葬送は刃の標的
1
【任務内容】
乗客の解放
【終了条件】
列車の停止
一定のリズムで揺れる足元。その不安定さを誤魔化すように、アヤは一度強く床を踏みしめる。もちろん足場が固定されることはなかったが、自分へ気合を入れるのには効果があったようだ。
深呼吸すると湿気を含んだ空気が肺の中に入り込み、陰気な雰囲気が己に混ざってしまった気分になって顔をしかめる。
アヤは一人、列車のドア付近にたたずんでいた。清掃が行き届いた明るい車内は普通の列車と変わらないように見えるが、乗っている乗客達は例外無く浮かない顔をしている。うつむいたまま身動きしない者。ボンヤリと宙を眺める者。話し声も僅かに聞こえるが、声に覇気は無く列車の走行する音に紛れてしまっている。
全員に共通しているのは疲れが滲んだ表情をしている点だった。突然現れた彼女を見ようともしない。
アヤはヘッドフォンを触って通信をチェックするが、予想していた通り仲間達との通信は叶わず、不規則なノイズ音だけが耳に伝わる。分かっていたことだが、いざこの状況になると心細さを感じた。諦めて視線を上げるとドアのガラスに自分の顔が映っているのが見える。列車の外が真っ暗なため、この位置からでも自身の表情が良く分かった。
列車が走っているのは、世界と冥界の中間地点。境界と呼ばれる場所だ。一人前の呪術師として冥界に認められる彼女は、生物の死後の域まで進入することができた。
どこまでも続いていると錯覚してしまいそうになる闇の中、終着駅の分からぬ列車は走り続けている。
時折遠くに白い物が見えるが、正体を判別するより先に列車は走り去り、やがて再び何も無い黒へ戻っていく。仄かに光って見える白は儚く、ポツポツと思い出したように点在する様は寂しげな光景だった。
手すりを掴みながらアヤは周囲を見回す。しかし、相変わらず人々は誰一人として彼女に関心を示さない。気付いているはずだが意識を向けるのが億劫らしい。
列車の乗客達は全員死者で、既に生への執着も無くなり冥界へ移動する段階の者達だ。その魂を閉じ込め、冥界へ向かう流れを妨害しているのがこの列車。乗客を拉致した列車を停止させ、魂達を向かうべき場所へ連れて行くのが今回の啓示だ。魂に関する技能を持つアヤにしかできない仕事であった。
乗客はただ乗っているだけではなく、常時精気を摂取されている。本人達に自覚は無いが、奪われた力は列車を走らせるのに使用されていた。
魂を集めているのはエネルギーが目的のようだったが、何を目当てに移動しているのかの検討はついていない。ひたすら闇を走り続ける様は不気味である。
しばらくアヤは様子をうかがっていたが、何も起こらないのを確認すると警戒を緩めた。列車を走らせている主は彼女が侵入したのに気付いていないようだ。操縦しているのは生きている者ではないはずだが、そう強い力は感じられず危険は少ないと思われる。
しかし相手のフィールドにいる以上どんなものが出るとも分からない。こうも思念が多く飛び交っていては、単独犯なのか複数犯なのかも分からなかった。できれば、こちらから正体が分からない敵のふところに飛び込むような真似はしたくない。今回は仲間からの支援が期待できないのだ。
アヤは手すりを放し客席の方へ歩き出す。あちらが出てこないのなら、おびき出すまでだ。
「席、ご一緒してもよろしいですか」
声をかけられた老夫婦は驚いたように顔を上げてアヤを見た。
他と同じく疲れた表情をしているが、まだ新しい魂なのか彼女へ興味を向けられる程度には疲労していないらしい。
「あらあら、どうぞどうぞ」
すぐに柔和そうな表情を浮かべ、手招きして彼女へ席を勧めたのは老婦の方。
もう一人、気難しげな顔をした老夫の方はアヤを少し見ただけで再び窓へ顔を向けてしまった。あまり他人と話すタイプではないのかもしれない。
