お守り人形

 駆け寄ってきたローブ姿の少年は、自分の傷を確認するなり声を上げた。

「うわっ……酷いな……」

「…………」

 対して、自分は何も言わない。知らない人と話すのが苦手なのもあるが、何より情けない姿を見られた恥ずかしさと、腕に負った傷の痛みが混ざり合い、なんと返せばいいか分からなくなってしまったのだ。
 無言のまま硬直しているこちらを余所に、少年はブツブツ言って自身のローブの中を漁っている。

「こういう時に限ってろくな物がないんだよなぁ……」

 どうやら応急処置をしてくれるつもりのようだ。
 突然やってきた見知らぬ人物が自分に親切にしてくれようとしている。予想外の展開に戸惑い、慌てて大丈夫だと告げようとしたものの、身体を動かした途端に節々が痛んで顔をしかめる。どうやら腕だけではなく、あちこちぶつけてしまったらしい。
 自分が落ちてきた斜面を見上げる。鬱蒼と生い茂る野草や木々が見え、更に先には山道があるはずだ。そこを自分は歩いていた。歩いていた、だけだったのに。

「……これ使うか」

 こちらが動揺している間に少年は目的の物を探し当てたようで、小さく呟くとローブの中から腕を引き抜く。
 薬でも出すのかと思っていた自分だったが、彼が取り出したものを見てポカンとしてしまった。その手に握られていたのは、小さな白いウサギのキーホルダーだったのだ。ウサギは人に似た格好に擬人化されており、花柄のドレスを着ている。ビーズ製の赤い瞳が無機質に周囲の風景を映していた。
 混乱が加速している自分へ追い打ちをかけるように、少年はおずおずとキーホルダーを差し出してくる。

「あのー……変なこと頼むんだけどさ。この人形を俺が渡すから、受け取ってくれないかな?」

「……?」

 意味が分からない。得体の知れない人物からのプレゼントを素直に受け取るほど、お人よしには育っていなかった。ふと、嫌な予感が過る。これもあいつ等の嫌がらせなんじゃないか。困惑している自分の姿を、こっそり隠れて観察してるんじゃないのか。
 その手に乗るかと立ち上がろうとしたものの、またもや身体は悲鳴を上げる。仮に立てたとしても、こんな状態では走ることすら難しいだろう。
 いったい、こいつは誰なんだ。動くに動けず座り込んだまま少年を見上げるが、深くフードを被った彼の顔はよく見えない。小柄な背丈からしても、同級生の誰かの可能性は否定できなかった。声に聞き覚えはなかったが、別のクラスの奴かもしれない。

「さ、手を出して」

 動こうとしない自分に焦れたのか、少年はゆっくりとしゃがみ込み、こちらの腕へ手を添えた。傷に触らないよう慎重に動かすと、自分の手へキーホルダーを握らせる。やっている行為は意味不明だが、とりあえず、その動作に乱暴さは感じられない。

「俺は、人形を渡す」

 そして、見れば分かることをわざわざ口に出して宣言した。
 頭の中に大量の疑問符を浮かべていた自分だったが、途端に腕に異変が起こり声をもらす。

「あ、あれ……?」

 斜面を転げ落ちた時に負った大きな擦り傷が見る間に縮んでいき、やがて小さなカサブタになってしまったのだ。
 反射的に腕をさするとカサブタは抵抗もなく剥がれ落ち、足元の草に紛れて見えなくなった。カサブタの下から現れた皮膚は少し白っぽくなっているが、さっきまで傷があったとは思えないほど綺麗になっている。
 目の前の少年が満足そうに頷いた。

「よし、成功」

 どうやら彼が意図した通りの展開らしいが、こちらとしては狐につままれた気分だ。いったい自分の腕に何が起こったのか。

「あ、その人形、まだ持ってて」

「え、あ……うん……」

 唖然とするあまりキーホルダーを落としそうになっていた。少年に指摘され、慌ててそれを掴み直す。
 彼の話ぶりからするとキーホルダーに秘密があるようだが、白いウサギは立ち上がったり話し出したりすることなく、至極当然に横たわったままでいる。この人形と腕の怪我が、どう結び付くというのだろう。
 無言で人形を眺めていた自分へ、少年が不思議そうに首を傾げ話しかけてきた。

「……で、何があったの? 落ちるような道じゃないと思うけど」

「…………」

 その質問で現実に引き戻される。嫌な記憶が蘇ると同時に泣きたい気持ちになってきて、喉の奥がジワリと熱くなった。
 こんな気分になるくらいなら、意味不明な出来事に混乱したままの方がマシだったなと、頭のどこかで思ってしまう。

「だ、大丈夫?」

 自分が泣きそうになっているのを察したのか、今度は少年の方が戸惑った声を上げる。なんとか嗚咽を堪えて頷き、しゃくり上げそうになる呼吸を落ち着けた。数度深呼吸して新鮮な空気を取り込み、ゆっくりと自身の心を慰める。
 結局、話せるようになるまで数分かかってしまったが、ローブ姿の少年は急かすことなく待っていてくれた。

