たらい回しな夜

 大仕事をやり遂げたセリオンはご機嫌だった。

「フンフフーン」

 鼻歌を歌って夜道を闊歩する男を、道行く人々は胡散臭そうに見送る。
 彼が進むのは荒れた路地。歩道にはゴミが転がり、並ぶ建物は落書きだらけだ。こんな道を好んで通るのは訳有りの者ばかりだったが、そんな連中でも今のセリオンに絡む輩はいなかった。口元から牙を覗かせニヤついている彼に恐れをなしているのか、単におかしな奴だと思われているのか。
 弱々しく光る街灯が自身を照らすスポットライトのような気さえして、セリオンはスキップでもしたい気分だった。この喜びを、ぜひ誰かと分かち合いたい。

「フフフンフーン」

 こんな愉快な夜は誰かの願いを叶えるに限る。自分も幸せ。誰かも幸せ。皆幸せだ。
 この考えが素晴らしいものに思えて、自然とセリオンの身体はリズミカルに動く。実際、少々浮いてしまっていたのだが、上機嫌な彼はまったく気づかなかった。


 軽やかな足取りでセリオンがやってきたのは寂れた公園。薄汚れた遊具や物が溢れたゴミ箱を天眼の仄かな光が照らしている。園内の街灯は大半が故障しているらしく、隅の方にある街灯だけが頼りなさげに光っていた。
 さて、都合の良いターゲットはいないかと彼は赤い瞳を歪ませる。夜の公園というのは人気がなく、それでいて飢えている者がフラリと立ち寄ることがあるため、セリオンにとってはうってつけの狩場だった。

 公園に入って数分もしない内に、彼はベンチに座っている人影を見つける。機能している街灯から離れた位置にいるため全容が分かりにくいが、服装を見るに女性であるのが察せられた。背中を丸めてうつむいている様子からは、深い失意や疲労が感じられる。すぐそばに物が積まれた荷車が置いてある点を見るとホームレスなのかもしれない。
 アレで良いかと雑に標的を定め、セリオンは大股で彼女の元へ歩いていく。女は彼の存在に気が付いていないのか、頭を上げる仕草すらせず自身の手を見つめていた。

「こんばんわ。良い夜でありますね」

 普段通りの軽い調子でセリオンは声をかける。

「僕、ボランティアで人の願いを叶えてるんですけど、興味ないでしょうか?」

 夜の公園でヘラヘラ話しかけてきた不審な男へ、やっと女は顔を向けた。

「……あー」

 視線が交わった途端、思わずセリオンは声をもらす。目の前にいる女の瞳には輝きがなく、表情からは生気が感じられない。どうやら彼女は天使病を発症しているようだ。
 彼は心の中で舌打ちする。天使病とは脳と魂が接触不良を起こす症状。セリオンが能力を使うには脳と魂の正常な繋がりが必要不可欠なのだから、このターゲット選びは大失敗だ。
 こんなミスをやらかすとは。自分は随分と浮かれていたのだなと、少しだけセリオンは冷静になった。

「願い……ぃ……?」

 一方、問われた側の女はガサついた音で返事を返そうとしている。ぎこちない口調から彼女の病状が根深いものであるのが分かった。

「あ、無いみたいですね。他を当たりますぅ」

 セリオンは露骨なほど早々にやり取りを切り上げる。楽しい気分が続いている内に次の獲物を探しに行きたかったのだ。
 これ以上話すことは無いとアピールするように、彼は素早く女性へ背中を向け、公園から立ち去ろうとした。

「どこ行くんだよ」

 そんな彼へ女の低い声が飛んでくる。同時に、ガシャンという複数のガラクタが崩れるような異音が響いた。
 面倒な奴に捕まったかもしれない。自分がちょっかいを出したのを棚に上げ、セリオンは心の中でぼやいた。ゆっくり振り向くと女がベンチから立ち上がっているのが目に入る。街灯の明かりを背に受けているため彼女の顔には暗い影が落ちていた。その手に握られていたのは、錆びた鉄パイプ。どうやら荷車に積まれていた物らしい。
 雲行きが怪しくなってきたのを知り彼は目を泳がせた。

「……えーと」

 今日は喧嘩したい気分ではないのだから、ここは穏便に、かつ迅速に事態を収拾したい。
 何か返事をするべきか、さっさと無視して逃げるか。次の行動を決めかねたセリオンだったが、そんな彼の迷いに構わず女は足を一歩前へ踏み出した。自然とセリオンは後退したが、それ以上彼女は近寄って来ない。

「行くの? 行かないの?」

 しかし、問いは続く。影に包まれた顔面では、妙に水気を含んだ瞳がギラついた光を反射させていた。

「…………」

 セリオンは無言で立ち尽くす。
 女から放たれている感情は、孤独。どうやら彼女は大事な誰かと別れ、そのことを深く悲しんでいるようだ。行かないでくれと、強く強く願っている。だからセリオンの足は止まってしまったが、歪な思念に彼を従わせるだけの力はない。

「……行くの?」

 更なる問いに、セリオンは口を閉ざしたまま頷く。
 答えを理解した女はガクリと頭を横に倒した。不思議がっているような仕草だが、その動きは突然すぎて首がもげたのかと錯覚させる。
 しばし、女はそのままでいた。が、やがてのろのろ頭の位置を戻すと、ゆらりとした動作で鉄パイプを動かす。反射的に身構えたセリオンだったが、彼女は自身の肩ほどの位置まで得物を持ち上げただけで攻撃してくる素振りは無い。
 女は視線を鉄パイプの先へ向け、口を開いた。

「……あそこに、孤児院がある、の」

 静かな園内にボソボソとした声が響く。

「そこに子供がいて、待ってるから……願いをかっ、叶えて、あげて」

 引きつるように言葉を一度詰まらせ、女は告げた。相変わらず表情が知れないが、なんとなく呆けた顔をしている気がする。
 変なことを言い出したものだと思いつつ、一応セリオンは再び頷く。