向かい合わせになっている二つの席。その片方へ夫婦の正面になるようアヤは座る。
「どちらへ行かれるんです?」
彼女の問いかけに答えたのは老婦の方だった。
「いえ、出かけてきてね。今から帰る所なの」
嬉しそうに微笑む。
「息子夫婦が久し振りに帰ってくるっていうから、買い物してきたのよ」
そう言っているが、席には買い物袋らしき荷物は見当たらない。
「たくさん料理を作らないといけないから大変で大変で」
大変、と口にしているが老婦は笑顔のままだった。再会が心待ちでしかたないのが赤の他人から見ても分かる反応だ。
窓を見たままの老夫が横槍を入れた。
「また食いきれないくらい作るんだろ?」
老婦はムッとしてそちらを睨む。
「今度は大丈夫です」
「前は結構残って腐らしたよな」
「いつまで覚えてるんですか。しつこいですね」
強めに文句を言われて老夫は黙った。
老婦はアヤへ向き直って話を戻す。
「孫も来るのよ。大きくなってるから、きっとたくさんご飯を食べるわ」
幸せそうな笑みがこぼれた。
「前に来た時、美味しいって言ってくれてね」
その時の様子を思い出したのか、ますます嬉しそうな顔になる。
「でも小さかったから、覚えてるかしら」
「子供は煮物なんか好きじゃない」
また老夫からちゃちゃが入った。
「カレーとか作ってやれ」
「作りますよ。前だって作ったじゃないですか」
不機嫌そうに老婦が言い返す。
「それに、あの子は煮物が好きなんです。美味しい美味しいっておかわりしたんですから」
忘れたんですか、と一言付け加えた。
老婦が話して、老夫が割り込み、喧嘩のようなやり取りになる。二人の関係が分かってきた。
老婦がアヤへ向き直って問う。
「そうだ、あなたミカン好きかしら?」
彼女が頷くと嬉しそうに手提げ鞄を引き寄せた。
「親戚の方からミカンを頂いてね。いかがかしら?」
そう言いながら取り出したのは、手の平に乗るサイズの赤い物体。ミカンというより熟しすぎた柿に似ている。
「これ、赤いけどミカンなの。普通のより甘味が強いのよ」
「いただきます。ありがとうございます」
アヤは礼を言って受け取った。
持ってみれば心地よい柔らかさで、ちゃんとミカンの甘い香りがする。
「誰にでもミカン配りやがる」
また横槍を入れてきた夫の言葉に、妻も当たり前のように言い返した。
「良いじゃないですか、美味しいんですから。あなたも食べますか?」
問われた側は窓へ向いたまま答える。
「いらねぇよ。晩飯が入らなくなるじゃねぇか」
「ミカンくらい食べても大丈夫でしょうに」
食が細くなっちゃったわねぇと、夫の背中を眺めて妻は溜息をつく。老夫が小さくミカンババァと呟いたのが聞こえた。そして言われっぱなしでバツが悪くなったのか、不機嫌そうな声で違う話題に触れる。
「まだ着かないのか」
眉間にシワを作った顔が窓に映った。
「もう三十分は走ってるんじゃないか」
「まだ十分くらいでしょう」
せっかちな人でごめんなさいねぇと、老婦はアヤへ苦笑いで謝る。
本当は三十分どころではないはずだ。死後に時間の感覚がおかしくなるのは良くあることだった。
「すっかり真っ暗だな」
外の闇を夜だと思っているのだろう。老夫の言葉に老婦も窓の外へ視線を向ける。
「帰ったらすぐご飯の準備をしないと」
アヤも窓を見た。三つの視線が集まった四角の向こうには、相変わらず変わらない黒。こうも似たような光景が続いては進んでいるかどうかも分からなくなる。レールを進んでいる車輪の規則的な音だけが、列車が正常に進んでいるのを乗客達に知らせていた。
老婦が溜息をつく。
「たくさん買い物したからかしら。なんだか疲れが酷いのよ」
死んでいるにも関わらず異常に疲れを感じるのは力を奪われているからだ。
「早く休みたいわ」
「晩飯はミカンにして、帰ったらすぐ寝るか?」
皮肉交じりの夫の提案に妻は首を振る。
