自由の翼

【任務内容】
剣闘士の訓練

【終了条件】
闘技会での優勝


 石造りの殺風景な部屋にいるのは三人の男。一人はシノで金色の瞳を鋭く細めている。彼の後方には上等な服を着た男が立っており不安げにシノの様子を見守っていた。
 二人の視線の先にいるのは大柄な男。彼は正に筋骨隆々といった外見をしており日頃から肉体を鍛え上げているのが分かった。しかし、そんなたくましい姿をしているにも関わらず今の彼はぐったりと床に倒れ伏しており、酷く弱々しい有様になっている。吐き出す息は浅く、目つきも虚ろで、顔色も悪い。
 床に膝をつき男の容態を調べていたシノは、一つ息を吐き出し立ち上がった。

「なるほど。だいたい分かりました」

 返事をしたのは上等な服を着た男。

「も、もう分かったのか!?」

 男はいそいそとシノへ近寄っていった。彼が身動きする度、身に着けている装飾品がキラリと輝く。その装いから男が金持ちなのが分かるが、あまりセンスが良くないのも伝わってきた。
 彼は困った顔でシノへ尋ねる。

「やはり、こいつに素質がないのか?」

 二人の注目を集めている筋肉質な男は、自分が話題になっているにも関わらず床に転がったまま無言でいた。
 シノは再度溜息をつき、首を横に振って短く答える。

「そうではありません」

 彼は腕を組むと視線を床の男へ向けたまま話し出した。

「まず……いえ、まずどころではないですね。あなたのやっていることが全部ダメです」

 全否定された金持ちの男は素直に驚いた声を上げる。

「全部だとぉ!?」

「全部です。食事からトレーニングの仕方まで、滅茶苦茶です。こんなやり方では倒れるに決まっているでしょう」

 シノは淡々と補足した。一方、男は戸惑った形相で言い訳する。

「し、しかし……肉を食わせて運動させておけば、強くなるのでは?」

「そう単純な話ではありません。野菜も与えないと栄養のバランスが偏ります。運動だって、適切な休憩をとらなければ身体を壊すだけです」

 シノは呆れを隠さず追撃していく。

「あなた、今まで剣闘士を育成した経験がありませんね?」

「ぐっ……」

「経験がないのであれば、訓練士を雇ってください」

 それだけ告げると、彼はさっさと部屋から出て行こうとする。

「それでは」

 短すぎる別れの挨拶。それを聞いて我に返った金持ちの男は、慌ててシノの前に立ちふさがった。

「ちょっ、ちょっと待ってくれ! 私は三足鳥に、闘技会で優勝したいと依頼したんだぞ!?」

「ですから、訓練士を雇ってください」

 シノは鼻で溜息をつく。

「剣闘士自体に問題は有りません。身体の大きさも筋肉の付き方も素晴らしいものです。きちんと訓練すれば、一か月ほどで見違えるような動きになるでしょう。闘技会は二か月後ですから今から改善すれば間に合います」

 本当は、今回の任務は『剣闘士の訓練』なのだからシノ自身が手助けするべきだ。しかし、当の彼は乗り気ではない。理由は単純に、シノ自身が依頼人を好ましく思っていないからだ。
 依頼人、つまりシノを必死に足止めしている男は商人である。普段は武器の販売を生業としているのだが、今回は新しい事業に手を出した。それが剣闘士の育成だ。そして残念ながら事業は早々に頓挫しようとしており、困り果てた男は図々しくも三足鳥に助けを求めたのだ。

 剣闘士とは闘技会で戦う戦士、と言えば聞こえはいいが、単刀直入に言うなら見世物として戦わされる奴隷である。床で倒れている男は、商人の無茶な訓練に付き合わされた結果、すっかり精根尽き果てた哀れな奴隷、というわけだ。
 この国では奴隷は合法だ。しかしシノの感覚でいえば、人の自由を奪い、生き死にすら支配する制度は悪法に思える。商人は法の範囲で行動しており、この国では何の罪もない。だが、だからといって素直に受け入れられるほどシノは柔軟な性格をしていなかった。