「……分かりました」

 まさか他の誰かの願いを叶えに行けと言われるとは考えもしなかった。これも天使病という病のせいなのだろうか。
 彼は鉄パイプが差した方角へ視線を向ける。その先には貧相なビルしかなかったが、確か脇道に入ってしばらく進むと小さな孤児院があったはず。今日は子供の相手をする気分ではないのだが、これも縁だ。行ってみるのも良いかもしれない。
 それにしても、「待っている」とは妙な言い回しだ。まさか自分のことを待っているわけではないだろうが、いったい何を

「っ!?」

 セリオンは女から意識をそらし過ぎていた。彼の鼻が異臭を感じ、作り物の頭脳へ違和感を伝達した頃には、彼女は既に目の前まで迫っていたのだ。咄嗟にセリオンは防御態勢を取ろうとしたが間に合わない。
 女は勢いよく鉄パイプを振りかぶると、彼の顔面へ全力で叩き付けた。鉄と鉄がぶつかり合う鈍い金属音が公園の空気を揺らす。
 なんで殴られたんだろう。当然の疑問を頭に浮かべながらも、セリオンは衝撃に抗い足を踏ん張った。おかげで転倒は免れたが、痛いものは痛い。
 抗議しようとした彼だったが、息を吸い込む間もなく女が怒鳴り声を上げる。

「もっと早く来いよおぉぉォぉ!!?」

 続いて矢継ぎ早に何かを喚いたが、その台詞は興奮のためか支離滅裂な有様で意味を成していなかった。

「すみませんっ」

 滅茶苦茶に鉄パイプで叩かれ、思わずセリオンは謝ってしまう。女から放たれる怒りの思念の氾濫は彼を圧倒するのに十分な威力を持っていた。天使病を発症した者が爆発させる制御されない感情は、彼にとって凶器も同じだ。
 何が何だか分からないままセリオンは自身の頭を庇って公園から退散する。女が追ってくることはなかったが、苛ついたような甲高い奇声がしばらく周囲に響き渡っていた。


「いてて……」

 顔に出来た傷を撫で、セリオンはトボトボと路地を歩いている。楽しい気分でいたはずなのに、今やすっかりどんよりした気持ちでいた。浮かれすぎた彼の自業自得なのだが、当の本人は天使病に対する恨み言をブツブツ呟き続けている。

 視界の中に孤児院が見えてきた時、やっとセリオンの呪詛は止まった。別に先ほどの女の頼みをきく義理はないし、正直なところ無視してやりたいくらいだったが、どうも「待っている」という発言が心に引っかかり、結局足を運んでしまった。

 孤児院の閉ざされた門の前で彼は立ち止まる。時刻が夜間のため二階建ての建物は静まり返っており、明かりが灯っている部屋も見当たらない。
 周囲に人気がなく、警備装置の類もないのを確認すると、セリオンは身軽な動作で門を乗り越えた。音を立てず地面へ着地し、素早く壁の影へ張り付き身を隠す。誰にも見られなかったのに確信を持つと、彼はゆっくり目的地へ向かって足を進めた。広めの、しかし子供達が運動するには狭すぎる庭を横切っていく。
 まるで泥棒だ。ふとそんなことを考えてしまい、セリオンは歪んだ笑みを浮かべる。トラブルを好む彼はルールを破るのに快感を覚えるタイプだった。もちろん正義の宗教団体に所属している以上、積極的に法律違反を犯すわけにもいかないのだが。

 人目につかないよう裏手へ回り込むと、セリオンは改めて孤児院を眺めた。コンクリート製の古びた建物が無機質に彼を見下ろしている。
 いったい、この中にどんな秘密が隠されているのか。セリオンはワクワクしながら目を閉じ、内部にいる人々の思念の流れを読み取っていった。

「おや」

 複数の人物が覚醒状態なのに気が付き彼は小さく声を上げる。更に様子を探ると眠っているのは大人だけで、子供は全員起きているのが分かった。どうやら子供達は一つの部屋に集まって何か会話をしているようだ。
 それ以上の情報は読み取れずセリオンは集中を打ち切った。人の気配がする二階を見上げ、しばし無言で考える。女が言っていた通り、子供達は誰かを待っているのだろうか。

 再度、彼は周囲をうかがった。継続して誰もいないのを確認すると、足に力を込め一気に跳躍する。そのまま、あっという間に屋根まで飛び上がり無音で着地した。用心のため四つん這いの体勢になり、ネコのようにしなやかな動きで器用に屋根を移動していく。
 目的の部屋の上まで到達すると、セリオンは逆さの体勢で窓を覗き込んだ。察知していた通り複数の小柄な人影がおり、一か所に集まって小声で話し合っている。天眼の青白い光に照らされた彼らの顔には一様に不安の色が見えた。
 暗い雰囲気。しかし泣き声は聞こえないため緊急事態ではないらしい。話の内容が分からないだろうかと、彼は長い耳をそばだてようとした。

「あ」

 その瞬間、人影の一つと目が合う。あちらも「あ」と言ったようで、僅かに口を動かし驚いた表情になったのが分かった。
 マズい。そう判断しセリオンは頭を引っ込めようとしたが、それより先に人影は猛スピードで彼の方へ走り寄ってきていた。力一杯に窓を開き、嬉しそうな声を上げる。

「誰っ!? おじさん!?」

「ふぎゃっ!?」

 勢いよく開いた窓枠はセリオンの鼻先を直撃した。思わず彼は自身の鼻を押さえる。

「うわぁぁっ、ごめんなさい!!」

 一方、加害者側は咄嗟に謝った。突然現れた真夜中の訪問者へ偶然ダメージを与えてしまった少年は、どうすれば良いか分からずひたすらオロオロしている。
 そんな彼の行動は同室の子供達にも伝わり、興味深そうな声が部屋のあちこちからもれ聞こえた。