 彼の言う通り、普通に歩いていれば落ちるような道ではない。人通りの少ない山道で転落防止用の柵もポツポツとしかない場所だが、道幅は十分ある。現地の子供ならば、よほどの間抜けでない限り自ら落ちることはない。
 それなのに自分が転落してしまったのは、突き落とされたからだ。犯人は同級生達で、普段から自分に対し悪質ないじめをしてくる嫌な連中。歩き方がおかしいだの遅いだのと因縁をつけられ、そのからかいがエスカレートした結果、追い詰められた自分は斜面から滑り落ちてしまったのだ。
 身体を痛め道へ戻れなくなった自分を見て、彼らは笑ってどこかへ行ってしまった。そして、途方に暮れていたところへ現れたのが、ローブ姿の少年である。

 途切れ途切れになってしまう自分の言葉は理解しづらかったかもしれないが、聞き手は茶化すことなく最後まで黙って聞いてくれた。
 やがて全ての話を聞き終えると、少年は溜息交じりに感想を述べる。

「……この辺りは子供も容赦ないからなぁ」

 呆れが含まれた口調。口ぶりから察するに、どうやら彼は余所からやって来たらしい。通りで自分に優しくしてくれるわけだと納得する。
 この地域は徹底した弱肉強食で成り立っている。弱者が強者の食い物になるのは当然なのだ。それは子供の社会にも言えることで、弱者がいじめられるのは当然だし、やられる方が悪い。
 そんな場所で、自分は弱者側に分類されている。だからいじめられるし、かばってくれる人もいない。やり返せない方が悪いのだから。
 事情を把握した少年は気まずそうに呟いた。

「なんとかしてあげたいけど……」

 そこまで言って先の言葉を濁す。
 無責任な気休めの言葉をかけられるくらいなら、同情される方がいくらかマシだ。自分にだって、子供一人の力ではどうしようもないくらい分かっていた。

 居心地の悪い沈黙が流れる。助けてくれた相手に申し訳なくなってきて、自分は何か話すことはないかと周囲へ視線を動かした。
 そして、そう悩まずとも目の前に話題が存在していたのに気がつく。

「ねぇ……この人形って、何なの?」

 未だ自分の手の中に存在している白いウサギを指で撫で、少年に問いかけた。女の子向けのキーホルダーらしいが、ウサギ好きの自分は素直に可愛いと思っている。

「これは……えぇと……」

 なぜか問われた側は困ったように言葉を迷わせていたが、そう間は置かず答えを返してくれた。

「……持ち主の身代わりになってくれる人形だよ。持ち主が怪我をしてると、それを人形が引き受けてくれるんだ」

 ほら、と人形の腕を指さす。つられて視線を動かすと、先ほどまで自分が怪我をしていた箇所に当たる部位が不自然に黒く変色している。
 あまりに魔法のような説明をされ、素直に自分は驚いてしまった。

「え……な、なんか……凄いね……」

 こんな非現実的な話、普段なら絶対に信じないだろう。しかし実際に自分の怪我は癒えてしまったのだから彼の言葉を信じる他ない。
 こちらの反応を見て嬉しくなったのか、ローブ姿の少年は自慢げに胸を張った。

「凄いだろ? ウチで開発中の商品なんだ」

「ウチ?」

「あぁ、俺、商人なんだよ」

 少年の補足に、ますます自分は目を丸くした。自分と齢が変わらない子供が、既に商人として働いている。立派だなと感じる反面、大変そうだなとも思う。

「……この人形、便利だね」

 再び人形へ話を戻す。白いウサギを摘み上げてみるが、やはり特別な力があるようには見えなかった。
 ぶら下げられたウサギを一緒に眺めながら、隣の少年は小さく溜息をつく。

「便利は便利なんだけど、未だ未完成なんだよ」

「そうなの?」

 反射的に尋ねた自分に少年が頷いた。

「うん。持ち主と人形が互いに繋がっちゃうんだ。人形が強い衝撃を受けると、それが持ち主側に伝わっちゃうんだよ。本当は一方通行にしなきゃいけないんだけどね」

「え……」

「だから優しく扱ってよ。手荒にしなきゃ害はないから」

「う、うん……」

 その忠告を聞き、慌てて人形を手のひらの上に横たえる。言われてみると、ウサギを掴んでいた最中は呼吸が窮屈だった、ような気がした。
 軽く動揺した自分を見て少年は小さな笑い声を上げる。

「でさ、そろそろ身体が楽になってきたと思うんだけど、どう?」

 その問いかけで、自分が腕以外にも怪我をしていたのを思い出した。恐る恐る足に力を込めてみるが、特に痛みは感じない。
 そのままゆっくり立ち上がろうとすると、身体は素直に言うことをきいた。まだ違和感はあるが、このくらいなら斜面を登って道に戻ることができそうだ。

「……だいぶ、痛くなくなったよ」

 無事立ち上がれた自分を見て、ローブ姿の少年は嬉しそうにガッツポーズする。

「良かった。こんな変な道具しかなくてごめんね。いつもは色々持ってるんだけど……」

 当の変な道具を持っている自分は苦笑いしてしまった。見た目は可愛いし能力も凄いが、確かに変な道具という言葉がぴったりなキーホルダーだ。
 改めてウサギを眺めていた自分へ向かって少年は手を差し出す。

