたのはハヤテだった。
アヤは離れた位置ではぐれた幽霊がいないか再三探っていたが、やがて納得すると三人と一台の元へ合流した。
「それじゃ、今後の予定を言うわよ」
その台詞で四つの意識が彼女へ向けられる。
予定と言っても告げるべき内容は少ない。アナゼとシマキはギンガと共に冥界へ向かい、乗客を降ろしたら病院へ帰還して休憩。ハヤテはアヤと共に待機。それだけだった。
「明日は?」
アナゼからの短い問いに、アヤは三兄弟の様子を観察して答える。
「アナゼとシマキは休み。ギンガもよ」
さすがに二人の顔には疲労の色があった。幽霊の運搬も終わったため、二人とギンガは休息させるのが無難だろう。
「え、オレは?」
名前を呼ばれなかったハヤテが怪訝そうに尋ねる。途端にアヤは申し訳なさそうな表情になった。
「もうちょっと頑張ってほしいんだけど……いける?」
「ウゲェ……」
ハヤテは心底嫌そうな呻き声をもらす。今日一日アヤに付いて回っていた彼は、当然ながら疲労が溜まっていた。
「ハヤテに仕事を押し付けんなババァ!」
シマキが非難の声を上げるが彼女の主張は変わらない。
「夜の間、警邏してほしいのよ。朝になったら休んでいいから」
見慣れた困り顔になったアヤは頼み込むようにハヤテを見上げた。
「もしかしたら未だ幽霊が残ってるかもしれないし、敵の兵士が潜んでる可能性もあるし……ハヤテは夜目が効くでしょ? だから、見張ってくれない?」
アナゼがボソリと嫌味を言う。
「ブラック企業」
すかさずシマキも追撃を始めた。
「サビ残反対! 過労死反対!」
「元から給料ないし、もうオレら死んでっけどな」
それへ冷静な訂正を入れたのはハヤテ。
呆れた様子になってアヤが指摘する。
「お金持ってたって使えないでしょ。それにあなた達は悪いことしたんだから、働いて罪を償わなきゃいけないの」
罪を犯したものは罪を償う。生者であっても死者であっても、このルールは不変だ。
「だからってこき使って良いワケじゃねーだろ!」
シマキが屁理屈をこねたが、そんな彼へアヤは一段低い声で返した。
「地獄行きよりマシだと思うけどね」
「ングゥ……っ」
雰囲気を冷たくさせた彼女の台詞にシマキは二の句を継げなくなる。
「……チッ」
アナゼも同じ気持ちらしく文句を続けようとはしなかった。生意気放題な彼らだが、それでも地獄は怖いのだ。
二人が黙ったのを確認すると、アヤは改めてハヤテへ視線を向ける。
「で、どう? 一時間くらい休んでからで良いんだけど」
彼女の口調は普段のものに戻っていたが、それでもどこか脅すような感情が含まれていた。
問われた側は苦々しい表情になるが、断れる立場にないのは理解している。ハヤテは舌打ちして了承した。
「……分かった。やるよ」
「ハヤテェ……」
シマキが不憫そうに兄弟の名を呼ぶ。険のある形相になったアナゼがアヤを睨んだ。
「……ハヤテだけに苦労させられっかよ。オレらも残る」
途端に、睨まれている側は困った顔つきになった。
「誰がギンガを運転するのよ。念のため幽霊達に見張りも付けたいから、最低でも二人は乗って行ってもらいたいの」
回答を聞いたシマキが勢いよく代案を出す。
「じゃあ連中を下ろしたら速攻でコッチに戻ってくる!」
「ダーメ!」
アヤは首を横に振る。
「さっき言ったけど、あなた達は本調子じゃないんだから無理は禁物よ」
アナゼが眉間にシワを作った。
「言ったか?」
「言ってたの。アナゼは聞いてなかったけど」
アヤは深く息を吐き出す。アナゼとシマキが食い下がるのは兄弟仲が良い証拠だが、強情なのは困りものだ。
二人は更に彼女へ詰め寄ろうとしたが、当のハヤテは吹っ切れたような笑みになり兄弟を制する。
「オレは一人でも大丈夫だって。もう今日は二人とも休んでくれよ」
「で、でもよォ……」
諦めきれないシマキが不服そうな表情を浮かべる。