「え、何!? 誰!?」

「おじさん来たの!?」

「お前らうるさいってっ」

「静かに!」

 興奮をいさめる囁きは、たぶん年長の子供のものだろう。

「いてててて……」

 耳に届く様々な声を聞きながら、セリオンは自身の鼻を慰めていた。今日は顔を攻撃される日なのか。
 文句の一つも言ってやろうかと、彼は自分に衝撃を与えた子供を睨む。

「……?」

 しかし当の少年がポカンとした表情で自身を眺めているのに気付き首を傾げた。先ほどまで動揺していたというのに、今は信じられないものを見たかのように驚愕した顔つきでいる。
 数秒、二人は見つめ合っていた。先に口を開いたのは、少年。

「……お、落ちちゃうっ! 落ちちゃうよぉっ!」

 大声を上げるなり両手でセリオンのマフラーを掴む。

「えっ」

 首を引っ張られる形になったセリオンの口から困惑の音が出た。なんだ、と感じた瞬間己の失態に思い当たる。彼は鼻へ意識を向けるあまり、自身の体勢がどうなっているか忘れていたのだ。
 両手で鼻を庇ったことでセリオンの身体は支えを失い、すっかり屋根からずり落ちてしまっていた。幸い、飛行能力を持つ彼は落下を免れていたが、そんな事情を知らない少年から見れば、不審な男が奇跡的なバランスで屋根に引っかかっているように見えたのだろう。

「皆ぁ! 助けてぇ!」

 マフラーを掴んだ少年はセリオンを助けようとグイグイ引っ張った。

「いや、ちょっ……!」

 慌ててセリオンは制止を求めたが子供達はどんどん集まってくる。

「わ! 大変だ!」

「引っ張れ引っ張れ!」

「大丈夫ですか!?」

「やっ……やめ……っ」

 多数の子供に首を締め上げられセリオンの声は言葉にならない。息が出来なくても死にはしないが、首には重要な機能が詰まっているのだから乱暴な扱いはやめて欲しい。彼は強引に振り払おうとしたものの、その勢いで子供が窓の外へ転落する可能性が頭を過り身動きがとれなくなる。
 もうどうにでもなれ。そんな気持ちになってきて、セリオンは抵抗するのをやめる。おかげで子供達の救助活動はスムーズに進み、彼はズルズルと屋内へ引きずり込まれていった。


「……ありがとうございます」

 成り行きのまま孤児院に侵入してしまったセリオンは、自身を部屋へ招いてくれた子供達へ礼を言う。
 対して、招いた側の子供達はチラチラ彼の方を見て小声で話し合っていた。

「どうしよ……」

「先生呼ぶ?」

 一様に困った顔をしている。とりあえず助けたものの、夜中に自分達の部屋を覗きこんでいた不審者をどうすれば良いか皆目見当がつかないのだろう。
 良い子達だなぁと思いながら、セリオンはマイペースに部屋の中を見渡す。複数のベッドが置かれた大部屋は、古びてはいるが貧相な印象はなかった。物が多いため散らかって見えるが汚れているわけではない。彼は平均的な孤児院の内装を知らなかったが、たぶん子供達は、それほど惨めな生活を送っているわけではないのだろう。
 治安の悪い地域の孤児院にしては頑張っている方ではないか。上から目線の評価を勝手に下していたセリオンだったが、そんな彼へ向かって生意気そうな顔つきの少年が近寄って来た。

「なぁなぁ、おっさん泥棒?」

 無遠慮に問いかけてくる。どうやらセリオンに対する好奇心が抑えられなくなったらしい。

「ここ、お金なんかないよ?」

 次に声をかけてきたのは、先ほどセリオンの首を折りかけた、もといマフラーを引っ張って助けようとしてくれた少年。二人とも物怖じしない性格なのか、怯えた様子もなく軍服姿の男を見上げていた。
 さて、どう答えたものかとセリオンは考える。

「えーと……」

 悲鳴を上げられ騒がれるよりマシだが、これはこれで面倒くさい。

「いえ、泥棒ではないです」

 とりあえず疑惑を否定したが、すぐさま次の質問が飛んできた。

「じゃあ変質者ー?」

 生意気そうな少年のヘラヘラした口調を受け、ちょっとだけセリオンは意地悪な笑みを浮かべる。

「まぁ、そんなところでありますね」

 マフラーを引っ張った少年は不安そうな表情で尋ねた。

「え、悪い人なの?」

 その問いを聞いたセリオンは茶目っ気たっぷりにウインクして見せる。

「悪くない方の変質者です」

 二人の少年は不思議そうに顔を見合わせた。

「……どういうこと?」

「分かんね」

 眉間にシワを作って悩んでいる少年達を、セリオンは微笑ましい気持ちで見下ろしている。人の欲望へ過敏に反応してしまう彼は子供の心が放つシンプルな感情が大好きだ。
 大人しくしているセリオンを安全だと判断したのか、他の子供達も少しずつ彼の元へ集まりつつあった。部屋にいる人数は十人ほどだが、さすがに不審者へは警戒した視線を向けている。
 しばし、セリオンは己を対象とした様々な感情を楽しむ。すっかり上機嫌になった彼へ次に話しかけてきたのは、不審者への対応を話し合っていた年長の子供だった。

「あのぉ……何か用ですか?」

 子供達のリーダーらしい少年が、おずおずとセリオンへ問いかける。さっさと大人へ知らせにいかないところを見ると優柔不断な性格なのかもしれない。

「……用、というか」

 問われた側は応じようとしたものの、繋ぐべき台詞は口の中で消えてしまう。さて、この質問も答え辛い。ホームレス風の女から話を聞いて、気が向くままにやってきた、などと言えば警戒を煽るだけだ。
 部屋中の子供達は無言でセリオンを注視し、回答を待っている。好奇と不安が交じり合った青い興奮は彼の心を強くくすぐった。

「君達が待っている件について、なのですけど」

 頬がヒクつくのを抑え、なんとかセリオンはそれだけ言う。彼の言葉に顔を輝かせたのはマフラーを引っ張った少年だった。

「……もしかして、おじさんの知り合いなの?」

 その問いが響いた途端、至る所から期待の感情が向けられたのをセリオンは察知する。
 おじさん、というのはここに来てから何度か聞いた単語だ。子供達はおじさんと呼ばれる人物へ深い親しみを持っているらしい。

