雨降り村
1
【任務内容】
救出
【終了条件】
村への帰還
山中にぽっかりと開いた穴からは轟々と水の流れる音が響く。闇は深く、入り口から中の様子を探ることは出来ない。奥から漂ってくる冷気が、湿った外気と混ざり合い周辺の気温を下げていた。
寒さから逃げ出したのか、洞窟の近くには生物の気配がない。重い曇り空に鳥の鳴き声は響かず、川には魚の姿すら見当たらず、ただただ陰鬱な風が通り過ぎていた。
転がっている大きな岩を足場とし、シノは一人洞窟の前に佇んでいる。しばし彼は耳を澄ましていたが、なんの気配も察知することはできなかった。
金色の瞳を細め、シノは洞窟へ向かって移動していく。軽々と岩を飛び移り、闇へ近づくに連れ、中で響く水の音が大きくなる。だが、それだけではなかった。上流から下流へ向かうのが当然の水の流れが、侵入者の接近を感知したかのように不自然に波打つ。眼下の川を横目で見ながら、彼は救出対象がここに捕らわれているのを確信した。
数個の岩を跳んだ時、シノの足場が僅かに揺れる。水の流れが変わったのだ。脳が状況を処理し終えた瞬間、周囲の空気が急激に冷たくなる。獣の咆哮に似た音が穴の奥から轟き、彼の黄色の髪を揺らした。
警告のつもりだろうがシノは構わず前進する。止まらない歩みに業を煮やし、敵が行動に移った。洞窟の奥で、ドンという太鼓に似た音が聞こえる。それと同時に、シノは素早く跳躍した。数秒前まで彼がいた岩へ大量の水が襲い掛かる。
攻撃が外れたのに気がついたのか、すぐさま流れは収まった。飛沫が消え、後には黒く濡れた岩だけが残される。何者かが川の力を利用して魔力を放ち、侵入者の撃退を試みたのは明らかだった。
一段上の岩場に移動していたシノが、穴に潜む者へ声をかける。
「聞こえますか。三足鳥の使いの者です」
返事はなかったが、彼は構わず話し続けた。
「貴方が連れ去った方を保護しに来ました」
無音。シノは半歩だけ足を動かす。
「大人しく返していただければ、こちらは危害を加えません」
ブーツの底が岩を擦り、小さな音を立てる。それを切っ掛けに、再び闇の中から内臓を低く揺らす音が聞こえた。身を切るような冷たい風が吹き、侵入者を威嚇する。
不快そうにシノは身動ぎした。大きく息を吸い、吐く。息が白くなったのを見て、トカゲに似た顔はしかめっ面になる。相手からの応答は無く、静まり返ったままだ。水の流れる音だけが耳へ入り込んでくる。
身体の重心を動かす。足が動き、蹴られた小石が川へ落下する。刹那、ごぅという音が背後から聞こえた。彼は俊敏に身を翻し、更に上の岩へ飛び上がる。水の塊が激しく叩きつけられ、巨大な岩が揺れて見えた。激しい水飛沫が足元まで達する。
戦う意志有りと判断し、シノは溜息をつく。間髪入れずに岩の隙間から放出された水を見て、軽い動作で岩場を降りていった。縦横無尽に繰り出される水の束を縫うように進み、落下の勢いのまま立ち止まることなく足場を移動する。
大きな岩へ着地し、彼は一気に跳躍した。無防備になった標的を狙って水流が繰り出される。しかし、その軌道はシノへ直撃する前に歪んでしまった。彼が腕を振り上げると、動きに合わせて水の塊が円を作り周囲を取り囲む。急な動きについていけなかった少量の水が、下方の川へ帰っていった。
シノの支配下に置かれた水の円は、彼の手の中へ吸収されていく。細長く形を変え、一度青色に光った後、手にあった液体は青い槍に姿を変化させていた。それと同時にシノの足が対岸の岩へ触れる。彼は一度槍を大きく振り、作り出したばかりの装備の感触を確かめた。
しばしの間、事態を整理するかのように敵の攻撃が止まる。だがシノが洞窟へ向かって走り出したのを切っ掛けに、再び戦闘は再開された。
次に繰り出されたのはそびえ立つ水の壁。正面から迫り来る塊へ、彼は槍を構えて突っ込む。先が壁へ触れた瞬間、恐れたかのように液体はシノを避けた。出来上がった水のトンネルを通り、壁の中へ入り込むと、彼は素早く槍を払う。分厚い水の塊は、それだけであっけなく崩れてしまった。足を止めずシノが突っ切る。水飛沫を被ってもおかしくない状況であったが、不思議なことに彼の衣服は濡れていなかった。
次の一手を決めかねたのか、相手の攻撃に小さな間ができる。
好機と見たシノが槍を大きく振り上げた。呼応するように槍が青色の光に包まれる。棒状の閃光を、彼は洞窟へ向かって勢い良く放った。一直線に穴へ飛んでいく青い光からは水が溢れ、それを纏う形で巨大化していく。やがて川の水すら引き寄せ、その姿は大きな水の壁となっていった。先程の敵の攻撃と酷似していたが、分厚さ、速度共に勝っている。