「じゃ、人形返してくれる?」

「!」

 その言葉を聞いた途端、心に広がったのは不安。一瞬戸惑うが、すぐさま原因に思い当たった。
 返そうとしない自分を見て人形の持ち主は首を傾げる。

「……どうしたの?」

 これは彼の物なのだから返さねばならない。商売道具のようだし、無くなればきっと彼は困る。それは分かっているが、自分には人形と離れがたい理由があった。

「……この人形、僕にくれない?」

「えぇ!? 何で!?」

 少年は驚愕の声を上げる。ローブの下の顔も、きっと驚いた表情をしているに違いない。
 自分は己の境遇を必死に訴える。

「だ、だって、また怪我すると思うし……この人形があれば、すぐ治るんでしょ?」

 絶対に明日も明後日も、自分は酷い目に合う。今日以上の怪我だってするかもしれない。だが、この人形があれば和らげることができるのだ。

「駄目だよ! さっきも言ったけど、これ未完成だしっ」

 慌てた様子の彼へ、自分も必死に頼み込む。

「気を付けるよっ。大事にする! あ、お金!? お金がいるのっ?」

「いや、一回使ったから、お金はいらないけど……って、そーいう問題じゃなくて……っ」

 なおも説得を試みようとする少年だが、こちらが泣きそうになっているのを見て口を閉ざした。
 言いたくもない弱音を、自分は震える喉から何とか絞り出す。

「……もう、痛いのは嫌なんだ」

「…………」

 すっかり彼は困り果てたようだ。
 こんな情けない姿を晒すのも、恩人に無理を言うのも、当然嫌だった。しかし、それ以上に自分は現状が怖かったし、何かにすがりたいという気持が強かったのだ。こんなにも己は弱っていたのかと、自身でも内心驚いたほどだった。
 数分ほど、ローブ姿の少年は考え込んでいた。何か言おうとしては頭を振り、何かしようとしては手を下す。そんな動作を幾度か繰り返す。
 やがて彼は深い深い溜息をつくと、自分へ向かって頭を縦に振った。

「……分かった。あげるよ」

「あ、ありがとう!」

 安堵の気持ちと感謝の気持ちが混ざり合い、自然と自分の声は大きくなってしまう。心の底から人にお礼を言うなんて、いつぶりだろうか。

「でも、本当に気を付けてよ? 何回も言うけど、それ未完成だし、何か異変があったらすぐ使うの中止してね」

「うん!」

「あと、絶対に人形のことを他の人に話しちゃ駄目だし、渡してもいけないからね?」

「もちろんだよ!」

 渋々とした少年からの注意も、自分の心へ危機意識を植え付けることはなかった。未完成な人形の危険性より、自分へ危害を加えようとする連中の方が何倍も怖かったのだ。
 このキーホルダーがあれば少しは生活が楽になる。その事実だけで十分だ。


 帰宅の挨拶もそこそこに、自分は自室へ引きこもった。勉強道具が入った鞄を放り出すと、ポケットに入れていた人形を丁寧に取り出す。多少のダメージなら持ち主に悪影響はないらしいが、やはり扱いは慎重になってしまう。
 少年からの使用上の注意を思い出しつつベッドへ寝転がる。再三の未完成の警告。取り扱いの説明。安全な廃棄方法。どれも重要な話ばかりで、もう一度心へ深く刻み付けた。無理を言って譲ってもらったのだから大事に使わなければならない。

 不思議な力を持ったウサギの人形を眺める。相変わらず腕は黒っぽいままで、まるで泥水にでも落としてしまったかのようだ。
 自分のせいでこうなったのだと思うと申し訳なさを感じるが、自身の怪我を肩代わりしてくれたのだと思うと愛おしくも感じる。なんだか一緒に戦ってくれる味方が出来たようで、少しだけ心強くなれた。

「……!」

 そこまで考えたところで、部屋の外で物音が聞こえ反射的に身が強張った。音は聞き慣れた足音で、部屋の外にいるのが見知った人物なのを知る。なぜか常に荒い足音は、バタンバタンとスリッパを鳴らして自分の部屋へ近づいてきた。
 来ると感じた瞬間、自室の扉が乱暴に開かれ怒鳴り声が飛んでくる。

「帰ってきたの!? 遅かったじゃない!」

 現れた母親は普段以上に不機嫌な顔をしていた。

「は、はい……」

 自分は慌ててベッドの上で姿勢を正し、説教を聞くポーズになる。

「どうせ居残り勉強でもさせられたんでしょう! 先生に迷惑ばっかりかけて!」

「はい……」

 本当のことを言えば罵られるのは目に見えていたため黙っておく。同級生にいじめられていたという事実より、先生に居残りを命じられていたという妄想の方が親にとっては都合がいいだろう。

「まったくグズなんだから……っ」

「…………」

 ブツブツと小言が始まり、自分は内心うんざりしながら反省している振りをする。ここで口を挟めば説教が長引くのは長年の経験から熟知していた。言い訳をするなとか口答えをするなとか、まともな返事が返ってきた試しがない。
 もうすぐご飯だから部屋から出ろという言葉を残して母親が退室すると、自分は深い深い溜息をつく。そんなに怒らなくてもと思う反面、やっぱり自分は駄目なのだろうかと落ち込んでしまう。こんな気分で晩ご飯を食べてもさっぱり美味しくない。
 少しでも明るい気分になりたくてウサギの人形を探す。