「いえ、知り合いではありません」

 正直にセリオンが答えると部屋が落胆で溢れかえった。その様子が少々過剰な点から、どうやら子供達がおじさんとやらを非常に気にかけているのが分かる。

「……君達がこんな時間まで起きていたのは、おじさんを待っていたから、ですか?」

「はい……」

 セリオンの推測は当たり、リーダーの少年がうつむき加減で頷く。

「その方は、どういった人なのでしょう?」

 更にセリオンが尋ねると、部屋のあちこちからポツポツ声が上がった。

「優しい人ー」

「オモチャくれる人ー」

「社長ー」

 そのまま、彼の耳にはおじさんに関する様々な話がワイワイと流れ込んでくる。それらを整理すると、件のおじさんはどこぞの会社の経営者で、孤児院を金銭面で援助している人物、というのが分かった。
 しかし、そんなおじさんに何かあったらしい。

「……おじさん、なんでパーティに来なかったんだろ」

 不満げに呟いたのは生意気そうな顔の少年。彼の発言をきっかけに、温まりつつあった空気は再び冷たく沈んでしまった。
 パーティ、と言われセリオンの頭を過ったのは聖人の誕生日。毎年冬に行われる行事で、なぜか無宗教の人々まで盛り上がってご馳走を食べたりプレゼントを贈り合ったりする。このイベントが、確か最近だったはずだ。パーティとはそれのことだろう。
 再び周囲には囁き声が広がる。

「病気かなぁ」

「先生は違うって言ってたよ」

 子供達が浮かべる不安そうな顔は、セリオンが窓から覗いていた時の表情そのものだった。こんな時間まで、毎晩子供達はおじさんを待っているらしい。おじさんの人気ぶりがうかがえる。
 つられて寂しい気持ちになってしまったセリオンだが、彼の横に立っていた生意気そうな少年はブスっとした口調で言い放った。

「あーあ、プレゼント欲しかったなー」

 少年の発言を聞いた数名の子供がうんうんと頷く。一部の子供はおじさんの安否が心配というより、プレゼントがもらえなかったのが不服だったらしい。

「おやおや……」

 セリオンの赤い瞳が歪む。子供達の間に瞬時に広がった欲望は彼の気を引くのに十分な量だ。
 そういえば、自分は願いを叶える対象を探してさ迷っていたのだった。当初の目的を思い出したセリオンは、目の前に並んでいるのが丁度いい獲物であるのを理解する。

「……では、代わりに僕がプレゼントをあげましょうか?」

「え?」

 優しげなセリオンの声を聞き、生意気そうな少年が怪訝な表情になった。

「実は僕、良い子のところに現れて願いを叶える精霊的なアレなんですよ」

「…………」

 突拍子もないことを言い出した男の顔を少年は無言で見上げている。妙に響く彼の台詞は部屋中に届いており、子供達の小さな会話はピタリと止んでいた。
 ゆっくりと、心へ染み込ませるように、セリオンは己の言葉を紡いで聞かせる。

「君達は良い子ですから、君達の願いを叶えてあげましょう」

「…………」

 観衆は皆、何も言わなかった。ポカンとしている者、改めて警戒心をにじませている者、様々だ。
 いくら子供といえど、こんな都合の良い話をすんなり信じる者はいないだろう。当然の反応に気を悪くすることもなく、セリオンはマイペースに自身の主張を押し通していく。

「あ、一人一人別の願いだと大変なので、皆で一つにしてくださいねー」

 言うなり大きく手を広げ、子供達が部屋の中心へ集まるよううながした。大柄な成人男性の迷いない動きに子供達は成されるがまま誘導される。

「本当かな……?」

「いや、絶対嘘だろ……」

「やっぱ先生起こした方が……」

「どうしよう……?」

 戸惑った顔で囁き合っているが、大声を上げて騒ごうとはしない。それは内心では願いを叶えて欲しいから、ではなく、セリオンが既に彼らへ呪術を使用し行動を制限しているからだ。対象へ魅力的な台詞を聞かせ、大袈裟な身振り手振りで自身へ意識を集中させた彼は、いとも容易く子供達の魂へ接触するのに成功していた。呪術の使い手であるセリオンにとって子供の未熟な思考を操ることなど朝飯前だ。
 しかし、絶対的な支配下に置いたわけではない。願いを叶える凶星を核としているセリオンの体質上、抵抗されれば術は簡単に解けてしまう。

「さぁ話し合って話し合ってぇ」

 くれぐれも警戒されないようにしなければ。そう考えながらも、セリオンのワクワクは止まらなかった。哀れな獲物が罠に掛かるのを手ぐすねを引いて待っている気持ちで、彼は子供達の回答へ耳を傾ける。
 子供達はチラチラとセリオンへ視線を向けつつも意見を出し合っているらしかった。不穏な感情が頭をもたげる度にセリオンは空気を撫でる仕草をし、思念の変化を調整する。
 時間にして数分ほど。皆の意見をまとめたリーダー格の少年が怖々とした調子で、自称願いを叶える精霊的なアレの元へ歩み寄って来た。

「……願いを、叶えてくれるんですか?」

 改めての問いかけに、セリオンはニコリと微笑む。

「はい。なんでも」

 彼の返事を聞いた少年は一度目を伏せ口ごもった。

「それなら……えぇと……」

 言葉を迷わせつつ背後を見る。自身の後ろにいる子供達が早く言えというジェスチャーをしているのを確認すると、慌ててセリオンへ向き直った。やはり気の小さい性格のようだ。
 少年は緊張を鎮めるように深呼吸すると、上目遣いで正面の男を見据え、数度の逡巡の後、やっと口を開いた。

「……おじさんの様子を、見てきてもらえませんか?」

「へ?」

 一瞬何を言われたか分からなかったセリオンは間抜けな声をもらしてしまう。

「それで、もし病気だったら……治してあげてください……」

 少年は一生懸命に告げると、お願いしますとでもいうように頭を下げた。

「…………」

 呆気にとられてセリオンは少年の後頭部を見下ろしていたが、その視線はぎこちなく子供の集団へ向けられる。切実そうな者、不満そうな者、未だ警戒している者と、皆が様々な感情を抱いていた。しかし異を唱える者はおらず、この願いが満場一致の意志であるのが伝わる。

