赤龍の災難な一日

【任務内容】
龍の保護

【終了条件】
安全域への誘導



 一面に広がる海。その端は薄い霧で覆われていた。
 先へ進めば霧は濃くなり、やがて下にあるはずの海すら飲み込んでいく。迷い込んでしまった者は前後不覚に陥り、真っ白な空間を闇雲にさ迷った末に消息を絶つ。遭難したまま誰にも発見されず朽ちていくのか、霧に潜む魔物に襲われたのか、それとも未踏の地へ辿り着いたのか。誰も知らない。
 一度迷い込めば二度と帰れぬ奇怪な霧の世界。人々はそこを虚霧と呼んで恐れていた。

 その白の中を疾駆する、翼を広げた鳥に似たシルエット。虚霧から離れ霧が晴れていくにつれ、全容は徐々に明らかになっていく。現れたのは一頭の赤い龍。小柄なため未だ若い個体なのが分かる。
 桃色の瞳は真っ直ぐ陸地の方角へ向けられていたが、その飛び方は滅茶苦茶だった。右へ蛇行したかと思えばゆるやかに上昇し、かと思えば急な角度で降下する。遊んでいるようにも見える光景だが、翼が時折痙攣していることから異常事態であるのが知れた。全力で移動してきたのか息は荒く、前だけを見据える姿に余裕は無い。

 やがて赤い龍の身体は霧から離れ、明るい光の下へ現れた。安心したのか速度が弱まる。
 が、何かの気配を感じ取ったのか頭を上げると、龍は勢い良く左へ旋回した。地鳴りに似た音が同時に響く。一瞬前まで龍がいた位置を、黒い鉄球のような物体が通り過ぎていった。それを確認せず、赤龍は前方へ向き直る。

 弾を発射した者が霧の中からゆっくりと出現した。まず最初は緑色のクジラの頭部。続いて現れたのは、砲台に似た筒が無数に飛び出た丸い胴体。下部の腹に当たる位置からは巨大なヒレが六枚生えており、宙を掻く度に風を舞い上がらせ海を揺らした。機械のような姿だったが、瞳だけが不自然に湿り気を帯びており、その存在が生物である可能性を示している。
 追跡者が現れたことで龍は酷く動揺し、身体へ力がこもるあまり飛行のバランスを崩す。時間にして数十秒。しかし、怪物が狙いを定めるには充分な時間だった。左右に揺れていた砲台の一つの動きが固まり、次に発射の動作を行おうとする。
 その動きは、空中で無様にもがく赤龍からも良く見えた。回避できないのを知り、思わず龍はきつく目をつむる。

 だが、攻撃が加えられることはなかった。突然クジラがバランスを崩したのだ。ワケが分からぬまま砲撃が中断され、ポカンと開いた怪物の大きな口からはヒョロヒョロという風の流れる音が聞こえた。
 驚いたのは赤龍も同じだ。原因を探そうと、思わず両者共に周囲を見渡す。間髪入れずに再びクジラの怪物の身体が持ち上げられ、大きく揺れた。下。怪物のヒレの間、海が広がる方向へ龍は視線を向ける。
 そこにいたのは白い龍であった。海面から顔を出し、上空に浮かぶ不気味な怪物を睨みつけている。体格が赤龍より大きく、年上の個体であるのが分かった。

 下に何かいるのに遅れて気付いたクジラは、のろのろと頭部を目標へ向けようとする。
 顔を上へ向けたままの白龍。その周囲の海が波打ったかと思うと、瞬く間に海水が凍てつき大きな氷の塊が出来上がった。白い龍が小さく口を開き、すぐさま閉じる。カチリという歯の組み合わさる音が聞こえると同時に、浮かんでいた氷は一直線に怪物の腹目がけて飛んでいった。
 下を向こうとした怪物は、またもや動作の途中で腹を突き上げられる形となる。忌々しげに低くうめいた。

 それを隙と見た白龍が強い口調で告げる。

「逃げなさい!」

 変わらず怪物を見つめたままだが、その言葉が赤い龍に向けられているのは明らかだ。
 言われた側はハッとして翼を広げ、体勢を立て直した。行かせるものかとクジラは獲物を見るが、追おうとした行動は再度腹部へ攻撃を受けて阻止される。