「……あれ?」

 手近に見当たらない。母の気配を察した瞬間、布団の中へ突っ込んだのは覚えているのだが。
 慌ててベッドの上に立ち上がり布団を勢いよくめくる。途端、やはり布団の中にあったらしい人形が、弧を描くように宙へ放り出されてしまった。
 あ、と声なのか息なのか分からない音が口からもれる。そんな自分にはお構いなしに、ウサギは重力に従ってカーペットが敷かれた床へ落下した。

「痛っ」

 小突かれた時に似た衝撃を感じ、思わず頭へ手を当てる。人形が頭部から落ちたため自分にもダメージが伝わってしまったのだろう。
 頭をさすりウサギを掴み上げる。ビーズで出来た赤い瞳が、どこか悲し気に自分を見上げている気がした。心の中で謝ると同時に、持ったままでいるのは危ないなとも思う。また今回のように不注意で人形を傷つけてしまうかもしれないし、母親に見つかりでもすれば盗んだのなんだのと余計な疑いをかけられそうだ。

 どこか安全な置き場所はないかと探す。悩んだ末に勉強机の中に決め、ゆっくりとウサギの人形を横たえた。これで今日は大丈夫だろう。
 机を閉めると同時に母親の喚くような呼び声が聞こえ、自分は慌てて部屋を飛び出した。


 翌日はウサギをポケットへ入れて登校した。昨日の少年曰く、人形は近くにないと効果が発揮されないらしく、家へ置いていくわけにはいかなかったのだ。鞄の中にしまうと勉強道具に潰されてしまいそうなため止むを得ないものの、どうしても不自然にポケットは膨らんでしまう。
 幸い両親には気づかれず、学校に到着してからも先生や同級生に異変を指摘されることはなかった。安堵すると同時に、それだけ自分が周囲から気にされていないのだと思うと空しさもある。

 結局、何事もなく帰りの会まで過ごすことができた。同級生達と声を合わせて先生への帰りの挨拶を告げ、今日の授業はおしまいだ。
 皆が各々に過ごし始めるのを横目に小さく息をついた。案外なんとかなるものだと心の中で呟き、ポケットの上から人形を撫でる。そんな些細な仕草なのに、居場所のない学校生活で緊張しきった心はわずかに安らいだ気がした。心強い味方がいるし、酷いからかいもなかったしで、少しだけ幸せな気分だ。

 しかも今日は、もう一つ楽しみなことがある。飼育小屋の掃除だ。学校の敷地内の一角にある飼育小屋では動物が飼われており、そこを交代で掃除するのが自分が属する飼育委員の役目だった。小屋にはウサギも飼育されているため、それと触れ合うのが自分にとって学校での唯一の楽しみだ。
 鞄の中へ勉強道具をしまい、教室に厄介な奴が残っていないか確認する。絡まれそうにないと判断すると、誰からの視線も向けられないよう静かに、それでいて素早く教室から脱出した。


「ちょっと! やめてよー!」

 飼育小屋へ向かっていると女子の大声が聞こえ足が止まる。一緒に飼育委員をしている同級生の声だった。仲が良いわけではないが、さすがに一言二言会話はする関係のため声は分かる。
 何かあったのかと忍び足で飼育小屋へ近づく。件の女子の姿が見え、その次に複数の人影を見つけて息をのんだ。

「ウサギが可哀そうでしょ!!」

 大声でキーキー叫ぶ彼女の視線の先には、見たくもない男子達がニヤニヤして立っている。

「うるせぇなっ! そんなに返してほしいなら取り返してみろよー!!」

 答える声すら聞きたくない。そこにいたのは、昨日自分を山道の下へ突き落した奴らだった。
 なんでここに。動揺のあまり視界が揺らいだが、歪む景色の中に答えを見つけ心臓が止まりそうになった。いじめっ子達の一人が地面へ座り込み、モコモコした何かを押さえつけている。それは茶色のウサギだった。小屋で飼育されている内の一匹に間違いない。
 なぜ外に出ているのかと小屋を見て合点する。小屋の扉が開いたままになっているのだ。どうやら連中が錠前を壊して飼育小屋を開け、勝手にウサギを外へ出してしまったらしい。
 ウサギの様子を観察する。怯えているのか大人しくしているが、もしかして怪我でもしてるんじゃないかと思うと気が気ではない。

「先生に言うわよ!」

「チクったらどうなるか分かってんだろうな!?」

 女子の警告も意に介さず、連中はニヤニヤしたまま言い返す。飼育小屋は職員室から離れた位置にあるため、多少騒いだ程度では先生は気づかないだろう。
 自分が助けを呼びに行くべきか。しかし呼んだのが自分だと分かれば、奴らから何をされるか分からない。昨日より酷い目に合わされるんじゃないかと思うと足はすくんでしまう。

 どうしよう。そう悩んでいるのは女子も同じだった。
 彼女は苛ついた様子で誰か助けに来る人はいないかと周囲を見回す。そして当然のごとく、校舎の影に隠れていた自分と目が合った。

「……ちょっと! 何隠れてんのよ!?」

「うっ……」

 大声を上げられては出ていかないわけにはいかない。睨む視線に脅されるがまま、自分はギクシャクとした動きで騒動の渦中へ巻き込まれる。
 言われた通り出てきたが、それだけでは女子の不機嫌さは収まらない。