「はぁー……」

 呆れのような感服のような、複雑な意味を持つ溜息をセリオンは吐き出した。子供達は彼の態度の理由が分からなかったのか、戸惑った顔で動向を注視する。

「……君達、本当に良い子ですねぇ」

 やがて、セリオンはそれだけ言う。短い言葉に含まれた意図を多くの子供は理解できなかったが、年長であるリーダーの少年にだけは伝わったらしく、彼は安堵した様子で頬を緩めた。
 セリオンは赤い視線を動かし、子供達全員へ問いかける。

「皆、この願いで良いのですか?」

 小さく賛同の声を上げる者や頷く者だけで、やはり否定する者はいない。生意気そうな少年でさえ仕方ないなと言いたげに頷いている。
 その有様を見て、彼は再度溜息をついた。今日は変な願いばかりされるなと、ちょっと面白くも感じている。

「……分かりました。君達の願いを叶えましょう」

 正式にセリオンが宣言すると、子供達は慎ましい歓声を上げた。


 良い人になった気分を堪能すると、セリオンは再び夜の街へ飛び出していった。
 時刻は既に深夜。寂れた街並みはひっそり静まり返っていたが、路地裏に出来る深い闇には絶えず人の気配があった。彼は向けられる悪意を無視し、ひび割れた歩道を踏みしめていく。
 セリオンは子供達から得た情報を元に、おじさんが経営している会社へ向かって歩いていた。こんな時間に人がいるとは思えないが、かといっておじさんの自宅を知る術もない。とりあえず会社の場所だけでも確かめておくか、くらいの気持ちだったのだが。

「ん?」

 件の会社が遠目に見えてきた時、その建物の二階に明かりが灯っているのに気づいた彼は首を傾げる。随分と仕事熱心だなと感じた瞬間、セリオンの中へ焼けつくような焦りの感情が流れ込んできた。

「……っ」

 突然の強烈な感覚に、思わず彼は眉間にシワを作る。流れ込んだ感情は命の危機を感じている生き物のそれであり、明らかに平常なものではなかったのだ。
 あの建物の中で何かが起こっている。反射的にセリオンは周囲をうかがい、足音を忍ばせた。近くに人影はなかったが、これが吉と出るか凶と出るか。

 不自然にならない程度に距離をとり、彼は会社の周りを歩き回り内部を探った。古びた建物の中から感じ取れるのは一つの生命反応だけだが、その人物は絶えず緊張し、現状から逃げ出したいと願っている。
 それを認識した途端、セリオンは無自覚のままフラフラと会社の方へ歩み寄ってしまった。願いを叶えることを本能とする彼は、激しい意思の力を察知すると叶えたくて仕方なくなってしまう。

 ついに門の前まで移動してしまったセリオンは光がもれる二階の窓を無言で眺めた。カーテンで閉ざされているため中をうかがい知ることはできないが、時折人影が移動しているのが確認できる。
 内部にいるのは、おじさんか、その他の誰かか。セリオンは小さな音を立てて地面を蹴り、明るい窓へ向かって真っ直ぐに浮かび上がった。窓の僅かな凹凸へ指をかけると、無理やり壁に張り付く格好になる。光へ吸い寄せられたかのような姿は巨大な蛾にも似ていた。

 セリオンは窓へ顔を押し付ける。カーテン下部の隙間から見えたのは、書類が散乱した床。何者かは部屋の中に書類を巻き散らしながら絶えず右往左往しているらしかった。積み重なった紙のせいで時折足を滑らせそうになっていたが、それを気にする素振りもない。よほど慌てているようだ。
 一番最初にセリオンが思い浮かべた可能性は、泥棒。

「ふーむ……?」

 しかし、こんなに憔悴して部屋を荒らす泥棒というのも奇妙だ。それに、夜間に忍び込んでおいて部屋の明かりをつける泥棒がいるだろうか。
 しばらく考えていたセリオンだったが、彼の興奮は徐々に高まっており、冷静に思考できない状態になりつつあった。窓の向こうにいるのが誰だろうが、願いを叶えてやりたくて仕方なくなってきていたのだ。今すぐにでも、会いに行きたかった。
 まぁ、泥棒であれば見過ごすわけにはいかない。都合よく善き市民的思想を持ち出すと、セリオンは笑顔で窓ガラスを叩き割った。ロボットである彼の腕力の前に一般建築物のガラスなど無力だ。

「ひゃぁっ!?」

 当然、中からは驚きの声が上がった。その音で部屋にいるのが男性なのが分かる。
 セリオンは意気揚々とガラスに出来た穴へ手を突っ込み窓の鍵を開けた。慣れた動作で窓を開け放つと、無理やり身体を突っ込み屋内へ侵入する。部屋には暖房がついているようで暖かな風が彼の鼻先に触れた。

「よいしょっ……と!」

 転がるように床へ着地すると、セリオンは素早く立ち上がる。無意味にポーズを決めた彼へ向けられる視線は、一つ。

「だだだ誰だ!?」

 突然の不審者の登場に驚きを隠せないのは中年の男。彼は手に持った書類を握りしめ立ち尽くしていた。
 誰だ、というのは当たり前の質問だ。しかし問答を想定していなかったセリオンは、とりあえず自身の頭に浮かんでいた台詞を口走ってしまう。

「……泥棒!」

「どっ、泥棒だとぉ!?」

 答えを聞いた中年男性は狼狽した顔つきになった。
 彼の反応を見たセリオンは、これでは自分が泥棒だと宣言したみたいじゃないかと我に返る。

「……貴方、泥棒ー?」

 彼は男の方へズカズカ歩み寄り己の疑問を繰り返した。セリオンの黒いブーツが床に散らばる紙を汚す。
 中年男性は軍服姿の大柄な男に詰め寄られ自然と後退していった。

「ひえぇ!? いやっ、違うぞ!?」

 そう広くない部屋の中で、彼はあっという間に壁際まで追いやられてしまう。
 縮こまり怯えている男の顔をセリオンは覗き込む。対象の動揺しきった心の中に偽りがないか、無言で探った。