 まず先に下の敵を倒すべきだと考えたのか、怪物は身体ごと白い龍へ向き直った。動作を確認した白龍は素早く海の中へ潜り姿を隠す。緩慢な動きでクジラが海面へやってきた時、既に妨害者の姿はなくなっていた。龍がいた位置には無数の氷が浮かんでおり、水中をうかがうのを難しくしている。
 海を覗き込む怪物だが、今度は後ろから衝撃を加えられてしまう。鬱陶しそうに振り向けば、そこにはヒョコリと海面から顔を出している白龍の姿。振り向いたタイミングに合わせて顔面へ氷の塊をぶつけられ、怪物の苛立ちは更に増す。胴体の大砲がターゲットへ狙いを定めると、空気を震わせる音ともに黒い鉄球が発射される。
 しかし、弾が当たることはなかった。攻撃から龍を守るように、突然海から大きな氷の壁が現れたのだ。直進しか知らぬ弾丸は当然壁へ当たった。壁にヒビを作ることしかできなかった弾は一時だけ氷にめり込んでいたが、やがて重力に従って海へ落下する。飛沫を作った数秒後、更に大きな水の柱が海の中から上がった。どうやら鉄球は爆弾であるらしい。
 クジラの怪物が体当たりで氷の壁を壊した時、既に白い龍の姿はなくなっていた。

 海中にて、白龍は怪物の様子を見上げている。
 龍はまともに戦うつもりがないようで、悠々と身体をくねらせ距離をとった。相手は巨体であり、再三に渡る攻撃が効いているようにも見えない。賢明な判断といえるだろう。赤龍を逃がすのが目的なのだから注意を引くくらいでも充分だ。
 クジラの関心がすぐに白龍へ移ったことから考えると、怪物側は赤龍に強く敵意を抱いているわけではなさそうだった。攻撃を加え、逃げるのを繰り返していれば、やがて飽きて元いた場所へ帰っていくだろう。現にクジラの怪物の砲台は全て引っ込んでおり、戦意を失いかけているのが分かる。

 再び白龍が海面へ浮上すると、離れた位置でクジラがウロウロしているのが見えた。
 次の攻撃を行うため龍は腕を動かす。が、頭上を何かが通過していくのが見えて動作を中断した。怪物へ向かって飛んでいくのは火球。驚いて後ろを振り向けば、空を舞う赤い龍の姿が目に入った。逃げろと言ったのに戻ってきてしまったらしい。援護のつもりだろうが、あの程度の攻撃では挑発にしかならない。

 火球が命中する。
 案の定、クジラの怪物はダメージを受けた様子が無い。攻撃してきた者の姿を確認するや、低い唸り声を上げて追跡を再開する。動作こそゆっくりとしたものだが、虚霧から出てきた当初の速度から考えると、加速が遅いだけで最高速度はかなり出るはず。また追われれば赤龍は逃げ切れない。

 白龍は氷柱を飛ばしたが、今度は怪物が止まる気配は無かった。胴体からは再び砲台が覗き、標的を探して揺れている。
 脇目も振らず直進していく巨大な身体。それが頭上を通過しようとした時、白い龍は強引な手段に出た。クジラの腹部で動くヒレの一つに食らいつくと、そのまま海へ落下させようとアゴに力を込めたのだ。砲台が発射され、食い込んだ歯が軋む。

 龍一頭の重さが加わり、怪物がガクリとバランスを崩した。それをチャンスと見たのか、白龍は一気に海中へ引きずり込む。
 しかしヒレ、次いで腹が海へ浸かった時、クジラの怪物は予想外の行動をとった。まるで電気ショックでも与えられたかのごとく大きく痙攣すると、全力で暴れ出したのだ。驚いた白い龍は思わず拘束を解いたが、怪物はしばらく空中で身をよじらせて海水を振るい落としていた。おそらく水が苦手なのだろう。

 呆気にとられたように白龍は様子を眺めていたが、やがて落ち着いたらしい怪物と目が合った。クジラは考えるように目をパチパチさせる。そして一度ヒョウという風に似た鳴き声を発すると、そそくさと虚霧へ向かって移動し始めた。どうやら戦意を喪失したらしい。
 自分から遠ざかっていく背中を白い龍は無言で見送る。巨体が霧へ紛れた頃になって、やっと龍は敵対者を追い返せたのに確信が持てたらしく、深い溜息を吐き出した。

 虚霧の方角を気にかけつつも、白龍は首を曲げて空を見渡した。赤い龍の姿は見えない。
 今度こそ逃げたのだろう。作戦が上手くいったと判断すると白い龍は海中へ潜った。途端、龍の視界に青色が広がる。上空での騒ぎが嘘のように海中は穏やかだ。しかし、その中に場違いな赤い物体を発見してしまい、白龍は瞬時に顔を強張らせる。

「……っ」

 近づいてみれば、そこで揺らめいていたのは赤龍。意識は失っており、力なく肢体が垂れ下がっている。長い尾は海底の砂に擦れていた。
 白龍は赤龍を抱えると、海面から頭を出させて強く揺さぶる。赤い龍は激しい咳の後、大量の海水を吐き出した。
 生きている。とりあえず白龍は安堵したようだが、赤龍の目は閉じられたままで息は弱々しい。怪物の砲撃が当たってしまったのか翼が折れており、そこから肉と骨が覗いているのが見えた。血液が鱗を伝って海へ滴り落ちていく。この状態では自力で陸まで移動するのは無理だろう。
 白い龍は鼻息だけで息をつくと、赤い龍を抱えたまま泳ぎ始めた。