アナゼも似たような顔つきになったが、彼は内心、事態が好転する可能性が低いのを理解していたのだろう。数秒の沈黙の後、済まなそうに呟く。
「……悪ィな、手伝えりゃ良いんだが」
兄弟二人のやり取りを見て、シマキも自分達の敗北を察したらしかった。感情の行き場を失った彼は大声になってハヤテを励ます。
「ハヤテェ! このクソババァをいつかブッ殺してやろうなァ!」
「ちょっと! 聞こえてるわよ!!」
その聞き捨てならない台詞には、さすがのアヤも怒ってしまった。
兄弟とギンガを見送ったハヤテは大袈裟に息をつく。
「ハアァ……休憩一時間か……」
対してアヤも大きな溜息をついた。
「私も、ちょっと休んだら警邏に出るから……」
アヤはハヤテ以上に働いているのだから、本当は彼女の疲労も相当に濃い。むしろ生者であるアヤは肉体を持っている分、悪霊であるハヤテより更に辛い状態にある。ハヤテが彼女の命令にそれほど抵抗しなったのは、そういった事情を把握しているからだ。
二人は怠そうな足取りで野原を後にした。村へ近づくにつれ人の気配が増していき、やがて見張りの兵士や片付けに追われる村人の姿が目に入るようになる。松明の明かりに照らされる彼らの顔には一様に疲労の色があった。
アヤとハヤテも似たような顔をしていたが、ハヤテは死んでいるため彼の表情がアヤ以外に知られることはないだろう。
村へ帰還した二人を出迎えたのは、鳥に似た仮面を付けた黒衣の集団だった。
アヤは力ない笑顔で集団を労う。
「皆、お疲れ様」
彼女の言葉を受けた黒衣達は恭しく頭を下げた。集団の正体は三足教の呪術師達で、先ほどの誘導作戦の際に村近辺を守っていた部隊だ。
アヤは部下達とニ三言葉を交わし、作戦が完了した旨を手短に伝える。黒衣の集団は再度深々と頭を下げると村の各所へ散っていった。彼らの後ろ姿を見送ったアヤは改めてハヤテへ視線を向け直したが、当の彼が離れた位置にいるのに気づき首を傾げる。
未だに三足教という宗教団体に苦手意識を持っているハヤテは信者達へも距離を置いている。そのため近寄って来ないのは分かるのだが、今の彼は野原の方を凝視しており、どうも別の何かを気にかけているように見えた。
「どうしたの? もしかして、幽霊いた?」
心配そうにアヤが問いかけると、ハヤテは難し気な顔つきのまま返事をする。
「いや、なんもいねェけど……」
言って、彼はアヤの方へ歩み寄ってきたが、やはり視線は自分達が先ほどまでいた地点へ向けられていた。ハヤテはアヤを見ないままポツリと言葉を口にする。
「幽霊ってのも、難儀なもんだなって思ってよ。ただフワフワ漂ってるだけなのに、人の勝手な都合で悪霊化するんだろ?」
どうやら彼は先ほどまで戦っていた兵士達の幽霊について考えていたらしい。
アヤは寂し気な表情になって答える。
「都合っていうか……幽霊を怖がるのは、人として当然の感情だからね……」
その台詞を聞いたハヤテは忌々し気に吐き捨てた。
「勝手に怖がられて勝手に悪霊にされるなんざ、いい迷惑だぜ」
悪霊とは、幽霊が人からの影響を受け、疑似的な自我を持って行動するようになったもの。ハヤテが悪霊化しているのも、見ず知らずの誰かの恐怖心が原因だ。そのことについて彼は苛立ちを覚えているらしかった。
幽霊は基本的に無害であり、恐怖を抱かなければ生者が危害を加えられることはない。しかし人が幽霊を恐れ、その状態が長く続いた場合、恐怖の思念を向けられ続けた幽霊は人の要求通りに行動し始める。つまり幽霊は人に想像通りの恐怖を与える存在へ、悪霊へと変異するのだ。
アヤが早々に野原の幽霊への対策を行ったのは、幽霊が悪霊化し人々へ害を与えるのを防ぐためだった。世界では人が最も強い影響力を持つ。今回の場合、多くの人々が「死んでいった兵士達の怨念が人を襲うに違いない」と考えれば、それは実際に発生してしまうのだ。