「……なぁんだ」

 どうやら嘘は言っていないようだ。ちょっとガッカリして彼は顔を離したが、見つめられていた男は困惑したまま固まっている。
 いきなり見ず知らずの男が間近まで迫ってくれば、こうもなるだろう。他人事の感想を述べつつも、彼が犯罪者でないと確信を持てたセリオンは改めて部屋の中を見渡した。目立つのは年季の入った大きな机。中央には来客に対応するための机と椅子が置かれている。部屋の両脇にはこれまた年季の入った棚が並んでおり、中には手書きでタイトルが書かれた太いファイルが並んでいた。必要な物しか置かれていない質素な部屋だが、みすぼらしくは感じない。長年大事に使われてきたのだろう。

 だからこそ、床に散乱する幾多の書類が非常に気になった。現状の有様から見ても、紙を散らかした元凶は目の前の男の可能性が高いように思える。
 いったい何の目的で。いや、そもそもこの男は何者なのか。未だ様々な疑問が解決していないセリオンは平然と質問を重ねる。

「では、貴方は誰です?」

「誰って……」

 問われた男は戸惑ったように言葉を迷わせる。僅かな沈黙が続いたが、彼は誤魔化しの言葉を選んでいるわけではない。この数分の間に起こった色々な現象に、中年男性の脳はついて来れていないのだ。
 やがて無音は途切れ、男は困った表情で己の身分を明かす。

「私は、ここの経営者なんだが……」

 まさか自分の会社で自分の立場を尋ねられるとは思っていなかったのだろう。戸惑うのも無理はない。
 目の前にいるのが目的の人物なのを知ったセリオンは嬉しそうに赤い瞳を歪ませた。

「あ! 貴方がおじさんですかぁ」

「お……おじさん……?」

 面識のない男におじさん呼ばわりされ、中年男性もとい社長は目を白黒させる。
 そんな彼の混乱を余所に、すっかりセリオンのテンションは高まっていた。紆余曲折の末にたどりついたのが、こんなにも大きな感情を持て余している人物だとは嬉しい誤算だ。子供達の願いはおじさんの様子を見てくることだったが、おじさんの願いを叶えるのも様子を見ることに含まれるだろうと、彼は勝手な自論を展開する。

「あのですね、僕、貴方の願いを叶えに来たのですよ!」

「え……はぁ……?」

 元気に言い放ったセリオンとは対照的に、社長は呆気にとられた声をもらすばかりだ。

「貴方、困っているのでしょう? 僕が助けてあげます!」

 セリオンは勢いのまま楽し気に宣告すると、男の肩をがっしり掴む。

「さぁさぁ、座って座ってー」

 彼は獲物を強引に来客用のスペースへ誘導していった。社長は何度か困惑の声を上げていたが、さしたる抵抗もせずセリオンの動きに従う。この状況で成人男性が逆らわない点から見て、彼の精神が相当疲弊しているのが察せられる。実に手頃で魅力的な相手だ。
 心の中で舌なめずりし、セリオンは社長を椅子へ座らせる。いそいそと自身も対面の椅子へ腰かけると、再度赤い瞳を正面の男へ向けた。見据えられた側は未だ混乱が収まっていないようだが、それでも逃げ出そうとする素振りはなく、強張った表情で自身が握った書類を見つめている。

「で? 願いは何です?」

 ワクワクしながらセリオンが問いかけると、社長はビクリと身体を震わせた。ぎこちない動きでセリオンを見て、ニヤリと微笑む顔を確認し、慌てて視線を下げる。
 寒いから早く言ってくれないかなと、若干焦れつつセリオンは考えてしまう。室内にいるのに寒いのは彼が窓ガラスを割ったせいなのだが、当の本人は悪びれる気配もない。
 ガラスの穴から冷たい風が入り込み、散らばる紙が揺れた。いつまで経っても暖かくならない室温に業を煮やしたのか、黄ばんだエアコンが大きな音を立てる。
 やっと社長が口を開いたのは、床で揺らめく紙をセリオンが視線で追い始めた頃だった。

「私の……願いは……」

 改めてセリオンが対面を見ると媚びた笑顔の男が目に入る。なんだか雰囲気が変わったように見えるが、これが彼の本来の姿なのだろう。
 社長は儀礼的にペコリと一度頭を下げると、握っていた書類をセリオンへ差し出した。

「何も言わずに、これへサインしてくれ!」

 不思議な願いにセリオンはキョトンとする。

「……?」

 とりあえず彼は社長から紙束を受け取り、ざっと内容に目を通す。そこに書かれていたのは、下記の者に会社を譲る、という内容だった。下記の者、に該当する人物の名前は空欄になっている。
 意味が分からずセリオンは首を傾げたが、更に不自然なのが日付が去年になっている点だ。つまり、書類へセリオンが名前を書けば、この会社の責任者は去年からセリオンだった、ということになる。

「……あのぅ」

 何これ、と聞きたかったセリオンだが、尋ねられそうになった側は有無を言わせず同じ台詞を繰り返した。

「何も! 言わずに!」

「…………」

 そう命じられればセリオンは従うしかない。不審な点は多かったが、願われれば叶えずにはいられない彼は、言われるがまま書類にサインしてしまった。

「……こうでありますか?」

 未だ納得いかない気持ちを抱えたまま、セリオンは書類を社長へ返す。男は難しい顔で書かれた内容をチェックしていたが、最後の行まで確認し終えた頃には明るい表情に変わっていた。

「……ああ! ありがとう!」

 やたらテンション高く礼を言うと勢いのままセリオンと握手する。振り回される腕を眺めたセリオンは、どうやら自分は罠にはまったらしいと自覚していた。男の挙動から伝わってくる安堵感には僅かな焦りが含まれている。その感情は、人を騙し一時の安寧を手に入れた者が、騙した対象が真実に気付くのを恐れている時のそれだった。
 しかしセリオンは真実を知りながらも、怒りもしなければ困りもしていない。強烈な願いを叶えた彼の心に広がっていたのは爽快感ばかりだ。この感覚が気持ちよくて、ついついセリオンは誰かの願いに引き寄せられてしまう。