 暖かさ、というより熱さを感じる日差しで赤龍は目が覚めた。
 最初に違和感を感じたのは口の中に広がる磯臭さ。喉が痛い。思わず咳き込むと同時に、鼻で息を吸い込んでしまった。砂が入っていたのか異物感が凄まじく、くしゃみが止まらなくなる。くしゃみの衝撃の度に頭痛がして、まぶたの内側が明暗を繰り返した。
 ヒリヒリする目玉を何とか開くと涙でぼやけた海が見える。頬に当たる砂の感触で、今いるのが浜辺であるのに思い至った。

 いったい何があったのか。未だ痛む頭で赤龍はボンヤリ考えた。そうしていると霞んでいた記憶は徐々に鮮明になっていく。
 火球を放った後、龍は追手から距離を離そうとした。しかし怪物の砲撃が命中して海へ落下し、泳いだことなど無い赤龍は沈んでしまったのだ。
 翼の傷に塩水がしみる痛み。歯の隙間から侵入してくる海水。徐々に力が入らなくなっていく肉体。海の上へ出たいはずなのに、身体は言うことを聞かず下を向いていく。このまま死ぬのだと思った。

 死に行く光景。それを思い出し赤龍は身震いする。
 それと同時に別の記憶も蘇った。体力の限界が迫っていた時、現れたのは白い龍。彼はどこへ行ったのだろう。怪物はどうなった。無事陸地にいるのは白龍が助けてくれたのか、それとも海の気まぐれなのか。
 赤龍は周囲を確認しようと頭をもたげた。疲労と死にかけたショックのせいか、頭部が非常に重く感じられる。耳の奥に違和感があり、数度首を振ると生暖かい水が流れ出てきた。脳みそまで海水漬けになった気分だ。

 ぐるりと見渡すと、正面にあるのは延々と続く海。波の音を聞いただけでうんざりする。むせ返る磯の臭いが鼻を突き、赤龍は気分が悪くなった。しばらく海には近づきたくない。
 首を曲げれば陸側が見え、大きな岩がゴロゴロと転がっている。その向こうには龍でも隠れられそうなほど鬱蒼とした森があり、先には山が続いていた。なかなか自然豊かな場所だ。

「気が付きましたか」

 急に声をかけられ、夢うつつであった赤龍の意識は覚醒した。声の主を探すと視界の下に人の姿が見える。遠くばかり見ていたため近くのものに気づけなかった。
 男は茶色いトカゲに似た顔をしており、金色の瞳で赤い龍を見上げている。その視線の中に敵意に似たものを感じ取り、龍は反射的に怖気づく。
 そんな反応に気づいていないのか、男は事務的とも取れる動作で赤龍の後ろを指差した。

「応急処置は施しておきました」

 龍が示された部分を見ると、いつの間にか翼に包帯が巻かれている。魔物の攻撃で負傷していた部位だ。薬を塗られたのか、少々しみる感触があった。軽く動かすと薬草の香りが漂い、傷口がスースーする。
 呆気にとられている赤龍の態度を斜めにとらえたのか、トカゲの男は冷めた視線で相手を眺めた。

「迷惑でしたか?」

「い、いや……」

 赤龍は突然の出来事に戸惑うしかない。まごまごとした情けない返事をしてしまった。
 男は気づかう素振りもなく台詞を続ける。

「分かっているとは思いますが、飛行は控えてください」

 それでは、と言うなり、男は背を向けて歩き出す。

「お、おい!」

 一方的に去っていこうとする謎の男を龍は慌てて呼び止めた。呼ばれた側は返事も無く立ち止まる。
 赤龍はいぶかしげな表情で問いかけた。

「オマエは何者だ? こんなところで何をしている?」

「なんでも良いでしょう。貴方が怪我をしていたから助けただけです」

 拒絶するような態度。どう返せば良いのか赤龍は一瞬困ったが、とりあえず自分の素直な気持ちを口に出す。

「……礼を言う」

 得体の知れない人物だが、手当てをしてくれたのだから礼を言うべきだろう。

「どうも」

 対するトカゲ男は一言だけ返すと、再び去っていこうとする。

「待て!」

 無愛想な背へ、更に龍は言葉をぶつけた。色々聞きたいことはあったが、反射的に一番知りたい疑問を口にする。

「白い龍を見なかったか?」

 自分が生きているということは、戦いは白龍の勝利で終わったはずだ。もしかしたら白龍が自分をここまで連れてきてくれたのかもしれないし、ならば白い龍の姿をトカゲ男は見ているかもしれない。
 白龍に会いたい。会って礼を言わなければならない。そんな気持ちから出た問いだったが、相変わらず男は素っ気なかった。