「そんなんじゃお腹がすいて夜中に起きちゃうわ」
「でも、こんな暗くなってから食ったら満腹で寝れないんじゃないか」
自分達が死んだことに気付いていない日常的でのん気な会話。
「まだそんなに遅くないでしょう」
「そうか? 結構暗くなってきただろ」
「この時期は暗くなる時間が早いじゃないですか」
呆れた老婦の言葉に老夫は不機嫌に返す。
「だいたい、お前の買い物が長いんだ」
「いつもより量が多いんです。仕方ないでしょう」
きっと二人は生前からこうなのだ。神経質な一言をこぼしがちな夫と、それへ相槌を打ちながら文句も忘れない妻。この関係を何十年続けてきたのだろう。なんの因果で二人は同時に命を落としてしまったのか。
「ごめんなさいね、小言の多い人で。疲れちゃってイライラしてるのよ」
フォローしているようで愚痴にも聞こえる老婦の声。
やはり老夫はヘソを曲げたらしく、また窓際へ顔を向けてしまう。
「お疲れでしたら少しお休みになってはいかがです?」
アヤの提案に、老婦は悩むように少し間を置いた。
「でも、乗り過ごしちゃわないかしら」
「まだしばらく駅に着かないみたいですから、大丈夫ですよ」
どうしようか、と老婦は夫の方を見る。
「あなた」
問いかけるが答えない。老婦が不思議そうに覗き込むと、老夫は既にウトウトしているのか目を閉じてしまっていた。
「あらあら」
そっとしておこう、というジェスチャーをして体勢を戻す。
「機嫌が悪かったのは、眠かったせいもあるみたい」
小さく笑う。そして自分も眠そうに目を細めた。
「なんだか私まで眠くなってきたわ」
「どうぞお休みになってください」
「そう?」
「私のことはお気になさらず」
うながすアヤの言葉。
「ごめんなさいねぇ。なんだか急に眠くなっちゃって」
老婦は申し訳なさそうに笑って答えると、ゆっくりと目を閉じる。
「もっとお喋りしたかったんだけど……」
小さな呟きの後、早くも寝息を立て始めた。
老夫の様子を見ると、こちらも眠りに落ちたようで顔を伏せている。
反応が無くなったのを確認し、アヤは一度深く息を吐き出すと席から立ち上がった。
二人は疲れで眠ったわけではない。アヤの技能により魂が保護され、外部から接触を受けない状態になったのだ。これで列車から精気を奪われるのを防ぐことができる。
持ったままだった赤いミカンをしまう。ミカンは精神へ入り込む媒体に使わせてもらった。通常であれば力の伝達に媒体などいらないのだが、乗客達は今、列車の支配下に置かれている状態だ。強引に技能を使って魂へ触れれば負担をかける。それを避けるため二人の所有物を入手し、媒体とする必要があったのだ。ミカンは老婦から受け取った物だが、老夫にも影響を広げられたのは幸いだった。老婦と繋がりが深いためだろう。
ここにいる魂は皆、死んだのに気づいていないデリケートな存在だ。既に死んでいることを告げても信じないし、信じさせようとすればするほど無用な混乱を招いてしまう。そのため直接相手へ事態を説明し、所有物を入手できないのが面倒だった。しかし、やるしかない。
もう一度、アヤは眠ったままの二人を見る。自分の作戦が上手くいったのを確かめると彼女は再び歩き出した。
こうして魂から精力を摂取できなくさせれば、エネルギー源を失った列車はスピードを落とし、やがて止まらざるを得なくなる。異変に気付けば操縦者もこちらへ現れるだろう。
「席、ご一緒してもよろしいですか」
声をかけられた男性はアヤを横目で見ると、頷くことで了解を示した。対面の席へ座った彼女を気にするように、少し窓側へ移動する。
「どちらへ行かれるんです?」
アヤが声をかけると男はうつむいたまま答えた。
「……ちょっと仕事で」
それだけ言うと黙ってしまう。顔を上げないが、僅かに見える横顔からでも憔悴した表情をしているのが分かった。