「あんた男でしょっ! なんとかしてよ!」

 近くで叫ばれ耳が痛かった。既に怯えきっている自分を見て、男子達は笑い声を上げる。

「そいつが役に立つと思ってんのかよー!」

「…………」

 何も言い返せない自分へ、女子は早くも見下した視線を向けていた。彼女としても、元から自分が戦力になるとは思っていないだろう。この腹立たしい状況を一緒に体感する被害者を増やし、八つ当たりの標的にしたいだけだ。
 馬鹿にした声。怒りの声。容赦なくストレートな感情を浴びせられ、もはや自分は泣く寸前で固まっていた。押さえつけられたままのウサギは、黒い瞳を戸惑ったように周囲へ向けている。早く助けてやりたい。しかし、自分にその力はない。
 どうすることも出来ないまま緊張は高まり頭が真っ白になっていく。だから無意識に、手がポケットへ伸びてしまっていた。

「……おい! あいつ、なんか隠してんぞ!」

「!!」

 男子の一人に指摘されたことで自身の行為に気が付く。最悪の状況で最悪の連中に発見され、背筋が凍りつくのを感じた。不自然に膨らんでいるポケットへ視線が集中する。

「……なんだよ、それ」

 当たり前のように飛んできた問いかけへ、咄嗟に首を横に振って小さく答えた。

「……なんでもない」

「見せろよ」

「…………」

 無言を返した自分だが、それで見逃してくれる奴らではない。

「学校に持ってきちゃダメなヤツなんじゃねーの」

 一人の推理で全員が顔を見合わせ、ニタリと笑う。
 恐らく連中は、自分がお菓子でも持っていると思っている。そして、それを奪い取ろうと考えたのだろう。隣の女子も不審げな表情で自分の顔とポケットを交互に見ていた。

「いや、違……」

 必死に絞り出した否定の台詞は、男子達の鬼の首を取ったかのような声に阻まれる。

「だったら見せろよ!」

「先生に言うぞ!」

 さっきまで自分達へ向けられていた脅し文句を使いこなす姿に唖然としてしまった。なんて都合のいい連中だろう。
 やいやいと騒いでいる彼らは主張を引っ込める気はないらしく、声の調子は上がっていく。

「わ、分かったってば……」

 これ以上騒ぎが大きくなっては更に人が集まりそうで、自分は要求を呑んでしまった。あいつらは人形には興味がないはずだ。持っているのがお菓子でないと分かれば落ち着くだろう。
 その可能性に賭け、自分はおずおずとポケットへ手を伸ばす。本当にこれで良いのかと逡巡するが、こうする他ないと覚悟を決めた。

 ポケットの中からウサギを取り出し、彼らへ見えるよう差し出す。
 人形が出てくるとは思っていなかったらしく連中は一瞬ポカンとしていた。が、すぐさま表情は歪み、辺りは爆笑に包まれる。

「人形かよ!」

 見れば分かることを指摘し、とにかく笑う。人形を出したくらいでこれほど笑うなら、さぞ楽しい人生を送って来たんだろうなと冷めた感想を抱きつつ、自分はその光景を眺めていた。
 隣の女子も呆れた顔をしていたが、それは目の前の男子達への感情なのか、ドレスを着たウサギの人形を持っている自分に対してなのかは分からない。

 ひとしきり耳障りな音を立てていた彼らだったが、やがて笑い声を引っ込めると再びニヤニヤしだした。それぞれが小声で囁いている様子を見て、また何か悪い考えを話し合っているらしいと勘が告げる。
 本能の警告に従い人形を隠そうとした自分だったが、それを奴らは見逃さなかった。

「……おい、それ寄越せよ」

 男子の一人の口から出たのは、最悪の要求だった。

「えぇ!?」

 これには自分は声を上げてしまう。あれだけ馬鹿にしたのだから、連中はウサギの人形が欲しいわけではない。ただ自分から物を取り上げ、困らせたくて言っているのは明白だった。
 人形と自分は繋がっている。もう一つの身体と言っても過言ではないコレを、信用できない奴に渡せるわけがなかった。絶対に粗末に扱うに違いない。
 逃げるべきだ。瞬時に判断し一歩後退したが、それを見越したように声が飛んでくる。

「取引しようぜー。このウサギと、その人形を交換だ」

 その台詞を言ったのは、連中のボスであるガキ大将。このウサギ、のところで抑え込まれていた茶色のウサギを靴で示す。蹴られると思ったウサギがビクリと身体を震わせるのが見えた。
 人形を渡せば、ウサギを助けられる。普通に考えれば選ぶ選択肢は決まっていた。しかし。

「何迷ってんのよっ! そんな人形あげちゃいなさいよ!」

 無言で突っ立っている自分を女子が急かす。当たり前のうながしだったが、それでも動けなかった。この人形はただの人形ではないのだから。
 渡さず逃げよう。渡したら、きっと大変なことになる。必死に頭の中で叫んでいる自分がいたが、一方で心の中の自分は渡すべきだと主張していた。視界の中の茶色のウサギは心細げな表情をしている。
 手の中の人形へ視線を向けると、作り物の赤い瞳がキラリと光った気がした。黒ずんだ腕は自分の怪我を引き受けた証。