まさか自分へ水が向かってくるとは思っていなかったのか、洞窟の奥から動揺した騒ぎ声が響いた。出口を塞ぐ形で入り込んできた大量の水に、ついに敵の戦意は消失する。相手がパニック状態になったのを感じ取り、シノは戦闘態勢を解く。
シノが己の指を握りこみ、見えない何かを引く動作をした。動きに合わせ、大量の水が洞窟から吐き戻される。ざぁざぁと流れ出る水流の中には複数の人型の影があった。影は水に揉まれ、クルクル回転しつつ流されていく。その様を彼は無言で眺めていた。
洞窟へ流し込んだ水が全て抜け、響いていた轟音も収まり始める。低下していた気温も元に戻り、後には濡れた岩と水かさの増した川が残された。
環境が安定したのを確認し、シノはゆっくりと岩場を降りて行く。川辺までたどりつくと、そこには十ほどの小柄な生物が転がっていた。これが穴から流されてきた影の正体のようだ。激しい水流に揺すられ体力が尽きたのか、皆ぐったりと横たわっている。
間近で見ると、彼らが緑色の肌をした人型の生物であるのが分かった。剥げた頭、くちばし、背中の甲羅から推測するに、これはカッパという妖の一種だろう。妖とは元素と思念が混ざり合った存在。心を持ち生物のように過ごす属性だ。
敵対者が近寄ってきたのに気がつき、カッパ達は慌てて起き上がった。しかし満身創痍のため全員ふらついており、逃げることすら覚束ない様子だ。歩こうにも足がもつれて転び、転んだ仲間につまづいて転び、それにぶつかってまた転びと、遅々として逃走ははかどらない。
声をかけずとも追いつけそうな状態だったが、一応シノは呼び止める。
「待ってください」
その音に驚いて最後の一匹が転び、ついに妖は皆転がってしまった。勝手に山を作ってジタバタもがいている誘拐犯達を見て、シノは呆れた表情になる。なんとも間抜けな終わり方だ。
「先程も言いましたが」
目の前で正座しているカッパ達へ、シノが落ち着いた声で話しかける。しかし視線は鋭く、有無を言わせぬ威圧の表情を浮かべていた。
「私は戦いに来たわけではありません。貴方達がさらった方を返してくだされば、大人しく帰ります」
睨みながらの彼の言葉に、誘拐犯一味は戸惑ったように仲間と視線を交わしている。小声で何か相談し合っていたが、やがて一回り大きなカッパがおずおずと手を上げて発言した。
どうやら彼が集団のリーダーらしい。
「……オマエ、村の連中に言われて来たんだよなァ?」
頷き、シノは答える。
「はい。そうです」
「つゥことは、あの女の人が何されるか、知ってて来たのか?」
妖の問いに、彼は迷いなく返事をした。
「はい」
その答えを聞き、カッパ達が動揺したようにごにょごにょと言葉を交わす。
「ホントか?」
「コイツ、村の連中に騙されてんじゃねェか?」
「ンだよ」
「きっとそうだ」
「違ェねェ」
丸聞こえの囁きに、シノが溜息混じりに答えた。
「……女性は生贄にされると聞いていますが、違いますか?」
小さかったざわめきが一際大きくなった。カッパのリーダーが驚いた声を上げる。
「承知で来たのか!?」
彼が頷いて見せると、目を大きくさせて驚愕の表情を作った。
生贄として選ばれた女が連れ去られた。彼女を村へ連れ戻して欲しい。それが今回の依頼だった。
この地域は長く雨が降り続き、満足に作物が育たない状態が続いている。大量の水は川を溢れさせ、山を崩し、幾度となく災害を引き起こす。水神が怒っているのだと考えた人々は、生贄を捧げ怒りを静めようと考えた。そして選ばれたのが、今回誘拐された女性である。
ざわざわと緑色の集団から声が上がった。
「可愛そうだと思わねェのか!」
「生贄なんて馬鹿げてる!」
「生贄はんたァい!」
どうやらカッパ達は生贄の女を哀れに思ってさらったらしい。
対してシノは冷めた表情だ。
「そう言われても」
部外者であり、三足鳥の啓示でやってきただけの彼にとっては、女が生贄であろうがどうでも良い話だ。
文句の止まらないカッパ達をリーダーが制した。
「落ち着け、皆」
その声で徐々にざわつきは静まっていく。全員が口をつぐんだのを確認し、カッパのリーダーはシノに向き直った。
「……水神がいるって話、アンタ信じてンのか?」
真剣な顔で問うてきた妖を、彼は鼻で笑う。
「まさか。この世に神は三足鳥だけでしょう」