 どうして三足鳥はこんな依頼を引き受けたのだろうとシノはひっそり考える。この商人の成金具合を見ると、もしかしたら金払いが良いのかもしれない。
 商人へ向かうシノの視線は意識しない内に冷たいものになっている。冷ややかな感情を向けられた男は気まずそうに言葉を迷わせているが、進路妨害を止めるつもりはないらしかった。

「いや、その……」

 もじもじした様子をうっとおしく感じたシノは苛ついた声をもらす。

「まだ何か用があるんですか?」

 睨みつけられた商人は小さくなったが、それでも口は閉じなかった。

「剣闘士を買うのに大金を払ったんで、その……訓練士を雇う金が……」

「買い物は身の丈に合ったものをお勧めします」

 見下しを隠さない台詞を聞いた商人は顔を赤くして地団駄を踏んだ。

「私が貧乏みたいに言うな! 剣闘士を育てるのに、そんな色々必要だったなんて知らなかったんだ!」

「新しい事業に手を出すなら、きちんと事前に勉強を行うべきでは」

「そんな目で私を見るな! これには深い事情があるんだっ」

 商人は悔しそうな表情になると、唾を飛ばして説明を始めた。

 男は前々から剣闘士に興味があった。闘技会で自分の剣闘士が優勝すれば富と名声を得られるからだ。
 しかし剣闘士として売られている奴隷は高額で気軽に買えたものではない。もちろん勝てば買値以上の利益が生まれるが、勝てなければ赤字は増え続ける。
 どうしたものかと考えつつも、観客として各地の闘技場で試合を観戦する日々だったという。

 そんなある日、彼の元へ遠方で開かれる闘技会の話題が伝わってきた。聞いたこともない町で開かれる大会だったが、注目したのは出場者の名前だ。数か月後に開かれるという大会には、なぜか無名の剣闘士ばかりが出場していたのだ。きっと、田舎で行われる闘技会のため出場者集めに難儀しているのだろう。出場者の枠も未だ埋まっていないようだった。
 話を聞いた商人は、これはチャンスだと直感した。田舎の大会とはいえ優勝すれば大金が手に入る。そして出場する剣闘士の質から見て、それはそう難易度の高い試みではないように思えた。

 さっそく彼は大急ぎで、つまりろくに調べもせずに奴隷市場で一番高額な剣闘士を購入した。
 売り手から「即戦力として申し分なし」という太鼓判付きの奴隷を購入できた商人は、すっかり慢心してしまっていた。そこからはお粗末なもので、意気揚々と大会に参加登録し、さて剣闘士を鍛えようかと我流の訓練を行ってみたところ、見事に剣闘士を弱らせてしまった、というのが依頼までの流れだという。

 彼の深い事情を聞き終えたシノは冷たい表情のまま状況を確認する。

「……つまり、貴方は金に目がくらんで情報収集を怠り、訓練士を雇う余裕すらない、と」

 商人は力強く頷いた。

「そうだ!」

「…………」

 もはや何も言う気になれないシノへ、男は半泣きになってすがりつく。

「なんとかしてくれぇ! このままでは私は大損しただけのアホだ!」


 シノは商人を部屋から追い出した。事情を聞き終えれば彼に用はない。何より、もう顔を見たくないというのもあるが。

「さて、と」

 やっと静かになった室内で、シノは思考を切り替えるように言葉を放つ。その金色の瞳は未だ床に倒れたままになっている巨体へ向けられていた。剣闘士である男は目の前で行われていた会話に一切関心を示さなかったが、ちゃんと生きているようで分厚い胸板は一定間隔で上下している。
 シノはしゃがみこむと丸太のように太い腕へ触れた。他者の肉体の変調を察知できる彼の特殊能力は、対象が極度の疲労状態にあるのを明らかにしていく。

「調子は……悪いようですね」

 シノは独り言を言って指を動かす。一見すると、彼はただ皮膚をなぞっているだけに見えた。しかし不思議なことに、シノが指を動かす度に剣闘士の呼吸は安らかになり、瞳には光が戻っていく。これもシノの特殊能力の一つで、相手の生きる力を活性化させ、疲労回復をうながしているのだ。
 数分ほど術を施すと、みるみる剣闘士は血色が良くなっていった。しかし苦し気な様子は変わらない。男は震える腕を駆使して上半身を持ち上げると、難儀そうに口を僅かに動かした。

