窓にいる

 スリッパが廊下を叩くペタペタという音。それが妙に響く気がして、思わず立ち止まりそうになる。しかし止まってしまえば、周囲に広がるのは生暖かい空気と闇ばかり。消灯時間を過ぎた病院は静まり返っており、非常灯の光だけがボンヤリと廊下を照らしていた。足が止まり無音になったら最後、途端に何者かがフラリと現れそうで、むしろ歩みは速まっていく。
 不自由な足に苛立ちながらの歩行は不規則な足音を作り出した。この音に紛れて誰かが近寄ってくるんじゃ。そんな恐ろしいシチュエーションを頭に浮かべてしまう自分の想像力に嫌気が差す。実際の所、足音以外に聞こえる音といえば他の患者のいびきくらいのものなのだが。
 病室にトイレがあれば、こんな思いをしないで済むのに。どうして病院というのは各部屋にトイレをつけないのだろう。頭の中で文句を言いつつも歩みは止めない。

 数週間前に調子をこいた自分を殴りたくなる。坂道を自転車で全速力で下るというアホなことに挑戦した自分は、見事止まりきれず壁へ激突した。一緒にいた友人曰く、衝撃で震度一くらい揺れたらしい。これは嘘だと思うが、とにかく自分は病院のお世話になることとなった。
 始業式までには退院できるよと医者は言っていたが、それこそ大きなお世話だ。どうして夏休みになった途端に大怪我をしてしまったのか。子供の悲しい性でテンションが悪い方向に上がっていたとしか思えない。せっかくの長い連休を病院で過ごすハメになるわ、親には呆れられるわ、友人は皆旅行だ親戚の家だと言って見舞いに来ないわ、何一つ楽しいことがない。その上、このプチホラー体験である。もう二度と自転車で坂は下るまいと心に固く誓った。

 男子トイレで用を済ませると、普段と違う足の感覚に苦心しつつ便所サンダルを脱いだ。大人用の大きなサンダルはすっぽ抜けるように飛んでいったが、お行儀良く整えている余裕は無い。サンダルを取ろうと頭を下げれば視界が限定される。再び顔を上げた時、目の前に血まみれの幽霊でもいたらどうするのだ。いやいやそんなはずはない。幽霊なんているはずがない。
 自分に言い聞かせつつ電気を消すと、当然トイレは真っ暗になる。闇の中、鏡に自分の影が映った。それだけのことに恐怖を覚え慌てて扉を閉める。急いでスリッパを履こうとしたため、少し転びそうになった。
 いったん落ち着こう。このまま歩き出したら本当に転んでしまいそうだ。変な捻り方をして入院期間が延びたらどうする。やたら臆病になっている気持ちを切り替えようと、ゆっくり深呼吸した。

ガコンッ

「!?」

 しかし、そんななけなしの冷静さは、突如廊下へ響き渡った音で吹き飛んだ。悲鳴を上げるのも忘れ身体を強張らせる。
 誰かいるのか。闇の中で縮こまって様子をうかがっていると、何やらゴソゴソと動く音が聞こえた。カタンという軽い音を最後に、再び空気へ静寂が染み込んでいく。
 今の一連の音には聞き覚えがある。左右に伸びる廊下を見渡せば、右側にある休憩スペースの明かりが見えた。確か、あそこには。
 なんとなく忍び足になり、足音を立てないよう休憩スペースへ近寄る。電気は消えているが、三台ある自動販売機からは明るい光が溢れ、静かな機械音を響かせ我が物顔で鎮座していた。光を放っているのだから安心感でも抱きそうなものだが、無機質な青い光に包まれている様は、昼間とは違う異様な存在に思える。

「あれ?」

「うぉう!?」

 いきなり声をかけられ、今度は思わず変な声が出た。声の主を捜せば、缶コーヒーを持った女の人が椅子に腰掛けているのが見える。白衣を着ていることから医者なのが分かった。やはり、さっきの物音は自動販売機で飲み物を買った音だったか。

