盲人とカジノの計略
1
「どーして止まったんですか?」
マイペースな女の声。
「信号が赤だからだよっ!」
返すのは乱暴な男の声。
「悪い人なのにシンゴー守るんですか?」
「お前うっせーぞ!!」
「や、やめてよ……刺激しないでよ……」
二人の会話を遮るのは子供の声。車中の三人は、車が発車してからずっとこの調子だ。
会話を遮る、というより女を制止しようとしているのはスクナだった。年相応に怖いものは怖い少年は、運転席でハンドルを握る男へ恐怖を感じている。何せ男は、自分達を銃で脅し車へ押し込めた張本人なのだから。そんな相手を挑発されては、なだめる台詞も出るというものだ。
対して、女は悪いことはしていないと言いたげに文句を言う。
「不思議だったからキーただけで、刺激しよーとしたわけじゃありません」
どうしてそんなに平然としていられるんだとスクナは呆れてしまうが、もしかしたら彼女は状況を把握できていないのではないかと思うと指摘に躊躇する。女は目が見えておらず、顔には大きな目隠しが巻かれていた。男が銃を持っているのも、会話すればするほど恐ろしい顔になっていくのも、彼女は分かっていないに違いないのだ。
幸い、それ以上騒がず女は少年の隣に座り、手持無沙汰に白杖を弄っている。現在、二人がいるのは車の後部座席。前部座席との間は黒い壁で区切られており、そこに取り付けられた小さな窓だけが前方の様子を知らせてくれる。
「これからどうなるんだろ……」
弱音を吐きながらも、スクナは本能的に逃げ道を探っていた。男は目的地を告げていないが、物騒な手口で誘拐した点から考えても楽しい場所へ連れて行ってくれる可能性は限りなく低い。なんとか脱出しなければならないが、スクナは子供で、隣にいるのは盲人だ。こんな組み合わせで何が出来るというのか。
しかも、少年は紐で後ろ手に縛られていた。これではローブの中から道具を出すのすら覚束ない。女は縛られていないが、それは誘拐犯が紳士だからではなく、縛る必要がないと判断されたからだろう。
誘拐犯は一人だが、立ち塞がる壁が運転席を守っているため男をどうにかすることはできない。ドアにはロックどころかドアノブすら見当たらず、内側からは開けられない仕様になっているのが理解できた。窓もないため外部へ助けを求めるのは絶望的だ。
少年の呟きを自分への質問ととらえたのか、女が変わらずマイペースな調子で口を開く。
「たぶん殺されるんだと思います」
絶望しているところへ絶望を重ねられ、反射的にスクナは声を荒げてしまった。
「なんでそんなに冷静なんだよ!?」
女は少年の大声に臆さず淡々と告げる。
「生物は遅かれ早かれ死ぬからです」
ドライな返答にスクナは面食らってしまった。だが、それで動揺が冷めるほど人生を達観出来てはいない。
「でっ、でも……今日じゃなくても良いだろ!? 自分が死ぬかもしれないっていう意味、分かってんの!?」
どうにもならない状況に動転している少年は、無意味に彼女へ突っかかってしまう。対して、喚かれている側の女は迷惑そうな素振りも見せず、至って冷静な仕草でスクナの方向へ顔を向け、答える。
「それは違います」
「えっ」
「貴方も、死ぬんです」
「ひいぃっ!」
ついに少年は悲鳴を上げてしまった。
「うっせーっつってんだろ!!」
当然運転席の男に聞こえてしまい、今までにないほどの怒号が壁の向こうから響いてくる。
「ごめんなさいぃっ!!」
スクナは縮みあがって謝った。座席に座った体勢のまま数センチ跳んだ気がする。
幾度も繰り返されるやりとりに男はうんざりしたのか、壁の窓を乱暴に閉めてしまった。外の光景が一切見えなくなると、途端に少年の心細さは増してくる。
すっかり話をする気が失せてしまったスクナは、怯えきった自分の心を慰めた。強張る身体を後ろ手に撫でてみるが、恐怖の感情が己を解放してくれる気配はない。
どうしてこんな目に合っているのか。途方に暮れた気分になってきて、スクナはチラリと隣の女を横目で見た。相変わらずうろたえる様子のない盲人は、今は自分の鞄の中を何やら探っている。恐らく誘拐犯の目的は、あの鞄の中身だ。
彼女と関わらなければ、こんな事件に巻き込まれなかったのに。薄っすらと考えてしまったが、あの場で無視を決め込めるほど、少年は薄情な性格をしていなかった。
遡ること一時間弱。スクナはとある複合娯楽施設を訪れていた。