その答えを聞いたカッパ達は心底嫌そうな形相になった。超常的存在である三足鳥は、自然と共に過ごす妖達から敬遠されている。当然、三足鳥の部下であるシノ達も、あまり良い印象は持たれていない。
「でも、アンタんトコの神様だって、女一人殺したくらいで喜ばねェだろ?」
続けて質問してきたカッパの言葉をシノは肯定した。
「ええ」
「そうだろ、生贄なんて意味がねェ。雨ってのは降る時は降るし、止む時は止むんだよ」
うんうんとリーダーが頷く。
元素と思念が混ざり合った存在である妖は、自然の有り方を生まれながらに知っている。魔術を扱うシノも、彼らほどではないが属性の概念について理解しているつもりだ。この世にあるもの全ては、絶妙なバランスの上に成り立っている。
カッパのリーダーが神妙に尋ねた。
「……そこまで分かってて、アンタは女を連れてくってのか?」
この問いにもシノは迷いなく答える。
「はい。三足鳥の指示ですから」
彼の言葉に、妖達は不思議な現象を目の当たりにしたかのような戸惑いの表情を浮かべる。
「村に帰れば女は生贄にされンだぞ!」
「手足縛って!」
「重し付けられて!」
「川に沈められるんだぞ!」
「生物にそんなことしたら死んじゃうんだぞ!」
シノの考えに付いていけず、今までよりも一層大きなざわつきが上がった。ざわつかれている側は、そんな様子を気にすることなくカッパのリーダーだけを見ている。
仲間達の声を手で制し、リーダーは目先にいる不可解な人物へ問いかけた。
「アンタが殺すようなモンだ。それを、分かってるのか?」
「分かっています」
即答。
元々人嫌いのシノにとって、女が一人死ぬくらいでは何も感じない。トカゲに似た顔には動揺の気配もなかった。金色の瞳はうっとおしそうに妖を眺めている。
言い切った彼の発言に、カッパ達は静まり返った。
「人殺しだ」
「キチガイだ」
ボソボソと目の前の奇人を罵っている。だが、戦う力が残っていない彼らに抵抗の術は無い。
カッパのリーダーが忌々しげに呟いた。
「……やはり三足鳥ってヤツは、いけ好かん」
シノの目つきが鋭くなる。
「三足鳥への侮辱は許されません」
「そりゃ悪かったな」
溜息をつき、降参の意思を示すようにリーダーは頭を垂れた。
「……分かった。何を言っても無駄なようだ」
呟くと、先程まで戦いの場となっていた洞窟を指差す。
「女はあそこにいる」
「ありがとうございます」
心無い感謝の言葉を吐き、シノはさっさと歩き出した。納得いかない他のカッパが前へ出て行こうとするが、結局仲間達に制止させられる。
彼の背へカッパのリーダーが声をかけた。
「確認しとくが、アンタの仕事はあの女を村へ連れて行くことだよな?」
進む足を止めず、振り返りもせず、シノは短く答える。
「はい」
彼に聞こえるよう、やや大きな声でカッパは話しかけた。
「なら、無事に帰してやってくれ。知ってンだろうが、あの女は歩けない。自力では村までたどり着けん。助けてやってくれ」
妖の声に何も答えず、シノは無言で歩き続ける。彼の背中には、幾多の剣呑な視線が向けられていた。
2
カッパが言った通り、誘拐された女性は洞窟の中にいた。寒くないよう布を何枚も被せられ、ロウソクの明かりの元で不安そうに座り込んでいる。
助けに来たのをシノが説明すると、彼女は安堵の表情を浮かべ何度も礼を述べた。カッパ達に害意がなかったのは確かなようで、事情も説明され、食料もあったらしい。それでも、急に妖に知らない場所へ連れて来られれば狼狽するのも当然だ。
実の所、シノはさらわれた女性が洞窟の中にいるのに気付いていた。知った上で、洞窟へ水を流し込んだのだ。
あの場面でカッパ達の目的は分からなかったが、殺さず連れ去ったのだから、女が死ぬ結末を望んでいないのは予想がつく。ならば、こちらの攻撃で女に危機が迫れば動揺し、そこに隙が生まれると考えた。
結果、目論見どおり妖は混乱。女へ意識を向けた結果身の守りが疎かになり、自らが水流に飲まれる形となった。
「大丈夫ですか? 重くないですか?」
後ろから聞こえる女性の声に、シノは前を向いたまま答える。
「大丈夫です」
彼は女を背負っていた。ここは山奥で、村までは徒歩で一時間かかる。足の動かない人物を連れて行くには、こうするしか無い。
洞窟を出たシノは周囲を見渡す。カッパ達は既にいなくなっており、流れる川だけが何事もなかったかのようにせせらいでいた。立ち止まって様子をうかがうが、誰かが潜んでいる気配はない。