「こんな時間にジュース買いに来たの?」

 女医は壁にかけられた時計を確認しつつ聞いてきた。既に時刻は十一時を過ぎようとしている。

「……違う」

 首を振ってアピールした。さっき驚いたせいで上ずった声になってしまう。
 この人は何度か病院内で見かけたことがあった。医者や看護師の態度から、彼らより偉い立場の人なのだなと思っていたが、それ以上の接点はない。確かアヤ先生と呼ばれていた気がするが、ちょっと曖昧だ。こんな夜中まで仕事をしていたのだろうか。

 自分の答えを聞いたアヤ先生は不思議そうな顔をした。

「じゃあトイレ? 気をつけてね」

 既にトイレへ行った後だったが、どう言えば良いか分からず軽く頷いて肯定してしまう。知らない大人と話すのは苦手だ。
 物音の正体も分かったし、用も済ませた。もう部屋へ戻ろう。休憩スペースから立ち去ろうとして溜息が出た。例の時間が近づいている。

「……大丈夫?」

 溜息が聞こえたのか、知らずに重苦しいオーラでも放っていたのか、心配そうな声が自分の背を追ってきた。振り向けば先生が僅かに椅子から腰を上げているのが見える。缶コーヒーはテーブルの上へ置かれていた。
 大丈夫、と聞かれてもどう答えれば良いやら。戸惑っていたが、ふとある考えが浮かんだ。そうだ。この人は医者よりも立場が上なのだから、相談してみれば事態が好転するかもしれない。


 意識し始めたのは入院して五日くらい経った頃だと思う。
 夏の夜。寝苦しく、かといって骨折の都合上自由に寝返りをうつこともできず、眠いはずなのに寝付けないというウンザリな状況を過ごしていた。
 時計を見れば既に時刻は十二時を示そうとしている。子供はさっさと寝ろとしつけられている自分にとって、こんな時間まで起きているのは稀だった。このままでは明日になってしまう。不思議と焦る気持ちに襲われるが、目をつぶっても一向に睡魔がやってくる気配はない。眠れないのは暑さのせいだけではなく、いつもと違うベットの寝心地や枕の感触も原因なのだろう。枕だけでも普段使っているヤツを持ってきてもらえないだろうかと考えつつ、無情にも時間は過ぎていく。

 妙に耳へ届く秒針の音に苛立ちつつ、何度目かの溜息をついた時。

トン

 窓の方から音が聞こえた。視線をそちらへ向けるが、カーテンに覆われた窓には何も異変はない。
 バカな虫でもぶつかったのだろうか。以前、夜に窓を開けっ放しにしていたらカナブンが飛び込んできたのを思い出し結論付ける。

 その日はウンウン唸っている内に、いつの間にか寝てしまった。夜中の出来事も忘れ、ついでに枕を頼むのも忘れた。それだけで済めば良かったのだが。

トン  トン

 次の日から窓の音が気になるようになった。暑苦しく寝付けない深夜には決まって聞こえる上、どうも叩く音が大きくなっている気がするのだ。
 最初こそウルセーと頭の中で文句を言いつつ聞き流していたが、継続的に聞こえてくると煩わしさより不気味さの方が増していった。

トン  トン  トン

 いくら今が夏で虫の動きが活発になっているとはいえ、一定のテンポで窓へぶつかってくるというのは不自然極まりない。それにこの音の間というのが、奇妙なことに人が扉をノックするリズムにそっくりなのだ。誰かが中にいるのを確認しているようで、自分はいよいよ眠れなくなっていった。
 同室の患者は全員里帰りだとかでいないため、この恐怖体験の証人は自分しかいない。入院初日こそ一人で病室を独占できると喜んでいたのだが、今はそれが仇となっている。