「見ていません」

 振り返りもしない男へ苛立ち、龍は腹に力を込めて言葉を発した。

「おい!」

 周囲の空気が揺れる。自分の声ながら、赤龍は頭痛がした。
 やっと振り返ったトカゲの男は、怖気づきもせず面倒そうな表情を浮かべている。

「なんですか」

 さっさと言えと顔に書いてあった。龍は苦い感情を滲ませ言葉をもらす。

「……日陰に行くのを手伝ってくれ」

 熱された砂の上では再度眠りにつき体力を回復させることはできない。しかし今の赤龍は足が鉛のごとく重く感じられ、自力で森へ歩いていく自信がなかったのだ。こんな奴の力を借りるのは嫌だが、今の赤龍に頼れるのは彼しかいない。
 それに、怪物がどうなったのかも分からないのだから、無理をしてでも早く姿を隠す必要があった。もし未だ龍を探し回っているとしたら、ここでは丸見えだ。強がっている余裕はなかった。


 意外にも、トカゲ男はすんなり手を貸してくれた。拒否されるのを想定していた赤龍はありがたかったが、それと同時に不気味にも感じていた。
 横目で彼を観察する。大きな龍の胴体を支えている男は無言のまま進行方向を見つめ、歩幅を合わせて歩いていた。その動作に他意はないように思える。
 赤龍には最初に会った時に感じた敵意の理由が分からなかった。龍を狩ろうとする者はいるが、男が自分の命を狙っているなら気を失っている間に殺せば良いだけの話。彼から感じられるのは薬の臭いだけで、武器は携帯していないように見える。森の中に仲間が潜んでいる様子も無い。単に気難しい男が偶然助けてくれただけなのか。

 砂浜を抜けた一頭と一人は森へ向かって岩場を進んでいた。未だ日陰にはたどり着かず、龍の鱗はジリジリと熱に焼かれている。赤龍は寒いより熱い方が好きだが、疲労した身体には辛いものがあった。倒れてしまいそうな身体へ必死に力を込める。
 ふらつく巨体を支えて歩いている男は無言であった。普段から鍛えているのか、自身より大きな生物を補助して歩いているにも関わらず、力強さも歩む速度も変わらない。舗装されていない道を苦もなく進む身のこなしから、サバイバルの心得もあるのが分かる。疲れた表情は見せないが薄っすら汗をかいていた。

 岩だらけだった地面が落ち着き、徐々に木々の中へ入っていく頃。
 足元ばかり見ていた赤龍はハッとして顔を上げた。

「……この近くに龍がいるのか?」

 龍は同族が近くにいればすぐに分かる。赤龍には、自分がいる島にもう一頭龍が存在しているのがはっきり感じ取れていた。
 対してトカゲ男は仏頂面で答える。

「さぁ?」

 思わず赤龍は首をもたげ、枝の隙間から頭を覗かせた。

「もしかしたら白い龍かもしれない」

「白くはないですよ」

 さり気ない否定。
 会える期待が膨らむあまり、赤龍は男の答えの違和感に気づくのが遅れた。やや間を置いた後、龍は不審そうにトカゲ男を見下ろす。

「……なぜ知っている? オマエ、会ったことがあるのか?」

 男は最初、回答を誤魔化している。なぜ隠そうとしたのだろう。何か企みがあるのか。だが、こんなあからさまな矛盾の晒し方をしては、さぁ怪しんでくださいと言っているようなものではないか。

「ええ、まぁ」

 答える男の表情は面倒そうで、誤魔化しが露呈したバツの悪さは含まれていない。
 両者は自然とにらみ合う。緊張と困惑で、知らずに赤龍は眉間にシワを作っていた。警戒のあまり、不機嫌さの滲んだ声で龍はトカゲ男へ命令する。

「龍の元まで案内しろ」

 白くないと言っていたが、そんな台詞を素直に信じられるはずがない。実際に会って確かめなければ。

「嫌です」

 しれっと即答した男の態度が、龍は憎たらしくて仕方なかった。

「なぜだ」

 負けじと赤龍も間を置かず問いかけるが、返ってきた答えはシンプルなものだ。

「面倒だからです」

「それなら」

 龍は大きな牙を見せ、威嚇しながら宣言した。

「無理やりにでも連れて行く」

 変な奴に絡まれたとでも言いたげに、だるい態度でトカゲ男が問いかける。

「はぁ、なぜですか」

「どうもオマエは怪しい」

 理由になっているような、なっていないような。
 とは言ったものの、正直赤龍には男を従わせるだけの力は残っていなかった。普段であれば人など束でかかってこようと撃退できる。しかし、体力を使い果たし怪我まで負った今の状態では、人を一人捕まえるのも難しい。
 だがここまで馬鹿にされてしまっては、龍のプライドが許さないのだ。なんとか生意気なコイツを言い負かすことはできないだろうか。