隙なく視線を動かし、一度深呼吸すると、シノは改めて長い道のりを歩き出した。岩が無数に転がる川岸は歩くだけでも時間がかかるが、彼は人を背負ったまま軽がると飛び越えていく。
シノに背負われている女は遠慮がちに彼の身体へ腕を回していた。しばし彼女は無言でいたが、やがて無音に耐えられなくなったように口を開く。
「……あの」
耳元で聞こえる声にシノが返事をする。
「なんですか」
「カッパ達は、どうなったんですか?」
その質問に彼は適当に答えた。
「さぁ?」
いなくなってしまったのだから、この返しは正しいとも言える。だが納得できるものではない。
「……殺したんですか?」
案の定問いを続けた女へ、シノは仕方なく詳しく状況を話した。
「懲らしめただけです」
今回の任務は女の救出がメイン。誘拐犯の処遇については言及されていないため、必ずしも殺す必要はない。
しかし、手加減というのは案外面倒だ。シノ個人としては、手っ取り早くカッパを殺しても良かった。それでも危害を加えず降参させたのは、自分達のためだ。
カッパ達の反応を見た通り、世間には三足鳥へ反感を持つ者もいる。三足鳥を邪神と考える国まであり、そういう場所では五人は肩身の狭い思いを強いられた。思ったように協力者が得られなかったり、酷い場合は問答無用で襲い掛かられたりする。この状況を出来る限り悪化させないため、任務での表立った非道は最小限に抑えようというのが、シノ達五人の考えだ。
シノ個人としては誰にどう思われても気にならないのだが、仲間達が気にしているのであれば無視するわけにはいかない。そのため今回に限らず、可能であれば敵であろうと命を奪わない方法を心がけていた。
シノが軽く首を曲げ、背負った女へ視線を向ける。
「妖達は貴女を助けたいと言ってましたが、貴女は彼らと縁があるんですか?」
自然と共に過ごす妖は、知恵を持つが人とは違った価値観で行動している。それ故、両者は親しい関係にあるわけではないが、積極的に敵対するでもなく、一定の距離を置いて住み分けを行っていた。
基本的に妖は人と関わらず、接触してもせいぜい興味本位の悪戯で終わるものだ。それなのに先程会ったカッパ達は、自ら進んで厄介事を引き起こしていた。奇妙な話である。
女が小さな声で答えた。
「……ない、と思います」
神経の変化を察することができるシノには、彼女が戸惑ってはいるものの嘘を言っていないのが分かる。
今回の件で、誘拐の理由だけが不透明だった。
村で聞いた限りだと、作物を奪っていくカッパ達の評判は悪い。昔は友好的だったらしいが、カッパが畑を荒らすようになってからというもの、村人は石を投げて追い払っているのだという。そんな関係だからこそ、生贄の女をさらったのは村への嫌がらせに違いないと、村長は言っていたのだ。
カッパ達は女を助けるために誘拐したという。その証言にシノは引っ掛かりを覚えていた。
助けたいという言葉が嘘だとは思えない。だが、縁もゆかりもない女のために人の風習を妨害するほど、妖はお節介な生物ではないのだ。嫌がらせのついでに連れ去ったと考えた方が筋の通った理由といえよう。
「あと、あの」
後ろから聞こえた声で、シノは思考に沈んでいた意識を引き戻した。
しばし言おうか迷うように沈黙が挟まれたが、やがて女はおずおずと話し出す。
「……カッパ達が言っていたんですが」
そこで再び黙る。
「はい」
苛立ちを隠しながらシノが言葉を促した。人嫌いな彼にしてみれば、他人と密着している今の状態は不快以外の何ものでもない。
「水神様がいないというのは、本当なんでしょうか?」
女の問いへシノは冷ややかに答えた。
「ええ、いません」
何を当然のことを、とでも言うような彼の言葉に、女は小さく呟く。
「……そう、ですか」
言ったきり、また無言になってしまった。信じていた神の存在をあっさり否定されれば黙るしかあるまい。しかし反論しなかったからといって、素直に受け入れたわけでもないだろう。異教徒であるシノの言葉をすんなり信じるほど、薄っぺらな信心ではないはずだ。
今黙ったのは、ここで言い争うのは得策でないと判断したからに過ぎない。何せ、こんな山奥でシノの機嫌を損ね放置でもされたら、彼女は動物の餌になるしかないのだ。
こっそりとシノは溜息をつく。居もしない神を長年崇め、居もいない神のために命を落とす。こんな馬鹿馬鹿しい死に方があるだろうか。文化と言ってしまえばそれまでだが、無知とは恐ろしいものだ。