施設内で店を構える商人と交渉を行い、取引の内容をまとめ、帰る途中。
カジノの前を通りかかったスクナは、店の中に白杖をついた女がいるのに気が付く。一目で盲人だと分かる彼女は、カジノを楽しむ人々の間を一人で歩き回っていた。
保護者らしき人物は見当たらない。危なっかしく感じた少年は、持ち前のお節介さで思わず女へ声をかけてしまった。彼女曰く、ここへは初めて来たとのこと。別の棟で行われているコンサートを聞きに来たが、あまり音楽には興味がない上、連れも寝てしまい退屈したため抜け出してきたという。
無鉄砲な行動力にスクナは呆れてしまったが、既に女はカジノで遊び終え別棟へ戻るところだった。帰り道が同じ方向だったのもあり、少年は道案内を申し出て彼女と共に行くことにした。
歩きながら会話をするうち、女はカジノで相当な大金を稼いでいたのをスクナは知った。なんでもルーレットが当たり続けたらしい。彼女の持っている小さな鞄は札束の入った封筒ではちきれそうになっていた。
つまり彼女は、目の見えない状態で、大金を持ってフラフラ歩いていたのだ。やっぱり声をかけて正解だったなと少年は安堵したが、それは言い換えれば、自ら厄介ごとに巻き込まれにいったも同然だったのだと数分後に思い知らされることになる。
そして、問題の数分後。
呑気なおしゃべりに興じて二人が別棟への渡り通路を歩いている時、進行方向を塞ぐ格好で一人の男が立ち塞がった。銃を持った男の要求は、一緒に来てもらおうかの一言。
既にコンサートが始まってから時間が経っているため、会場へ向かう通路を使用する客は皆無。助けを呼ぶ機会は訪れず、あえなく少年と盲人は連れ去られる羽目になってしまった。
2
商業施設から連れ出され数十分は経っただろうか。車が止まったのを知った時、スクナの緊張は頂点に達した。
男が外へ出る音が聞こえ、すぐに後部座席の扉が開く。久し振りに風の流れを感じたが、清々しさを堪能している余裕はなかった。
ドアの外に立つ男が睨みを利かせて指示を出す。
「出ろ」
ぎこちなく少年が従うと、それに続いて女も車を降りた。
スクナが視線だけで周囲を見渡す。現在地は山奥のようで、鬱蒼と茂る木々が三人を無言で見下ろしていた。空が薄っすら赤くなっているため、時刻は夕暮れ時か。
車の前に並んだ二人へ銃を向け、男は女へ指示を出した。
「金を寄越せ」
やはり金が目当てか。非道な手口に少年は怒りを覚えるが、無力な彼は事の成り行きを見守る他ない。
「……はい」
ためらう素振りなく、女は言われた通り鞄から複数の封筒を取り出した。不自然に分厚いそれらの中身が全部札束だと誰が予想できるだろう。
男は奪うように封筒を受け取り、中に金が入っているのを確認すると厳しい表情のまま小さく呟いた。
「……よし」
手早く封筒を車の中へ放り込み、すぐさま二人へ銃を向け直す。
「じゃあ次は、そっちに歩け。変な真似したら分かってんな?」
男が指示した方角は森の奥で、見通しが悪く道らしい道などなかった。
「……?」
スクナは妙に感じたが、うながされるまま素直に足を動かす。金を渡せば自分達は解放されると思っていたのだが、いったい何を考えているのだろう。
それにしても森の奥とは。自分はともかく、盲人が歩ける地形ではない。大丈夫だろうかと少年が後ろを振り向くと、危惧していた通り女は立ち止まっていた。しかし意外にも、彼女は自分を誘拐した男の方へ顔を向けている。
「……貴方、お金がホシーんでしょー?」
女は不思議そうに首を傾げ、誘拐犯へ話しかけた。
「お金を渡したら、帰れるんじゃないんですか?」
危機感のない彼女にスクナは動揺するが、対して尋ねられた側の男は仏頂面のまま答える。
「帰すとは言ってねぇだろ」
「え!?」
非情な台詞を聞いた少年の口から驚きの声がもれた。
「そーいえばそーですね」
「えぇ!?」
呑気な女の台詞にも驚いた声が出てしまう。
スクナが出した音に二人は反応せず、そのまま女は平然と会話を続けた。
「でも私、キョーはデートなんです。だから帰らないといけないんです。多分、告白されると思うので」
白杖へ軽く体重を預けて話す彼女は世間話でもしているかのようだ。その様子を異様に感じ始めたのか、男はやや警戒した表情になって返事をする。
「そりゃあ運がなかったな」
「断るつもりなのでお気遣いフヨーです」