「分かりました。では、案内しましょう」

 そう力んでいたからこそ、あっさりトカゲ男が了承したため拍子抜けしてしまった。
 従ったのだから争うわけにもいかず、龍は納得いかなそうに呟く。

「……やけに素直だな」

 男はヤレヤレと溜息混じりに返事をした。

「どうせ、これから龍の所へ行く予定でしたし」

 良いように操られている気がして、赤龍が不満気に文句を言う。

「それなら大人しく案内すれば良いものを」

「怪我人に気を使って歩くのは大変ですから。結構距離がありますし」

 当の怪我人の前で言って見せると、彼は山の方角を指差す。

「あっちです。行きましょう」

「……ふんっ」

 トカゲ男の言葉に答えず、龍が移動を再開した。男も介添えを行い歩き出す。

 モヤモヤしている赤龍は、彼の様子をうかがいつつ足を進めた。なんだか上手く乗せられた気がする。
 その考えに至り、思わず喉の奥からうめき声がもれた。もしかしたら実際そうなのではないか。理由は分からないが、初めから男は龍の元へ連れて行くつもりだった。しかし目的地までは距離があり、険しい山道を進むことになる。普通に引っ張っていっては、疲れきっている自分は途中で諦めるだろう。そこで龍特有の気位の高さを刺激して気持ちを煽り、後に引けなくしたのではないか。

 うめき声が聞こえたのかトカゲの男が話しかけてきた。

「どうしました」

「……なんでもない」

 確認してみようかと思ったが、違っていたら腹が立つので言わないことにする。

「それは残念」

 短く無愛想な言葉。赤龍は腹が立って仕方なかった。


 黙ったまま一頭と一人は森を歩き続ける。
 最初の内は、赤龍はトカゲ男を警戒し、思考を読もうと考察を繰り返していた。男は非協力的な言動をとりながらも、なんだかんだで龍の言い分には従っているし、胴体を支えてくれている動作も真剣なものだ。しかし彼の言葉には曖昧な部分が含まれており、どうにも赤龍は素直に信じようという気になれなかった。

 こんなヤツがなぜ助けてくれたのだろう。親切にして恩を売るにしても、この無愛想な態度からは媚を売る要素は欠片も感じられない。
 赤龍がここまで考えた頃、森は山になり、険しくなった道を進むのに意識を集中せざるを得なくなった。当然、進む速度は遅くなっていく。

 赤龍が立ち止まりそうになるとトカゲ男は無言で水筒を差し出してきた。意地を張って拒否する余裕も無く、龍も黙って水を飲んだ。薬草の香りがする冷たい水は、海水に支配されていた口と喉をうるおし、身体を癒してくれた。ヒリつく喉に若干しみたが、薬草の効能のおかげか、軽い咳き込みだけですんなりと吸収されていく。
 龍は水を飲む際は座っていたが、飲み終えればすぐに立ち上がった。もし一度木に寄りかかりでもしたら、そのまま力尽きて眠ってしまいそうだったのだ。既に森は深くなり、吹き抜ける風も心地よい涼しさに変わっていた。油断すると意識が飛びそうになる。
 眠れば男はいなくなるだろう。コイツしか龍の棲家の手掛かりがない以上、逃がすわけにはいかなかった。

 些細な休憩を繰り返すこと数回。木々に覆われていた視界が唐突に開けた。

「ほぅ……」

 目の前に広がる光景に、思わず赤龍は感嘆の声をもらす。
 開けた空間に存在していたのは広い湖。島とも呼べない盛り上がった地面がポツポツと水面から覗いており、そこから生える木が空から湖を隠すように枝を伸ばしている。澄んだ水の上には黄色い花が浮かび、水の動きに合わせてユラユラ揺れていた。どこからか染み出る水の音と鳥の声だけが響く。

 疲れを忘れ美しさに見入っていた龍は、胴体から伝わってきた無粋な衝撃で我に返った。そちらを睨めば相変わらず仏頂面のトカゲ男が視界に入る。どうやら彼に軽く叩かれたらしい。
 せっかくの清々しい気分を害され、赤龍は視線だけで「なんだ」と問いかけた。そんな地味な抗議が堪えるはずもなく、男は無言で黄色い花の向こうを指差す。
 何かいるのかと赤龍が近づいてみると、そこにいたのは黄色い龍。湖に半身を浸けて横たわっており、気持ち良さそうに目を閉じ小さな寝息を立てている。体格は赤龍より大きいが、湖が広いため窮屈には見えなかった。