アヤは今まで、死者が悪霊と化して暴走するのを何度も見てきている。悪霊となった死者は冥界へ向かうのが遅れるし、程度によっては地獄行きだ。そういった事態を少しでも回避するため、彼女は出来る限りの努力を日々行っていた。
救った死者。救えなかった死者。それらの記憶に思いをはせる内、知らずにアヤは黙り込んでいる。そんな彼女を横目で見ていたハヤテだが、そう時間を置かず短気な彼は無音に耐えられなくなった。
「……オイ」
「……ん? 何?」
見られているのに気づいたアヤがきょとんとした顔になる。ハヤテは面倒そうに現状を指摘した。
「いつまでこんなとこに突っ立ってんだよ。休憩はどうしたんだ? オレ、腹減ったんだけど」
その台詞を聞いた途端、彼女はパッと表情を明るくさせる。
「あ、そうね。私もペコペコ」
食べ物が話題になった瞬間、アヤの頭の中からは気がかりが消し飛んでいた。彼女は食べるのが大好きなのだ。
「じゃあ、いったん教会で食事にしましょうか。まだご飯があったはずよ」
彼女はワクワクしながら教会への道を歩き出す。そんな後ろ姿を追うハヤテは食事に関しての素直な感想を口にした。
「ココのメシって不味いよなァ」
アヤは苦笑いして言い返す。
「戦場なんだから仕方ないわ。あるだけ有難いわよ」
まだハヤテは不平を言いたそうな顔をしていたが、彼が発言するより前に今度はアヤが話しかけた。
「……ハヤテは未だ食欲があるのね」
彼女は不思議そうに隣の男を眺める。眺められている側は首を傾げて肯定した。
「普通に腹が空くな」
アヤも首を傾げて疑問を口にする。
「そろそろ食欲が落ちてくる頃なんだけど……」
悪霊にせよ幽霊にせよ、死者は時間が経つにつれ欲望が、つまり生への執着が薄れていく。死者が世界への未練を失うことは黄泉へ旅立つ準備が整ったのを意味し、この状態になった魂は自主的に冥界へ向かう。
時期的に考えて、そろそろハヤテは食欲などの欲求が薄れる頃合いだ。現に彼の兄弟二人は、疲労に気付けない程度には自身の肉体的欲求に鈍くなっている。
三兄弟の状態に差が出ているのはアヤとの戦闘で負った怪我が原因だ。アナゼとシマキは彼女に傷つけられた際、剣を通して魂への操作を受けていた。この操作は悪霊の行動力を減退させるもので、意識を強制的に薄れさせる。結果、二人はハヤテより先に執着が消えつつあるらしかった。
ハヤテの欲求が薄れないのは、世界で行動している時間が長いからかもしれないとアヤは考えていた。今までも悪霊の部下はいたが、ハヤテほどは任務へ同行させてはこなかった。最近三足鳥の啓示が戦闘関連のものが多いことと、ハヤテが戦闘をこなせることが合わさり、つい彼を頼ってしまっている。
本当は食事だって、世界のものは食べない方がいい。世界のものが体内に入ると存在が世界と関連付けられてしまうし、生前を思い出せば生への執着に繋がる。
ちなみに普段ハヤテ達が病院で食べている料理は、境界に生息している生物を調理したものだ。
考え込んでしまったアヤへハヤテが軽い調子で尋ねる。
「食欲があるって変なのか?」
彼女は一瞬視線を迷わせたが、結局そのまま真実を伝えた。
「……変よ」
ストレートな回答を受けたハヤテは不貞腐れた表情で返す。
「何が変なんだか、オレにはさっぱり分かんねェよ」
二人が話している間に目的地は近づいてた。村自体が狭いため、元々そう距離もない。
高めにそびえる屋根が見え、次いで窓にまばらに灯る明かりが見える。教会の玄関が視界に入った時、アヤはそこに見慣れた人物が立っているのに気づいた。
「あれ? シノ?」
名を呼ばれたシノは微笑んで彼女へ軽く手を振る。
「お疲れ様です」
彼は部屋で休んでいたはず。なのにわざわざ玄関に出向いているということは、恐らく誰かを待っているのだろう。そして、その誰かが自分である可能性を察したアヤは小走りになってシノの元へ向かった。