女は素っ気なく返した。すっかり彼女のペースに乗せられた男は不意を突かれた顔つきになってしまう。
相手に立ち直る時間を与えず、女は自分の話を繋げていく。
「……やっぱり殺すんですか?」
絶妙な間を挟んで続けられたのは不吉な問い。自然とスクナの心が跳ね上がった。
「…………」
二つの視線を集めた男は答えない。その反応の意味を知ったのか、女は静かに質問を繰り返した。
「お金を渡したのに殺すんですか?」
悲しむでもなければ命乞いするでもない、ただただ単純に、気になったから聞いているとでもいうような口調。
彼女の態度が気に障ったのか、ついに男が怒鳴り声を上げた。
「お前から殺してやるから黙ってろ!」
銃を持つ手に力がこもる。
撃つ気だ。察したスクナは慌てて対峙する二人の元へ駆け寄った。
「ちょっ、ちょっと待って! 殺すってなんだよ!?」
「黙れっつったのが聞こえねぇのか!!」
今度は男はスクナへ銃を向ける。それへ逆らう度胸もなく少年は立ちすくんでしまった。男は本気だ。自分達を森の奥へ向かわせようとしたのは、人目につかないところで殺して死体を隠す手間を省くためか。
咄嗟にスクナに浮かんだ選択肢は、逃げる。腕は縛られているが背中の翼は無事だ。あまり飛行速度は出せないが、運が良ければ無傷で逃げられるかもしれない。
だが、そうなれば女を置いていくことになる。銃を持っている男と二人きりで山奥へ残していけば、目の見えない彼女の末路は火を見るより明らかだ。
しかし、この場に残ったところで何ができるのか。死体が二つできるだけなら、自分一人が逃げたって。
銃を見つめたまま固まっているスクナの頭の中では、様々な事柄が高速で動き回っていた。油断すると頭の中が真っ白になってしまいそうだ。
だから、女の放った静かな一言で現実に引き戻される感覚に陥った。
「……お金が目的じゃないんですね」
「へ?」
少年が硬い動きで声の方を見ると、盲人は背筋を伸ばして対面の男を見据える格好になっている。
「稼いじゃいけないお金だからカイシューしに来たんでしょ?」
状況に不釣り合いな、やや楽しそうな口調。その様子にはスクナどころか男すらも呆気にとられてしまう。
二人の反応に気付かないまま、口元を緩めた彼女はきっぱりと断言してみせた。
「貴方、カジノの人です。そーですね?」
「な……!?」
男は目を見開く。
「え……えぇ……っ?」
状況が飲み込めない少年は困惑した声を上げてしまった。どういうことかと女へ視線で説明を求めるが、そんな仕草を盲人が認識できるわけもない。
しかし幸いにも、彼女は誰にうながされるでもなく話を続けた。
「あのカジノ、ズルしてます。ルーレットのディーラーさん、どこにボールが止まるか分かってました」
「そうだったの!?」
謎解きでもするような女の解説を聞き、スクナの口から感じたままの感想が飛び出す。そういえば、今日会った商人が「あのカジノは当たらない」と愚痴をこぼしていた。
「……誰から聞いた?」
絞り出された男の声には、今までにないほど冷たいものが込められている。彼女の言葉は真実なのだろう。稼がれた金を秘密裏に回収するため、カジノ側が差し向けたのが彼なのだ。
刺すような問いに、女は相変わらず軽い口調で答えた。
「誰からもキーてません」
「言え!」
掴みかからんばかりの剣幕で男が命じるが、彼女は僅かに眉間へシワを作っただけだ。
男は舌打ちして一歩前へ踏み出す。暴行の気配を察しスクナは制止しようとしたが、彼の足はピクリとも動かず、声すらも喉に張り付き出てこない。男への恐怖で、すっかり少年の身体は怯えきってしまっていたのだ。
「……っ」
スクナは臆病な自分を心の中で罵倒する。焦りと恐怖が混ざり合い、最悪のシナリオばかりが心の中で渦巻いていく。
野草や落ち葉を踏みしめる男の足音が、妙にゆっくり聞こえる気がした。それでも、元々離れていない盲人と誘拐犯の距離は、あっという間に縮まってしまう。
あと一歩で男の腕が女へ届く。そこまで両者の位置が近づいた時。
「……私、人の心が見えるんです」
ポツリと、女が言葉を発した。
「はぁ?」
突然の奇妙な発言に、男は思わず立ち止まる。馬鹿にしたような反応だったが、彼女は意地になるでもなく淡々と話を続けた。
「だから、どこにルーレットのボールが止まるか分かりましたし」
女が一度、強く白杖を握る。
「貴方が弱いのも、分かっています」