「白くないでしょう」

 久し振りにトカゲ男が声を発する。彼の言う通り、明らかに白龍とは別の龍だ。
 赤龍はガッカリしたが、それでも同族に出会えたことで少し元気が出た。巨大な魔物に追われて死にかけ、恩人とは再会できず、助けてくれた男は得体が知れない。正直、心細くて仕方なかった。

 話し声が聞こえたのか、黄龍が薄っすらと目を開く。

「ん……?」

 見慣れぬ組を確認すると、大きくアクビをした。

「おぉ……客か……」

 呟き、上体をゆっくり起こす。周辺に浮かんでいた花が少しだけ離れていった。
 まだ黄龍の意識は半覚醒らしく、しばらく目をしょぼしょぼさせていたが、赤龍の翼に巻かれた包帯に気づくと不思議そうに顔を近づけた。

「オマエさん、ソレ、どうしたね」

「え?」

 問われた赤龍は自身の翼を見る。歩くのに必死で翼の怪我を忘れていたのだ。薬が効いたのか、すっかり痛みは引いている。

「これは、魔物に襲われて……」

 赤龍は原因を説明しようとしたものの、未だ挨拶すらしていないのに思い当たり慌てて頭を下げた。

「あ、お休み中の所、失礼しました」

「どーせヒマじゃし構わんよ」

 改まった赤龍の態度とは対照的に、黄龍は伸びをして返事をする。どうやら本当に気にしていないらしい。
 体勢を正し、赤龍は自分がなぜここへやってきたのかを説明する。黄龍は眠そうに聞いており、時折ガクリと頭を揺らした。赤龍が話し終えた後も、若干目を閉じたまま何も言わない。
 もしや寝ているのか。赤龍が尋ねようとした時、やっと黄龍は言葉を発した。

「若いからって食い意地を張り過ぎちゃいかんよ」

 からかうような黄龍の声。ちゃんと聞いていたようだ。
 龍の主食は魔物である。魔物が多数生息している虚霧は龍達の絶好の狩場であり、赤龍が虚霧にいたのも食事のためだ。経験を積んだ大人の龍は、更なる大物を求め虚霧の先の虚空と呼ばれる闇の領域へ向かうこともある。

 赤龍はからかいを素直に受け入れた。

「反省しています……」

 追ってきた怪物は、体格の大きさや放つ混沌の濃度から考えて、明らかに虚空からやってきた魔物だ。どうやら赤龍は知らずに虚空の側まで飛んでいってしまったらしい。
 白い霧に覆われた虚霧と、黒い闇に支配された虚空。比べてみれば違いは歴然なのだが、その境は灰色のグラデーションとなって緩やかに変わっていく。そのため、まだ大丈夫だろうと虚霧の中を進むうち、いつの間にか虚空の近くまで移動してしまうケースもあった。特に狩りに夢中になってしまう若い龍は、知らずに虚空へ入り込み大型の魔物に返り討ちにされることもある。

 黄龍が若い龍を見た。

「無謀なことはしとらんだろうね」

 やや厳しさを含んだ声色に、思わず赤龍は首を振る。

「もちろん何も」

 虚霧での狩りの途中、巨大な魔物は突然追いかけてきたのだ。攻撃したのは白龍を助けようとした時だけで、それ以外はひたすら霧の中を赤龍は逃げ惑っていた。
 虚空の魔物が虚霧を越えてまで龍を追ってくるのは珍しい。よほど虫の居所が悪かったのだろうか。

 少々居心地が悪くなってきて、赤龍は話題を変えた。

「あの、白い龍について何かご存知ではありませんか?」

 白龍が近くに住んでいるなら黄龍は何か知っているかもしれない。
 が、その期待は外れてしまった。

「悪いが、心当たりはないねェ」

 軽く首を振って答えた黄龍を見て、思わず赤龍は肩を落とす。

「……そうですか」

 黄龍が知らないということは、白龍はたまたま近くを通りかかっただけの可能性が高い。これでは再会できないかもしれない。広い世界のどこかにいる一頭の龍を探し出すなど不可能だ。

「なに、また近くに現れるかもしれん」

 しょんぼりしてしまった赤龍を気遣ってか、黄龍が明るく声をかけた。

「そうだ。オマエさん怪我をしとるようだし、療養がてら、しばらくここに留まって探してみたらどうかね」

 その言葉に、下を向きがちになっていた赤龍は驚いて頭を上げる。

「えっ、良いんですか?」

 基本的に龍は単独で行動し、自分の縄張りの中で生活する。複数で密集して暮らせば、獲物である魔物の奪い合いになるからだ。同族の気配を感じ取れる龍にとって、他の龍が自身の近くに長く滞在するのは本来不快なのだが、どうやら黄龍は寛大な心の持ち主らしい。