「お疲れのようですね」
「ええ……」
彼女の言葉へ返す反応は鈍い。この疲れ方は、列車に精力を吸収されているのだけが原因ではないようだ。時折顔をしかめ、苛立ったように耳を抑えている。
どう接触したものか。アヤが考えを巡らせていると、男がチラチラと視線を向けてくるのに気がついた。
「……あ、失礼しました」
アヤと目が合った男はうろたえて答える。
「あの……何か、甘い香りがしたもので」
甘い香り。その原因に思い当たり、彼女は先ほど老婦からもらった赤いミカンを取り出した。
「これですか?」
外に出されたことで甘い香りはより強くなる。目の前のミカンを見ると、硬かった男の表情が和らいだ。
「あぁ、やっぱり。私の地元で作ってるのと同じだ」
懐かしそうな声。特徴的な見た目をしたこのミカンは、限られた土地でしか生産されていないのかもしれない。
「良かったら食べます?」
アヤがミカンを差し出す。
「えっ、良いんですか?」
驚いたように男が彼女とミカンを交互に見た。
「ええ、どうぞ」
「……すいません。ありがとうございます」
男は小さく頭を下げミカンを受け取る。先ほどの疲れ果てた様子は若干薄れ、嬉しそうな表情を浮かべていた。好物なのかもしれない。
すぐには食べず、独り言を言いながらミカンを手の中で転がす。
「しばらく食べてなかったな……」
「お忙しいんですか?」
アヤの問いに、再び男の表情は陰ってしまった。
「忙しい……というか……」
ミカンを撫でて溜息をつく。
「私、音楽を生業にしてるんです」
「へぇ! 音楽家さんなんですか」
「いや、そんな大したものじゃないんですけど」
彼女の反応に男は照れたように謙遜したが、すぐに沈んだ表情になる。
「……それが、上手くいかなくて」
「アイディアが浮かばないとか?」
アヤの言葉に男は強い口調で返した。
「そうじゃないんです」
苛立ちが込められた声。アヤを見つめ返した瞳には怒りの色がある。冷静な彼女の表情を見て、男はハッとしたように顔を伏せた。
「アイディアは……あるんです。自分で考えて、自分で作れるんです」
自身に言い聞かせる言葉が床へ向かって吐き出される。男は何も無い空間を睨み、また自分の耳を乱暴に掴む。
「でも、その曲が、私が一から作った曲が」
男は少し震えていた。
「……盗作だと、言われたんです」
絞り出すかすれ声。何かに耐えているように手は固く握り締められている。
「それは……お気の毒に……」
アヤの言葉の後、二人は沈黙した。列車が走る規則正しい音が周囲を包み込む。
無言のまま男はミカンの皮を剥いた。中から現れた実は予想外にも普通のミカンと同じ橙色。まとわり付いている白い繊維を長い指が丁寧に取っていく。
アヤが口を開いた。
「私は物作りとは無縁なので、良く分からないのですが……意図しなくとも似てしまうことは、有り得るんじゃないでしょうか」
男は黙々とミカンを口に運ぶ。その様子を見つめたまま彼女は話し続けた。
「オリジナルであるのは、誰よりあなたが知ってるじゃないですか。たまたま一つの作品が他の物と似てしまったとしても、そこまで自分を追い詰めることは無かったんじゃないですか?」
死してなお残る根深い苦悩。彼は本当に盗作などしていないのだろう。
「……そうかもしれません」
やっと男が口を開いた。
「でも、皆が言うんです。お前は盗んだ恥知らずだと」
まだ顔を上げない。
「それに、責められる内に分からなくなってきたんです。もしかしたら、知らぬ内に耳にした曲を真似てしまったのかもしれない。それを私は、自分が作った曲だと勘違いしているのかもしれないと」
男はミカンを一房摘むが、口へは入れずなんとなく眺めた。
「でも分からなくたって仕方ないじゃないですか。世の中にある全ての曲を把握するなんて、不可能でしょう」
アヤを見ると自嘲するように笑う。