しかも、だ。空想の存在を信仰するという風習ですら虫唾が走るというのに、生贄の選考基準にも反吐が出る。足が不自由な、若い女。神への生贄と綺麗ごとを気取っているが、どう考えても口減らしだ。
歩みを止めず、前を向いたままでシノは問う。
「……あなたは、雨が水神によるものだと信じているんですか」
「はい」
背にいる女が頷いたのが分かった。なぜ、とは聞かない。
「貴女が生贄になれば、雨が止むと?」
「はい」
もう一度頷く。だが、その動作は最初よりもぎこちなかった。
彼女が緊張しているのがシノには手に取るように分かる。無理も無い。まだ若いというのに、もうすぐ死ぬのだ。信じる神のためとはいえ、死ぬのは誰だって怖い。あのままカッパにさらわれていれば生きながらえていただろうに。三足鳥は何を考えてこんな連中に協力する気になったのか。
尋ねてもいないのに女は話し出す。
「言われたんです。私の足が動かなくなったのは、水神様に気に入られた証だって」
無言でシノは歩き続けた。役立たずの足は、今彼の脇から伸びている。彼女の足が動かなくなったのは細菌が原因であるのを、シノは触れただけで分かっていた。何らかの作業中に足を怪我し、その傷口から入り込んだのだろう。もちろん、水神など微塵も関わっていない。
「だから、気に入られた私が生贄になれば、水神様の怒りも静まるって、言われたんです」
後頭部に響く声。
「それを信じているんですか」
背後の人物へ尋ねているはずなのに、シノの言葉は正面へ向けられていた。
女は簡潔に答える。
「はい。私、歩けないから、皆に迷惑かけてるし」
そうだろうな、とシノは頭の中だけで肯定した。
この地域の福祉制度は充分とはいえない。足が不自由で満足に働けない者は、ただの厄介者として扱われる。作物が不足している今の状況では、尚更肩身が狭い思いをして過ごしているのだろう。
「村の人達の、役に立ちたいんです」
嘘だな、とシノは頭の中だけで否定した。
神を信じ生贄となるのを望んではいるが、その理由は村のためではない。彼女は逃げ場を求めているだけだ。歩けないことで疎まれ、周囲から白い目で見られるのに耐えられなくなったのだろう。
しかし、シノは言わない。
「そうですか」
これらは全て彼の予測だ。急に女が饒舌になったのは待ち受ける死を恐れ、それを誤魔化すためだと解釈したが、真実は彼女の中にだけある。
だが、それを女が話すことはないだろう。シノは部外者であり、女は半分死んでいる。話す義理などない。
川から離れ、森へ入る。木々の間から見える空はどんよりと曇っていた。湿り気を帯びた空気を感じシノは歩みを早める。足元のぬかるんだ感触から僅かに振動が伝わった。雨が降り出す前に村へ到着したい。
彼は器用に木の根を飛び越し、突き出す枝を立ち止まることなく潜った。葉に溜まっていた雨露が零れ落ちて服を濡らす。その雫の中に暖かいものを感じ、シノは意識を後ろへ向けた。
「どこか痛みますか」
声もなく女が泣いている。嗚咽は殺していたが、身体は時折震えていた。
「いえ……」
か細い言葉。
痛みで泣いているわけではないのをシノは理解していたが、捻くれ者の彼はあえて間違えた。ふもとへ近づくにつれ身体の震えが増しているのも、少し前から分かっている。
「どうして、私なのかなって」
シノは無言で村への帰り道を歩き続けた。
「どうして私、水神様に選ばれたのでしょう」
水神などいないのだから、選ばれたも何も無い。あえて言うなら、役立たずの弱者を都合よく消すため。
「どうして、歩けなくなったんでしょう」
偶然細菌が入り込んだからだ。この地域の医療が発達していれば彼女は今も歩けたはず。
本当は、シノの治癒の技能を持ってすれば今からでも治療は間に合う。元通りとまではいかないが、普通に生活する分には支障が無い程度には回復するだろう。
だが、近々死ぬのが決まっている彼女へ告げるのは酷な話だ。
淡々とシノは答える。
「……運が悪かったんじゃないですか」
その言葉を最後に、二人の会話は途切れた。
3
弱い雨が降り出した頃、二人は村へ到着した。木造の質素な家が立ち並ぶ、見るからに貧しい農村といった集落だ。
雨が降っているためか、それとも実らない農作業が嫌になったのか、外に人影はない。畑には若干の作物があったが、それらは過剰な水分摂取により腐りつつあるのだという。