「……なんだと?」
挑発された男の顔にはありありとした怒りが宿った。見えるはずもない彼女は少しだけ微笑み、緩やかな動きでスクナの方を指さす。
「弱いから、わざわざ子供の腕を縛ったんでしょー?」
自分の位置が分かっていたのかと、内心少年は驚いてしまった。だが、その驚きはすぐさま別の感情に上書きされる。
「本気でテーコーされたら子供にも負けちゃうんでしょー?」
続けられた挑発。スクナの背筋が凍り付いたのと同時に男は怒鳴った。
「てめぇ!」
振り上げられる拳。
「やめろぉ!!」
意識しないまま少年は叫んだ。金縛りの解けた足が力強く大地を蹴り、勢いのまま男へ体当たりする。
が、小柄な子供の体格で大人に敵うはずもない。男は僅かに体勢を崩しただけで、すぐさまスクナへ殺気立った視線を向ける。
「邪魔だっ!!」
吐き捨てるように言うと、遠慮なく少年へ蹴りを食らわせた。
「ぐっ……!」
スクナは顔から地面へ叩き付けられる。腕が縛られているせいで、攻撃への対処どころか受け身すらとれない。
少年は自分の有様を情けなく感じたが、落ち込んでいる場合ではなかった。必死に立ち上がろうとするものの、腕が拘束されている上、極度に緊張しているのも合わさり上手く身体が動いてくれない。立つというのは、こんなにも困難な動作だっただろうか。
うつぶせのまま転がっているスクナの背後では、男が女へ向き直る気配があった。なんとか逃げてくれないかと少年は祈るが、女が動く様子はない。
盲人の彼女では走るのすら覚束ないだろうが、願わずにはいられなかった。せめて、どこかに隠れてくれないか。それか、誰かが偶然通りかかって自分達を助けてくれないか。
都合のいい想像ばかりが広がり、スクナは己が現実逃避しつつあるのを知った。
同時に、これは絶好のチャンスかもしれないと、ふと思う。男の注意が自分から逸れている間に、そっと飛んで逃げてしまうのだ。
男は気づかないだろう。きっと、上手くいく。
「…………」
そんなことを考えてしまう自分が、スクナはたまらなく嫌だった。
少年は弱さを振り払うように深く息を吸い込んだ。野草の放つ緑の臭いが体内へ入り込むと、意識が現実へ引き戻されていくのを感じる。とにかく今は立ち上がらなければ。
難しい話ではない。落ち着けば簡単だ。何度も己へ言い聞かせ、スクナはゆっくりと地面を足で確かめた。次は、上半身が動く番だ。
「なっ……」
もがく少年の背後で男の声が聞こえた。反射的にスクナは縮こまったが、声に怯えが含まれているのに気付き違和感を覚える。突然恐ろしい者と出くわしてしまった時に放たれる、驚きと悲鳴が混ざった音だ。
「何だ……お前……!?」
男が恐怖の対象に話しかけている。彼以外でこの場にいるのは、無様に倒れたままでいる子供と、目が見えない女。どちらも男の脅威になり得ない。
一体何が起こっているのか。嫌な予感が過った瞬間、スクナの身体は奇妙な風の流れをとらえた。動きがなく、感触もない。だが皮膚の上を何かが通過していくような、全身が後ろへ引っ張られるような、見えない力の動き。
その現象に確信を持ち、疑問を抱いた頃には、不思議な感覚は収まっていた。しばし少年はじっとしていたが、男の声も、女の声も、それ以外の音も聞こえない。
「……?」
スクナは困惑したものの、すぐに現状を思い出し気持ちを切り替えた。肩を大地へ当て、腹に力を込める。なんとか上半身を起こすと、ふらつきながらも立ち上がるのに成功した。
恐る恐る、背後を振り返る。そこには、白杖を持った女が一人で佇んでいた。
「……えっ?」
自分が見ている光景を理解すると、少年の口からは自然といぶかし気な声がもれてしまう。
「あれ? さっきの男は……?」
自分達を誘拐してきた男の姿が見当たらない。周囲を見渡すが、まるで最初からいなかったかのように男は忽然と姿を消している。
スクナの問いに女が首を傾げて答えた。
「さー……?」
怪我を負った様子もない彼女に安堵しつつも、少年は更に尋ねる。
「……分かんないの?」
「私、目が見えませんから」
女は顔の目隠しの位置を正し、更に続けた。
「帰ったんじゃないですか?」
「えぇ……」
あまりに楽観的な予測に少年は力が抜けてしまう。自分達が乗って来た車は相変わらず山道に停車しており、運転手が戻ってくるのを待っている。つまり、男はそう遠くに行っていないはずだ。