「私は盗んでいない。しかし、いくら言ったって誰も信じてくれなかった」
口は笑っている。だが顔全体が作り出しているのは、苦しみからの助けを求める感情。
「否定すればするほど周りは離れて行った。情けないと。無様だと」
一つ深呼吸をし、湧き上がる怒りを必死で押し殺す。
「……私は、どうすれば良かったんでしょうね」
それだけ言うと、再びミカンを口にする。
男の疲労の原因が分かった。自身を信じられなくなった悲しみと見捨てた者達への憎しみ。何もかも疑うことで拠り所を見失ってしまい、自分の心に押し潰されている。
再び二人は無言になった。アヤは男がミカンを食べるのを横目で見ながら、無意識に外を見ている。いったいどこへ連れて行くつもりなのか。そこには誰かの幸せがあるのだろうか。
「声が、聞こえるんです」
唐突な男の声に彼女は視線を戻す。いつの間にか彼はミカンを食べ終えていた。
「声?」
「どこにいても。何をしていても」
問いが聞こえていないように男は続ける。
「私を監視しているようなんです。また盗作しないか、私のことをうかがう声が聞こえるんです」
アヤは黙って聞いていた。
「小声で話していても、たまに笑うから分かるんですよ。皆で私のことを馬鹿にして、見張っているんです」
彼の視線は手元のミカンの皮へ向けられたままだ。
「だから、逃げてきたんです」
少し顔を上げて正面の彼女を見上げた。何かを訴えるような、疲労した瞳。
「……なるほど」
アヤは合点する。たまに耳を押さえていたのはこれが原因か。
男は小さく苦笑いした。
「誰にも言わないでくださいね」
本当は、そんなはずがないのを知っているのだろう。だが、全てを疑ってしまった彼の心は耐えられなかったのだ。
「突然こんな話をしてしまって申し訳ありません」
「いえ、私こそ辛いことをお聞きしてしまって」
なんとなく二人で笑う。
男は席に背を預けて深く息を吐くと、ゆっくりと瞬きした。
「……なんだか疲れた」
目元を押さえる。今になって、男は自分が疲れていたのを自覚できたらしい。
「まだ声は聞こえるんですか?」
アヤの質問に男は一瞬身体を強張らせた。周囲を探るように瞳が左右に揺れる。
「……あ」
声がもれた。
「あぁ……」
溢れる音をせき止めようと口を押さえる。
「……聞こえない」
そのまま、驚いた顔で彼女を見つめた。
「さっきまで聞こえていたのに」
恐る恐る口から手を離すと自分の耳を触る。いつもと変わらないのに納得するまで、何度も何度も。
男の反応を見て、アヤは窓の黒に向かって呟く。
「この列車も遠くまで来ましたから」
「振り切れた……?」
どこか唖然とした表情で彼は自分の手を眺めた。片手にはミカンの赤い皮が握られ、反対の手には何も無い。しばらく左右の手を交互に見つめていたが、やがて身体の底から吐き出すような溜息をつき、体勢を崩した。
「良かった……」
安心しつつも未だ信じられない。そんな表情を浮かべている男へ向かってアヤが口を開く。
「もう大丈夫でしょう」
その言葉に彼は顔を上げた。
「だいぶお疲れのようですし、お休みになってはどうですか?」
アヤと視線が合う。男は何か言いたげに口を小さく開いた。
「ここには、あなたを疑う人はいませんよ」
彼女の言葉。それをじっくり飲み込むように男は口を閉じた。気が抜けた様子で視線を落としたが、すぐにアヤへ向き直る。
「……そうですね。少し休みます」
崩れていた体勢を直して壁際に寄りかかった。既に疲れた瞳は眠気でまどろんでいる。少しまぶたを閉じたが、数秒もせず再び正面に座る彼女を見た。
「あの」
「はい?」
短くアヤが答える。彼女を捕らえているかすら怪しい、眠たくて仕方なさそうな目。それが僅かにほころび淡い笑顔を作った。
「ミカン、ありがとうございました。とても美味しかったです」