女を背負ったシノが村長宅へ現れると、集まっていた村人達が安堵の声を上げる。口々に告げられる感謝の気持ちを、シノは適当な返事でいなした。例え称える言葉をかけられようと、他人との交流など持ちたくないのだ。
シノの背から下ろされた女は大人しく椅子に座っており、雨で濡れた身体を母親らしき女性が布で拭いてやっていた。流していた涙は雨と混ざり合い、彼女が泣いていた証はなくなっている。うつむき気味でなされるがままになっている様子が衰弱しているように映ったのか、数人の村人が心配そうに彼女を眺めていた。
村長が改めてシノへ感謝の言葉を告げる。
「三足鳥様には、なんとお礼を言って良いか……」
「…………」
対してシノは外の雨へ意識を向けている。
こんな台詞を吐いている村長だが、本心では三足鳥へ反感を持ち、恐れの感情を抱いているのをシノは知っていた。どいつもこいつも感謝しているのは表面だけで、内心ビクビクしているのが手に取るように分かる。村長だけではなく、村全体からの拒絶の意思を彼は感じ取っていた。何も出来ず助けを求めたくせに、いざ助けてもらえば強大な力を恐怖し敬遠する。素直に受け入れれば良いものを。
だが、今回助力を得た以上、この村へ何らかの形で三足鳥は見返りを求める。そうなれば、自ずと三足鳥を、三足教を受け入れざるを得なくなる。水神への信仰はどうなるだろう。空想上の神と実在する神。信じるべきものなど最初から決まっている。
長く続いてきた伝統が、人が築いてきた歴史が、消えていく。その呆気ない未来を想像し、シノの心は暗い悦楽で満たされた。いや、それよりも前に、きっとこの村は。
急激に強まる雨の音。それに混じり慌ただしい足音が聞こえ彼は意識を切り替える。
数秒後、村長宅の扉が勢い良く開け放たれた。大きな音に驚き、集まっていた村人全員の注意が玄関口へ向けられる。駆け込んできた男は肩で息をしながら、視線だけで村長を探し当てると大きな声を上げた。
「か、カッパ共がっ」
あわあわと村の入り口を指差して異常を告げる。
瞬く間に焦りは伝染し、屋内にいた人々が慌てて外へ出て行く。シノも後方から覗くと、村の外に複数のカッパの姿が確認できた。先程戦ったのと同一グループらしいが、数は倍ほどになっている。
血気盛んな若者を先頭に村人が散らばっていく。
「また来たのか!」
「追い払うぞ!」
それに遅れて村長を始めとする老人が続き、女達が自らの家を守るために走っていった。
シノの視界には雨の落ちる木々の間を無数のカッパが行き来しているのが見える。時刻は昼を過ぎた頃だが、雨雲が空を覆っているせいで周囲は薄暗い。
村長宅にはシノと生贄の女だけが残された。村人達は目の前の敵にばかり意識が向かい、再び女が連れ去られる可能性には思い至らなかったらしい。
溜息をついてシノが屋内へ戻ると、椅子に座ったままでいる女と目が合った。先程までの疲れきった様子は薄れ、今は必死の表情を浮かべ彼の方を見ている。
「お願いです! カッパ達を助けてください!」
瞳には力が宿り、女が歩けるのなら駆け寄ってきそうな勢いの声であった。
「村の人達ではなく、ですか?」
シノがとぼけてみせると、彼女は気まずそうに顔を伏せる。
「カッパは……私を助けてくれました、から」
「……助けた?」
彼の冷たい金色の瞳が女を捕らえた。
「貴女は生贄になるのを受け入れているんでしょう?」
問われた側は視線を自身の手元へ向けたままでいる。力なく重ねられた細い指は、雨で濡れたせいか白さを増していた。
「それを妨害した彼らを、どうして助けようなどと思うんです?」
静かに、しかし苛立ちを含んだ声。
「また、誘拐して欲しいんですか?」
「違います!」
彼の言葉へ、女は叫ぶように返事をした。顔を上げたことでシノと視線が交差する。何を考えているか分からないトカゲの目は、一直線に彼女を睨んでいた。射抜かれた側は怯えた表情になり、反射的に視線を逸す。
きっと本当は、助けて欲しいのはカッパではないのだろう。
背を向けてシノが告げた。
「……私の仕事は、貴女を村へ連れてくることです。役目は終えましたので、これで失礼します」
彼は玄関へ歩き出す。扉を開けると、行く手をさえぎるように本降りとなった雨が出迎えた。
外へ一歩踏み出すと、ぬかるんだ地面の不快な感触がブーツ越しに伝わる。後ろから女の声が聞こえたが、雨音にさえぎられ何を言っているのかは分からない。シノが玄関の扉を閉めたことで、屋内からの音と光は消え去った。