では、男はどこへ消えたのだろう。先ほど聞こえた台詞から考えると、男は恐ろしい何かを見て、怯えて逃げて行った可能性がある。しかし現在、見える範囲に恐怖を感じられるようなものはなかった。
真っ先に思いついたのはクマ等の野生動物だが、男が相手に「お前」と呼びかけていたのを考えると違和感がある。何より、車を置き去りにする理由が分からない。
考え込んでしまったスクナへ女は真っ当な選択肢を提案してきた。
「今のうちに逃げませんか?」
「う……うん……」
冷静な彼女の言葉に少年は頷く。とにかく、誘拐犯が近くにいないのは確かだ。逃げるなら今しかない。
正確な現在地は分からないが、山道をたどれば舗装された道へ出るはずだ。道を歩いていけば町へ着くし、運が良ければ途中で人や車に出くわし、助けを求めることだってできるかもしれない。例え迷ったとしても、空を飛べるスクナなら上空から道を探せるのだから、なんとかなるだろう。
状況に光明が見えスクナの心に気力がわいてきた。なんとしても帰ろう。そう志し、一歩踏み出した。途端、
「うわっと!」
想像以上に足が鈍い反応を返し少年は転びそうになった。緊張し続けた身体はすっかり疲労していたようで、前向きな意志についていけなかったのだ。
転びかけた彼に気付いたのか、女はスクナの方へ顔を向け話しかける。
「歩けないんですか?」
「いや、平気!」
気を取り直した少年は元気な声で返事をした。こんな場所で弱音は吐けない。
「せめて腕が使えればなぁ……」
が、愚痴は吐く。スクナは忌々し気に、依然として拘束されたままの己の腕を見た。歩けなくはないが、疲れ切っている身体には地味な重しとなっている。
「……切れるもの、ないですか?」
隣まで歩いてきた女に問われ、少年は溜息交じりに答えた。
「服の中に、あるにはあるんだけど……」
スクナの暗い色のローブの中には、今日会った商人との交渉で手に入れたナイフが入っている。骨董品だが手入れがされているため切れ味はあるはずだ。
しかし、腕が使えない少年には取り出せないし、目が見えない女に刃物を持たせるのも気が引けた。
「私が切ります」
が、彼女が自分から提案してきたため、スクナは驚きと心配が混じった声を上げてしまう。
「えっ、ナイフだよ? 危なくない?」
「場所を教えてもらえれば、出来ます」
不安がる少年を余所に、女はゆっくりと彼の横へしゃがみこんだ。
「どこにありますか?」
出来るというなら、やってもらうに越したことはない。スクナの心には未だ気がかりが残っていたが、意を決してナイフが仕舞われている位置を告げる。
「えーと……なんていうんだろ……肝臓の辺り……?」
「カンゾー……」
独特な表現方法を反復して、盲人は慎重な手つきで彼のローブを探った。少年はくすぐったくなってしまったが、なんとか我慢する。
やがて女は、無事に目的のものを取り出した。鞘に納められた古めかしいナイフは、一見すると小汚いガラクタに見える。だが紛れもなく値打ちものだ、と商人は主張していた。諸々の真偽も含めての商談の末、今はスクナの所有物となっている。
「腕はどこですか? ここですか?」
「わっ、こっちこっち!」
見当違いな箇所へナイフを当てようとした女へ、慌てて少年は指示を出す。
何度かヒヤリとする場面があったものの、最終的に拘束は解除された。紐が切断されたのが感覚で分かった時、少年は自身でも驚くほどの安心感に包まれる。
「ふー……」
解放された腕をさすったスクナはホッとして息をもらした。
「ありがとう! 助かったよ」
礼を言う少年だったが、当の恩人は彼の方へ意識を向けておらず、自分の手の中にある刃物を可愛がるように撫でている。
ナイフが珍しいのだろうか。無視される格好になってしまったスクナだが、そう思うと機嫌を損ねる気持ちにはなれない。
しばし女は得物を指で触っていたが、やがて少年へ顔を向けると、ゆっくりと口を開いた。
「……このナイフ、私に売ってくれませんか?」
「えっ」
突然の提案にスクナは驚いてしまう。どうやら彼女はナイフを気に入ったらしい。
取引先が決まっている商品ではない。売ってくれと客がいうなら売るのが商人だ。しかし。
「骨董品だよ? 何に使うのさ?」
浮かんだままの疑問が少年の口からこぼれる。骨董品の用途といえば観賞用だが、目の見えない彼女が楽しめるかどうかなど言うまでもない。