「この湖には癒しの効能がある。自由に浸かるといい」

 黄龍はゴロリと転がると、湖への道を空けてやった。頭を下げて赤龍は礼を言う。

「……ありがとうございます」

 洞窟でも探して、離れた場所で休ませてもらおうと考えていたため、受け入れてもらえたのは素直にありがたい。

 腹を空へ向けたままでいる黄龍の脇を通り、赤龍は湖の中へ足を踏み入れた。冷たい水が心地よい。突然の侵入者に驚いたのか、魚がポチャリと水音を立てた。
 そのまま赤龍は数歩進んだが、水が足首の位置まで浸かった所で立ち止まる。溺れて死にかけた記憶が頭を過ぎり、これ以上深い場所へ移動するのが怖い。
 歩こうという気分になれず、仕方なく赤龍はその場に座り込んだ。せっかくの癒しの水だというのに、これでは腹くらいしか浸かれない。翼まで浸かった方が良いと頭では分かっているのだが、足が動かないのだから仕方がなかった。

 海の上を飛ぶことが多い以上、水への恐怖は克服しなければいけない。すっかり臆病になってしまった自身へ呆れながら、赤龍は湖の水を一口飲んだ。
 少し甘い気がするな、などと考えていると、黄龍の声が後ろから聞こえた。

「久し振りだな。何の用だ?」

 赤龍が振り向くと、いつのまにか転がっていた黄龍の体勢は正されている。その視線は正面へ向けられており、問いが赤龍へ向けたものではないのが知れた。
 問いかけに答えたのは、存在をすっかり忘れていたトカゲ男。

「聞きたいことがあってお邪魔しました」

 彼は自分より圧倒的に巨大な黄龍へ臆せず応じた。そういえば、男は龍に用があると言っていた気がするな、と赤龍は回想する。
 黄龍が久し振りと言っているのだから、やはりは知り合いだったようだ。赤龍は会話を盗み聞きをするつもりは無かったが、陸からあまり距離が離れていないため、自然と耳に入ってきてしまう。
 聞かれているのを知ってか知らずか、トカゲ男は黄龍へ不愛想に尋ねた。

「惑という言葉に聞き覚えはありませんか?」

「まどい?」

 黄龍がオウム返しをした。赤龍も聞いたことがない。

「虚空に住む魔物の総称のようなのですが」

 トカゲ男が補足する言葉を繋げたが、やはり黄龍は心当たりが無いらしく首を傾げるばかりだった。

「……分からんな」

 その答えを聞くと、男はすぐに別の質問に切り替える。

「それでは、虚空に人が入り込んだという話は?」

「知らん。そんなこと不可能だろう」

 少しぶっきらぼうに問われた側は答えた。一方的に問いをぶつけられ、まるで尋問でも受けているようで気分が悪いのだ。

 魔物が大量に生息している虚霧。その先にある虚空には大型の魔物がひしめいており、油断すれば大人の龍でも命を落としかねない危険地帯となっていた。そんな場所へ人が侵入するというのは、黄龍の言う通り不可能だ。

 相手の不機嫌さを気づかうことなく、トカゲ男の質問は重ねられていく。

「では、龍が人に協力して虚空を調べているという話は」

「聞いたことが無い」

「ウナテという単語は」

「知らん」

 答えは短い。黄龍はワザとらしく溜息をついて見せた。

「なぁ、いい加減コチラにも理解できるように話てくれんかね」

 当然の要望だと思うのだが、対する男は冷ややかな表情で言い捨てる。

「私の質問にだけ答えてください」

 彼の言葉に赤龍はカチンときた。尋ねている側のクセにその態度はないだろう。
 文句を言ってやろうかと思ったが、ここで口出しすれば盗み聞きがバレでしまう。何もできないヤキモキした感情を仕方なく飲み込んだ。

「相変わらずだな」

 諦めている黄龍の声。今回のような一方的な交流は以前から続いているものらしい。どうやらは友人同士というわけではなさそうだ。
 皮肉にも我関せずといった態度で、トカゲ男は勝手に話を仕切っていく。

「これが最後の質問です」

 言うなり、彼はすっと息を息を吸い、金色の瞳を細める。

「……今までの答えに、嘘はありませんね?」

 その声を聞いた途端、赤龍は思わず身を強張らせた。確認の言葉に込められていたのは、初めて浜辺で出会った際に感じた敵意。

 黄龍は断言した。

「ない」

 トカゲ男の瞳と黄龍の瞳が交差する。露骨に睨み合ってはいない。しかし明らかに相手を信用していない表情。
 戦闘でも始まるんじゃないか。緊張のあまり赤龍の身体が痛み出した頃、やっと黄龍が威嚇の態勢を解いた。