 医者に異変を報告したものの、今までそんな話は聞いたことがないと流されてしまった。医者がそんな調子だから親も信用してくれず、部屋を変えてくれという訴えは却下され続けている。
 あまりしつこく騒ぐと、五年生にもなって幽霊が怖いのかと笑われる気がして強く食い下がれなかった。自分にだってプライドはある。


 という内容をアヤ先生に話した。幸いだったのは、先生が面倒がらず真剣な表情で聞いてくれたことだ。
 医者といい親といい、この手の話をすると必ずウザそうな顔か苦笑いな顔をしやがる。真面目に相手をしてくれる大人のなんと貴重なことか。案外子供は大人の無神経な態度に傷ついているのだ。気をつけて欲しい。

「……私も、その病室で幽霊が出るって話は聞いたことが無いな」

 コーヒーを飲みながらアヤ先生が呟く。隣で状況を説明していた自分は反論した。

「幽霊じゃなくて、変な人がいるのかもしんないじゃん」

 なにも幽霊だと決め付けているわけではない。もしかしたら変質者の類かもしれないではないか。意味も無く人を刃物で刺すヤツがいるとニュースで見たことがある。深夜に小学生男子が入院している病室の窓をノックし、ビビらせて面白がる変質者だっているかもしれない。

「変な人ねぇ……だって病室、三階でしょ?」

 その通りだ。自分の部屋は三階にあり、角部屋でもないため軽い気持ちで侵入できる場所ではない。

「この病院、結構セキュリティしっかりしてるし、不審者がいればすぐ分かると思うんだけど……」

 難しい顔をして悩んでいる、ように見えるアヤ先生を見上げつつ、自分は少し緊張していた。幽霊の噂はない。変質者の可能性も薄い。となると、大人を動かすには説得力が不足している。
 失敗だ。自分は心の中で結論付けた。これではせいぜい医者への報告程度で、即部屋変え決定にはならない。今日は戻れと追い払われておしまいに違いない。

「でも、一応確認しておこうかしら」

 予想外の答えに思わず顔を上げた。相変わらず先生は考え込むように眉間にシワを作っており、ガキがなんか言ってるから適当に付き合っておこうかという雑な感情は読み取れない。

「え、マジ!?」

 驚きとやったぜという気持ちで大きな声が出てしまった。しんとした廊下に自分の声が響き、慌てて口を閉じる。

 時計を確認しアヤ先生は呟いた。

「今から行けば間に合うよね」

 壁にかけられた時計は十一時三十分を示そうとしている。異音がするのは十二時だ。

「今から? 先生だけで?」

 思わず確認した。幽霊だか変質者だか知らないが、もし襲ってきたらどうするのだろう。女の人一人で大丈夫なのか。

「大丈夫よ。体力には自信があるし、いざとなったら君を抱えて逃げるわ」

 自分の懸念を察したのか先生が柔らかい表情になる。

「それに、不審者が病院の敷地内をウロウロしてるなら放置できないし」

 どうやらノックの主を不審者だと判断しているらしい。

「……幽霊だったらどーすんの?」

 もちろん幽霊なんていないと思うのだが、万が一ということもある。

「そん時も逃げるしかないでしょうねぇ」

 そう言ってアヤ先生は苦笑いを浮かべた。不安だ。
 だが、ここで証人を増やさなければ恐怖の夜が続いてしまう。大人が大丈夫と言っているのだから信じるしかない。

 先生はコーヒーを飲み干すと立ち上がる。

「じゃ、行きましょうか」

 時計の針が大げさな動きで一分進んだ。


 病室。自分はベッドに横たわり、なんとなくシーツの中に潜り込んでいた。こうしている様子を見ず知らずの誰かに監視されている気がしてそわそわする。冷房は入っているが無いよりマシという程度で、生暖かい風には鬱陶しさしかない。
 窓の方を見れば、側の空きベッドに腰掛けているアヤ先生の姿が見えた。視線はカーテンに覆われた窓へ向けられており、今は後頭部しか見えず表情は分からない。何か異常があるか聞いてみようかと思ったが、もし振り向いた顔が別人だったら、という想像が頭を掠めて思わず生唾を飲み込んだ。