首を傾げて女は答えた。
「……記念?」
実際、特に深い理由はないのだろう。短時間の付き合いだが、どうも彼女は気ままな性格らしいとスクナは感じ始めていた。
「でも……高いよ?」
更に少年は商談を渋る。相手は腕を解放してくれた恩人だが、そこそこの値段で買い取った物をタダで渡すわけにはいかない。その事情を伝えるのが狭量な気がして、スクナは後ろめたい気持ちになってしまっていた。
「構いません」
が、女は気分を害さず了承する。自身の鞄の中へ手を入れると、すぐに何かを取り出した。
「これだけあれば、足りるでしょー?」
彼女が握っていたのはくしゃくしゃの紙の束。
「うわっ、凄……!」
それが全て紙幣なのを知ると、少年は呆気にとられた声を上げてしまった。
「さっきのフートーから、お金を少しずつ抜いておいたんです」
言って、女はスクナへ金を押し付けてくる。咄嗟に受け取ってしまった少年の手のひらには、次から次へと元札束が乗せられていった。その全てがくしゃくしゃになっている点から女が雑に金を引き抜いていたのが分かる。
いつの間に、とスクナは考えてしまったが、思い返してみると車の中で彼女が鞄を探っているのを見ていた。きっとあの時、複数の封筒から少しだけ紙幣を抜き取っていたのだろう。度胸ある行動に少年は内心舌を巻いてしまった。それと同時に、案外俗物的なんだなと、自分のことは棚に上げて考えてしまう。
余計な思考をしている間にも紙幣は重ねられていき、ついに手のひらに収まらなくなる寸前になった頃、やっと女は動きを止めた。金が尽きたらしく、青白い手を鞄へ突っ込みガサゴソ引っかき回している。
スクナはおずおずと話しかけた。
「あのぉ……こんだけあれば、十分だよ……?」
数えていないため正確な額は分からないが、これほどの金があれば同じものがもう一本買えてしまうだろう。
少年の声を聞いた女は、やっと鞄を漁るのを止めた。一仕事終えたかのように小さく息を吐き出すと改めてスクナへ向き直る。
「……今回の件は私がゲーインなので、お釣りはいりません」
太っ腹すぎる言葉に少年は驚愕した。
「いいの!?」
「いーのです」
見慣れてきた平然さで彼女は頷く。札束の量が理解できてないんじゃないかとスクナは心配になったが、一方で、くれると言うんだから黙ってもらっておけと心の意地汚い部分が囁いている。
「では、出発しましょー」
戸惑っている間に女は意識を切り替え、のんびり宣言するなり立ち上がってしまった。
「う、うん……」
少年は慌てて返事をする。男が戻ってくるかもしれないのだから、いつまでもこの場に留まっているのは危険だ。
「道はどっちですか?」
「あ、こっちだよ。着いてきて」
盲人の服の袖を軽く引き、スクナは方角を伝える。彼女の手が自分の肩を掴んだのを確認すると、ゆっくりと少年は歩き出した。
白杖が地面を叩くのを横目で見ながら、スクナは少しだけ後方を振り返る。相変わらず男の姿はなく、停車している車だけが主が帰ってくる可能性を示していた。
あの車の中には大金があるんだなと、ふと少年は考えてしまう。鍵がかかっているのだから開けられないし、この状況で欲を出している余裕もないのだが、それでも常日頃から金と接している彼にしてみれば後ろ髪を引かれる思いがあった。
「…………」
何を考えてるんだとスクナは頭を振る。
己に呆れつつ前へ向き直り、改めて正面に続く山道を見据えた。
3
歩き始めて数十分ほど。
「やった! 道路だ!」
草木の先に人工的な灰色を見つけスクナは喜びの声を上げる。幸い、そう時間はかからず二人は道路を発見できた。
急ぐ心を抑え、少年は盲人の歩みに合わせて山道を進む。やがて足が硬い道を踏みしめると、じわじわと安堵感が心の中へ広がっていった。これで遭難の心配はないだろう。
次の問題は最寄りの人里の位置だ。どちらへ行けば良いのか。距離はどのくらいなのか。飛んで上空から確かめるのが早いだろうか。
立ち止まり考えていたスクナだが、女がローブの裾を引っ張ったため思考を中断する。
「……え? 何?」
少年が彼女を見上げると、女は青白い顔を正面に向けたまま、なんでもないことのように言葉を告げた。
「……ここでお別れしましょー」
「へっ?」
予想外の台詞を聞き、スクナの口からは間抜けな声が出てしまう。固まっている彼へ更に女は続けた。
「私のことは置いてってください」