言い終えると力尽きるように瞳は閉じられ、やがて男は静かな寝息を立て始める。
「どういたしまして」
もう聞こえていないであろう彼へ返事をし、アヤは席から立ち上がった。
ミカンを渡せたのは幸いだった。アヤの力を受けたミカンを身体に取り込ませたことで、男の魂に接触するのが安易になりスムーズに作業が進んだ。
眠らせるついでに彼の幻聴も取り除いておいた。死してなお後遺症となった自責の念から開放され、男は久し振りに安らいだ眠りを手に入れることができただろう。
アヤは歩きながらヘッドフォンに手を当て再度通信を試みる。しかし、先ほどと同じく聞こえてくるのは雑音のみ。冥界に近いとはいえ現在地は境界。もしかしたら繋がるかもしれないという淡い期待はあったのだが、この調子では駄目そうだ。
まだ操縦者は現れていない。気配を探るが、なにしろ周りは魂だらけ。様々な思念に混じってしまいターゲットを絞り込めない。周囲を見回すが揺れる吊り革しか目に付く物はなかった。
「席、ご一緒してもよろしいですか」
声をかけられた女性は緩慢な動きでアヤを見た。何か考えるように少し固まる。
「……はい」
やがて、小さくそれだけ言うとアヤから顔を背けた。
席に座ろうと近づいた時、アヤは女から獣の臭いが漂うのに気づく。観察するが動物を連れている様子は無い。
「どちらへ行かれるんです?」
聞かれた女は答えず、ただ黙って窓の外を見ていた。
聞こえなかったのか、それとも無視されたのか。しばしアヤが沈黙していると、やっと女は口を開く。
「猫のいない所に行きたくて」
アヤの方は見ず窓に向かって話す。
「ここは猫がいなくて良いわ」
アヤは正面に座る女を注視した。女の膝の辺りには黒いモヤがかかっており、そこから獣臭がするようだ。
彼女は言葉を選び、問いかける。
「猫が嫌いなんですか」
「ええ、大嫌いよ」
誰に言っているわけでもないような呟き。
「でも、家にいるの。毎日世話で大変よ」
アヤは女の横顔を見る。ぼんやりとした表情から分かるのは疲れの色だけで、何を考えているのか判然としない。
「嫌いなのに飼ってるんですか?」
「家族が欲しいって言うから仕方なくね」
女は気味が悪いほど無表情だった。
「変に柔らかい所が気持ち悪いわ。人に懐かないのも腹が立つ」
落ち着いた声で文句を並べていく。苛立ちも嫌悪も無い淡々とした言葉。
「一番嫌いなのは鳴き声なの。特に発情期の鳴き方が嫌いだわ」
「確かに、夜中に鳴かれると気になりますね」
同意したアヤへ、やっと女は視線を向けた。
「あんな生物、いなくなってしまえば良いと思わない?」
薄っすら笑みを浮かべながら酷いこと言う。
これには同意できずにいると、いきなり女がアヤへ向かって何かを差し出した。
「……それ、どうしたんですか」
いつの間に持っていたのか。女が掴んでいたのは包丁だった。刃は赤茶色に濡れ、柄の部分には黒い毛のような物が絡み付いている。
「猫を殺したの」
あっさりとした言葉。
「ずっと鳴いていて、うるさかったから」
包丁を出した瞬間から獣の臭いが一層濃くなっていた。女の膝にいる黒いモヤが一回り大きくなった気がする。
「自分では何もできないくせに、難癖ばかりつけるの。優しくしてれば調子に乗って。自分が一番偉いとでも思っているのかしら」
笑顔は既に消え、最初の無表情に戻っていた。
「でも、みんな猫の味方をするの。猫なんだから仕方ないって。可愛く思えない私がおかしいって。飼い主なんだから我慢しろとしか言わないの」
女の手から包丁が落ちる。
アヤが自然な動作で包丁を拾った。ただの包丁のはずなのに気が滅入るような重さを感じる。
「私だって好きで飼ったわけじゃない」
包丁を落としたのに気づいていないのか、女は話し続けた。
「助けてくれるって、一緒に頑張ろうって、言ったのに」
遠くを見つめる視線の先に映っているのはアヤではないのだろう。