「み……水……」

 その音は酷くかすれていたが間近にいるシノには正確に伝わっている。

「ちょっと待っていてください」

 シノは術を中断し、持ってきていた鞄から半透明の瓶を取り出した。彼は瓶の中の液体をコップへ注ぐと慎重な仕草で剣闘士の手へ持たせる。

「薬草を煎じた水です。ゆっくり飲んでください」

 シノが注意を言い終えるより先に、男はコップへ口を付けていた。喉を鳴らして豪快に飲み始めた彼の姿をシノは注意深く観察する。水が気管に入りはしないかと警戒したのだが、幸い異変は起こらなかった。

「……ぷはぁっ」

 水を飲み干した男は大きく息を吐き出すと、安堵した顔つきになって数度深呼吸する。文字通り生き返った気分になっているらしく、だいぶ容態は落ち着いて見えた。
 商人曰く、剣闘士にはあまり水を与えていなかったという。別に商人がケチだからではなく誤った知識により「肉体を鍛えるのに水は不要」と考えた結果だった。恐らく剣闘士は、まともに水を飲んだのは久し振りのはずだ。
 シノは男を見つめたまま静かに話しかける。

「話は聞いていましたね? 私が先生として貴方を訓練することになりました。短い間ですが、よろしくお願いします」

 必要最低限の挨拶を済ませた彼へ、剣闘士はおずおずと頭を下げた。

「よ……よろしく……」

 男も挨拶を返したが、それ以上何かを尋ねようとはしなかった。従順な性格なのか。それとも口下手なのか。どちらにせよ、楽しくおしゃべりに興じるつもりのないシノには都合が良かった。
 シノは男のコップへ新しい水を注いでやって話を続ける。

「と、いっても……しばらく激しい運動は控えることになりそうですが。体調を元に戻しつつ、生活を整えていきましょう」

 水を注ぎ終えた彼は部屋を見渡し、難し気な表情になった。

「そもそも、この部屋自体が問題です。何もないじゃないですか」

 現在いる場所は剣闘士のために用意された部屋だ。しかし室内は実に殺風景で、食事のための机どころか寝床すらない有様だった。部屋の隅には砂の入った麻袋が置かれているが、あれは枕の類ではなくトレーニング用の道具として与えられたものだろう。
 部屋というのは休むために存在する。こんな状態では疲れを癒せないし、精神的にも落ち着かない。商人は動物でも飼うくらいの気持ちでいたのだろうか。
 シノの依頼者への評価は順調に下がっていく。何から手を付けたものかとシノは考え込んでいたが、そんな彼へ遠慮がちに声がかけられた。

「あ、あの……先生……」

 声の主は剣闘士の男。二杯目の水を飲み終えた彼は、生気の戻った視線を正面のシノへ向けていた。

「なんでしょう?」

 シノが短く問うと男は控えめにポツポツと発言した。

「俺、訓練、頑張る……今から、できる……」

 前向きな主張だが、現時点では受け入れがたい要求だ。

「その状態で運動したところで効果は出ません。むしろ怪我のリスクを増やすだけです」

 シノは首を横に振ると素っ気なく続ける。

「今日は休みなさい。これは命令です」

「……はい」

 剣闘士は戸惑った顔になったが素直に従った。奴隷という立場上、休みを指示される経験が稀なのかもしれない。
 幸い、剣闘士は大人しい性格らしい。反抗するなら手荒な所業もやむなしと考えていたシノは内心拍子抜けしたが表情には出さなかった。これから彼にはやることが山ほど控えている。気を抜いている余裕などない。


 真っ先にシノが取り掛かったのは部屋の改善。依頼人へ命じ、ベッドを始めとする最低限の生活家具を揃えさせたのだ。奴隷の部屋になぜ、と商人はブツブツ言っていたが、シノの一睨みで沈黙した。
 まともな寝床で休めるようになった剣闘士はあっという間に体調を回復させた。早く戦闘訓練がしたい、という彼をシノは無視し、まずは基本的な運動をさせて彼の素質を測った。走るだけ、ジャンプするだけ、機械を握るだけ、といった単調な指示が続いたが、それでも男は抵抗せず、不思議そうにしながらも命令に従っていた。