「ど、どうしたの? 疲れた?」
困惑して少年は彼女を気遣う。なぜ突然置いていけなどと言い出したのか、理由がさっぱり分からなかったのだ。
スクナからの問いに女は軽く首を横に振った。
「いえ、ここで待ってれば迎えが来るので」
「迎え……?」
意味が理解できずにいる少年の様子を察し、彼女は自分の鞄の中から何かを取り出し、目の前に晒して見せる。
「……ほら、これ」
女が持っているのは長方形の黒い物体。子供の手の中にでも収まるサイズのそれを見て、最初スクナはキーホルダーだと思ってしまった。
しかし、よくよく観察してみれば、オモチャなどではない精密機械なのが知れる。
「これは……発信機?」
彼女の発言から少年は推測する。商品としても似たような道具を扱ったことがあった。電波を発信して持ち主の居場所を知らせる小型の機械だ。
「私がいなくなった時は、これを目印に連れが私を探しに来る手筈になっています」
「へぇー」
随分準備がいいなとスクナは目を丸くする。
もしかしたら、彼女は勝手にいなくなってしまう常習犯なのかもしれない。堂々とカジノをうろついていた光景を思い出すと、ありえる話のように思えた。さすがに誘拐を想定して持たせられたわけではないはずだ。
そして、こんな風にいなくなった彼女を探すのが連れとやらのお約束なのだろう。確か女は「今日はデート」だと言っていた。つまり、連れとやらは男性か。
スクナは興味本位で聞いてみる。
「連れって、彼氏さん?」
「……それに近いかもしれません」
少々考えたものの女は肯定した。
「そろそろ私がいなくなったのに気づいたでしょーし、ここで待ってれば見つけてくれると思うので、」
彼女は通信機をしまいつつ言葉を続ける。
「私に構わず、行ってください」
「だ、だからって、一人で残していけるわけないじゃん……」
当然スクナは反論した。
「さっきの男が追いかけてきたらどうするのさ? それに、野生の動物だっているだろうし」
少年は周囲を見渡す。今のところ危険なものは見当たらないが、道路を囲む鬱蒼とした木々が作り出す空間には、得体の知れない何者かが潜んでいそうな非日常的雰囲気があった。
「町まで一緒に行こうよ。そこで迎えを待てば良いじゃん」
「…………」
スクナは主張するが、盲人が返した返事は沈黙。どうしてそんなに頑ななんだろうと少年は不思議に思う。誘拐犯と対峙していた時もそうだったが、彼女は危機意識に疎い上にマイペースすぎる気がした。
引っ張ってでも連れていくべきか。自分に力があれば彼女を抱きかかえて行けるのに。すっかり困ってしまったスクナだが、盲人の様子は変わらない。
「……私の彼氏、怖いんですよ?」
「え?」
突然話題が変わり、やや混乱した少年はうつむいていた視線を上げた。
「人を食べちゃうんです。見つかったら、貴方も食べられちゃうかもしれませんよ」
視界にあるのは目隠しをした盲人の顔。どういう意図を持った発言か分からず、しばしスクナは息をするのを忘れてしまう。
人を食べる人物には心当たりがあったが、まさか彼が今回の件に関わるとは思えない。となれば、女の発言は比喩表現か。
おどおどと少年は問う。
「……悪い人、ってこと?」
つまり、人を食い物にするような人物ということなのだろう。犯罪組織の一員か、はたまた狡賢さに長けた悪党か。度合いは分からないが一般人が迂闊に関わらない方が良い人種なのかもしれない。
確かに、目の見えない女にわざわざ発信機を持たせる辺り、連れとやらは少々異常な側面を持っているように思える。
怖気づいたスクナへ向かって女は一歩足を踏み出した。
「私も、悪い人なんです」
彼女の行動、発言。その意味を察した少年は咄嗟に後退ってしまう。
「え……えぇっ!?」
スクナの喉から引きつった声がもれた。女の手には、先ほど彼から購入したナイフが握られていたのだ。ゆっくり持ち上げられた刃は威嚇するようにギラリと光る。
「そ、そんなことしたら危ないよ!?」
反射的に少年が放った台詞は盲人を気遣う言葉。目の見えない人物がどの程度刃物の危険性を知っているのか、彼には分かりかねていた。そして、なぜ自分が攻撃されようとしているのかも、まったく理解できていない。
逃げようとする足と動揺する心。どうすれば良いか分からなくなったスクナは、無意味に腕を前へ突き出し制止を求めるポーズを作っていた。