足早にシノは裏手から村の外へ出る。表にはカッパを追い払うために村人が集まっており、見つかれば面倒事になると考えたためだ。
しかし、残念ながら面倒は回避できなかった。進行方向の茂みが揺れると、のそりと彼の前に現れた生物がいた。
仕方なくシノは立ち止まる。
「……なんでしょうか」
「確認だよ」
目の前にいるのは、一回り大きなカッパ。その背後には更にカッパが二匹、警戒した表情で木の枝を構えていた。雨のおかげで水の元素が周囲に満たされているため、先程よりも足取りはしっかりしている。
「お前の仕事は、あの女を村へ連れて行くことだったよな?」
川辺でも、妖は同様の質問を行っていた。
「はい」
シノも同じ答えを返す。あの返事を聞いた時点で、今回の襲撃は計画されていたのだろう。
「じゃあ、もう仕事は終わったんだな?」
重ねての確認に、彼は煩わしげに頷いた。
「ええ、これから帰ります」
枝を持った二匹のカッパが疑い深く追求する。
「本当か?」
「もう邪魔しねェか?」
その態度が気に障り、シノが二匹を睨みつけた。睨まれた側は慌ててリーダーの影に隠れる。威嚇するように枝を振り上げて見せたが、何の脅しにもなっていない。
呆れたカッパのリーダーが後ろへ向かって声をかける。
「オマエラ、余計な口挟むな。こっちは良いから、アッチ行って手伝ってこい」
言われた側は顔を見合わせた。
「でもよォ」
「危ねェよォ」
リーダーがシノと二人っきりになってしまうのが心配なのだろう。不安げな表情で抗議するが、シッシと手を振られ渋々村へ歩いていく。時折気がかりそうに振り返っていたが、再度リーダーが手を振ると駆け足になって遠ざかっていった。
「まだ何か用が?」
不機嫌に問いかけるシノへカッパが向き直る。
「用っつゥか、忠告よ」
妖は近くの山を指差した。
「もうすぐ、あの山が崩れる。だから早く逃げた方が良いって言いに来たんだ」
村は山に張り付くような位置にある。土砂崩れなど起こったら跡形もなく埋まってしまうだろう。
忠告された側は淡々と礼を言った。
「そうですか。ありがとうございます」
「なに、見逃してくれた礼だ」
忠告した側も儀礼的に返す。戦闘で命を失わなかったのがシノの手加減の結果であるのを、カッパは見抜いていたらしい。
用は終わった。そう判断し歩き出そうとしたシノだったが、妖はうつむき加減のまま次の言葉を発する。
「……でも、オマエよォ」
まだ何か言うつもりかと、面倒そうに彼は足を止めた。
「オレの勘だけどよォ」
カッパは言葉を続けたが、未だ発言は意味を成していない。無表情にも見えるシノの視線と、警戒心を含んだ妖の視線が交じり合う。カッパは少しだけ口を開いたまま声を止めていたが、一度肩で息を吐くと話を繋げた。
「気づいてただろ? 土砂崩れが起こるの」
言われた側は笑うように金色の瞳を細める。
「まさか」
吐き捨てる短い言葉。
「……そゥかい」
とりあえずカッパは信じたフリをして見せた。
「じゃ、そういうこったから、さっさと帰れよ」
これ以上詮索するつもりはないようで、妖は先程子分達へやったように手をシッシと振り、シノの歩みをうながす。
シノは無言のまま歩き出したが、カッパの横を通り過ぎた辺りで足を止めた。彼の様子に気づき、村へ向かおうとしていた妖も立ち止まる。もう一度シノが向き直ったのを見て、カッパも不審げに体勢を戻した。
「……貴方の質問に答えたんですから、こちらからも質問して良いですか」
問い詰めるでもない、ふと思いついたことが口から出てしまったような調子で、シノが妖へ言葉をかける。
「おゥ、いいぜ」
やや構えた格好でカッパが答えた。何を聞かれるのか、何を企んでいるのかと用心しているのだろう。
うかがう目を正面から受け止めながら、シノは自身の疑問を尋ねた。
「あの女性を助けたのはなぜです?」
言われた側は驚いた表情で何か言おうとしたが、それをさえぎって彼は問いを重ねる。
「生贄だから、という理由ではないでしょう?」
シノの言葉に、カッパは首を横に振って答えた。
「いンや、生贄を止めたいっつゥのは本当だ」
「…………」
納得できない。
彼から冷めた視線を向けられ、妖はしばらく黙っていたが、やがて困ったように溜息をついた。
「……ま、確かに、それだけじゃねェけど」
バツの悪そうな表情。続けて、お前には関係ない話だぞ、と前置きをして話し出す。
「この村とオレ達のな、約束なんだよ」
不可解そうにシノが繰り返した。
「約束?」