 時計を見れば時刻は十二時を示していたが、未だノックの音は聞こえない。今日に限って何も無いとかふざけんなよと心の中で毒づくが、今は大人しくベッドの中にいるしかなかった。何か起こって欲しいような、何も起こって欲しくないような。複雑な気分だ。
 ベッドの間仕切り用のカーテンを引いてしまおうかとも思ったが、もし正体不明の何者かが部屋に侵入してきたらと思うと視界は開けた状態にしておきたかった。見えない方が怖い、気がする。
 落ち着かない気分のまま寝返りを打つと、廊下へ抜けるための扉が目に入った。音も無く隙間が開き指でも出てきたら。そんな映像が思い浮かび慌てて天井へ視線を移した。自分の想像力の豊かさが嫌になる。昼間はなんともないものですら、深夜に見ると怪しげな存在に感じられた。

 意味も無く天井の蛍光灯を眺め、しばらく経った頃。

トン

 微かな、しかし静寂の中に確かな違和感をもたらす音。
 シーツのこすれる音すら立てるものかと身を強張らせ、ゆっくりとアヤ先生の姿を捜した。先生は変わらずベッドに座っており、先程から体勢が変わっていない。聞こえなかったのか。

トン

 焦る自分の心を煽るようなノックの音。先程より大きい。
 しかし、未だ先生は動かない。まさか寝てるんじゃないだろうな。もしかして、聞こえているのは自分だけとか。

トン

 三回目の音で、やっとアヤ先生は動いた。静かにベッドから立ち上がると、この音かと確認するようにこちらへ視線を寄越す。無言で自分が頷くと再び顔を窓の方へ向けた。

トン

 四回目。先生は物音を立てずカーテンへ近づくと、右側の端を持って少しだけめくって外を覗く。危ないってと心の中で声をかけたが、当然伝わることはない。何も発見できなかったのか、アヤ先生はそのままめくる範囲を広げて視界を確保していく。

 探ろうとする気配に気づいたのかノックの音が途切れた。逃げたのか。
 少しの期待と共に周囲の様子をうかがった時、違和感を覚えてカーテンを凝視する。カーテン同士が合わさる中央の位置、そこに隙間が開いていた。先生が動かしたせいかとも思ったが、カチリという金属が擦れる音で不安は再び膨れ上がる。

 カーテンが、少しずつ動いている。勝手に開こうとしている。

「あ……」

 伝えなければと口を開いたが、出たのは言葉にもならないかすれた音だった。だがそれだけで異変を察知したのか、先生は素早くこちらへ視線を寄越す。自分が何を見ているかに気づくと、驚いたように息を飲んだ。
 それが切っ掛けとなったのか、カチカチという気味の悪い音を立ててカーテンが更に開く。隙間からチラリと見えた存在に、反射的に自分は上半身を起こした。

トンッ

 先程より強いノック。いるのは分かっているんだぞと脅す音。

トンッ  トンッ

 真っ暗な外の闇。それを背景に窓の外に立っているのは、傷だらけの顔をした男だった。星明かりに浮かぶ肌は白く、硬く握られた手には血管が浮き出ているのが見える。

 拳が窓を叩く。

ドンッ

 生きていない人物なのは明らかだった。目と鼻があるべき位置には黒い穴が存在し、口はアゴが外れたようにだらしなく開きっぱなしになっている。生理的な嫌悪感で全身に鳥肌が立った。

ドンッ  ドンッ

 幽霊だ。逃げろ。頭の中が警告で一杯になるが身体は固まったように動かない。指一本の動かし方すら分からなくなり、自分は窓を凝視することしかできなくなっていた。

ドンッ  ドンッ  ドンッ

 窓を叩く音が強まっていく。廊下まで聞こえてもおかしくないほどの音に思えたが、人がやってくる気配は無い。
 叩く音に紛れて男の息遣いが聞こえた気がした。心なしか生臭い。