 奴隷市場での評価は確かだったらしく、男の身体能力は平均を大きく上回っていた。
 これは彼の出自のおかげでもあるのだろう。男は元々奴隷だったのではなく、辺境に暮らす部族の戦士だった。部族が争いに負けた際に捕虜となり、奴隷として売り払われ、やがて剣闘士として扱われるようになった、というのが彼の経歴だ。

 シノが指導を始めて一か月が経過した頃には、すっかり剣闘士は気力を取り戻していた。
 相変わらず彼は素直で、シノの指示をちゃんと守り、真面目に動き、よく食べ、そして休んだ。もう少し手こずるかと考えていたシノが逆に張り合いがないと感じるほどだった。

 大会まで十日程となった、ある日のこと。
 その日のトレーニングは屋外で行われていた。訓練用に商人が用意していた広場にて、剣闘士は木刀を手に持ち扱い方を復習していた。

「はっ、ほっ」

 気合を入れて素振りしている男をシノは少し離れた位置から眺めている。
 といっても、彼の意識の大部分は手元のスケジュール帳へ向けられていた。剣闘士が根っから従順であるのに確信を持ったシノは、最近では彼の動向を厳しくチェックしなくなっていた。何せ剣闘士は逃走しようとする仕草どころかサボる気配すらなく、実に熱心に訓練に取り組んでいたのだ。

「…………」

 だからこそ、シノは引っ掛かりを覚えていた。どうして逆らおうとしないのか。彼はシノより巨体であり、しかも戦士としての実戦経験があるのだから抵抗を企ててもおかしくはない。当初から反逆を警戒していたシノだったが、今のところまったくの杞憂に終わっていた。
 彼は視線をそっと剣闘士へ向けたが、やはり男は真剣に木刀を振るい続けている。実に迷いのない、力強い素振りだ。しかし、その動きにもシノは疑問を感じていた。
 奴隷が主人の命令に従うのは当然なのかもしれない。だが、行動に本人の意志がともなっていない以上、その心情には苦痛が生まれ、肉体の活動に少なからず影響を与えるものだ。なのに剣闘士の身体は快活とした動作を継続させており、まるで自分の意志で訓練を行っているかのようだった。

 人の偽りに敏感なシノだが、剣闘士の振る舞いに裏があるようには感じられない。なぜ彼がここまで従順なのかと考えだすとシノの心にはふつふつと違和感が芽生えだす。
 彼はパタリと手帳を閉じ、剣闘士へ向かって声をかけた。

「……そろそろ休憩にしましょうか」

「はいっ」

 声をかけられた側は元気よく返事をする。流れ出る汗が天からの光を反射していた。シノも長時間日光の下にいたため若干汗ばんでいる。
 シノが休憩用に用意された小屋へ入るよう剣闘士へうながすと、男は力強い歩みで指示に従った。小屋は木材で作られた簡素なものだが中には机と椅子があり身体を休めるには申し分ない。シノは彼へ栄養剤の入った水を出してやり、自身も自分用の水へ口を付けた。
 そろそろ食事にした方が良いだろうか。椅子に座ったシノはそんなことを考えていたが、視線の先にいる剣闘士が水を飲みつつ木刀をいじっているのに気づき眉間にシワを作った。

「こら、駄目でしょう。休憩中は休憩しなさい」

「ご、ごめんなさい……」

 叱られた男は身体を小さくさせて謝罪する。といっても元々大きな身体をしているため、そう縮んでもいないのだが。彼の動作に合わせ、巨体を乗せている椅子が苦し気にギシリと鳴った。
 どうやら剣闘士は武器の握り方がしっくりしないらしい。彼は未だ木刀を気にしていたが、シノの命令通り木刀から手を放し大人しく水を飲んでいる。
 そんな仕草を見ていると、ますますシノの中の違和感は大きくなっていく。

「……随分と頑張っているようですが、何か理由があるんですか?」

 彼はストレートに疑問をぶつけた。本当に剣闘士が従順なのであれば、この質問にも正直に答えるだろう。それに、嘘をつかれてもシノには見抜く自信があった。

「あ、えと……」

 剣闘士は戸惑ったように口ごもる。しかし、それが偽りの言葉を選んでいる間でないのがシノには分かっていた。どうもこの男は話すのが苦手らしく、会話を始める際には必ずオロオロするのだ。