「どうしたの? なんかあった?」
彼女は不安そうに問うが、対するシノは苦笑いして首を横に振る。
「いえ、小腹が空いたので夜食でも作ろうかと思って。一緒にどうです?」
懸念が杞憂だったのを知ったアヤはホッとした様子になり、続けられた台詞を聞いた頃には表情を輝かせていた。
「え! やった! お腹空きすぎて、準備するのも嫌だったのよ」
「それは丁度よかった」
お腹をさする彼女を見てシノは笑顔で頷いた。
「では、あとで食堂へ来てください。用意しておきます」
「はーい」
背を向け去っていく彼へ元気な返事をしたアヤは、楽し気な表情のまま背後のハヤテへ声をかける。
「ハヤテ! ご飯よご飯!」
「…………」
しかし、彼から返事が返って来ない。
違和感を覚えたアヤがハヤテの姿を探すと、いつの間にかハヤテは彼女の後ろに隠れるように縮こまっていた。少々面食らってアヤが尋ねる。
「……どうしたの?」
なぜかハヤテは強張った形相になっており、まるで恐ろしいものと出会った時のように全身の毛を逆立たせていた。
彼は問いに答えず、教会の内部を金色の瞳で睨みつけている。再度アヤも視線を教会へ向けたが、そこには特に目立った異常は見当たらなかった。
いったい何を見ているのか。彼女は問おうと口を開きかけたが、それより先にハヤテは唸るような声を放った。
「アイツ……何者だ?」
一瞬アヤは誰の話かと思ったが、この場にいた人物は一人しかないのに思い至る。
「何って……シノっていう、私の仲間よ。チラッと見たことあるでしょ?」
戸惑って彼女は答えた。どうやらハヤテはシノに反応しているようだ。
しかし、ハヤテがこんなに怯える原因が分からなかった。シノの行動も発言もおかしなところはなかったし、そもそも彼は味方なのだから警戒の必要はない。第一、シノにハヤテは見えていないのだ。ハヤテが怯える理由などない。
困惑してしまうアヤだったが、そんな彼女へハヤテがぎこちなく視線を動かす。
「……アイツ、ヤベェヤツか?」
続いた問いに、アヤは言葉を詰まらせながらも返事をした。
「え? やばくはない……と、思うけど……」
告げる台詞は言葉尻が小さくなって消えていく。
彼女の回答を聞いたハヤテは、再び瞳を教会へ向けて黙り込んでしまう。アヤはハヤテの様子をうかがっていたが、彼が何かに強い拒絶を示していることしか分からなかった。ハヤテのこんな反応を見るのは、初めて出会った時以来だ。
おずおずと、アヤは彼の名前を呼ぶ。
「……ハヤテ?」
ハヤテはチラリと彼女の方を見たが、結局答えを告げることはなかった。彼は一度目をつむり、鋭く息を吐き出すと、荒い動作で踵を返す。
「飯、いらね」
「え!?」
ハヤテが立ち去ろうとしているのに遅れて気づいたアヤは驚いた顔になった。
「警邏行ってくる」
「ちょっと……!?」
反射的に彼女は呼び止めようとしたがハヤテが話を聞きそうにないのは目に見えていた。仕方なく、その場に立ち止まったまま声をかける。
「ご飯、後で持ってくからねー!?」
聞こえているのかいないのか、ハヤテは応答しないまま教会の敷地内から出て行ってしまった。闇夜に溶けていく彼の背中を見送っていたアヤはポカンとした表情になって呟く。
「……ほんと、変なの」
いつまで経っても生物と変わらなかったり、怖くないものに拒否反応を示したり、やはりハヤテは変わっている。
こうなってしまったのは任務に連れ歩いているせいか。今後はあまり同行させない方が良いのだろうか。
「んー……」
教会の中へ入るのも忘れて思案に沈んでいた彼女だが、自分の腹から異音が鳴ったのを聞いて気が抜けてしまうのだった。
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