「早くしろよー。こいつが痛い目に合ってもいいのかー?」

 いつまでも固まっている自分に焦れたのか、ガキ大将はウサギの頭を踏む真似をして見せた。ウサギがぎゅっと目をつむったのを見た瞬間、反射的に声を上げてしまう。

「ま、待って! 分かったよ! あげる!」

 逃げるという選択肢は瞬時に消えてしまった。ここで逃げればウサギがどんな酷いことをされるか分からない。
 昨日自分がされた度が過ぎたいじめを思い出し嫌な汗が出る。あんな小さな身体で暴力を受けたら、きっと自分以上に辛いに違いない。もしかしたら、死んでしまうかもしれない。そうなったら自分の責任だ。
 これで良かったのだと思う反面、馬鹿な選択をしたと歯ぎしりする自分もいる気がした。頭が熱くなってきて人形を握りしめると、少しだけ息が苦しくなる。

 一歩、また一歩。近寄りたくない集団へ向かって歩いていく。処刑台に上がる人の気持ちはこんな感じなんだろうかと、嫌な想像が頭を通り過ぎて行った。
 連中のニヤついた顔を見ないよう、視線は勝手に下を向いてしまう。地面に押さえつけられたままの茶色のウサギと視線が交差した。ウサギと同じように、自分も怯えきった表情をしているに違いない。

 ガキ大将の前に立っても顔を上げられなかった。単純に怖かったし、これから起こるだろう展開を予想すれば、堂々と前を向くことなどできるはずがない。
 手に持ったままの人形を、もう一度見る。ドレスを着た白いウサギは変わらぬ表情で自分を見上げていた。無理を言って譲ってもらった、大事にしなければいけない人形なのに。

「……はい」

 自分は、ウサギの人形を差し出した。

「もーらいっ」

 それをガキ大将は手荒に奪い取る。予想通りの行動だったが、声を上げずにはいられなかった。

「ちょっと! 乱暴にしないで!」

「もう俺の物なんだから俺がどうしようと勝手だろ!!」

 言うなり人形を強く握りしめる。やはり渡すべきではなかったと、身体の血の気が引くのを感じた。

「やめてよ! 返して!」

 必死に手を伸ばす自分を見たガキ大将が面白そうに駆け出す。慌てて追いすがるが、手が届く寸前で人形は放り投げられてしまった。

「あぁっ」

 思わず悲鳴をもらす。宙を舞った人形は別の男子によってキャッチされた。

「ほーら、こっちだぞー」

 人形を持った男子がゲラゲラ笑って走り出す。追いかけるものの、追いつきそうになると人形を放り投げられてしまい、まったく奪い返せない。
 気づけば、逃げ回る集団に翻弄される自分、という格好になっている。既に連中は生き物のウサギには興味を失ったようで、解放されたウサギは女子が保護したらしかった。彼女は何か叫んでいたが、人形を追うのに必死な自分の耳に言葉は届かない。
 白いウサギの人形が、人の手と手の間を跳ね回る。硬い地面に落ちてしまったら、そのまま踏まれでもしたら、いったい自分にはどんなダメージが返ってくるのか。

「待って! 本当にやめて!!」

 一生懸命に叫んでも笑い声は止まらない。人形を投げ合いながら連中は走り回り、自分はそれを追うことしかできなかった。いつの間にか自分達は飼育小屋から離れ、校門の近くまで移動している。
 人形を再度キャッチしたガキ大将は、息を切らして必死に走ってくる自分を見てニヤリと笑う。もはや笑みの意味を勘ぐることさえできない自分は、ただひたすらに足を動かすだけだった。

「おーっと、手が滑ったー!」

 わざとらしく叫ぶなり、ガキ大将は人形を遠くへ放り投げる。力一杯放られた人形は、学校の敷地を区切る柵の上を大きな軌道を描いて飛んでいく。そちらには、誰もいない。

「……っ」

 誰もいないのは当然だ。その方角は道路なのだから。
 ガキ大将達の嘲笑いを背に受け、自分は必死に校門へ向かう。奴らにとっては人形を捨てただけだろうが、自分にとっては生きるか死ぬかの問題だった。どうか車が通りませんように。これほど神に祈った瞬間はないだろう。

 混雑している校門の前を、己でも信じられないほどの荒さで駆け抜ける。何人かとぶつかったが気にしている余裕はない。
 校門を出て辺りを見回す。ウサギの人形はすぐに見つかったが、事態は一刻を争った。道路に転がった人形へ車が迫っている。
 何も考えず駆け出す。こんなにも自分は走れたのかと、場違いに不思議な感覚を覚え愉快さすら感じた。もはや意識の中には人形しかなく、まるで世界に自分と人形しか存在していないかのようだ。

「危ない!!」

「!?」

 だから、腕を掴まれた時は心底驚いてしまった。

「車が来てるだろ! 見えないのか!?」

 怒った声で注意してきたのは見知らぬ男。誰、と思う前に彼が持っている黄色い旗が目に止まる。登下校の時間に見守り当番をしている保護者の一人らしかった。
 説明している余裕はない。しかし振りほどこうにも大人の力に子供が敵うはずがない。無情にも車のエンジン音は大きくなっていき、最悪の事態が近づいているのを知らせていた。