「……ご主人様、俺の出る大会の話、した」

 ゆっくりと男が話し出す。ご主人様というのは依頼人である商人のことだ。

「ご主人様、大会のこと、よく知らない……でも俺、知ってる」

 男は水へ視線を落として台詞を続ける。

「あの大会、優勝した戦士……自由の翼、手に入る……」

「自由の翼……」

 シノが言葉を繰り返すと剣闘士は大きく頷いた。

「俺、自由の翼、欲しい」

 どうやら男の積極性は忠誠心からくるものではなく、勝者に与えられる栄誉を求めた結果だったらしい。実に自分本位な目的を告げられシノは胸のつかえが取れた気分になる。基本的に他人を信用できない彼からすれば、利己的な感情を見せつけられるのは逆に清々しかった。
 事前にシノは大会の内容を調べており、勝者に「自由の翼」が与えられるのも、それがどういう内容なのかも知っている。だからこそ、彼は不審そうに目の前の男へ尋ねた。

「あなたは自由の翼がどんなものか、分かってるんですか?」

「分かってる」

 再度、剣闘士は力強く頷く。

「俺、自由の翼、手に入れる……父さん母さん、兄弟達と、会いたい……」

「……そうだったんですか」

 事情を把握したシノはやっと納得できた。反抗的な態度をとらないのは大会へ出場するため。闘技会という命懸けの戦いに対する熱心さは優勝するため。これで全て説明がつく。

「だから俺、訓練、頑張る! もっともっと強くなって、優勝する!」

 剣闘士は大きな声で宣言すると勢いよく椅子から立ち上がる。

「先生、俺、もう休んだ! 次の訓練、したい!」

 男は真っ直ぐな瞳でシノを見つめた。それだけで、彼の目的と覚悟に偽りがないのがシノに伝わる。

「……仕方ありませんね」

 シノは淡白に応じると、短めの休憩を切り上げた。


 大会当日。
 開始直前にも関わらずシノは闘技場の外にいた。彼の視線の先にあるのは木製の大きな掲示板で、そこには大会に出場する剣闘士の名前が記載されている。当然、シノが訓練士を務めた剣闘士の名前も書かれていた。

「…………」

 険しい顔つきで掲示板を眺めていたシノだが、一つ溜息をつくと無言のまま視線を外す。
 彼の現在地は闘技場の入り口付近で周囲には絶えず人の往来があった。多くは闘技会を見に来た観客で、彼らは一様に高揚して本日の大会の内容予想に話を弾ませている。
 優勝候補として真っ先に上がるのは聞き覚えのある名前。シノが訓練を受け持った男は、ここでも高評価を得られているらしい。しかしシノの顔に安堵はなく、むしろ苛立ちすら浮かんでいる。その刺々しい感情はしっかり外部へ漏れ出しており、彼の周りは不自然に無人となっていた。
 そんな不穏な空間へ、ずけずけと侵入してくる者が一人。

「あれ、シノじゃんか」

 暗い色のローブを身にまとった小柄な人物が人懐っこい態度でシノへ近寄ってくる。シノは小さな人影へ目を向けると心底興味がなさそうに応じた。

「誰ですか」

 他人行儀な彼の対応に当然相手は気分を害した。フードの奥にある顔を怒らせると拗ねた口調で名乗って見せる。

「スクナだよっ。なんで忘れた振りするのさ!」

「…………」

「わ、忘れた振りだよね……?」

 いつも以上に素っ気ないシノにスクナは不安げだ。
 対してシノは返事をしなかったが、面倒そうな顔つきになりながらも追い払おうとしない辺り、一応スクナの存在は許容範囲に収まっているらしい。

 商人であるスクナは常日頃から世界各地の町を移動しており、今回のように任務の途中で出くわす場面も多々あった。
 スクナはシノの動向に関心があるようで、首を傾げて彼へ問いかける。