ドンッ ドンッ ドンッ ドンッ ドンッ

 部屋が揺れているのではないかと錯覚するほどのノック。

    ドンッ     ドンッ       ドンッ      ドンッ      ドンッ

     ドンッ     ドンッ    ドンッ    ドンッ     ドンッ

  ドンッ       ドンッ         ドンッ           ドンッ    ドンッ

 男は目玉の無い顔をこちらへ向けている。
 見ているのだ。自分が、見えている。

バンッ

 限界だった。

「あああああぁっっ!!!」

 立ち上がろうとして尻餅をつく。足に絡まっていたシーツを無理やり引き剥がそうとしたが、手が震えて力が入らない。

「動かないで!」

 突然病室に響いた声にハッとした。アヤ先生がこちらへ鋭い視線を向けている。すっかり存在を忘れていた。先生の位置は先程と同じく窓の近く。外にはアイツがいるのに怖くないのか。まさか、見えていない?

「お、おバ、け……っ」

 喉が引きつる。情けないほどにかすれた声で、自分はやっとそれだけ言った。手は変わらずシーツを退けようと必死に動いていたが、解放される気配はまったくない。汗で湿ったシーツは悪意でもあるかのように自分の足を拘束している。焦りで混乱する思考。諦めて腕だけで這ってベッドから降りようとした時、再び先生の声が飛んできた。

「待って! コイツ、中にいる!」

 その言葉に固まる。何を言われているのか分からず窓の方へ振り向いた。変わらず窓を叩き続けている男が目に入る。顔を見た瞬間視線を逸らしてしまったが、幽霊の胴体を見た時、先生が言いたかったことが分かった。身体の映り方がおかしい。時刻は深夜で周囲は暗い。外にいるのなら病室の様子は鏡のように窓へ映り、男に被さって見えるはず。しかし、窓を叩く男の姿は妙にはっきりしていた。
 つまり、幽霊は部屋の中にいて、中から窓を叩いている。

「……っ!?」

 もちろん病室には自分とアヤ先生の姿しか見えない。状況を理解しパニックに陥った。この部屋には既に幽霊が入り込んでいる。
 転げるようにベッドから抜け出した。腕へ力が入らず着地に失敗してアゴを打ってしまったが、今はどうでもいい。とにかく廊下へ出よう。ここから逃げよう。

 そればかりが頭を支配していたため、異変に気づくのが遅れてしまった。

「いっ」

 喉が痙攣して変な声が漏れる。
 視線を上げ、廊下への扉に視線を向けた時には既にいた。扉が三十センチほど開いており、そこから薄桃色の肉の塊のような、丸い物体が覗いている。大きさは子供の頭ほどで、三箇所にダブついた皮が垂れ下がっていた。ぐちゃぐちゃの顔だと、なぜか分かった。にちゃりという粘着質な音が塊から聞こえる。
 廊下へ続いているはずだった扉の奥は黒一色。夜だから暗いとはいえ、何も見えないほどの闇は一目で異常なのが分かる。暑苦しい病室の中へ、生臭く冷たい空気が流れ込んできた。臭いの原因はこれだったようだ。その空気に、なぜか海を思い出した。
 闇から何かを引きずる音が響き、ゆらりと棒のような物が現れる。枯れ木に似た茶色いそれが目前まで迫った時、やっと腕なのだと思い至った。割れた爪。かさぶたに覆われた肌。伸びてくるそれを何も出来ないまま見つめていた。