「いやぁ、助かったよ! ちょうど誰かに会社を譲ろうと思っててね」

 元社長は不自然さを勢いで誤魔化そうとしているが、どう考えても隠しきれていなかった。
 だがセリオンは人の持つ狡猾さが嫌いではない。

「……お役に立てて何よりです」

 セリオンの顔は無意識の内にニヤけていった。その理由を知らないまま、元社長もニヤけた表情を浮かべ手を離す。上手くいったと思っているのがありありと伝わる、実に子悪党的な表情だった。
 子供達には慕われているようだが、治安の悪い地域に住んでいる大人というのは、しょせんは人を食い物にして生きながらえている人物ばかりなのかもしれない。

 わりと冷静に考えていたセリオンだったが、子供達の姿を回想したのが切っ掛けで疑問を抱く。子供達はおじさんが来るのを待っていたのに、どうして彼は孤児院のパーティに現れなかったのだろう。
 聞いてみたいが、聞けば孤児院に不法侵入したのを明かすことになる。いくら無鉄砲なセリオンでも、信用できない人物に犯罪行為を公表しようとは思えなかった。
 何か上手い誤魔化し方はないだろうか。

「んー……」

 考え込んでしまったセリオンの様子を、当のおじさんは引きつった顔で眺めている。恐らくセリオンが余計なことを探って来ないか警戒しているのだろうが、既に彼は余計なことに気付いている上、更に余計なことを探ろうとしていた。

 男達が無言になってしまい、部屋には再び沈黙が訪れる。ガラスの穴を通る隙間風の微かな音すら二人の耳には届いていた。
 そんな状況だったため、遠くから車の走行音が響いてきた時、なんだかセリオンは意外に感じてしまう。元社長も同じ気持ちのようで、窓の外へ向けた彼の目は大きく見開かれていた。
 静まり返った深夜の空気を揺らすそれは不吉な怪物が迫りくる足音にも聞こえる。コンクリートを走るタイヤの音は段々と大きくなり、やがて会社の前の道路に至った。

「……おや」

 その速度が徐々に落ちたのに気づいたセリオンは不思議そうな声を上げる。ついに車の動きが止まった時、不吉な予感が当たったのを彼は理解した。窓の外に光るヘッドライトの位置から見て、車は会社の前で停車している。
 こんな時間にやってくる訪問者が真っ当な人物のはずがない。彼が元社長へ視線を向けると、男は慌てて顔を背けた。どうやら深夜の来客は罠の一端らしい。

 仕方なくセリオンは思考を切り替える。これから何が起こるか見当もつかないが、個人的な興味を探求している場合でないのは確かだ。
 おじさんを問い詰めるか、車の人物を確認するか、いっそ逃げてしまうか。様々な選択肢を模索していた彼だったが、結局その場に留まることを選んだ。元社長から放たれる願いの意志がセリオンが留まるのを望んでいたから、というのもあったが、一番の理由は彼の純粋な好奇心だった。基本的に自分の身の安全に疎いセリオンは、この素人芸の罠の先に何があるのか、ただただ見てみたくなったのだ。

 彼が考え込んでいる間に外の光は消失していた。次いで聞こえたのは車のドアが開けられる音と、間を置かず閉じられる音。隠そうともしない一人分の足音が会社の玄関まで進み、鍵を操作するガチャガチャという音が聞こえてくる。

「はてさて」

 どうなることやら。上機嫌なまま、セリオンは椅子からフラリと立ち上がった。

「あ、ちょっと!」

 彼が逃げようとしているとでも思ったのか、対面の男は焦った声で呼び止める。つられて椅子から腰を浮かせてしまっている彼へ、セリオンは楽し気な笑みを浮かべて見せた。

「僕は社長なのですから、お客さんをお出迎えしないといけませんよね?」

「へ……?」

 言葉の真意を測りかねたのか、元社長はポカンとした表情になる。

 二人が白々しいやり取りをしていたのは数秒ほどだったが、玄関の鍵は呆気なく開錠したらしく、会社の一階には何者かが侵入した気配があった。侵入者が部屋を物色する様子はなく、その足音は一直線に階段へ、つまり二人がいる二階へ向かってきている。
 侵入者は一人。鍵を持っている点や忍ぼうとしない動きから見て、物取りではないだろう。会社の間取りを把握しているのだから関係者の可能性すらある。用があるのは、たぶん社長。
 ここ数分の状況から素早くセリオンは推理する。そして当の社長が自身であるのに思い至り、なんとなく事情が読めてきた気がした。

 彼は自然な仕草で室内を移動し、侵入者が現れるであろう扉の前へ仁王立ちになる。のこのこついてきた元社長は緊張と媚が入り混じった顔でセリオンを見て、続いて扉を見た。
 二人の男が見つめる扉。その先では、何者かが荒々しい足音を立て階段を上り終える気配があった。わざと大きな音を立てているのは聞く者を脅かそうという魂胆もあるのだろう。
 これから現れるのは穏やかな人物ではなさそうだし、穏やかな要件でもなさそうだ。面倒事の予感しかしない状況だが、テンションの上がっているセリオンはどこ吹く風だった。なんとなくセリオンが元社長へ視線を向けると、動作に気付いた男も彼を見る。

「…………」

「…………」

 セリオンが「分かってるぞ」と言いたげにニタリと笑うと、元社長は「参ったなぁ」と言いたげに苦笑いを返す。
 そのまま、二人は何も言わずに扉へ視線を向け直した。


 少しの間を置いて扉は乱暴に開け放たれる。現れたのは一人の男で、予想通り粗野な印象を受ける人物だった。

「お……っ!?」

 何か怒鳴ろうとした男だが、目の前に軍服を着た大柄な男が立っているのを見て台詞を飲み込む。不意を突かれる格好になった彼は目をパチクリさせていたが、そう時間は置かず我に返った。