「闘技会に興味があるの?」

「いえ、別に」

「だよね。シノってこういうの嫌いそうだもん」

 スクナはあっさり納得した。人嫌いなシノは人が集まる場所すら嫌うのを少年は知っている。
 シノは無愛想なままスクナへ話しかけた。

「あなたこそ、こんな場所に何の用です?」

「ここに知り合いが来ててさ。店を出すっていうから、そっちで買い物したくて」

 少年は彼を見上げて答える。
 闘技会という大イベントが行われるにあたり、現在町には観光客目当ての出店が無数に立ち並んでいた。知り合いとやらの店は、そういった仮設店舗の一つだろう。

「でも、場所が曖昧でさぁ。ちょっと迷ってるんだ」

 困ったように続けるスクナだがシノの淡白さは変わらない。

「そうですか」

 基本的に、シノは仲間以外に不親切だった。スクナは世話になっている相手だが、だからといって協力するつもりはない。
 その不親切さを理解しているスクナは彼へ文句を言うことはなかったが、それでも困った態度は継続させた。

「大会が終わる前に用を済ませたいんだけどなぁ。パレードが始まると帰るのが大変になるから」

 参ったな、と言いたげに頭を振る。だったらさっさと探しに行った方がいいのでは、と返したかったシノだが、彼が台詞を紡ぐより先に少年は話題を変えてしまった。

「あ、シノは知ってる? 大会が終わった後に始まるパレード」

 話好きなスクナは知人との会話を続けたいらしい。

「……さて」

 話好きではないシノは短く答えるに留めた。曖昧な回答だが、それだけで少年には十分だったようだ。
 スクナは勝手に説明を始める。

「この大会に優勝した剣闘士はパレードに参加するんだよ。剣闘士を派手な神輿みたいなのに乗せて、町を移動していくんだ」

 が、そこまで告げると言いにくそうに言葉を濁す。

「で、その終わりには、自由の翼っていう……儀式、みたいなのがあるんだ」

 そんな少年の台詞を補足するようにシノは口を開いた。

「むしろ、今回のメインイベントはそれでしょう。そもそも、この大会自体が、自由の翼を与える人物を決めるために開催されていますから」

「なんだ、知ってたんだ」

 急に饒舌になった彼を見てスクナは意外そうな顔になる。少年の反応に構わずシノは続けた。

「その年で最も強い戦士を選び、自由の翼という称号を与える。そして戦士を聖なる崖へ落とし、来年の豊穣を願う。実に馬鹿げた風習です」

 彼は剣闘士の名前が連なった掲示板へ目を向け皮肉気に言い捨てる。
 本日行われる闘技会はただ剣闘士が戦うだけではない。古くからある町の風習と、闘技会という新しいイベントが組み合わさった、特殊なタイプの祭りだった。優勝した剣闘士は優れた戦士として豊穣を司る神へ生贄として捧げられることになっている。だから出場する剣闘士は、勝っても負けても興行師の懐が痛まない無名の剣闘士ばかりになっていたのだ。どうやら、依頼人である商人は知らなかったようだが。
 古くは、生贄は町の住人から選ばれていたという。しかし当然、本当は誰も生贄になどなりたくない。そのため闘技場が出来てからは「大会に優勝した戦士に栄誉がある」ということにし、剣闘士が犠牲になる習慣に変化していったのだ。

 スクナも今回の祭りの逸話は知っているらしかった。少年は嫌そうな感情を顔に浮かべると小さめの声で言葉をこぼす。

「……俺、できればパレード見たくなくてさ。それもあって、早めに帰りたいんだ」

 年相応に死という概念を恐れる少年は異国の風習に馴染むつもりはないようだ。
 そんなスクナの怯えに構わず、シノはじっと掲示板を凝視していた。見つめているのは、自分が世話をしていた剣闘士の名前。

「じゃあ俺、そろそろ行こうかな。シノはどうするの?」

 会話に満足したのか、スクナは自ら話を切り上げシノへ問いかける。問われた側はゆっくりと瞬きすると、金色の瞳で少年を見下ろした。

「私は帰ります」

 言うなり、シノは闘技場へ背を向けて歩き出す。

「もう、ここでやることは終わったので」

 彼はスクナの隣を横切り、妙に乱暴に歩き去っていった。

「えっ……ま、またねー!?」

 慌てて少年は別れの挨拶を告げる。しかしその声は、大会開始を告げる大音量のファンファーレでかき消えてしまった。

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