 何してるんだ。逃げないと。

 気づいた時にはもう遅く、硬い指が頭を掴み強引に引っ張る。自分を廊下へ引きずり出すつもりだ。土の臭いが鼻を突き、腕が茶色く見えたのが泥にまみれていたせいだと知った。
 悲鳴を上げるのも忘れ必死に腹這いで踏ん張るが、取っ掛かりが無いため指は床を引っ掻くばかりだ。きぃという微かな音を立てて爪が擦れる。立ち上がろうとするが頭を掴む力は非常に強く、首を上げるのすら覚束ない。
 自分が先程まで行きたかったはずの廊下は、今は異界へ繋がっている気がした。連れて行かれたらお終いだ。お終いが何を意味するかは分からなかったが、とにかく本能的にそう思った。

 解放は叶わず、四つん這いのまま視界には床しか見えない。そんな有様の自分の隣りを、通り抜けていく足が横目に見えた。アヤ先生だ。
 そう判断した瞬間、足はいきなり茶色い腕へ蹴りを食らわせた。腕はありえない脆さで蹴られた位置から折れ、あっけなく自分の頭を放して勢い良く上へ飛んでいく。予想外のあまり対応できず、踏ん張る力のまま尻餅をついた。
 何が起こったか理解できない自分の目の前には、先生の背中がある。見つめる先には廊下への扉があった。相変わらず隙間が開いていたが、不思議なことに桃色の塊は消えている。アヤ先生はこちらを振り向かず直進していくと、叩きつけるように扉を全開にした。

 そこに何があるか脳が認識しようとした時、蹴り飛ばされた腕が頬をかすって落下してくる。
 冷たくざらりとした感触がかさぶたの物だと理解した瞬間、自分は意識を失った。


 目覚めた時、自分はベッドの上にいた。朝日が差し込む病室はいつも通り平穏なもので、恐ろしい出来事が嘘だったかのようだ。現にカーテンは閉められていたし、扉も隙間無く閉じられている。茶色い腕も消えていた。

 深夜の体験は夢だったのか。真っ先に考えたのはそれだ。
 看護師へアヤ先生のことを尋ねると、そんな人はいないという答えが返ってきた。良く思い出してみればアヤという名前は自分が思い込んでいただけで、直接名乗っていたわけではない。先生の外見を説明したものの、求める答えは得られなかった。

 一応、自分の願いは叶った。エアコンが故障したという理由で部屋を移動できたのだ。エアコンの調子が悪いのは以前からだったのに、なぜ急に。本当は幽霊の話を知っているのではないかと疑ったが、まだそんなことを言っているのかと医者に笑われた。
 部屋を変えたおかげか、その後は退院するまで怪現象に遭遇せず過ごせた。

 結局、入院中に再びアヤ先生の姿を見かけることはなかった。
 自分は気が気ではなかった。最後の瞬間は良く覚えていないが、先生が廊下への扉を開けてしまったのは確実だ。腕へ蹴りを入れたのは変質者の悪戯だと思ったからではないか。あのまま幽霊に連れて行かれてしまったんじゃ。
 突然いなくなった医者はいないか聞いてみたが、何を馬鹿なことをという風でまともに取り合ってもらえなかった。しつこく食い下がったらはいはい皆元気元気みたいな返事をされ、自分の発言力の無さを怨んだ。

 窓にいた男。肉の塊ような顔。茶色い腕。あの夜の出来事は何だったのか。誰も説明してくれる人はいない。
 幽霊は何をしたかったのか自分なりに考えてみた。いたのは窓だけかと思ったが、いつの間にか廊下にもいた。そして、扉には先が見えない漆黒。慌てて廊下へ逃げ出していたら自ら闇へ突っ込んでいただろう。もしかして窓にいた幽霊は脅かし役で、目的は自分を廊下へ、闇の中へ誘導することだったのかもしれない。
 黒の先に何があったのか知る術はないが、なんとなく、深海のように静かで寂しい場所が広がっている気がした。

 日が経つに連れ、あの夜の出来事が現実だったのか不安になってくる。アヤ先生の姿も、夢の中の存在だったかのようにおぼろげになっていった。
 しかし、頭についた土の臭いは、一夏の間消えることはなかった。

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