「ずーっと昔、約束したんだと。カッパは村からキュウリを貰う。その代わり、村に水害が迫ったら村人を助けるってな」
ずーっと、をカッパは強調して長く伸ばす。おそらく、妖達も何年前の話か忘れてしまうほど遠い昔の出来事なのだろう。
「でも、ずーっと昔の話だから、村の連中は約束を忘れてキュウリを渡さなくなった。で、オレ達は腹いせに畑を荒らすようになって、仲が悪くなった」
村人の話を思い出す。昔はカッパは友好的だったが、いつからか村の作物を奪うようになったと言っていた。妖の話が本当なら、最初に約束を破ったのは村側ということになる。
「だけど、まぁキュウリ食えるのは連中のお陰だろ。だから約束通り、水害が迫ってることを教えてやったんだよ。雨が降り続いてっから近々が山が崩れるぞーってな。でも村長のヤツ、嘘だと決め付けやがって逃げねェんだよ。まぁオレ達と仲が悪いしな。信じねェわ」
シノ表情が若干険しくなった。カッパ達が土砂崩れを警告していたという話は、彼にとって初耳である。
やれやれとでも言うように妖が息を吐いた。
「でもよ、約束だし、なんとかできねェかなァって」
カッパが顔を上げ、強い意志のこもった瞳で目の前の男を見つめる。
「で、自分達で動かねーなら無理やり動かそうって考えたんだ」
「……それで彼女を?」
シノの言葉に妖は頷いた。
「土砂崩れが来る前に殺されそうだったしな。あと、歩けねェから連れて行きやすかったってのもある」
水の元素を力の源としているカッパは、水から離れた場所では活動が鈍る。今は雨が降っているため機敏に動けているが、平時であれば全力で走ることすら覚束ないだろう。そんな彼らが安全に誘拐できる村人となると、身体の自由が利かない者に限られる。
「でもって、人がさらわれりゃ村の連中は助けに来るだろ? 助けに来るのは腕っ節の強くて若いヤツさ。そうなりゃ村には非力な年寄りと女子供が残る。その隙に、オレ達は村でちょいと暴れて、連中を村から追い出す。そうすりゃ、ちっとは死人が減るかなって……」
つまり、村人を誘き寄せる餌として女をさらったということか。
歩けないため連れ去りやすく、生贄という付加価値があるため村人も見捨てない。カッパ達にとって彼女は打ってつけの誘拐対象だったのだろう。
そこまで話すと、妖は苦笑いを浮かべてシノを眺めた。
「でもよォ、まさか三足鳥が出張ってくるとはな。すっかり計画が狂っちまった」
そんなことを言われても、三足鳥に助けを求めたのは、皮肉にも当の村側なのだ。
「それで、今から村を襲って、人を遠ざけようと?」
計画を乱した側は冷めた表情で尋ねる。自ら振った質問だというのに、既に興味を失ってしまったらしい。
対して、聞かれた側は気合を入れるように拳を作って見せる。
「もう時間がねェんだ。やるしかねェ。アンタは助けてくれねェんだろ?」
カッパの言葉に、シノは当然だと言わんばかりに頷く。
「ええ」
最初から彼の返しは分かっていたのだろう。特に失望した様子もなく、妖はシノから視線を外して村の方角を見た。
「だったら、急いで離れろ。そろそろオレも行く」
告げると、カッパは村へ歩き出す。既に村へはカッパ達が入り込んでいるのか、村人の争う声が聞こえた。
避難させるのが目的なのだから、カッパが村人へ襲い掛かるのはポーズだけのもの。しかし、村人側はどうだ。これだけの数の妖が攻めてきたとなれば当然命の危険を感じる。戦いの訓練を受けていない者からの攻撃とはいえ、農具などで本気で殴られればカッパもただでは済まない。
こんな馬鹿げた戦いがあるだろうか。それに、村へ留まるあまりカッパ達自身が土砂崩れに巻き込まれでもしたらどうするのか。
シノはしばらくの間、感情の読み取れない目で妖が消えていった道を眺めていたが、やがて歩行を再開した。居もしない神を信じて死ぬのも、大昔の約束のために不仲な隣人を助けるのも、くだらない。
徐々に村が遠ざかっていく。雨の勢いは痛いほどで、村で起こっているであろう喧騒は聞こえなくなっていた。山道はぬかるみ、所々に大きな水溜りが出来ていたが、構わずシノは直進していく。足元で泥水が跳ねたが気にする素振りも無い。顔は真っ直ぐ正面を見据え、雨が作り出す水の壁の向こうへ力尽くで進んでいく。
雨に当たるがままになっているはずの彼の身体は、相変わらず濡れていなかった。
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