「……三足鳥を騙してもメリットはあるまい」

 呟く言葉。
 やっと赤龍にも分かる単語が出てきた。三足鳥というのは人々が信仰する神の一種と聞いている。
 どうしてトカゲ男に嘘をつくのが三足鳥を騙すことに繋がるのか、赤龍には分からなかった。三足鳥を信仰する組織は三足教というらしいが、もしかしたら男は信者なのか。怪我人に対する態度を思い出すと、神に仕える者とは思えなかったが。

 とりあえず黄龍の答えに納得したのか、トカゲ男は素っ気ない返事をした。

「……そうですか」

「ふむ。しかし、知らぬ知らぬでは協力していないも同然か」

 黄龍が鼻を鳴らす。

「せっかく山奥まできた客人を手ぶらで帰すのもな」

 さっきまでの緊張はどこへやら。黄龍は身体を伸ばし、コリをほぐすように軽く首を左右に振った。

「そうだな……オマエさんが何を探っているか分からんから、見当違いな話題かもしれんが」

 前置きすると、小さなアクビを混じらせて話し出す。

「最近、なんだか魔物どもに落ちつきがない。虚空の魔物……惑というのか? そいつらも変だ」

 それは赤龍も感じていた。虚霧で狩りをしていても、逃げる魔物より自ら襲いかかってくる魔物の方が増えている。少し虚空へ近づいただけで巨大な魔物が追いかけてきたのも、神経質になっていたためかもしれない。

「落ち着きがないというのは、凶暴になったということですか?」

 男の質問へ黄龍は頷く。

「そうだな。始終イラついているように見える」

「原因に心当たりは?」

 黄龍は人じみた動作で大きな肩をすくめた。

「さァな。しかし、同じくらいの時期から空が騒がしくなった」

 黄龍の言葉に、トカゲ男は視線を上へ向ける。

「空……」

 小さな言葉が口からもれるのが聞こえた。
 赤龍もなんとなく空を見上げてみる。湖の上は木々の枝が覆っていたが、隙間からは充分青空が確認できた。素直にいい天気だと思える。先程までは少し曇ってくれないかとすら思っていたのだが、今は日陰の下で水に浸かりながら涼んでいるため気持ちに余裕が出てきた。

 黄龍も顔を空へ向け、ポツリと言葉を続ける。

「特に夜空だ。星が激しく瞬くことがある」

 三人は黙ったまま、しばらく空を眺めていた。
 空の果てには星が浮かんでいる。それは人々から不吉な存在と恐れられ、忌み嫌われていた。空の覇者である龍ですら星は警戒しており、決して近づいてはならぬものとされている。
 星は人の欲望を叶え、世に災いを成す。大昔から伝わる警告は今なお世界中で語り継がれ、多くの知恵ある生物の胸に刻まれている。

 夜空で、星が激しく瞬く。それは凶事の前兆のように思えた。
 昼間の空に星の姿はないが、あの青色が消え失せた後、不吉な光は無数の輝きを放って天を支配する。天からの光が自分を射貫く様を想像してしまい、赤龍は自然と生唾を飲み込んでしまった。夜空を飛ぶ時はくれぐれも気を付けるようにと言っていた大人達の姿が頭を過る。

「……繋がりがあるかは分からんがな」

 黄龍の声に赤龍が視線を戻すと、いつの間にか黄龍と男は元の体勢に戻っていた。

「……情報、ありがとうございました」

 トカゲ男は礼を言うと軽く頭を下げる。一応そういう動作もできるのだな、と赤龍は妙な感心をしてしまった。
 しかし礼が会話を切り上げる合図だったらしく、言うなり彼は去って行こうとする。赤龍は呆気にとられて彼の背中を見送ることしかできなかった。最初に会った時もさっさといなくなろうとしたが、いつもコイツはこうなのだろうか。

 黄龍がのんびりと男を呼び止めようとした。

「おーい。シノ」

 この時、赤龍は初めてトカゲ男の名前を知る。怪しむのに忙しくて名前を聞くのを忘れていたのだ。
 呼ばれた側は立ち止まらなかったが、黄龍は構わず話しかける。

「アイツは元気か」

「生きてますよ」

 シノと呼ばれた男は振り向かずに答えると、そのまま森の方へ消えていってしまった。
 ワケの分からないことを一方通行で垂れ流した挙句、あっという間にいなくなる。なんだったんだとポカンとした表情で森を眺めていた赤龍だったが、やがて首が痛くなってきて体勢を楽にした。

「……変なヤツ」

 思わず口からこぼれた言葉。黄龍から返事があるかと思ったが、聞こえなかったのか黄龍は男がいた位置を見つめたまま黙っていた。
 その雰囲気に威圧に似たものを感じ、赤龍は何も言わなかったことにして、もう一口湖の水を飲んだ。水が流れる音だけが耳に響く。鳥の鳴き声が聞こえなくなっているのに、今更気づいた。

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