一方の女は、それ以上近づかずナイフを構えたまま立ち止まっている。それもそのはずで、刃物を持った盲人は白杖を落としてしまっているのだ。足元を把握する術を失った彼女は、もはや歩行すら満足にできないだろう。
女に自分は襲えない。それを理解して人心地がつくと同時に、少年の心にはますます困惑が広がっていった。
いったい何をしたいんだと問おうとした瞬間、ほぼ同時に彼女も口を開く。
「……貴方、私を見捨てよーとしたでしょー?」
「!?」
その台詞を聞いた途端、スクナの思考は凍り付いた。目隠しをした女は表情の読み取れない顔で言葉を紡ぐ。
「貴方、お金が大好きなんでしょー?」
見捨てようとしたこと。金が好きなこと。どちらも真実だった。卑怯な自分を、強欲な自分を続けざまに指摘され、一瞬少年の頭の中は真っ白になる。
彼女が人の心が見えると言っていたのを思い出す。あの時は疑問を抱く間もなかったが、まさか、本当なのだろうか。女は目が見えないのだから、自分の細かな仕草で意図を知るのは不可能なはず。
固まっているスクナへ向かって盲人は淡々と告げた。
「……私、貴方が嫌いです」
細い指で握った得物を少しだけ標的へ向かって差し伸ばす。
「これイジョー、私に関わらないでください」
ナイフの刃先は、僅かに震えていた。それを見て、やっとスクナは女の気持ちを理解する。
「……分かったよ」
小さく呟くと、少年は彼女の方を向いたまま数歩後退した。盲人が刃物を構え続けているのを確認すると、浅く溜息をついてゆっくりと背を向ける。一歩、二歩と歩みを進めるが、コンクリートを歩く足音は一人分だけだった。
誘拐されて以降、女はずっと怯えていたのだ。平然として見えたのは全て演技。目の見えない彼女の精一杯の戦い方が、平静の装いだったのだろう。突然得体の知れない男に連れ去られ、隣にいる人物は頼りにならない。女とスクナの境遇は同じだった。どんなに心細かったかは、スクナ自身が一番良く共感できる。
女が本当に人の心が見えているかは分からないが、非常に鋭い洞察力を持つのは確か。彼女は当初から、誘拐犯が自分達を殺そうとしているのに確信を持っていた。そして一緒にいる相手が隙あらば自分を置いていこうとし、金を見れば執着したのも察知していた。少年は信用に値しないと判断した彼女は、共に行動したくないという結論に達したのだ。
スクナは都合よく利用された形になったが、怒る気にはなれなかった。もし自分に人の心が読めたとして、自分のような人物を目の前にしたら、相手を信じられるだろうか。自分への裏切りを考え、貪欲に金銭を求める輩と、緊急時に一緒にいたいと思うだろうか。
彼女は印象よりもずっと賢く、したたかだったのだ。生き延びるための策を巡らせ、計画通り遂行した。それを責められるほど、少年は自分の性格に寛大になれない。
だが、スクナは心の中で言い訳する。嫌いだなんて言ってほしくなかった。誰だって銃を持った敵対者は怖いし、金には関心が向いてしまう。実に一般的で、普通の感覚だ。むしろ、そう感じない奴がいるのだろうか。
トボトボ歩きながら自分自身を慰めていた少年だったが、その疑問に辿り着いた時、ふと息を飲む。女の連れとかいう男は、もしやそんな人物なのでは。あれだけの洞察力を持つ彼女が一緒にいるのだから、よほど俗から離れた感覚の持ち主なのかもしれない。
そこまで考えたところで、スクナは一人で苦笑いしてしまった。
「……まさかぁ」
そんな人物がいるとは思えなかったのだ。
そういえば、女は連れに告白されそうだが、それを断ると言っていた。恐らく連れとやらも常人にすぎないのだろう。彼女の御眼鏡に適う人物は、なかなかいないに違いない。
人の心が分かりすぎるというのも大変そうだ。考えるのに疲れてきて、少年は肩で一つ息を吐き出す。後ろを振り返ると曲がりくねった道路だけが見え、盲人の姿は見えなくなっていた。
本当に置いていって大丈夫だろうか。一抹の不安はあったものの、戻ったところで彼女を説得できるとは思えない。追ってくる人影もなく、木々が風で揺れる微かな音だけが夕闇に響いていた。
スクナはもう一度深く溜息を吐き出すと、トントンとかかとだけで地面を叩く。それを合図に少年の背中から翼が伸び、帰還の準備が整った。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?