「だっ、誰だテメェ!?」

 セリオンを用心棒とでも思ったのか喧嘩腰になって身構える。溢れんばかりの警戒心をにじませた彼へ向かい、用心棒もどきは元気に自己紹介した。

「僕はここの社長であります!」

「はぁ!?」

 予想外の状況で予想外の返事をされ、男は意味のある台詞を返すことができない。
 呆気にとられた様子を好機とみたのか、セリオンの陰に隠れていた元社長が素早く男へ歩み寄った。

「そうなんだよ! 彼が社長!」

 馴れ馴れしい態度で男の隣に並び、先ほどセリオンが名前を記入した書類を見せる。

「ほら! ねっ? 去年から! ね!?」

「お、おう……」

 グイグイ紙束を押し付けられ、困惑状態の男は成されるがまま書類を受け取ってしまう。
 ぎくしゃくと内容へ目を通している彼をろくに確認せず、今度は元社長は異様に明るい調子でセリオンへ声をかけた。

「じゃ、そういうことだから! 後はよろしく!」

 早退する上司のごとく言い放つや否や、元社長はバイバイとでも言うように手を振り、軽快な足取りで部屋から出て行ってしまった。

「はーい」

 何をよろしくすれば良いか分からなかったが、とりあえずセリオンもバイバイして彼を見送る。
 そんな芝居じみた雰囲気の中、一人空気に馴染めていなかった人物が居心地悪そうに咳払いした。セリオンが彼へ視線を戻すと、男は不機嫌な顔で腕を組みたたずんでいる。既に書類は読み終えたのか、用済みになった紙は雑に握りしめられクシャクシャになっていた。

「……お前が、社長なんだな?」

 男はガラの悪い目つきで自称社長を見据え、低い声で問いかける。

「はい」

 自称社長は素直に頷いた。それを見た男は、なぜか呆れた様子になって舌打ちする。彼は渋い表情になりながらも、セリオンへ向かって無情な台詞を告げた。

「……なら、俺はお前を殺さなきゃなんねぇ」

「えー?」

 セリオンは意外そうな声を上げたが、その間の抜けた口調に恐怖はまったく含まれていない。危害を加えられる系の何かが起こるのだろうなと、薄々予感はしていたのだ。
 しかし、理由が分からない。いや、絶対に元社長が何かした結果なのだろうが、もう少し今の状況には説明が欲しいところだ。

「なぜでありますか?」

 きょとんとした顔で首を傾げた彼を見て、男は面倒くさそうに溜息をつく。

「……お前、あいつに騙された口だろ?」

 あいつというのは、そそくさと姿を消した人物を示しているのだろう。

「まぁ、そんなところです」

 平然とセリオンが肯定すると、男はもう一度溜息をついた。

「やっぱりな」

 やれやれと言いたげな彼の態度を観察していたセリオンは、さっきから気になっていた疑問を口にする。

「あの人、何かしたのですか?」

 その質問へ男は苛立ちを覚えたようだが、すかさずセリオンは呪術の力を流し込む。途端に男の心から怒りの芽が摘み取られ、彼の表情は若干和らいだ。

「……話すと長くなるんだが」

 男は姿勢を正すと、考える仕草をしつつ状況を解説し始める。

「早い話が借金だな。会社が経営難になって、俺のボスから金やら何やら、色々借りたんだ。ちなみに、この建物も元々ウチのボスのもんだ」

「ほうほう」

 だから男は鍵を持っていたのかとセリオンは合点した。間取りを把握していたのも、以前から何度か会社を訪れていたからなのかもしれない。
 男は再度腕を組み、苛ついた表情でぼやく。

「で、その借り方がえげつなくてな……しかも期日までに返せないとか言い出しやがってよぉ」

「それで貴方が社長を殺しに来た、と」

 先へ続くであろう台詞をセリオンが代弁すると、男は小さく「ああ」と答えた。
 やっと事態が把握でき、セリオンはすっきりした気持ちになった。セリオンが会社を訪れるきっかけとなった、命の危機を感じさせる願いの原因。それが借金であり、目の前の男だったのだ。
 同時に、おじさんが孤児院に現れなかった理由も判明した。いたって単純に、会社が火の車でそれどころではなかったからだ。子供達へのプレゼントを買う余裕すらなかったのかもしれない。

 一人納得しているセリオンを男は不審げに眺めていたが、苛立った態度は崩さないまま台詞を続ける。

「……お前は、去年からここの社長らしい」

 持っていた紙束を軽く持ち上げ証拠をアピールした。

「あいつが金を借りた時期から考えると、あいつはお前の指示で借金したってことになる。だから」

「僕の命で落とし前をつけるってことですね」

 再びセリオンが先回りして代弁する。平然としている彼の様子を見て、男は無表情で頷いた。

「……お前には同情するが、書類がある以上、責任はお前に背負ってもらう」

 言って、彼は書類を乱暴に上着の中へしまう。

「騙される方が悪いんだ」

 そして、上着の中から腕が引き抜かれた時、その手には拳銃が握られていた。

「恨むなよ」

 短く告げ、静かに標的へ向かって狙いを定める。

 セリオンは返事をせず、無言で赤い瞳を正面の銃口へ向けていた。男が放つ意志には殺意が込められていたが、仕事だから仕方なく、といった程度のものだ。反応から見て殺人は初めてではなさそうだが無関係の者を殺すのは気が引けるのだろう。
 これくらいの感情なら呪術でねじ伏せられるが、元社長の願いを叶えるには、この場面でセリオンが死ぬ必要がある。ここまで状況を知った上で、サインしろと言われたから書いただけだといって逃亡できるほど彼の仕組みは柔軟ではないのだ。
 一般的な銃で撃たれたくらいでは、ロボットであるセリオンの身体は致命傷には至らない。ここは一芝居打つしかないだろう。

 困ったものだと言いたげに彼は肩をすくめた。飄々とした元社長の表情を思い浮かべ、溜息交じりに無念の思いを吐き出す。

「楽しい夜になるはずだったのですがねぇ……」

 冷え切った深夜の空気に、乾いた銃声が鳴り響いた。

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