「なのに誰も助けてくれないの。それどころか、私が猫が嫌いだって言うと怒るのよ。そうよね。他の人は猫を可愛がっているもの」
女の指先も赤茶に汚れていた。指は何かを掴もうとするようにせわしなく動いていたが、そこにはもう何も無い。
「私が、変なのね」
溜息をつくと同時に、指の動きが止まった。女が顔を上げてアヤを見る。
「私が悪いんでしょう」
アヤは答えなかった。正面から見据えてきた瞳を真っ直ぐ見つめ返す。
「お願いがあるの」
女の視線は重い動きで包丁へ向けられた。それを追ってアヤの目も手元へ落ちる。
「それで私を刺して」
感情の無い声。
「……なぜ」
静かなアヤの問い。
「悪いのは私なの」
汚れた刃は二人を見上げて沈黙していた。
「だから、罰が欲しい」
その言葉へ同調するように、乾いていたはずの赤茶が脈打つ。汚れが液体となって浮き出し、柄にこびりついた黒い毛を濡らしてアヤの手へ伝っていく。
「その血が私の中に混ざれば、全部元通りになるのよ」
黒いモヤは女を包み込むほどに大きくなっていた。獣臭さの中に血の臭いも感じる。
「さぁ」
うながす声。
アヤは席から立ち上がった。女の目は包丁を追い顔を上げる形になる。
「……良いんですか」
見下ろすアヤの言葉に女が笑う。
遠くを見る目はやはりアヤを捕らえず、後ろ側にいる何者かに語りかけていた。
「良いの」
流れる赤い液体は床に滴っていく。赤色に覆われた刃は徐々に下へ向かって伸び、包丁と呼ぶには長すぎる形を作り上げた。
アヤは赤い刃を握り締めると、女へ向かって振り下ろす。左側頭部から右頬まで斜めに切断され、女の頭の上半分がずるりと崩れた。溢れ出る血は女の首へ、胸元へ、流れていく。
「私が殺したのは猫。猫なのよ」
血塗れの口が動いた。包丁は首をはね飛ばす。
アヤの足元へ転がった口だけの頭は、最後に怨みのこもった声で呟いた。
「あんな生物、大嫌い」
頭を失った女の身体がゆっくりと倒れ、赤い液体が座席を染めた。黒いモヤは大きく膨れ上がると、発情した猫の鳴き声を響かせて女にまとわり付く。黒と赤のまだらになった物体はしばらくうごめいていたが、徐々に動きは鈍くなり、やがて微動だにしなくなった。
アヤは女だった物の前で包丁を持ったまま立ち尽くしている。包丁から滴っていた赤は既に収まり、今は再び赤茶の汚れとなって染み付いていた。女から流れていた血液すら黒くなり、煤のような干からびた粉となっている。獣と血の臭いは薄れつつあった。
相手は魂なのだから、本来は刺されても血は出ない。切られて生前と同じような反応になったのは、現世に強い心残りがある現れだ。
アヤは包丁を座席へ置くと一礼する。包丁を拾ったのは技能を使って女の魂へ接触するためだったが、今回はすんなり行かなかった。
原因は黒いモヤ。あれと女が半場一体化していたため、魂の構造が複雑になり安易に繋げられなくなっていた。
モヤの正体は女の言うところの猫なのだろう。恐らく、最初から害をなす存在だったのではない。女の狂気に飲まれ、長く列車に閉じ込められることで歪んだ結果、変異してしまったのだ。ここまで同化が進んでは、冥界の技術でしか安全な分離は不可能だろう。
それでも、アヤは女を包丁で刺した際、刃を媒体として女とモヤの両方に接触を試みていた。しかし残念ながらモヤへの影響は薄く、保護できたのは女の魂だけ。しかも、女の眠りは非常に浅かった。一部となっているモヤが活動しているため、何かきっかけがあれば起きてしまいそうな状態だ。
今、女の内面はアヤに切られた体験により激しく動揺している。こんな不安定な状態で目覚めればモヤへ隙を与えることになり、一体化は早まってしまうだろう。
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