「……!」

 とっさに強く目をつむり、身体を強張らせる。どれほどの痛みが伝わるのだろう。まさか、自分は死んでしまうのか。
 小さな人形を踏みつぶす大きなタイヤを想像し、それに自身の姿をダブらせる。ぺしゃんこになった自分が血塗れで倒れている、考えたくもない結末。

 泣く間もなかった。エンジン音が近づき、タイヤが道路を踏みしめる音が横で響く。

「っ」

 死ぬほどの痛みを予感した自分の身体は大きく震える。永遠とも思える数秒は、あっという間に過ぎ去った。

 そして、静寂。

「……?」

 なんともない。その確信を持つのにしばらくかかった。
 車が遠くへ走り去っていったのを察し、ゆっくりと目を開く。恐る恐る身体を見下ろすが、いつも通りの自分の身体だった。血が出ている様子もないし、痛む箇所もない。
 無事だと喜ぶより前に、なんだかポカンとしてしまった。

「……おい、どうした?」

 頭上から男の声が聞こえる。そういえばこの人に助けられたのだなと、遅れて思い至った。あのまま道路へ飛び出していたら自分が引かれていただろう。
 お礼を言うべきか、まず謝るべきか。それ以前に怒られるかもしれない。動揺が冷めないまま色んなことを考えつつ、とりあえず頭を上げる。そこには命の恩人が立っていたが、なぜか自分の方は見ていなかった。
 さっきの台詞は自分へ向けられたものではなかったのか。疑問を持った途端、周囲の異様な雰囲気に気が付いた。音が聞こえない。いや、鳥の鳴き声や遠くを走る車の音は聞こえる。聞こえないのは、生徒達の声。下校時間の校門は話し声で溢れているのが普通だというのに、今は不気味なほど静まり返っていた。

 目の前に立っていた男が、ゆっくりとした足取りで校門の方へ歩いていく。なぜか引かれるように、自分もその後ろについていった。やはり校門付近には複数の生徒がいたが、皆一言も話さず立ち尽くしている。一様に、校舎の方を向いて固まっていた。
 学校に何が。先導している男も、理由が分からず近づいていったのだろう。

「な……っ」

 何かを見た男の口から声のような音がもれた。隣に立ち、自分も彼の視線の先を追う。

「…………」

 それを見た瞬間、やけに冷静に、大変なことになってるなと感じた。
 皆が見ているのは校舎ではなく、校門から校舎へ続く道。毎日のように通っている見慣れた道は、今は大量の赤に彩られていた。中心には誰かが倒れ、その人物から赤色の液体が垂れ流されている。なぜか上半身は引き潰されており、無事なのは足の先だけ。それがガキ大将だと分かったのは、自分がいつも下を向いていて、彼の足を良く見ていたからだろう。
 ガキ大将と一緒にいたらしい男子達も赤色の近くにいた。共に行動していただろう彼らは、皆赤い液体を頭から被ったような有様になって、周囲と同じく呆気にとられた顔で固まっている。

 無音の中、鳥のさえずりが場違いに平和そうだった。しかし風の流れは鉄くさい臭いを運び、非日常な現状を周囲へ染み込ませていく。

「ひぃ……!」

 最初に正気に戻った誰かが悲鳴を上げる。
 それを皮切りに、一人また一人と反射的かつ真っ当な衝動に飲み込まれ、校門前は普段とは違う騒がしさに包まれていった。


 学校は一週間ほど休みになった。
 あの日あの時間、校門付近にいた生徒は全員病院へ連れていかれた。泣きわめく子もいれば黙り込んでいた子もいたが、幸い自分に目立った変調はなく、次の日には退院し自宅での療養となっている。
 ショックが大きかったのはガキ大将が死ぬ光景を直接目にした生徒達だ。彼ら曰く、道を歩いていたガキ大将が、まるで上から見えない巨人に踏みつけられたように潰れていったという。

 一人の子供の異常な死は瞬く間に話題となり、テレビのニュースを賑わせたらしい。らしいというのは、自分はその映像を見ておらず詳細が分からないからだ。当時の様子を思い出してはトラウマになると大人達は判断したようで、あの事件の情報から自分は遠ざけられて過ごしている。
 それでも、警察がたくさん来たらしいという想像通りの話から、見えない怪物が子供を食べたらしいという非現実的な話まで、様々な噂が自分の耳にも届いてきた。
 皆、最初は気味悪がっていたはずだが、その興奮はやがて下品な興味へと変わり、噂は無責任な尾ヒレを生やして町中を駆け巡っているようだ。事件の関係者以外にとって、見ず知らずの子供の不審死というのはこの程度の扱いなのかもしれない。

 根拠のない噂を聞く度、自分の心は暗くざわついた。なぜなら自分だけが、事件の真相を知っているからだ。
 言ったところで誰も信じないだろう。ウサギの人形が車に引かれたせいで、子供が死んだなんて。

 ガキ大将とのやり取りを思い出す。ガキ大将は人形を寄越せと言い、自分は渋々従った。あの時、人形の所有者としての繋がりが自分からガキ大将へ移ったのではないだろうか。
 フード姿の少年からウサギの人形を受け取った時、なぜか彼はわざわざ「人形を渡す」と発言した。ああやって宣言することで、人形に所有者を認識させていたんじゃないか。
 自分はガキ大将へ人形を「あげる」と宣言し、ガキ大将は人形を受け取った。ガキ大将と繋がった人形は彼自身の手で道路へ放り投げられ、それが車に踏みつぶされてしまったことでガキ大将へ衝撃が伝わり、彼は人形と同じく潰れてしまったのではないか。

 少年との会話を回想する。ウサギの人形を廃棄する際は、人形へ向かって「人形を捨てる」と声をかけろと言われていた。
 あの時は妙な手順だなと思っていたが、もし人形が音声を認識できるなら、それが必要な工程であるのに納得できる。きっと「捨てる」と言えば繋がりが正常に解除されたのだろう。

 当のウサギの人形はというと、忽然と姿を消してしまっていた。校門が大騒ぎになった後に慌てて道路へ戻ったのだが、そこに人形はなかったのだ。
 誰かが持って行ったのか、車に引かれた際に側溝にでも落ちたのか、所有者が死んだことで消滅してしまったのか、分からない。よく探そうにも、あっという間に道路は混乱した生徒達でごった返し、その後は自分も大人達によって強制的に病院へ連れていかれたのだから、もはや調べようがなかった。
 今からでも探しに行くべきかと思い、やめる。そんな迷いを自分は何度か繰り返していた。親には家にいろと言われていたし、学校の周りには今も警察やテレビの関係者がウロウロしているに違いない。こっそり外出する勇気も、大人達の目を掻い潜る自信も、自分にはなかった。

 ベッドに寝転がったまま、幾度目か分からない溜息を吐き出す。人形と一緒にいたのは一日にも満たない時間だったが、なんだか長年の友人を亡くした気分だ。
 人形が無くなったのだから、また元の日常に戻ってしまう。そう考えたところで、そういえばガキ大将は死んだのだったなと思い至った。あまりに非現実的な死に方だったため、自分の頭の中で現実の生活に結び付いていなかったらしい。

 ガキ大将が死んだのだから悪質ないじめは減るだろうか。真っ先に考えたのはそれだった。
 哀れに思わないわけでもないが、自業自得だという気持の方が強い。あいつが人形を寄越せと言わなければ、そもそも自分をいじめたりしなければ、あんな目には合わなかっただろうに。

 考えている内に自己嫌悪が強まった気がして頭を振る。今考えるべきは日常だ。
 おそらく、からかいの頻度は減るだろう。取り巻き達はガキ大将の死を間近で見たのだから、そのショックで大人しくなるかもしれない。そうすれば、少しは学校生活を送りやすくなる。

 でも学校へ行きやすくなって、それがどうだというのだろう。ガキ大将が死んだって、同級生達からの扱いは変わらないに違いない。弱い自分は友達を作ることすら叶わないのだ。
 ボンヤリ考え勉強机を眺める。今までは授業中でも誰かに笑われている気がして勉強に集中できなかったが、少しは捗るようになるだろうか。
 テストで良い結果を出せば、親は褒めるかもしれない。だが、その様を想像してもちっとも嬉しくなかった。親が見ているのはテストの点数だけで、その先に自分はいない気がする。

 学校の意味。友達の意味。テストの意味。親の意味。色々考える内に、ますます気分は暗くなっていく。
 何か楽しい話題はないかと記憶を掻き回す内、たどり着いたのは人形をくれた少年のこと。あんな風に優しく接してもらったのは何年ぶりだろう。

 彼と会いたいと、ふと思った。せめて名前だけでも聞いておけば良かったと強く後悔する。ちゃんと感謝の言葉を伝えたいし、ウサギの人形を失ったことも謝りたかった。一体彼はどこから来たのか。
 そこまで考え、彼の台詞を思い出す。外からやってきた彼は、この地域の弱肉強食の状態を憂いていた。ということは、ここ以外の場所では、もう少し弱者に対して寛容的なのではないだろうか。
 自分と同じ年頃の彼は商人だと名乗った。子供が働いて真っ当に稼げるような優しい社会が、別の地域には存在しているのかもしれない。

 自分は、もう一度勉強机へ視線を向けた。勉強する気になれない子供を主に持った机は、小奇麗な状態で部屋の一角を占領している。
 吸い寄せられるように自分は勉強机の前に立った。机に引っ掛けられたままの鞄から教科書を取り出しパラパラめくる。今までまったく興味を持てなかった文字の羅列が、途端に意味を持って脳の中へ入り込んできた気がした。

 ここを出よう。そのために勉強して、ここ以外でも通用する知識を身に着けよう。このアイディアは素晴らしい目標のように思え、自分は今まで感じたことがないほどワクワクした気分になった。
 外。近くにあったはずなのに考えつかなかった世界へ思いをはせる。そこでなら、自分の居場所が見つかるかもしれない。もしかしたら、フード姿の少年にだって再会できるかもしれない。いや、出会えたところで、その頃には彼は自分のことを覚えていないだろう。何年も経てば記憶は薄れるし、大人になれば外見も変わる。
 大人になった自分。そんな明るい未来を想像できている己に内心驚く。気が早すぎると自嘲しつつ、自分は椅子に座り、改めて教科書を開き直した。

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